「文学評論」は夏目漱石が東京大学の教授をしていたときの講義録みたいなものです。この本を読んだ印象を言うと、すばらしいの一言です。謙虚な福沢諭吉という感じです。

まあそれで何の文学を評論しているのかというと、18世紀前半のイギリス文学です。具体的には、アヂソン、スティール、スウィフト、ポープ、デフォー、です。スウィフトは「ガリバー旅行記」の作者です。デフォーは「ロビンソンクルーソー漂流記」の作者です。アヂソン、スティールというのは評論家で、ポープというのは詩人らしいですよ。これらの作者を知らなくても「文学評論」は読めます。「ガリバー旅行記」は有名ですが、実際にガリバー旅行記の逐語訳を読んだという人は少数でしょう。夏目漱石は優しいんだね、そんな18世紀前半のイギリス文学を知らない東大生にもそれが分かるように「文学評論」は書かれています。

だからなんなの?

そもそも18世紀前半のイギリス文学に興味あるヤツなんできわめて少数だろう。この忙しい世の中で、大人になってまでガリバーだとか、ロビンソンクルーソーだとか係わっている暇はない。

当然の意見だと思います。そもそも夏目漱石は何故18世紀前半のイギリス文学にこだわったのでしょうか。

現代のわたし達の周りにあるこ組みや精神を支配しているところの観念は近代ヨーロッパに始まりました。これをさらに突き詰めて、わたし達が当たり前だと思っているこの世界観は、精密にヨーロッパのいつ何処で始まったのでしょうか。夏目漱石はそこを問題にしようとしているのだと思います。近代が何処で始まったかというのは、おそらくイギリスだろうというのは有力な考えでしょう。では、18世紀イギリスは近代だったのかどうか? 夏目漱石はそんな切り口で「文学評論」を書いたのだと思います。

夏目漱石のデフォー論を見てみましょう。ロビンソンクルーソーが無人島に漂着したあと、彼はサバイバル生活を始めるわけです。そして彼が船から何を持ち出したのかを、デフォーは事細かに書いてくれています。フォークが何本だとか、板が何枚だとか。デフォーを写実主義と評価する人がいますが、ここまでくると映像記憶主義です。例えば、現代日本において、昨日の晩御飯何食べた?と聞かれたとき、ハンバーグと答えるのはいいとして、その後にレタスを何枚、ゆでた人参を何個と付け加える人がいるでしょうか?
しかしこのハンバーグとのみ答えるのが近代なのです。
現代のわたし達は遠近法の世界に住んでいて、大事なものは大きく、つまらないものは小さく見ることに慣れてしまっています。遠近法的思考は近代の特徴の一つです。例えば、現代の絵画はわたし達にとってリアルに見えますが、浮世絵なんてのっぺりしているように見えないでしょうか。くりかえすと、遠近法的思考は近代の特徴の一つです。そしてデフォーはどうでもいいことも事細かに書く。デフォーには遠近法的思考はないらしいと。で、18世紀前半のイギリスはまだ近代ではなかったらしいという事が分かるわけです。夏目漱石は明らかに近代というものを意識して「文学評論」を書いています。昔よくいた、ヨーロッパかぶれとかイギリス馬鹿とかそんなんじゃない。ここに夏目漱石の突き抜けたスゴさがあると思います。