ウィタ・セクスアリスとはラテン語で性欲的生活という意味らしいです。
明治42年発表。主人公の子供のころから二十歳くらいまでの性に関係する事柄が書いてあります。読んでみた結果、この主人公は性的にかなり堅い方ですね。実際に書いてあることは、子供のころ隣の女の子のお尻を見たとか、近所のオジサンに卑猥な言葉をかけられたとか、学生時代はホモの先輩にお尻を狙われたとか、そして童貞卒業は大学を卒業した後に吉原に行った時で、
「やるというのはこういうことか」
と思ったそうです。

あまり女性にもてた記憶のない私ですが、これよりはマシです。これよりマシな性欲的生活をしていました。大学に行くのに下宿していた時に、今の妻がよくその下宿に遊びに来ていましたから。一番最初に妻とやった時、終わった後めんどくさくなっちゃって、横においてあったヘーゲルの精神現象学概論を読みはじめたのです。彼女、すごい怒って。25年たった今でも何かあると、
「あんたはヘーゲルでも読んでいればいいでしょ」
と言われます。うちの妻の前でヘーゲルは禁句なんだよね。

話は戻ります。
ウィタ・セクスアリスの核心というのは性欲的生活、その中身にあるわけではないです。森鴎外は10歳のときは10歳の性的世界を、20歳のときは20歳の性的世界を書きます。誰もが10歳の世界を経験しますが、大人になって10歳の世界を表現することは非常に難しいです。児童本とか読んでも、結局そこに書かれているのは大人から見た子供の世界にすぎません。申し訳ないけれど、読んでて正直しらじらしい気持ちになるものが多いです。しかし、森鴎外は違うのです。少し引用してみましょう。

じいさんは僕にこういった。
「あんたのお父っさまとお母っさまと夜何をするか知っておりんさるかあ、あはははは」
僕は返事をせずに、逃げるように通り過ぎた。秘密を知りたいと思っても、夜目を覚ましていて、お父様やお母様を監視しようなどとは思わない。なんだかお社の御簾(みす)中へ土足で踏み込めといわれたのと同じように感ずる。そしてそんなことを言ったじいさんがひどく憎いのである。
しかし子供の意識はたえず応接にいとまあらざる程の出来事に襲われているのであるから、長く続けてそんなことを考えていることはできない。

森鴎外はなぜ子供世界のこんなにも近いところに立つことが出来たのか。そういえば子供時代って、出来事を全部受け入れて、毎日が新鮮で、だから意味のない悪意に脆かったりしたなーって。なんだか夢に似たところがあったような。

森鴎外がこのような子供世界を体感し表現できたという事が、彼が大正以降時代小説に舵を切った理由のヒントになるだろうと思います。