「こころ」は前編と後編があって、
前編は、大学生である主人公が既婚ニートの先生と出会って仲良くなる、というもので、
後編は、先生の妻である女性をめぐって、かつて先生と先生の友人が争った事があって、先生はマキャべりなみの策略を用いて友人を出し抜く。友人は自殺して、先生は結局良心の呵責に絶えかね、主人公に自分と死んだ友人との間にあった出来事を長々と告白する手記を残して、自殺を予告する。その手記自体が「こころ」後編を構成しています。

話の筋なんていうものはあまりないのです。先生が一人の女性をめぐって、友人をどのような心理状態で出し抜いたのかという、その告白がメインの小説です。

話し自体、別にどうという事もない。別の見方をすると、女をめぐって友人に出し抜かれたからといって死んでいたのでは、命がいくらあっても足りないし、友人が死んだからといって自分も死んだのでは、これまた命がいくらあっても足りない。「こころ」、ぬるいんじゃないの? という感想も成り立ちます。

でもわたしが考えてみたいのは、現代の倫理を大正初期のこの小説に押し付ける事ではなく、「恋愛」とは何かという事です。

「恋愛」というものは、日本に昔からあるというものではありません。こういいきってしまうと言葉が足りない感じですね。もう少し詳しく言うと、現代のわたし達が知るような、青春時代特有の自分を見失うような恋愛は近代的なものである、ということです。現代的な恋愛観というものは日本の近代化とともに形成され、その年代を特定するなら明治20年代であろうといわれています。

何故近代化と共に恋愛が発生するのか、そもそも恋愛とは何なのか。

「ころろ」の中で先生はこういいます。
「自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこ淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
思わせぶりに先生はこのようなことを言って、しかしこの後先生はこの言葉の説明を一切しません。ただ私なりにこの言葉を解釈すると、
独立した精神なるものは伝統から乖離したものであり、その空隙が淋しさを生む。しかし現代に生きるものは独立した精神を必要としており、淋しさは痛みとして受け止めなくてはいけない。
ということだと思います。さらに言うと、
青春における恋愛とは、空隙を何かで埋めようとして失敗するところの、現代的成熟のための一つの過程なのです。青春の恋愛自体がうまくいくことはよくあることだとは思います。ただ結局恋愛によっては、それがたとえうまく行っても心の隙間は埋まらないのです。その埋まらないのを知る事が現代における成熟なのです。
トータルで考えると、精神の独立、淋しさ、恋愛、成熟、などの概念は近代以降のもので、日本で言うと、明治20年代以降のものです。

私は夏目漱石が現在においても読まれる理由というのは、日本の近代が立ち上がろうとするその時に真正面から人間の内面とか、恋愛、心の空隙、成熟というものを扱ったからだと思います。新しい精神世界が立ち現れる、その原初の生々しさが、夏目漱石の小説の中で再生され続けているという事です。