現代の日本のこの世界が、何故このようにあるのかと考えたことはないですか? 

大正デモクラシーまで日本は順調だったのですが、満州事変以降、日本は正規のルートから外れてファシズムに迷い込んだ。敗戦後は自由主義のレールに復帰して経済発展、そして今に至る。

というのが教科書的な歴史の論理なのですが、これってどことなくおかしくないですか。戦前の日本人は頭が足りなかったのか、狂気にとりつかれていたのか、どちらかという事になってしまいます。本当にそんなことがありえるのでしょうか。

明治維新は四民平等という理想を掲げましたが、実際に精神が解放された人々というのは下級士族まででしょう。何十年かの文明開化の後、大正デモクラシーや普通選挙の施行などで、自分で考え自分で行動するという「近代人」も徐々に増えてきたでしょう。
人間というのは強制されてやるよりも自発的にやる方がより多くのことができるのです。こんなものは気持ちの問題であって、自発的にやってると民衆に思わせることが出来さえすれば、国家としてのトータルの生産力は上がりますね。
階級社会であった戦前よりも、総動員体制であった戦中の方が民衆のエネルギーを引き出す仕組みというのが形成しやすくなるというのはあったと思います。国家自体が働きやすい環境をつくって民衆を誘導すればトータルで国家のプラスになるという合理的思考です。

例えば「年金」というのは戦中に始められました。働いた後の老後の生活が不安では、労働の効率が上がらないであろうという戦中総動員体制思考から、年金制度というのは生まれました。

全ての日本人が役に立つ、全ての日本人が開放される。戦中総動員体制というのは明治維新に始まる近代化のある種の到達点なのです。
このように便利で合理的なシステムを戦後、継続しないなんていうことはありえないですよね。国民全てのエネルギーを吸い上げようという合理的システムは、より巧妙になり現代にまで継続しているとこの本は言うのです。

それはそうでしょう。その辺りに真実はあるでしょう。

二二六事件に参加した湯川康平は、戦後このように語っています。

「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

湯川康平はほぼ真理をついていたのではないかな。