江戸時代の武士なるものはどのようなものだったかなんていうのは正直、時代劇か時代小説みたいなものから私たちはイメージを得ていると思うのです。そんなものが頼りになるのか、みたいな気持ちは、日本人なら誰にでもあると思います。
具体的な武士のヒエラルキーを明らかにした本書は、日本とは何かという問題の一つのピースを埋めるものだと思います。

近世大名家臣団には大まかに3階層に分かれていて、上から、侍、徒士(かち)、足軽、となります。侍というのはいざという時に馬に乗り、若等をを引き連れて参戦するもののことで、徒士というのは独り身で参戦するもののことで、足軽とは鉄砲隊などに参加する最前兵のことです。足軽層は城下近郊の村から一身限りで供給されていて、武士のイメージからは外れるものがあります。明治維新以降、士族と認定されたのは、実際徒士以上です。そして徒士と侍にも待遇上の厳格な格差があったりしました。

この本は様々な文書を駆使して、近代武士の内情というのはあからさまにしています。今までぼんやりとした武士概念がクリアになります。
ですから、自分の歴史観に合わせて、歴史を解釈したい誘惑に駆られます。

一つやってみましょうか。
江戸時代、武士が道ですれ違ったりすると、その階層の差によって礼の様式が変わってきます。足軽は楽なものです。袴をはいた人間が前から歩いてくれば、何も考えず土下座すればいいのですから。侍も楽です。すれ違って土下座しなかった人間を事後的にそれが誰か判断すればいいのですから。
問題は徒士。
前から歩いてきた人間の階層を瞬時に判断して、自らの対応を決めなくてはいけない。同輩に土下座したら恥じだし、侍に土下座しなければ問題だしという、出歩くのも緊張しなくてはいけない。さらにいうと、意識の中に人を判断する時の価値のヒエラルキーが立ち現れてくるでしょうね。大事なものは大きく見えて、大事ではないものは小さく見えるという、ある種の「意味」が現前するようになるでしょう。
明治維新以降、この「意味」が重要になるのです。身分制度が撤廃されて、自由主義的な制度の社会になると、何が重要かを瞬時に判断する能力が必要になったりします。徒士層はこのような世界では有利だったのではないでしょうか。価値のヒエラルキーが存在しているというのを理解していたわけですから。さらに考えると徒士層こそが、明治維新の主要な役割を果たしたのではないかとも考えられます。

まあこんな風な感じで、歴史が解釈されてしまうわけです。

話はさらに続きます。

仕事で何か問題が起こったとします。その時大切なのは問題を収束させる事です。大事な事にのみ議論を集中させるべきです。でも職場にいないでしょうか?話を拡散させてしまうヤツが。そういうヤツは侍なのです。世界が平板なのです。後からゆっくり問題を吟味してまったく平気な世界に暮らしているのです。それに比べて私たちは徒士です。瞬時に意味を把握しないと命にかかわります。

まあこんな風な感じで、生活が解釈されてしまうわけです。

「近世大名家臣団の社会構造」はいろいろな日本人観念を喚起する力があります。


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