1 山崎闇斎と荻生徂徠

2 福沢諭吉中江兆民

3 原敬と美濃部達吉



1 山崎闇斎と荻生徂徠

山崎闇斎と荻生徂徠というのは江戸時代の儒者です。

原文を読んで二人の違いをじっくり感得するというのが一番いいのでしょうが、そこまではなかなか出来ないです。誰か簡潔に教えてくれないものか、と思っていたのですが、いい本にめぐり合いました。

山崎闇斎は日本朱子学の正統でしょう。この世界には形而上的な真理が存在していて、その真理が現在の社会のあるべき仕組みを決定している、と闇斎は考えます。そしてここからが重要なのですが、闇斎は社会のあるべき仕組みというのは、ただ与えられるものではなく個人個人の精神力による努力によって達成されるものだ、というのです。

荻生徂徠は朱子学者というより中国古代の法家です。社会の仕組みというのは何らかの真理の顕現というのではなく、人類の歴史の中で獲得されたある種の到達点だというのです。環境が変われば社会の仕組みも変えていかなくてはいけない。可変的だからといって社会の仕組み、すなわち法体系自体は、人間が社会的な生物である以上絶対必要なものである。まあ、功利主義的な考え方です。

この二つが重なることで江戸時代の官僚世界は維持されていたというのです。

「忠臣蔵」における価値判断で山崎闇斎と荻生徂徠を比べてみましょう。
闇斎的に考えれば、幕府の法に逆らってでも主君の恨みをはらすのはギリギリ肯定されます。あるべき真理の法に向かって前進するのが好感が持てるという事でしょう。
徂徠的に考えれば、忠臣蔵は認められません。必要に応じて現在の幕府の法があるわけですから、大石倉之助もその枠組みの中でやってもらわなければ困ります、ということになるのではないでしょうか。

この二つの考え方が、江戸から明治を突き抜け現代に至る、官僚機構の基本思考です。


2 福沢諭吉と中江兆民

「文明論の概略」の中で福沢諭吉が、
文明の究極の理想は世界連邦のようなものであるだろうが、現状の世界は列強国による競争の時代だ。日本は世界連邦という理想を胸に秘めつつも、現状としては独立国としての体裁の維持に努力するべきだ、
と言っていました。

これを最初に読んだときはビックリしました。二重焦点論法です。二つの異なる価値観を相対的なものとみなして、あえて片方を選んでみました、という自由の論理です。

明治の初期に、福沢諭吉は理想と現実の価値観がある中で敢えて現実を選んで、その活動を展開したのでしょう。中江兆民は敢えて理想を選んで、その評論活動を展開したのでしょう。

福沢諭吉は何処からこの論法を引っ張ってきたのか、前から不思議だったのです。いくら天才でも普通に生活していて思いつくものではない。
ここで出てくるのが、山崎闇斎と荻生徂徠です。
山崎闇斎は形而上的な真理は存在していて、人間はその真理に向かって日々前進していくべきだ、と考えます。理想主義なわけです。
荻生徂徠は人間社会を維持していくためには何らかの機構が必要であり、人間社会をよりよく維持していくためにはよりよい機構が必要である、と考えます。現実主義なわけです。
この二つの考えが融合したものが、江戸幕府体制だったのです。
状況が変わって、徳川幕府もその体制を維持できなくなりました。理想主義や現実主義の中身が変わっても、その枠組みは明治維新後も生き残ったのでしょう。福沢諭吉は江戸時代の知的蓄積を新しい時代の言葉で表現したのでしょう。そもそも、バックルやギゾーを読んだだけで、あれだけのものが書けるわけない。

福沢の天才の向こうに、歴史の重みというものをひしひしと感じます。


3 原敬と美濃部達吉

明治憲法によって藩閥政府は正当性を付与され、日清日露の戦争を戦い抜くことで藩閥官僚体制は、その有能性が証明されました。

そして時代はめぐります。

帝国議会というものは、そもそも明治国家権力の外縁部にあって、反藩閥政治、反政府の巣窟でした。藩閥政府が功利主義の官僚体系なら、帝国議会は理想主義の砦でした。
明治後期から大正にかけて、この枠組みを変えたのが原敬です。
原敬は政友会という政党をまとめ上げ、政府の予算を議会で通す代わりに官僚政府内部に自分の子飼の子分を押し込んだりとか、政府の予算配分を恣意的に操作するとかの手法で、議会を政府と敵対するものではなく、政府と一体であるものに変えて行きました。

議会の成員は選挙によって選ばれるわけですから、議会制民主主義のさきがけですね。

美濃部達吉は原敬と同世代の高名な憲法学者です。美濃部は明治憲法を拡大解釈して、大日本帝国を一つの生命体とみなし国民一人ひとりがそこに参加すべきものであると規定しました。国民、議会、政府、これらが一つの生命体を構成するわけです。

こう見ると、原敬と美濃部達吉は互いに高めあうパートナーです。日本国民は一人ひとりが議会を通して国政に参加する、それは明治憲法にもうたわれている国民の正当な権利である。

一見するときわめて現代的な、全く問題ない、大日本帝国には幸せな未来が約束されているかのような。

もちろん現実は違います。原敬は暗殺、美濃部達吉は貴族院で弾劾、日本国民は政党政治に信頼を持たず、政治指導者を軽蔑するのみ。結局は軍部に権力は移行し、最後は太平洋戦争。

原敬と美濃部達吉のコンビネーションの何がダメだったのでしょうか。
原敬の恣意的な予算配分で票を集めるという戦略は、結局利権政治みたいな事になります。利権政治の醜悪さというのは戦後もかなりの間継続しましたから、いま40代以上の人ならその醜悪さをよく知っているでしょう。
美濃部達吉は日本を一つの生命体とみなしました。日本官僚機構はその体系自体によって生命力を付与されるわけです。しかしこの生命体系がうまく機能しない場合はどうすればいいのでしょうか。足が腐れば足を切り捨てればいいのでしょうか、手が腐れば手を切り捨てればいいのでしょうか。手も足も命ある国民で構成されているのですよ。

結局、党派政治というものは自国の安全の確保をやっと獲得したばかりの国家には、許しがたい贅沢だと国民に判断されたという事です。

話は初めに戻るのですが、山崎闇斎の理想主義と荻生徂徠の功利主義をミックスした江戸幕府体制というのはたいしたものです。官僚的功利主義だけでは歴史の厚みを突き抜けてはいけないのですね。


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