坂口安吾の言う「ふるさと」というのは、一般的なふるさとというのとは違います。懐かしいとか愛しているとかそういうもののもっと向こう側にある、グロテスクで巨大な何ものかです。
分かりやすい例でいうと、3.11のあの津波なんて坂口安吾的なふるさとだと思います。あの地震は金曜の3時ごろでしたよね。仕事から帰宅するのに電車が止まっちゃて私も歩いて帰りました。帰る途中、電気屋があってテレビで津波の様子を放送していました。水田地帯をどこまでも津波が遡っていくのです。どこまでも、どこまでも。サラリーマン風の人たちが何人か黙ってその映像を見ています。何分も立ち止まって、じっと見ているのです。彼らは世界の根源から、なんだか突き放されるような、そんな感覚を持ったのだと思います。

その突き放すところの者、それが坂口安吾のいう「ふるさと」です。

坂口安吾が「ふるさと」という言葉を語りだすのは、昭和17年発表の「文学のふるさと」あたりからだと思います。しかし昭和23年発表の「死と影」で、坂口安吾は昭和12年ぐらいの時の自伝的なものを書いていています。その中で三平という、まあほとんどホームレスみたいな人間と坂口安吾は友達になるのです。三平は言うのです。

「センセイ、いっしょに旅に出ようよ。村々の木賃宿に泊まるんだ。物をもつという根性がオレは嫌いなんだ。旅に出るとオレの言うことがわかるよ。センセイはまだとらわれているんだ。オレみたいな才能のないやつが何を分かったってダメなんだ。センセイに分かってもらって、そしてそれを書いてもらいたいんだ。旅にでれば必ず分かる、人間のふるさとがね。オヤジもオフクロもウソなんだ。そんなケチなもんじゃないんだ。人間にはふるさとがあるんだ。そしてセンセイもそれがきっと見える」

この三平という人物は実在したのだろうか。
私は実在したと思う。

三平なる人物の言う「ふるさと」とはオヤジもオフクロもウソくさく思えるほどのリアルなものなのです。三平の言葉と共に坂口安吾も転換したし、私も三平の言うリアルってあると思うのです。


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