「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は有名な本で、いろんなところで引用されます。さらに、題名からしていかにも資本主義というのはプロテスタントにその源流があるかのような感じで、日本や現代中国が経済発展した今、影響力が落ちているかのような、そんなイメージの本だと思います。

しかし実際に読んでみるとこの本は懐の深いところがあって、「資本主義の精神」にいたるには様々なルートがありえるだろうが、ヨーロッパにおいてはプロテスタントが一つの太い道なのではないか、と主張しています。この本が書かれたのは1905年。当時先進国なんていうのは、欧米列強のみ、あと付け加えるならギリギリ日本という感じだったと思います。ですからヨーロッパ中心主義みたいなことを主張したとしても、そう問題もなかったでしょう。しかしマックスウェーバーはきわめて誠実な人だったのでしょう。この本を読みながら、私は何故日本に資本主義が立ち上がったのかを考える事ができました。

今の日本の中産階級もそうなのですが戦前にも中産階級は存在していて、その精神的な規範というのは「誠実に労働し誠実に消費する」ということです。
子供の頃、友達の家におよばれに行った時、貧乏な家に行った時の方がご飯が豪華だったなんていうことはなかったでしょうか? 
中流階級よりも下層のほうが消費が派手なのです。

日本の中産階級が、日本経済をここまで持ち上げたというのは間違いないところだろうと思います。では日本の中産階級はどこから来たのか? 
江戸時代中期以降、日本の農村に「通俗道徳」というものが発生します。「通俗道徳」とは、農村共同体の枠内でその構成員が勤勉、節約、あわれみ、などの徳目を守ることにより共同体を合理化し、より共同体の存続を確かなものにするためのものなのです。分かりやすい枠組みでいうと、「家」ですね。「家」の構成員が、与えられた役割をそれぞれにこなす。それでこそ家が未来へと継続するのです。村というのは家々のヒエラルキーですから、村の指導者層は村を維持するために、自らが理想の家を体現する必要がありました。島崎藤村の「夜明け前」なんかを読むとよく分かるのですが、明治維新以降、村の指導者層が「通俗道徳」を実践する上でその精神的なよりどころとなったものが天皇制です。
明治政府もそのあたりのことは認識していたらしく、徐々に天皇というものを日本の家長として押し出してきました。国民には日本という「家」の構成員として、「家」存続のための「通俗道徳」的努力が要求されました。これは、当時日本国の独立を維持するためにどうしても必要なことだったのです。このような歴史の要求の中で日本の中産階級が育ってきたのでしょう。

残念なのは、最後にあんな太平洋戦争みたいなことになったことです。過去を忘れてしまったから、すべてが分かりにくくなってしまった。思い出す努力をした方がいい。