20年ぐらい前か。職場に宮ちゃんというオジサンがいた。宮ちゃんは50歳ぐらい。小柄で丸坊主で、いつもニコニコしていた。少し話せば、ああこいつ頭が少し足りないんだなと分かる程度にスローな人だった。

引き取り先のエレベーターに乗っているとき、宮ちゃんが暴れるんだよね。意味もなくジャンプしたりして。
「宮ちゃん、エレベーターの中では静かにしてください、ってここに書いてあるよ」
と私が言うと、宮ちゃんは、
「オレ、字が読めないんだ」

悪びれる様子もなく、あっさりとしたものです。ちょっとしたカルチャーショック。わたしの人生の中で、字が読めないなんていう人と接した事がなかったから。
付き合っていく中で、宮ちゃんの事もだんだん分かってきた。宮ちゃんの両親はもういない。宮ちゃんは妹と一緒に暮らしている。宮ちゃん、給料は妹に全部渡していて、その中からいくらか小遣いを貰っているらしい。

宮ちゃんがある時語るには、
「オレ、結婚してた事があるんだよ」
すごく得意そう。
「すごいじゃん、宮ちゃん。それで奥さんはどうしちゃったの?」
「足の悪いヤツでさ、妹が使えないって言うんで、追い出してやった」
えっ、なんなのそれ。
「子供とかは出来なかったの?」
「子供が出来ないように、オレ、パイプカットしたんだよね。妹がそうしろって言うから」
宮ちゃんは相変わらす得意げに喋る。どうだオレ、パイプカットという言葉を知っているんだぞとアピールしてるみたいな。
私は悲しくなっちゃってもう
「へーそうなんだ」
としか言えなかった。

獲得形質は遺伝しないというのが、生物学の大前提だ。あなたが一生懸命勉強して東大に行ったとしても、その努力はあなたの子供の知能には何の影響もない。宮ちゃんの子供だってバカだとは限らないよ。でもそんなことを言ったってどうしようもないんだよね。宮ちゃんはもう50歳で、私の目の前で得意げにニコニコ笑っているのだから。私から見れば宮ちゃんの世界はゆがんでいる。私にはどうすることも出来ない。そして私の世界だって、他人から見ればゆがんでいるかもしれない。