現在の日本で「自己責任」という言葉がかなり広がっています。収入が少ないのは本人の努力不足、学歴が低いのは本人の努力不足などというもので、このような主張は通常の会話レベルの論理体系では反論不能な力を持ち始めています。

自己責任論が流行した時代がかつての日本にありました。明治15年、加藤弘之が社会進化論なるものを唱え始めます。社会進化論とは、ダーウィンの進化論を人間社会にも当てはめて、弱肉強食の社会制度こそが社会を進歩させるのに最も都合がいいと主張するもので、自己責任論の究極形態みたいなものです。私にしてみればこれは奇妙な論理だと思うのですが、当時この論理はかなり流行したみたいです。

この「自己責任論」、景気がいいときは問題ないのです。怖いのは景気が悪い時。

昭和4年、アメリカでの株価大暴落の影響を受けて、日本もとんでもない不況になります。反論不能な自己責任論を覆そうとすれば、まずどのような事が考えられるでしょうか。
昭和7年、一人一殺の血盟団事件、それに続く515事件。
テロですね。

反論不能のイデオロギーを敢えてひっくり返そうとするのですから、いくらでもテロは続きます。

相沢事件、それに続く226事件は昭和11年です。

この後は軍と革新官僚が権力のヘゲモニーを握って、日本は全体主義国家となります。
結局、自己責任という合理主義を突き詰めた結果、全体主義というより合理主義の国家体制になるということになったわけです。
自己責任論というのは弱者を切り捨てる論理です。しかしこの切り捨てられるであろう人々にも何らかの役割を与えてトータルとして国家の力にしようというのが全体主義の論理です。
ファシズムのほうが自由主義より説得力を持って立ち現れるということがありえるのです。

自由主義と全体主義とどちらの価値がどうだとか、そのようなものは移り変わるものでしょうから判断は難しいでしょう。ただ反論不能を頼りにして自己責任論を主張しすぎると何年か後に恥をかくということはありえると思います。