magaminの雑記ブログ

2019年02月

坂口安吾と阿部定は戦後に対談しています。

無頼派の坂口安吾と、恋人を絞め殺してその一物を切り取り、ふところに抱えて逃亡した日本史上もっとも有名な女性犯罪者である阿部定との対談ですから、これは興味があります。

阿部定事件は昭和11年5月に起こっています。3カ月前には226事件が起こっています。新聞は事件を大きく取り上げ、情夫を殺した後にイチモツを切り取り、大事そうに持っていたという、好奇心を刺激しやすい内容で報道しました。

ところが安吾は、実際会ってみると、阿部定は普通の女性だったと言っています。

安吾のエッセイによると、阿部定の彼氏というのは、首を絞められるのが気持ちいいという性癖があったといいます。
こういう人はたまにいます。
彼に言われるままいつものように首を絞めてやっていたら、そのまま彼氏が死んでしまいました。愛する彼氏とそのまま別れるのが嫌で、彼氏の一物を切り取り胸に抱えて逃げた、ということらしいです。

戦前において阿部定事件は確かにセンセーショナルだったかもしれないですが、戦後になって何度も反省されるべき凶悪事件というわけではないでしょう。
阿部定事件は、なぜ何度も繰り返し話題になってきたのか、不思議な感じはします。

坂口安吾は昭和22年のエッセイで、

「お定さんが、十年もたつた今になつて、又こんなに騒がれるといふのも、人々がそこに何か一種の救ひを感じてゐるからだと私は思ふ。救ひのない、たゞインサンな犯罪は二度とこんなに騒がれるものではない」

と言っています。

人々が何かから解放されようとする時代に、恋人を殺して一物を切り取って抱えて逃げた女、というのは、日本的な

「民衆を導く自由の女神」



みたいなものでしょうか。

これは男の都合ですね。
戦争を始めたのも男の都合で、戦争に負けたのも男の都合で、阿部定を持ち上げるのも男の都合でしょう。

女性が社会で男性に伍していく現代においては、阿部定は忘れられていくでしょう。


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村上春樹と大江健三郎の文学の傾向は似ている、ということがよく言われます。

簡単なところで言うと、村上春樹の作品にも大江健三郎の作品にも四国がよく出てきます。
大江健三郎は伊予の喜多郡生まれなので、四国が作品の舞台になることが多くなることも理解できます。しかし村上春樹は京都生まれの西宮育ちで、大学は早稲田で東京暮らしで、四国とはあまり接点がないような。


繝繝シ繝ウ, 遨コ, 髱�, 繝上・繝� 繝繝シ繝ウ, 繧ケ繝壹・繧ケ, 豌怜・, 螟ゥ譁・ュヲ, 螟懊・遨コ


【村上春樹の中での四国】


村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」で主人公の失踪した妻から来た手紙の消印が高松でした。
「ねじまき鳥クロニクル」では、ある特定の井戸が重要な役割を担うのですが、その井戸の所有者家族が四国で一家心中しています。
「海辺のカフカ」では、主人公の少年が家出した結果居ついた場所が
高松でした。少年は高知の山奥に家を借り、そこで幻想的な体験をします。
「騎士団長殺し」に登場する免色さんは、その珍しい苗字のルーツは四国であるらしい、と語られたりしています。

村上春樹は、作品中で無理矢理に四国を出している感じです。これは村上春樹の大江健三郎に対するオマージュではないかとも考えることも可能です。


【村上春樹と大江健三郎の文学】


村上春樹と大江健三郎の文学の具体的な内容の似ていることについて、これは大江健三郎の初期の作品については当てはまるとおもいます。

大江健三郎の最初期の短編である「奇妙な仕事」から、その主人公と登場人物の女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみます。  

『たいへんだな、と目をそむけて僕はいった』

『火山を見に? と僕は気のない返事をした』

『君はあまり笑わないね、と僕はいった』

どうでしょうか?
私は、村上春樹に出てくる「悪い奴じゃないのだけれどちょっと不愛想」な主人公たちと似ているところがあるのではないかと思います。

これもまた大江健三郎の最初期の短編である「死者の奢り」(ししゃのおごり)は、主人公「僕」が、大学の医学部でアルコール水槽に保存されている解剖用の死体を処理のアルバイトを、辛気臭い女子学生といっしょにするという話なのですが、小説内での語り手が一人称の「僕」ですから、村上春樹の小説の感覚と似ています。

昭和30年ごろの大江健三郎の文学における問題意識というのは、寄り掛かる価値観を失った若者を描写することだったと思います。
昭和20年後半は戦前と戦後の価値観の変わり目で、戦中に受けていた教育規範が胡散霧消し多くの人が心の軸を失ってしまい、人生経験の少ない若者の自殺率が異常に高くなっていた時代でした。

戦後の確固とした価値観を失った時代に生きた若者の多くは、価値というのは相対的なものであるという場に至って、結果として生きる力を失ってしまったということなのでしょう。同じようなタイプの青年を描いているという意味で、初期の大江健三郎の作品と村上春樹の作品とは似ているところがあると思います。

しかし大江健三郎は、価値が相対的だという場に落ち込んでしまった青年を描くという態度から、生きる力を失った人はどのようにしたら救われるのかという文学的態度に一歩踏み出しました。遍歴の末、イーヨーというヒーローを得て大江文学は一つの到達点を示現したと思います。

これに対して村上春樹の文学は、大江健三郎と違って、新しい世界に一歩を踏み出すということがなかったと言えます。いつまでも「ノルウェイの森」の劣化版を書いています。というか、書けば書くほど劣化していっています。

これは一歩踏み出した世界から見れば、村上春樹の文学は劣化しているように見えるということになります。
価値が相対的だという世界にとどまり続ければ、村上春樹の世界は時とともに深化しているように見えるでしょう。

世界に実体としての価値観があるか、それとも価値観というのはすべからく相対的なものであるかは、それぞれの人の判断によるものであるでしょうから、どっちの世界観が正しいとかいうものもないとは思います。

ただ、大江健三郎と村上春樹の文学というのは、はじめは同じような地点から出発したのですが、あとで方向性が全く異なってしまったということになるでしょう。


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村上春樹はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をオマージュしているらしい。

村上春樹訳「グレート・ギャツビー」のあとがきで村上春樹は、

もしこれまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろと言われたら、考えるまでなく答えは決まっている。この」「グレート・ギャツビー」と、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」と、レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」である。

と語っている。

「グレート・ギャツビー」とレイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」は分かるけど、「カラマーゾフの兄弟」は村上春樹の小説世界からはかなり遠いと思うけれど。


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村上春樹はよくメタファーと言う。メタファーだけだと隠喩という意味だけれど、メタファーのメタファーとか、世界はメタファーだ、とまで言ったとしたら、もうそれは夢の世界でしょう。根拠の言葉のない隠喩だけの世界があるとしたら、それは夢でしょう。

それに対してカラマーゾフの世界は本当にリアルだ。
例えば、「カラマーゾフの兄弟」のエピローグで、アリョーシャが子供たちの前で行った演説をあげてみよう。

「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだ、と」

メタファーのかけらもないと思う。

ただ、村上春樹と「カラマーゾフの兄弟」の共通点として、アンチ近代というのはあるかもしれない。
近代という時代は夢と現実を峻別する世界だし、巨大な整合性の中に個というものを回収する社会だ。

夢と現実を峻別する世界というのはどういうことかというと、夢と現実を区別できないようなヤツは病院送りみたいな感じ。今の世界のことだ。フーコーによると、精神病院と精神病患者というのは同時に発生したという。
村上春樹は、夢と現実を峻別する現代社会に反抗してメタファー世界と言っているのだろう。

巨大な整合性の中に個というものを回収する社会というのはどういう意味かというと、巨大な知識体系が存在する社会では、個人はその知識体系に寄り掛かって生きるほかないという社会。まさに現代だろう。
左翼リベラルの人たちは反論をするときに、「まず何々という本を読んでから語りなさい」みたいな言い方をよくする。これは巨大な知識体系に寄り掛かって生きるほかない人間の叫びだろう。
このような近代世界に対して、ドストエフスキーは個々人がそれぞれに独立して語り合う世界というものを取り戻そうとした。

村上春樹と「カラマーゾフの兄弟」はアンチ近代という点では一致しているかもしれないが、その後の目指す方向性というのは180度異なっているだろう。


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益者三友の意味は、正直で誠実で博識な人を友としなさい、となります。
出典は、論語の季氏第十六 4です。


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季氏第十六 4

孔子曰く、益者三友(えきしゃさんゆう)、損者三友(そんしゃさんゆう) 直(ちょく)を友とし、諒(りょう)を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)を友ともとし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり


孔子は言った。
「正直な人、誠実な人、博識な人は益にる友である。体裁をとりつくって正直でない人、愛想がよいだけの人、口先だけでうまいことを言う人は損になる友である」

損得で友達を選ぶことに抵抗がある人も多いのではないでしょうか。益者三友と言ってしまうと、博識の人以外と付き合っていては損だ、ということになってしまいます。
親にあそこの子供とは付き合ってはいけないとか言われるのも嫌でしたし、子供に、あんなところの子供と遊んでも損だよ、なんて言うのも気が引けます。

しかしこれは益者三友とだけ言ってしまった結果だろうと思います。論語の本文には、益者三友のあとに損者三友とあります。
益者三友と損者三友の間には、益にも損にもならない場所が広がっています。そのような場所の人たちとつきあって、別に何の問題もないと思います。

そもそも、利益のある人とだけ友達になろうとする態度は、相手にとって、

便辟(べんぺき)
すなわち、体裁をとりつくって正直でない人
であり、

善柔(ぜんじゅう)
すなわち、愛想がよいだけの人
であり、

便佞(べんねい)
すなわち、口先だけでうまいことを言う人

になるのではないでしょうか。
これでは相手にとって自分が損者三友になってしまいます。


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論語には故事成語にもなった名言、格言が多数あります。そのすばらしい章句のなかから8つを紹介したいと思います。

「論語とは」

「論語」は孔子の没後、いくらかの年月をへたあと、紀元前四百数十年ごろ門人たちによって編纂されたものです。
「論語」がはじめて日本に伝来したのは応神天皇の時代ですが、それが刊行されたのは約一千年後の後醍醐天皇の元亨二年です。まず宮廷貴族の思想に影響を与え、つぎに武家に及びました。そして、明治維新にいたるまでの約千五百年間に、国民生活の精神的よりどころとなりました。




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学而第一 1

「子曰く、学びて時に之を習ふ、亦た説(よろこ)ばしからずや 朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや 人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや」



先生がいわれた

「古の聖人の道を学び、やれる時には何度でも繰り返して自分のものにする。なんと喜ばしいことだろう。友が遠方より共に学びに来てくれる。なんと楽しいことだろう。学んだ自分が認められなくても世間を恨まない。これこそ君子の名に値するのではないか」

論語の冒頭の章句です。


為政第二 4

子曰いわく、吾十有五にして学に志す。三十にして立たつ。四十にして惑わず。五十にして天命を知しる。六十にして耳(みみ)順(したが)う。七十にして心の欲する所に従がいて、矩(のり)を踰(こ)えず。



先生は言った
「私は十五歳で学問に志した。三十歳で自分というものをしっかりと持てるようになった。四十歳で自分の道に迷いがなくなった。五十歳で天から授かった使命を悟った。六十歳で言葉を素直に聞くことができるようになった。七十歳になって、やりたいことをやっても道徳にそむかなくなった」

15歳「志学(しがく)」
30歳「而立(じりつ)」
40歳「不惑(ふわく)」
50歳「知命(ちめい)」
60歳「耳順(じじゅん)」
70歳「従心(じゅうしん)」

の出典になります。


この章句は人は年とともに人格的に完成していく、と普通は解釈するところでしょう。

しかし、宮崎一定という論語学者は、

「論語の為政篇のこの節は、50歳までは力があふれていて天命を知るまでになったが、それ後は衰えて、60歳になったら人の言うことには従うようになったり、70歳になったらやりたいことをやってもたいしたことは出来なくなってしまった、という孔子の嘆きだ」

と言っていました。


雍也第六 9
子曰わく、賢なるかな回や。一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂(うれ)いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や


先生は言った
「回はなんと賢者だろう。一杯の飯に一杯の水で、あばら家生活をしていれば、普通の人はいやになってしまう。だが回はその生活を楽しみ不満がないようだ。回はなんという賢者だろう」



回とは顔回という孔子の一番弟子のことです。
一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん) は有名な部分です。
一瓢(いっぴょう)の飲(いん)は普通、一杯の水と訳しますが、下村湖人は「一杯の水」ではあまりに顔回がかわいそうだと考えたのか、「一杯の酒」と訳しています。


先進第十一 8
顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天予(われ)を喪(ほろぼ)せり。天予(われ)を喪(ほろぼ)せり


顔淵が死んだ。先生は言った。「ああ、天は私の希望を奪った。天は私の希望を奪った」

顔淵とは顔回のことです。愛する一番弟子を失った孔子の嘆きが伝わってきます。



季氏第十六 4

孔子曰く、益者三友(えきしゃさんゆう)、損者三友(そんしゃさんゆう) 直(ちょく)を友とし、諒(りょう)を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)を友ともとし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり


孔子は言った。
「正直な人、誠実な人、博識な人は益にる友である。体裁をとりつくって正直でない人、愛想がよいだけの人、口先だけでうまいことを言う人は損になる友である」

益者三友の後に損者三友とあるのがポイントだと思います。益者三友でなくても、損者三友でさえなければ友達として付き合うのは問題ないという孔子のメッセージでしょう。




里仁第四 15

子曰わく、参(しん)よ、吾(わ)が道は一(いち)以(もっ)てこれを貫く。
曽子(そうし)曰わく、唯(い)。
子出(い)ず。
門人問いて曰わく、何の謂(いい)ぞや。
曾子曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ



孔子が言った
「参よ、私は一つの原理で自分を貫く」
曾子は答えた
「はい」
孔子は部屋を出て行った。ほかの門人たちが曾子にたずねた。
「今のはどのような意味でしょうか」
曾子は答えた。
「先生の道は強い誠実さだけということ」

一(いち)以(もっ)てこれを貫く は故事成語になっています。
忠恕(ちゅうじょ)は誠という意味で、仁に近いものだと思います。


泰伯第八 6

曾子曰く、以(もっ)て六尺(りくせき)の孤(こ)を託すべく、以て百里の命(めい)を寄すべし。大節に臨みて奪うべからず。君子人か、君子人なり。


曾子が言った
「幼君の補佐を頼むことができ、一つの国の政治をまかせることができる。大事に臨んで自分を見失ったりしない。このような人は君子人であるか。君子人である」

曾子には詩の才能があったのではないかと思います。
もう一つ曾子を。


泰伯第八 4

曾子、疾(やまい)有り。孟敬子(もうけいし)之を問う。曾子言いて曰く、鳥の将(まさ)に死せんとす、其の鳴くや哀し。人の将に死なんとするや、其その言うや善(よ)し


曾子が病気の時、孟敬子がお見舞に行った。すると、曾子が言った。
「鳥は死を悟ったら悲しげに鳴くし、人は死ぬまえに真実の言葉を語ります」

鳥の将(まさ)に死せんとす、其の鳴くや哀し ですから。
言葉が美しいです。


論語おすすめ8選を紹介してみました。
論語は512の章句がありますから、まだたくさんのいい文章があります。

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顔回(がんかい 紀元前521年 - 紀元前481年)は、暮らしぶりが極めて質素で、名誉や栄達を求めず学問にいそしみ、孔子の信頼が最も厚かった弟子であると言われています。

論語の子路第十三 27

子曰く、剛毅(ごうき)木訥(ぼくとつ)は仁に近し


とあります。

生活が質素であったから仁に近づいた、とも言えるでしょうし、仁に近づいていたから生活が質素でも気にしなかった、とも言えるかもしれません。



実際に論語の中で顔回にふれられているところを見ていきます。

為政第二 9

子曰く、吾、回(かい)と言うこと終日、違(たが)わざること愚なるがごとし。退(しりぞ)きて其その私を省(かえり)みれば、亦(また)以(もっ)て発するに足る。回や愚ならず


先生は言った「と終日話しても、彼は私の言うことをおとなしく聞いているだけで、まるで愚者のようだ。ところが彼自身の生活を見ると、逆に私の方が啓発される。彼は馬鹿ではない」

もう一つ

雍也第六 9

子曰わく、賢なるかな回や。一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂(うれ)いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や


先生は言った
「回はなんと賢者だろう。一杯の飯に一杯の水で、あばら家生活をしていれば、普通の人はいやになってしまう。だが回はその生活を楽しみ不満がないようだ。回はなんという賢者だろう」

一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん) で暮らしながら、回や其の楽しみを改めず ですから。現代だとお金が優先されてしまって、楽しみを改めない、というのはなかなか難しいかもしれません。

顔回は若くして死んでしまいます。
顔回の死を嘆いた孔子の言葉が論語の中にあります。

先進第十一 8
顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天予(われ)を喪(ほろぼ)せり。天予(われ)を喪(ほろぼ)せり


顔淵が死んだ。先生は言った。「ああ、天は私の希望を奪った。天は私の希望を奪った」

論語は、言葉の数をできるだけ削ろうとするところがあります。ですから孔子は言葉を重ねることによって、顔回を厚く弔おうとしているのが伝わってきます。

顔回は孔子に本当に愛されていたのですね。


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論語の冒頭は

学而第一 1

「子曰く、学びて時に之を習ふ、亦た説(よろこ)ばしからずや 朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや 人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや」

となります。


先生がいわれた

「古の聖人の道を学び、やれる時には何度でも繰り返して自分のものにする。なんと喜ばしいことだろう。友が遠方より共に学びに来てくれる。なんと楽しいことだろう。学んだ自分が認められなくても世間を恨まない。これこそ君子の名に値するのではないか」


「習う」というのは何度も繰り返して自分のものにするという、復習程度の意味です。学の目的は知識の習得というより人格の完成ですから、学んだものを自分の血肉にするというのが大切になってきます。
あと、友達が遠くから訪ねてきてくれたら、素直にうれしいです。

ただ、「人知らずして慍(うら)みず」学んだ自分が認められなくても世間を恨まない、というのはきついかもしれないです。
「人知らずして慍うらみず」のところを、「学んでも人に認められないとしても恨まないでさらに頑張って学んで」みたいに訳す人がいますが、やっぱり少しは恨んでしまっている自分、というニュアンスがにじみ出てしまっています。

仕方ないだろうと思います。

ただ孔子も、その辺のところは理解しているらしく、

学而第一 16で

子曰(いわ)く、人の己(おのれ)を知しらざるを患(うれ)えず、人ひとを知しらざるを患(うれ)うるなり


人が自分を知ってくれないということは心配ではない。自分が人を知らないことこそが心配なのだ

と言ってます。

強い気持ちでやっていきましょう。



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不惑とは40歳の異称です。

論語の為政篇に

   吾十有五にして学に志し (志学 しがく)
   三十にして立つ (而立 じりつ)
   四十にして惑はず (不惑 ふわく)
   五十にして天命を知る (知命 ちめい)
   六十にして耳順ひ (耳順 じじゅん)
   七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず (従心 じゅうしん)

とありまして、「四十にして惑はず」から、不惑が40歳の異称として使われるようになりました。

「四十にして惑はず」とは、40歳になるとあれこれ思い悩まず、どっしりと自分の人生を考えるようになる、という意味になるでしょう。

ただ「不惑」程度で満足していてはダメです。何といっても50歳になった時には「天命」を知らなくてはならないのですから。

「不惑」というのは、自分というものをしっかりと持つということでしょうが、自分を確立したからには、周りの人間を助ける立場に回らなくてはなりません。自分が安心しているからそれで満足というのでは、あと10年で天命を知るということは出来ないです。

自分をしっかり持ったのなら、家族や友人を助け、さらには地域や国家を助け、さらには世界を助けようという。順番に頑張っていって、自分はどこまでやれるのかを知るというのが、「天命を知る」ということになると思います。

やっていきましょう。

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知命(ちめい)とは50歳の異称です。


論語の為政篇に

   吾十有五にして学に志し (志学 しがく)
   三十にして立つ (而立 じりつ)
   四十にして惑はず (不惑 ふわく)
   五十にして天命を知る (知命 ちめい)
   六十にして耳順ひ (耳順 じじゅん)
   七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず (従心 じゅうしん)

とありまして、「五十にして天命を知る」から、知命(ちめい)が50歳の異称として使われるようになりました。

五十にして天命を知るとは、五十歳で天から授かった使命を悟るということになります。

ただ、天から授かった使命とはなにか、ということは考えてしまいます。50歳になっても、なかなか明瞭な天の声は聞こえたりしないです。

これを論語の文脈から判断すると、50歳になったらもう自分のことだけではなく、人のため社会のために何かをやっていかなくてはならない、という意味だと思います。

やっていきましょう。



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七十(しちじゅう)にして矩(のり)をこえずとは、七十歳になってはじめて、自分の意のままに行動しても決して道徳的法則にそむかなくなった、という意味になります。

論語の為政篇に

   吾十有五にして学に志し (志学 しがく)
   三十にして立つ (而立 じりつ)
   四十にして惑はず (不惑 ふわく)
   五十にして天命を知る (知命 ちめい)
   六十にして耳順ひ (耳順 じじゅん)
   七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず (従心 じゅうしん)


とありまして、

七十(しちじゅう)にして矩(のり)をこえず、を全文で表記しますと、
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず

となります。

70歳になったら好き放題やっても世間の道徳の規範を超えなくなる、というのは簡単ではないと思います。今のお年寄りは元気ですから。しかし年をとっても元気なら、そちらの方がいいのではないでしょうか。

宮崎一定という論語学者は、

「論語の為政篇のこの節は、50歳までは力があふれていて天命を知るまでになったが、それ後は衰えて、60歳になったら人の言うことには従うようになったり、70歳になったらやりたいことをやってもたいしたことは出来なくなってしまった、という孔子の嘆きだ」


と言っていました。

ただ、故事成語として、七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず、ということになっています。

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