magaminの雑記ブログ

2019年03月

【NHK受信料未払いは犯罪か?】

NHK受信料未払いは法律違反ではありますが、罰則はありません。NHK受信料を払わないからといって、家に警察が来ることはありません。



立花孝志氏の動画での説明




日本において税金以外の借金については、お金を返さなくても罪には問われません。

ただ罪には問われなくても、裁判で負けての差し押さえが怖いという人は多いと思います。しかし差し押さえというのは簡単にできるものではありません。裁判所が支払い命令をしたからといって、裁判所の職員が借金の取り立てを手伝ったりはしません。

お金を返してもらいたい人は裁判所の支払命令書を持って、自分で債務者の給料や銀行口座の差し押さえをしなくてはなりません。

債務者の給与や銀行口座のお金を差し押さえることにおいて一番難しいことは、債務者がどこの会社に勤めているかとか、どこの銀行に口座を持っているかを調べることです。

【差し押さえは難しい】

無題


ある人物がどこの会社に勤めているかを調べることは難しいです。苦労して調べても、給与で差し押さえできる範囲は決まっていて全額差し押さえは出来ません。さらに転職されてしまえば、もう一度調べなおしです。給与の差し押さえは、差し押さえる側にしたらとてもペイするものではありません。

普通差し押さえは、銀行口座に対して行われます。しかし銀行口座の差し押さえ申請は、銀行の支店単位で行わなくてはなりません。
債務者が使っている銀行口座支店を特定するのは困難な場合が多いです。銀行の少ない田舎に長期間定住しているというのなら、債務者の銀行口座支店まで特定のは難しくはないでしょうが、銀行口座を開いた後引っ越したとか、職場の近くの銀行で口座を開いたなどという場合、債務者が使う銀行口座の支店を特定するのはほとんど不可能です。


【差し押さえを回避した方がいい場合】

立花孝志氏がこの動画内で、住宅ローンを抱えている人は差し押さえを回避した方がいいと言っています。

住宅ローンを組んでいる人は、住宅を担保に銀行からお金を借りているという形式をとっています。ですから登記簿から付き合いのある銀行の支店名までが第三者に分かってしまいます。

立花孝志氏はこのような意味で、住宅ローンを抱えている人は差し押さえを回避した方がいいと言っているのでしょう。

【不合理な借金は踏み倒す】

罰則がないからといって、自分が借りたお金は返さなくてはいけません。しかし借りてもいないお金は、たとえ裁判所の支払命令書があるからといっても支払う必要はありません。

世の中、長いものに巻かれなくてはならない、なんていう場面もあるでしょう。しかし、借りた覚えもないお金を自ら進んで払う必要はありません。

社会の中で生きていくには、強い気持ちが必要です。
強い気持ちとは何かというと、具体的には、不合理な借金は踏み倒すぐらいの気概というぐらいのことでしょう。

唯々諾々とお金を払っていては、今の世の中生きて行かれません。


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「フーガはユーガ」が本屋大賞を取れるかどうか注目です。

【「フーガはユーガ」あらすじ】

常盤風雅・優雅の双子が主人公の物語です。風雅と優雅には誕生日の日にだけ2時間ごとに入れ替わるという能力があります。

風雅と優雅の両親というのはどうしようもないクズで、父親はDV男、母親は育児放棄女です。育児は母親が単独でやらなくてはならないというものでもないですし、親はなくても子は育つとも言いますから、ネグレクトの母親はまだいいと思いますが、DV男はよろしくないですね。

風雅には小玉という彼女がいます。小玉の父親がまたどうしようもないクズで、小玉にどんな虐待をするかというと...... ちょっとここには書けないです。

自分たちの父親とか小玉の父親とか、どうしようもない人を何とかしたいと風雅と優雅は考えます。しかしさらに極悪の人間が登場します。

その極悪人は大金持ちの息子です。子供のころから素行がひどく、犯罪がばれても親の金の力でもみ消すことが当たり前になっています。

風雅と優雅はこの極悪人に罠を仕掛けて成敗しようとするのですが、返り討ちにされそうになり.....


ラスト50ページからスリリングさが加速して、伏線を回収しながらの結末はさすが伊坂幸太郎だと思わせるものがありました。

風雅の

「俺の弟は、俺よりも結構元気だよ」

という言葉が最後まで印象的でした。

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【「フーガはユーガ」の意味の説明】

兄弟が協力して悪と戦うというのは、伊坂幸太郎の作品にはよくあるパターンです。

「魔王」では、兄弟が右翼政治家と戦います。兄には人に思ってもいないことを喋らせる能力、弟には5分の一程度の確率なら当てられる能力があります。この超能力を使って右翼政治家に戦いを挑むのですが、返り討ちにあってしまいます。
しょぼい超能力で敵に戦いを挑む、というところは、「フーガはユーガ」に似ています。

「重力ピエロ」も、兄弟が悪人に戦いを挑むというところで、「フーガはユーガ」と同じです。「重力ピエロ」では、弟のほうは悪人の血のつながった息子であるという設定です。悪人は弟によって殺されるのですが、弟の罪は、悪に対する復讐ではなく血に対する復讐であるから許されるみたいなことになります。

「マリアビートル」では、兄弟ではないのですが、兄弟のように仲のいい「檸檬」と「蜜柑」という殺し屋が登場します。殺し屋だけあって、サイコパスの悪人にいいところまで迫るのですが、結局返り討ちにあってしまいました。

これをトータルで考えるとどういうことになるのでしょうか。

社会に寄生するサイコパスのような存在を排除するのは人間では無理で、運命をコントロールする神のような存在に頼るしかない、という伊坂幸太郎のメッセージでしょう。

人間には、何が悪で何が悪ではないか、などという判断は出来ないということでしょう。

「魔王」での右翼政治家は、左翼からしたら悪でしょうが、全体からしたら悪とまでは言えません。
「重力ピエロ」の悪人が殺されたのも、悪人がゆえに社会から復讐されたのではなく、息子による父親に対する血の復讐ということでした。
「マリアビートル」で悪人をとっちめたのは一般人ではなく、「グラスホッパー」に出てきた「劇団」という謎の集団の殺し屋によってでした。

伊坂作品において「運命をコントロールする神のような存在」は、伊坂幸太郎のデビュー作「オーデュボンの祈り」に出てきた未来をコントロールする喋るカカシ「ユーゴ」が、物語途中で殺されてしまって以降現れていません。
そう考えると、伊坂幸太郎の「悪を悪と判断するのは簡単ではない」という思想みたいなものは、デビュー作以降一貫しています。

ただ「フーガはユーガ」のなかで、チラッと喋るカカシ「ユーゴ」が出てきたので、もしかしたら「フーガ」に「ユーゴ」が少し乗り移った部分もあるかもしれません。

このあたりの判断は次回作以降ですね。




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重力ピエロ」は映画化されています。

【ネタバレあります】

あらすじは単純です。


遺伝子の研究をしている大学院生の奥野泉水(いずみ)と、街の落書きを消すことを仕事にしている弟の春(はる)の兄弟が主人公です。
春は母親が強姦されて生まれた子供です。春は強姦魔であり血のつながりから言えば父親である男をおびき出すために、かつて連続強姦事件が起きた場所に火をつけていきます。

おびき出された男は、兄の泉水によってDNAから弟の春の父親であると証明されます。弟の春は強姦魔の実の父をバットで殴り殺します。

春は兄の説得もあって、警察に自首することなく話は終わります。

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【「重力ピエロ」の意味】

強姦魔とはいえ人を殺してそのままというのでは後味が悪い、という意見は当然あると思います。しかし「重力ピエロ」は、社会の規範とか家族愛の正義とかを前面に押し出すような作りの作品ではありません。

伊坂幸太郎の小説には、よくとんでもない極悪人が出てきます。この極悪人は、いつも運命のいたずらによって破滅します。主人公が極悪人をやっつけるという展開は、伊坂作品の場合はありません。

「オーデュボンの祈り」では、極悪警官は花壇の草を踏んだことにより、問答無用で股間を撃たれます。
「死神の浮力」では、サイコパス殺人鬼は乗っていた車のブレーキの下にぬいぐるみが挟まって、減速できずに車ごとダムの底に沈みます。
「グラスホッパー」では、たちの悪いヤクザの馬鹿息子は「押し屋」という謎の殺し屋によって殺されます。

この「重力ピエロ」のみ、極悪の強姦魔は主人公の春によって殺されています。

「重力ピエロ」だけを見れば、いかにも強姦魔が主人公「春」によって復讐されたように思えてしまいます。春は自分の意思で血のつながった父親を殺し、本当の家族の元に復帰するという、「重力ピエロ」は家族愛の物語のように見えます。

しかし伊坂作品のこれまでの流れからして、運命のいたずらの導きなしで正義が実現される、ということはありえないです。

「重力ピエロ」の中で、運命のいたずら役としてあてがわれているのが遺伝子ということになるでしょう。春の兄の泉水は遺伝子の研究をしている科学者という設定です。春の行っていた落書きも、あたかも遺伝子の導きによって書かされていたという表現もあります。
春は遺伝子によって操られていただけなので、彼が人を殺してもおとがめなしということなのでしょう。

もちろん現実の遺伝子なんていうものには、人間個人の意識の性向まで決定する力なんていうものはないです。少なくても現在の科学レベルでは、そのような遺伝子の力は証明されていません。

「重力ピエロ」は小説ですから、設定は自由です。
伊坂幸太郎の作品には超能力者なんて当たり前に出てきます。さらには人の生死を決定する死神とか、運命を予言する喋るカカシとかが出てきます。
「重力ピエロ」での遺伝子は、科学的な遺伝子というより、人間世界を勧善懲悪に導く運命の発動装置のようなものとして設定されていると判断できます。

これはいいとか悪いとかという問題ではなく小説としての設定ですから、その設定の延長線上で「重力ピエロ」を楽しむというのが、作家の期待する小説の楽しみ方でしょう。




ネタバレありです。「グラスホッパー」は映画化もされました。

【あらすじ】

主人公というか狂言まわし的な立場にいるのが元教師の鈴木という27歳の男性です。

鈴木の妻はひき逃げされて亡くなったのですが、犯人は極悪ヤクザ寺原のバカ息子らしいのです。鈴木は寺原の息子に復讐するために、寺原が経営するフロント企業で働き始めます。

鈴木はただの元教師で、ヤクザの息子をつけ狙ったからといって簡単に目的が達せられるはずもありません。しかし寺原の息子は、鈴木の目の前で何者かによって背中を押され車にひかれて死んでしまいます。

鈴木は寺原の息子の背中を押した人物の後を追います。家を突き止め、本人ともその妻と子供とも知り合いになります。男は槿(あさがお)であると名乗り、職業はシステムエンジニアであるといいます。
しかし槿(あさがお)の正体は「押し屋」という殺し屋でした。


この後、催眠術で人を自殺に追い込むことの出来る「鯨」とナイフの使い手である「蝉」の二人の殺し屋も登場し、「押し屋」の居場所を知っているということで鈴木は二人の殺し屋に捕まりますが、「押し屋」に救出されます。

「蝉」は「鯨」に殺され、「鯨」は車にひかれて死に、寺原は「押し屋」の所属する「劇団」という組織から派遣された「スズメバチ」という殺し屋に殺されます。

寺原も寺原の馬鹿息子も死んだので、鈴木は闇の世界から表の世界に戻り、塾講師として働くようになります。

あらすじは以上です。


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【夢落ち】

22ページに、

鈴木が、
「交差点の歩行者用信号の青色が、点滅をはじめる。その点滅がゆっくりに見える。いくら待っても赤にならない」
と思う場面があります。

164ページの「鯨」とホームレスとの会話に、

「目の前の信号の点滅がちっとも止まらなかったり、通過する列車がいつまで経っても通り過ぎない、とか、この列車ずいぶん長いなあ、なんて思ったら、そう いうのは全部、幻覚の証拠です。信号や列車は、幻覚のきっかけになりやすいんです。信号はたいがい見始めの契機で、列車は目覚めの合図だったりします」

とあります。

最期に鈴木が電車を見送るシーンでは、

「それにしてもこの列車、長くないか」と、亡き妻に向かってこっそりと言う。回送電車は、まだ通過している。
とあります。

これをつなげて考えると、物語のすべては鈴木の妄想であった、ということになるでしょう。

よく考えれば、鈴木という人物は主人公ながら、いてもいなくても同じようなものです。自分で復讐するわけでもなし、悪いヤツの征伐はすべて「劇団」の構成員によって行われています。冒険譚と鈴木との唯一のつながりは、鈴木と「押し屋」との関係性のみです。
鈴木が、駅のホームで「押し屋」の息子役の男の子を見失ったときに、すべてが茫漠としてしまったのです。

【伊坂作品における「グラスホッパー」の意味】

伊坂作品には、運命をつかさどる神の手下のような人物がよく登場します。
「死神の精度」では、死神ですし、
「マリアビートル」では運の悪い殺し屋七尾ですし、
「重力ピエロ」では、遺伝子がこの役割を担っています。

「グラスホッパー」では「押し屋」ということになります。伊坂幸太郎の小説に登場する一般人は、運命をつかさどる神の手下と絡んで初めて、整合的な世界と関わりあうことができます。

「グラスホッパー」の鈴木は「押し屋」と絡んでいる時だけ、悪人は死に妻の死は復讐されなくてはならないという合理的世界が発動します。

伊坂作品の「魔王」や「あるキング」などでは、この

運命をつかさどる神の手下自体が登場しないので、勧善懲悪の世界は立ち現れず、伏線は回収されないまま放置されます。

伊坂幸太郎のデビュー作である「オーデュボンの祈り」の中で、運命をコントロールする喋るカカシが殺されて以降、伊坂作品には運命をつかさどる神自体は現れることがなくなりました。
伊坂幸太郎は、運命のコントロールの強弱を使って作品を書き分けているようです。





「終末のフール」は、あと3年で小惑星が地球に激突して人類が滅ぶと予告された人々の話です。

設定だけ聞くと重い話のように考えてしまうのですが、小説内では惑星衝突の予告されてから5年たっていて、めんどくさいようなヤツは早い時期にやけくそになったらしく、すでに死んだり刑務所にぶちこまれています。ですから登場人物は、基本的にしっかりしたヤツばかりだという推測が成り立つようにできています。読んでいて安心感があります。

8つの連作短編集だったのですが、それぞれの登場人物が限られた時間を一生懸命生きようと努力するわけで、読者としては別に深く感情移入する必要もないので気楽に読めます。登場人物も同情されようとは思っていないでしょう。どうせ3年で終末なのですから。

8つの短編が文庫本で40ページに統一されていています。読みながら時間的な安心感もあったりします。

寝る前に読むのに最適でしょう。1つの短編をゆっくり読んで、電気を消して楽しいような悲しいような気持ちで寝れば寝つきもいいです。

おすすめの短編集です。


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【この部分にお好きな文章を入力してください。】

ネタバレ注意です。

「死神の浮力」は「死神の精度」の続編になります。
「死神の精度」は6つの連作の短編集でしたが、「死神の浮力」は長編です。

「死神の精度」でおなじみの死神千葉の今回の調査対象は、

人気作家山野辺です。千葉は山野辺に一週間接触して、この人気作家が八日目に死ぬのが可であるか、それとも「死の見送り」が適当であるかを判断することになります。
千葉の場合、だいたい「対象者の死は可」なのですが。

人気作家山野辺の小学生だった娘が毒殺されました。しかし犯人の本城は証拠不十分のために無罪判決を受け釈放されました。山野辺は本城が真犯人である証拠を持っているのですが、自分の手で仇うちを計画していました。

そんな時に、千葉が死神としての仕事のために山野辺の家を訪れ、結果的に山野辺を助けるという流れです。

本城という若者は頭のいいサイコパスで、恨みもない山野辺をいかに苦しめるかに真剣になるという、最悪の犯罪者です。山野辺は娘の復讐をしようと本城を追いますが、本城に裏をかかれて何度も窮地に陥ります。しかし死神千葉のの能力に助けられてピンチを脱していきます。


本城にも山野辺と同じく死神がついています。千葉の同僚であるこの死神は、本城の死を見送りさらには20年の余生をプレゼントします。
山野辺は何日か後に死ぬのに、悪人である本城が20年以上確実に生きるわけです。理不尽な雰囲気が盛り上がってきます。もう神も仏もいないのかという、まあ死神はいるんですけど。

本城はダムに青酸カリを撒こうとするのですが、山野辺は疾走する車の中で青酸カリを奪い車から飛び降ります。本城は崖の手前でブレーキを踏もうとするのですが、山野辺の娘の形見のぬいぐるみがブレーキの下に挟まってしまいます。本城は車ごとダムに落ちてしまい浮き上がることができません。本城は死んだのかというと、20年のボーナス余生を与えられてしまっていて死ぬことができず、20年の時間をダムの底で生きることになります。

山野辺は予定通り八日目に、女の子を助ける代償に死んでしまいます。

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【「死神の浮力」意味の説明】

伊坂幸太郎の作品にはサイコパスの悪人がよく出てきます。このサイコパスは登場人物の頑張りによってヤッツケられるというのではなく、運命をつかさどる何者かによって破滅させられます。

「オーデュボンの祈り」では、悪徳警官は花壇の草を踏むことによって、「島の調停者」にいきなり股間を撃たれてしまいます。

「ラッシュライフ」では、たちの悪い画商の賭けが運命のいたずらによって外れてしまいます。

「重力ピエロ」では、連続強姦魔を殺したのは、主人公の弟というより、遺伝子という運命のようなものと言えます。

「死神の浮力」でも、本城を破滅させたのはブレーキの下にはまり込んだぬいぐるみです。ぬいぐるみは殺された山野辺の娘の情念によってはまり込んだのではなく、周到な運命の女神によってその場に配置されていました。

伊坂幸太郎の作品では、サイコパスと「運命をつかさどる神」とはセットです。サイコパスは社会の規範に従うのではなく、運命の復讐による規範に従うのです。

日本などの東アジアの世界では唯一の神というのは存在せず、互いが互いの善意を信じることによって社会を維持しています。法律によって社会が維持されているように見えますが、その法律の根拠は互いの善意への確信によります。ですから東アジアではサイコパスという存在は前提されていません。

サイコパスを設定するなら、サイコパスの魂への罰は社会ではなく、用意された運命によってなされなくてはならないという考えかたはありえます。
運命の神と言われても普通ピンときません。ですら伊坂幸太郎の作品では、そのあたりがぼかされているわけです。

運命をつかさどる神の手先の死神は音楽が好きで、いつもCDショップに入り浸っていてリアリティーがあります。しかしその上の死神事務局になると途端にぼんやりとし、死神事務局のさらに上には、おそらく運命をつかさどるシステムが推測されるのみです。

伊坂幸太郎の作品では、人間が関われるのはせいぜい運命をつかさどる神の手先まで、ということになっています。








ネタバレ注意です。

伊坂幸太郎「死神の精度」は6つの作品からなる連作短編集です。

1 【死神の精度】
2 【死神と藤田】
3 【吹雪に死神】
4 【恋愛で死神】
5 【旅路を死神】
6 【死神対老女】

人間世界に派遣された死神千葉の仕事は二つです。
一週間にわたって死亡予定者に接触し、話をすること、その結果から予定通り死んでもらうか、それとも今回は「見送りにする」かを上に報告することです。 

千葉が死亡予定者を死んでも良いと判断すると、、その人は8日目に死ぬことになります。

1 【死神の精度】

テレホンオペレーターの藤木一恵はクレーマーに謝るだけの毎日です。うんざりした日々が続くのですが、そんな一恵に死神の千葉が派遣されました。一恵は一週間の間に、死ぬか「見送られる」か決定されることになります。
クレーマーの一人が音楽プロデューサーが一恵の声に惚れ込んだことによって、彼女の人生が変わろうとします。そして死神の千葉は「見送り」を決定します。
6篇のなかで千葉が「見送り」したのは彼女だけでした。

2 【死神と藤田】

今回の死神千葉の担当者はヤクザの藤田です。藤田は自分の兄貴分を殺した復讐のために、敵対するヤクザの組長栗田を探していた。千葉は藤田を助けるふりをして、藤田を観察する仕事を果たします。
藤田と敵対する栗田にも、千葉の同業者である死神がついていたというオチ。

3 【吹雪に死神】

千葉の今回の担当者は、雪山の洋館に夫といっしょに旅行に来ている田村聡江です。雪で閉ざされた洋館で連続殺人事件が起きます。
雰囲気は本格ミステリーなのですが、登場人物に毒を飲んでも死なない死神が混ざっているので、コミカルで安心感のある話になっています。

4 【恋愛で死神】

今回の担当者は、向かいのマンションに住む古川朝美片に想いをしている荻原という青年です。千葉のおかげもあり、若い二人は仲良くなっていきます。
しかしこの編の冒頭に、萩原は死ぬという描写があります。

5 【旅路を死神】

今回の千葉の担当者は、殺人を犯して逃亡する森岡耕介という若者です。森岡には子供のころに誘拐された体験があります。今の自分がダメなのはその誘拐犯が悪い、という考えが森岡にはあり、森岡は誘拐犯に復讐するために十和田湖に向かいます。
十和田に向かう途中の仙台で、重力ピエロの「春」が登場したりしています。

6 【死神対老女】

今回の千葉の担当者は、高齢の女性美容師の新田です。彼女は千葉が死神であることを見破ります。新田は、千葉が人間ではないと知りつつ、明後日に十代後半の男女を4人ぐらい美容室に客を連れてきて欲しいというお願いをする。
その理由が悲しいです。
この6章の【死神対老女】と1章の【死神の精度】とがつながっていて、伊坂幸太郎はうまいなと思わせます。




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【伊坂幸太郎「死神の精度」の意味】

小説とは、その世界の整合性の視点みたいなものが超越的な場所に設定されていたりします。分かりやすいところで、例えば推理小説は閉じられた世界の中で起こった事件を、超越者の代弁者である探偵の世界解釈の結果として犯人が告白するという形式になっていたりします。

伊坂幸太郎の小説の場合、この超越的な視点を意識的にいろいろ動かしていこうとしています。

「オーデュボンの祈り」では、カカシが超越的視点と探偵役を併せ持った地位にあって、物語は最後みごとに収束しました。

「魔王」では、超越的視点を持たない少し超能力を使えるだけの普通の人間が主人公で、物語は収束どころか拡散したまま終わります。

そして「死神の精度」では、超越的視点と探偵役をゆるーい死神という視点の低い設定にしているため、物語は予定調和的でとても読みやすいことになっています。

伊坂幸太郎の「オーデュボンの祈り」以外の作品は、運命をつかさどる神のような存在を匂わせはするのですが明確には説明しないというスタンスです。この「死神の精度」でも、下級監視役である死神については解説がありますが、死神を派遣している上部組織については、それが存在するというぐらいしか説明がありません。

伊坂幸太郎のデビュー作である「オーデュボンの祈り」の中で、運命をつかさどるカカシが殺されて以降、運命をつかさる神的存在は、「いるのだけれど上の方まではよく見えない」みたいなことになっています。



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 坂口安吾「不連続殺人事件」は昭和23年発表。



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坂口安吾には長島萃(あつむ)という友人がいた。長島は何度か自殺未遂を繰り返し、昭和8年に脳炎にかかりそのまま発狂して死亡した。
坂口安吾は昭和9年発表の「長島の死」でこう書いてある。

『私は彼のように「追いつめられた」男を想像によってさえ知ることができないように思う。その意味では、あの男の存在はわたしの想像力を超越した真に稀な現実であった。もっとも何事にそうまで「追いつめられた」かというと、そういう私にもハッキリとは分からないが恐らくあの男のかんする限りの全ての内部的な外部的な諸関係において、その全部に「追いつめられて」いたのだろうと思う』

全てに追いつめられる男とはなんなのだろうか。おそらく現代の精神医学では何らかの病名はつくだろう。ただ病名がついたからといって追いつめられる要素が一つ増えるだけの話で、全てに追いつめられていることには変わりがないだろう。

長島は何に追いつめられたのか?ということを純文学で読みたかったが、坂口安吾は「全てに追いつめられる男」を推理小説で表現した。それがこの「不連続殺人事件」だと思う。

ここからはネタバレ注意です。長島萃から見た不連続殺人事件のあらすじを書きます。

金持ちのボンボンである文学青年一馬(長島萃)は、ピカ一という画家からその美しい妻であるあやかさんを奪い取る。しかしそもそもこれが罠。ピカ一とあやかはぐるになって、一馬の妹2人と父親と一馬本人をこの順番で殺し、一馬の遺産を根こそぎ貰おうという作戦。
戦後すぐの夏、一馬の田舎の屋敷で一馬の文学仲間が避暑に集まることになった。どさくさにまぎれて、あやかはピカ一を含め何人か関係のない人間にも招待状を出した。
最初に殺されたのは望月という文学者である。望月が殺された時、あやかは一馬と一緒にいた。夫婦だからあやかのアリバイにはならないが、これで数馬は妻のあやかは犯人ではないと確信した。望月はピカ一に殺されたのだが、これは一馬にあやかだけは犯人ではないと思わせるためだけの殺人であった。この後、一馬の妹2人と父親がピカ一とあやかに交互に殺される。もちろんピカ一とあやかは誰の前でも犬猿の仲を装っている。二人がつながっていることは誰にも分からない。
最後の仕上げだ。あやかは一馬に二人の寝室で毒入りの水を飲ませる。一馬はその水を飲んだ。あやかだけは犯人ではないと確信していた。自分を確信させるために、愛する妻のあやかが人一人殺したとは想像できかった。一馬は死んで、あやかは一馬の死を自殺だと証言した。
しかしここで名探偵登場というわけです。

不連続殺人事件の中で、一馬は策略によって全てのものに追いつめられて最後に殺される。何故、一馬すなわち長島が死ななくてはならなかったのかということは、現実よりも一次元下がった推理小説だから私たちにも理解できた。しかし現実の世界の死というのは本当のところ、理解できないところが残る。
私は中学2年の時にクラスメートが、24歳の時に同年代のいとこが自殺したが、彼彼女が何故自殺したのかは最後のところで分からない。ただ私としては生き残ったもののひけめのようなものがあるだけだ。

犯人と被害者の恋人がグルというところが「ナイルに死す」と同じですね。


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坂口安吾「堕落論」解説 おもしろそうだけど難しそう?


【SEO対策 検索上位を取る方法はあるのか?】


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【検索上位を取る方法とは】


マイナーなワードの組み合わせを狙えば検索上位を狙えます。

例えば、私のこのブログ内記事で検索上位を取っているワードは、

「福沢諭吉 惑溺」

です。

「福沢諭吉 惑溺」で検索すると、このブログの記事が2位に表示されています。

福澤諭吉の惑溺という概念はちょっと難しくて、夢というのは夢の中ではそれが夢であるとはわからないものなのですが、夢を惑溺と言い換えると、では惑溺か惑溺ではないかはどのように判断するべきか? のような話になってきます。

この辺を福沢は、江戸時代は夢、明治に入って日本人は夢から覚めた、みたいな論理構成で「惑溺」を説明しています。夢から覚めてもまだ夢を見ている、という可能性もあるのですが、このあたりは、二つの世界を比べてみて、より合理性のあいまいな方が惑溺だ、と福沢は考えています。

とまあこのように、思いつくまま気の向くまま、福沢諭吉の惑溺について書いてみたのですが、福沢が惑溺という言葉を使っているというのは、かなり福沢を読んでいないと知らないことです。ですから、「福沢諭吉 惑溺」と検索するような人は多くいるはずもなく、「福沢諭吉 惑溺」というワードはかなりマイナーという事になるでしょう。



【検索上位を取る意味とは】


マイナーなワードでも、日本人は12000万もいるわけですから、いつかどこかで検索されるということはあります。

実際に「福沢諭吉 惑溺」で検索して私のブログに来る人は、一週間に一人ぐらいいます。

少ないですね。日本人は福沢諭吉の惑溺にはほとんど関心がないみたいです。福沢は一万円札の肖像なんですけどね。

福沢関連のアフィリも張っていたりするのですが、全くヒットしません。それはそうでしょう。ある程度、福沢諭吉を知っている人しか「福沢諭吉 惑溺」を検索しないわけで、そのような人が、今さら福沢の「学問ノススメ」とか、ネットで買ったりしないですよね。

マイナーなワードで検索上位をとっても、正直、たいした意味はないということになります。


【検索上位を取って得るものとは】



心の満足、みたいなものが得られそうに思われるかもしれませんが、全然そんなことないです。

逆に申し訳ないですね。

せっかく志高く「福沢諭吉 惑溺」を検索したのに、私のそのブログ記事を読んだのでは、ちょっと時間の無駄かもしれないからです。

私、福沢についてはいっぱい書いているのです。ある意味、福沢ファンです。私のメインの福沢記事を読んでくれたら、それなりに福沢について知ることもできるでしょうが、「福沢諭吉 惑溺」の記事だけ読んでも、たいして意味があるとも思えないです。


【検索上位を取ってどうするか】


どうするかって言ったって、どうもしないです。記事を削除するほどのこともないでしょうから。ただ私の覚書みたいになっているだけです。


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【初心者ブロガー向け】 アクセスアップの方法は簡単です


書評ブログのアドセンス、アフィリエイトでの収益化は可能か、についてなのですが、
結論から言うと、普通に書評ブログなんてやっていたのではブログ収益化の可能性はほとんどないと言っても過言ではありません。

目次

1 アドセンス
2 アフィリエイト
3 そもそもの閲覧者数
4 PVを増やす方法
5 ライバル
6 結論



【アドセンス】


アドセンスとはクリック報酬型のアフィリエイトになります。

単にクリックといっても、なかなかクリックしてくれないです。関係ないところは出来るだけクリックしない、というのかネットリテラシーみたいなことになってますから。私だって、何かのサイトに行って考えることは、いかに広告をクリックしないかということです。

このブログにも広告は張ってあるのですが、2019年1月の一カ月で8クリックです。
この一カ月でのこのブログのページビューは3000pvで一日当たり30uuぐらいなんですが(少なくて申し訳ないです)、これで8クリックですからどうしようもないです。


【アフィリエイト】




物販型アフィリエイトは今年に入っても全く売れていません。最初は、本でも少しは売れるかな、とも思ったのですが、甘くないです。書評ブログから何かを買おうなんていう人は、ほぼほぼ存在しないです。

ブログで他人の小説や評論の書評を読もうという人は、すでにその本を読んでいるんでしょうね。読まずにネタバレとかされても困りますから。

ビジネス書とかの書評をして、関連書籍を推奨するという方法は物販につながりやすそうですが、これもコスパとしてどうか。最初に読むビジネス書を自分で買わなくてはならないですから。紙の本ならAmazonアソシエイトの報酬は3%ですが、すなわち元を取るためには34冊売らなくてはならないわけで、まず無理でしょう。


【そもそもの閲覧者数】


ブログの閲覧者数が少ないというところに問題がある、とも考えることもできます。

一カ月3000pvが少なすぎるというわけです。これが30万pvぐらいになると、物販アフィは知れているでしょうが、アドセンスメインで月10万円くらいいくらしいです。


【PVを増やす方法】


しかし30万pvはハードルが高いです。
無理ではないですが、かなりのSEO対策が必要です。

まず1年以上にわたって、ほぼ連日、書評を書く必要があります。さらに、伊坂幸太郎とか東野圭吾などの人気作家の最新作を読んで、ネタバレとかあらすじとかキャッチーなコピーをつけつつ、2000字以上を書くことが推奨されます。
作品にふさわしいキーワードは、キーワード検索エンジンなんかで見つけてきたりするのです。

伊坂幸太郎とかが好きならいいでしょうが、福沢諭吉とかが好きだったらどうしようもないですよ。

今、福沢諭吉でキーワード検索してみたのですが、「福沢諭吉 韓国」の組み合わせキーワードがキャッチーらしいです。みんなどれだけ韓国好きなんだよ、と思います。福沢諭吉の韓国との関わり合いは、福沢晩年の韓国支援とその反動としての脱亜論ですから、「福沢諭吉 韓国」でまともな福沢論を書くのは、かなり難しいと思われます。


【ライバル】


書評ブログには「ホンシェルジュ」という本に特化した企業サイトがあります。

アナリティクスマーケットシェアというサイトで、サイトの月間pvを調べることができるのですが、「ホンシェルジュ」の月間pvを調べてみると、200万pvと出ました。

200万pvだと書評ブログの場合、月収100万ぐらいだと思うのですが、「ホンシェルジュ」はとても月収100万では回らないような陣容です。
当然、出版社の支援というのがあるのでしょう。

こういう大手と検索エンジン競争をしても、なかなか勝ち目が薄いでしょう。



【結論】


ニッチを狙うという方法もあります。

私のブログの検索流入最上位は「土佐源氏」です。

土佐源氏なんてほとんどの人は知らないと思うのですが、
「土佐源治」とは、民俗学者の宮本常一の「忘れられた日本人」という本のなかにある一つの章の題名なんですよね。

非常にニッチです。

一カ月に10人ほど、この「土佐源氏」からグーグル検索で当ブログに流入してくれています。

しかし、ニッチはボリュームが小さいうえに狙って取れるものではないです。

やはり結論は、書評ブログの収益化は無理気味、ということになるのでしょう。


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