magaminの雑記ブログ

2019年01月

前作「MOMENT」は大学生「僕」視点での話だったけれども、「WILL」は「MOMENT」から7年後の大学生「僕」の彼女である葬儀屋の看板娘「私」視点からの3つの連作短編集だった。



正直言って、「WILL」は「MOMENT」より小説としての出来が落ちると思う。



大学生「僕」視点での葬儀屋の看板娘「私」22歳は口の悪い不思議娘という感じで魅力的だったのだけれど、7年後の葬儀屋の看板娘「私」29歳は今回自分の視点で語るわけで不思議娘でもなんでもない。これではただの口の悪いおばさんだろう。



例えばだよ、葬儀屋の看板娘?「私」29歳を、かつての大学生「僕」現在はアメリカで翻訳の仕事をしている高学歴「僕」29歳が白馬に乗った王子様よろしく迎えに来たとして、もうこれは作者のアラサー女性へのサービスだろう。オヤジ読者には何の関係もない。



葬儀屋の看板娘?「私」29歳はおせかっいすぎると思う。こんなおせっかいな葬儀屋はいない。ACT1「空に描く」では、あるアラサー女性の本当の父親は先日死んだ父親かそれとも別の男か?というところに話は収束していくのだけれど、そんなのほっといてあげればいいじゃんって思う。葬儀屋がそんなことを解明する必要はないだろうと思う。



司馬遼太郎がどこかに書いていたのだけれど、明治以前の村社会では夜這い婚というものが主流だったという。夜這い婚とは、村の若い男は夜、村の娘のところに夜這いに行く。娘は気に入らない男は拒否することができる。まあいいかと思えば受け入れる。そのうち娘は妊娠する。妊娠した時点で、娘は結婚相手を夜這いに来た男たちの中から1人指名することができる。男はこの指名を拒否することはできない。拒否すれば村八分だ。

この制度では子供と父親とのDNAが一致するとは限らない。かつての日本男児はそのようなことは気にしなかった。自分の子供は自分と血がつながっていないかもしれないが同様によその男が自分の血を受け継いだ子供を育ててくれているかもしれないからだ。



貴族階級でもないのにDNAの一致がどうとか、男はそのような細かいことにこだわるべきではない。愛する女が子供を孕めば責任を取るしかない。女も誰の子供かなどという科学的真実を語る必要もない。ましてや葬儀屋が家族の生物学的真実を解放しようなどと迷惑千万だろう







この小説の主人公である大学生「僕」というのがすごくいい味を出している。地頭がよくてクールで死に行く人への敬意を忘れないという。

患者の最後の願いを叶えるといっても、叶える側がただの大学生なのでたいした願いは叶えられない。人を探すとかデートするとかというようなレベルだ。どうってこともないような話なのだけれど、患者と大学生「僕」との距離感がすばらしい。

この小説世界は、イメージとして患者の死という力の周りをクールさと誠実さのバランスを取りながら大学生「僕」がぐるぐる回っている感じだね。



二話目のWISHが特にいい。心臓手術を間近に控えた女子高生が、キスもせずに死ぬのは嫌だから大学生「僕」にキスをしてという。そしてこのようにある。



「キスはしたくてするものではない、と僕は訂正した。そうせざるをえないからするのだ。そう思った。たぶん、魂というものは確かにそんざいしていて、それが体という不自由なもののなかで悲鳴を上げたとき、それは唇を通して触れ合うことを求めるのだろう」



女子高生とキス?して問題になっている芸能人もいるけれど、このキスはセーフでしょう。そして自分のファーストキスとか思い出したりする。遠い昔の話で、そういえば相手の女の子は未成年だった。私も未成年だったし問題ないよね。あれは唇を通しての魂のふれあいだったのかなー。




この「MOMENT」という本、残念なのは4つ目の短編がいまいちなところ。大学生「僕」が患者世界に踏み込みすぎていているし、患者のオヤジもカッコつけすぎだろう。そもそも借金取りなどというものは別れた妻のところにも行かないし病院の個室にまで来て家捜しみたいなことはしない。
最後の短編が一番弱かったというのは非常に残念だった。でもこの小説には続編があるらしいので、そっちは期待できる予感がする。



予想は ランガディア コズミックフォース の馬連3-4

結果は 
1着 ウインブライト
2着 ステイフーリッシュ
3着 タニノフランケル

11-15-1 だって かすりもしないですね

1000円一点買いスタイルなので、一年に一回当たればいいと思っています




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中山金杯なんですけど、

ランガディア コズミックフォース の馬連3-4を1000円買います

マウントゴールドなんかで当てても安いので蹴とばして、

あとは名前で選びました



ランガディア コズミックフォース とかアニメっぽくていいような気がするし




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ゴーギャンがモデルだろうとか、月は6ペンスは何を象徴しているのだろうとか、この本の前ではそんなことはたいした意味はない。そんなエセインテリチックなところにこだわると、この小説の良さが分からなくなる。

この本のあらすじというのは、

世界大戦前のロンドン、家族や仕事を投げ出して画家を目指した中産階級上層の40男について、ある小説家が戦後になって振り返ってみた。
というものだった。

この小説は一読、とても面白いのだけれど、いったい何が面白いのかという説明をするとなるとちょっと難しい。
まず画家を目指して家庭を捨てた男はゴーギャンがモデルだという。この小説がゴーギャンの自伝的なものであるということは小説の面白さと関係がない感じ。例えば、画家を目指して身を持ち崩した40男に結局絵画の才能がなかったとしても、この小説の面白さの枠組みというものは存在し続けるだろう。

この面白さの枠組みとは何なのかという。
率直に言うと、40男が中産階級上層から下層へ、中産階級下層から下層階級へ、文明の下層階級から辺境の植民地へという階層移動することに対して、それを価値の堕落と考えるか真実の場への降下であると考えるのか、その認識の揺れみたいなものがさわやかなリアルさを表現しているのだと思う。

ゴーギャンと目される40男の妻は良妻賢母の専業主婦で、家をピカピカに磨き上げながらロンドンの名士を家に呼んでサロンの女主人を装うのが趣味なんだよね。人に評価されたいという気持ちは分かるけれどもやりすぎるのもどうか。しかし頑張りすぎの人たちが集まっちゃって一段高い世界観を形成して互いに満足しあうということはあり得る。
こういう持ち上げられた奇怪な世界から逃げ出したいというのはある。ゴーギャンと目される40男のように。

私の勤める会社の取引先のお偉いさんというのが車好きベンツ好き。悪い人ではないのだけれど、ベンツの話になると止まらなくなる。最近のベンツ乗りはタイヤのところに補助ブレーキシステムをつけている奴が多いらしいのだけれど、それはベンツの美学に反するらしい。
ベンツに美学なんて言うものがあるのかと思って。どうやら奇怪な認識共有が一段高い世界観を形成しているらしいのだけれど、ハイソな世界をのぞき見したいような、馬鹿げた世界にはかかわりあいたくないような。

ゴーギャンと目される40男はブルジョア的な相互承認世界にウンザリしたのだろう。ロンドンを逃げ出しパリで絵を描き始める。しかしパリでの唯一の友人が差し伸べる手をやんわりとお断りする。中産階級下層に留まる手段を自ら放棄する。


このような誘惑というのは確かに存在する。
田舎の葬式に出たときに、親戚の叔父さんが近寄ってきて、
「葬式というものは生きている人のためにやるものだってしみじみ思う」
なんて語りかけられたりする。
何言ってんだこの馬鹿。哭泣は生者のためにあらざるなり(孟子)だ。なんて思うのだけれど、これを言ってしまうと田舎での関係性が切れてしまうので、「そうですね」と神妙な顔をしてうなずくわけだ。

ゴーギャンと目される40男は、このようにして下層階級、さらには文明の辺境へと流れつく。このことが堕落であるのか遍歴であるのかの判断となると、普通は堕落ということになるだろう。できるだけ頑張って上の階層にいるほうがいいということになる。
しかしこの「月と6ペンス」が発表されたのは1919年で、世界大戦終戦直後だ。近代ヨーロッパの価値観の転換期であって、ゴーギャンと目される40男の人生が堕落であるか遍歴であるかというのは判断が難しい時代だった。

その判断の揺れみたいなものが、この小説ではうまく表現できていてすばらしい。



かなり出来のいい短編だと思った。



主人公の女性の部屋に、母親と名乗る蛇が住みつく。時には蛇になったり、時には人間になったり。主人公も、この状況を迷惑ではあるけれど、たいして不思議とも思わず受け入れる。そして話はたんたんと進んでいく。



この近代世界においては、価値の序列というものがあらゆる所に侵入している。蛇とはそのアンチテーゼだろう。蛇とは価値を相対化する象徴だろう。蛇の世界とは、価値が全て相対化された世界の事だろう。
蛇の母親は、主人公の女性に対してこのように問う。



「ヒワ子ちゃんは何かに裏切られたことある?」



この質問に対して主人公は、



[何かに裏切られるというからには、その何かにたいそう入り込んでいなければなるまい。何かにたいそう入り込んだことなど、今まであっただろうか]

と考え、

「ないような」



と答える。

主人公の思考は一回転している。自己反省能力がある。これでは蛇の世界には入れない。しかしこれがだんだん崩れていく。

蛇の女性が、主人公に食事を作ってくれる。そのメニューを、主人公はこのように表現している。



[ほうれんそうのごまよごし。昆布と細切り人参のあえもの。さわらの西京漬け。白胡麻のかかるしらす飯。]



ここは料理教室ではないんだよ、詳細すぎるだろう。おそらくさわらがメインなのだから、普通なら、それぞれの料理に価値の序列をつけてもいい。ご飯の上にかかっているしらすの、さらにその上にかかっている胡麻の種類など全くどうでもいいはずだ。しかし主人公は、料理を見たまま表現する。だいぶ蛇の世界に近づいてきた。



作者は、このような細かい誘導で読者を蛇の世界にいざなおうとする。なかなかよくできた仕掛けだと思った。

このような仕掛けにに乗るのも悪くない。乗れば最後まで楽しめる。


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4つの短編から成る連作短編集だった。その冒頭が「夜は短し歩けよ乙女」
まず大正ロマン風の古かわいい文体に驚いた。例えば、

「美しく調和のある人生。その言葉がいたく彼女の心を打った。
 それゆえに、彼女は おともだちパンチ という奥の手を持つ」

というような。悪くないと思う。

この大正ロマン風の古かわいい文体こそが、この小説の整合性を支える根拠だろう。根拠を脅かす敵役というのが存在する。それは酔っ払い。
例えば37ページ、

「とりあえず先輩を起こせ」
「うわ、先輩、よだれがまるで牛のように」

牛のよだれと言えば二葉亭四迷でしょう。二葉亭はしまりのある小説を書くのが嫌になって、だらだらとありのままに書かれた「牛のよだれ」のようなものが書きたいと、近代小説に反旗をひるがえした。

酔っ払いは牛のようによだれをたらした。これに対して、大正ロマンの中心であるこの小説の乙女は、お酒にきわめて強いという。

最後に乙女は、李白という老人と酒の飲み比べをする。
作中に、「一杯一杯、また一杯」とある。完全に詩聖李白のイメージだろう。

  山中与幽人対酌
両人対酌すれば 山花開く
一杯一杯 復(ま)た一杯
我酔いて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去れ
明朝 意あらば 琴を抱きて来たれ

李白って、同じ唐代の杜甫や白楽天に比べて本当につかみどころがない。上の詩でも、
自分は酔ったから寝ると、だから君はいったん帰ってまた明日来い、
と言っているわけで、突き放しの具合が微妙なんだよね。
この乙女と李白との飲み比べた結果、大団円となりぬ。

森見登美彦のほかの小説も機会があったら読んでみたいと思いました。

「虐殺器官」は近未来SFみたいな感じの小説。あらすじとしては、ジョン.ポールなる人物が後進諸国で内戦を煽っているということで、アメリカがジョン.ポール暗殺部隊を送り込むという話。その暗殺部隊の一人が主人公。

普通に読むと、まあなんというか西洋近代批判みたいなことだろう。そのためにさまざまな思想が動員されているっぽい。例えば、

「仕事だから。19世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方ないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間達から、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、君は知っているのかね。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり仕事とは宗教なのだよ」

これはウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」からのインスピレーションだろう。それもかなりうまく要約しているよなーと感心した。
このような西洋思想をつないで、この小説はトータルで近代の枠組み批判みたいなことになっている。どのような枠組みかというと、これを言ってしまうとネタバレになってしまう。

少し視点をずらそう。
怪物ジョン.ポールを狙うアメリカ暗殺部隊のリーダー、クラヴィス.シェパードというのが主人公なのだけれど、こいつちょっとマザコンっぽい。
同情する余地もある。母親が事故で脳死状態になって、主人公は母親の生命維持装置を止める決断をした。これが彼のトラウマになって、自分は母親を殺したのではないかという罪の意識に苛まれる。そしてジョン.ポールの情婦を好きになって、彼女に自分の母親殺しという罪を裁くもしくは赦してもらおうと思う。標的であるジョン.ポールの、その情婦に自分の母親を投影しているわけだ。

このようなちょっと心理的に弱い主人公に読者は同情する。作者もそれを期待している。男はいつまでもマザコンだという。

そんなわけないだろう。母親が死んだ時点でマザコンメンタルは終了だ。
私の母親は20年前に死んだ。実家の風呂場で心筋梗塞を発症したらしい。時は流れて、私も結婚して子供が4人いる。子供は妻の事を、ママー、母さーん、と日々呼んでいる。私もつい、

「ママー、今日のご飯なにー」

などと調子に乗って言ってみる。すると妻、いわく、

「私はあんたのママじゃないよ」

ここまでならいい。さらに続けてこのようにいう。

「あんたのママは風呂場で浮いてたでしょ」

これをマジでいうから。こんなブラックジョーク、創作できないから。厳しい現実生活の中で、マザコンメンタルなんて脆いものですよ。

作者がマザコン魂に訴えようとしても、なかなかついて行けないという。




 ヘーゲル「歴史哲学講義 」 を分かりやすく説明します

ヘーゲルというと、19世紀最大の哲学者といわれている。そうなるとよっぽどお難しいのでしょう?ということになる。


実はそんなことはないのだけれど、ただ、ヘーゲル哲学における「歴史」とか「自由」という概念が、普通よりちょっと違うんだよね。だから、予備知識なしで読んでしまうと、だんだん分からなくなるということはある。

普通に歴史というと、過去にあった出来事の積み重ねの記録、みたいなことになる。こう考えると、人間のいたところどこにでも歴史は存在することになる。文字がなくたっていい、口述でもいいのだから。

しかし、ヘーゲルの言う「歴史」とは、もう少し厳密なものだ。厳密すぎて、ちょっとついていけないところもあるのだけれど。ついていけない所は、「ヘーゲル節」みたいなものとして理解していけばいい。

人間は社会を作る。社会的動物とか言われている。

人間集団が、広範な地域で秩序を形成するためには、何らかの普遍的観念の体系が共有されていなくてはならない。例えば、人を殺してはいけないとか、まじめに働かなくてはいけないとか、約束を破ってはいけないとか、そういうものだ。

この普遍的観念の具合によって、その社会の性格みたいなものが出てくる。時がたつと、その社会の普遍的観念が変わってきて、その社会の性格も変わってくる。この変化を社会の内部から観察すると、社会の雰囲気が変わったように見える。

これは別に難しい話でもなんでもない。私は現在47歳なのだけれど、バブルが崩壊して何年かたったあたりから日本社会の雰囲気が変わり始めて、30年前と現在とでは、日本はかなり雰囲気の違った社会になっていると思う。

この変化の原因を、経済の低成長などの唯物的なものにのみ求めてもいいと思うけれども、私は、日本社会の普遍的観念体系の変化についても考えていきたいと思う。

この私の意見に賛成された方は、ヘーゲル哲学の第一関門をクリアーしたわけだ。

ヘーゲルにおける歴史というものは、この時代の雰囲気の変化の記述をいう。

すなわち、普遍的観念体系が共有されていない社会では、ヘーゲル的歴史というものは存在しない。

ヘーゲルはアフリカ中南部には歴史は存在しないという。歴史が存在しないとはどのような意味か。

かつてアフリカからアメリカに、黒人がひどい扱いで奴隷として運ばれたというのはよく知られている。イギリスひどいみたいな、ネットの議論もある。 しかしなぜアフリカの黒人は、あのような奴隷船に乗せられ、システマティックに運ばれていったのか不思議ではないだろうか。彼らにも親やふるさとがあっただろう。

ヘーゲルはこのように語る。

「黒人はヨーロッパ人の奴隷にされアメリカに売られますが、アフリカ現地での運命の方がもっと悲惨だといえます」

どのように悲惨か?

「現地においてすでに、両親が子供を売ったり、反対に子供が両親を売ったりする」

本当かよ? と思う。 さらに

「黒人の一夫多妻制は、しばしば子供をたくさんつくって、つぎつぎと奴隷に売り飛ばすという目的を持っていて、ロンドンの黒人がつぶやいたという、自分の親族全員を売ってしまったために貧乏になったという、素朴な嘆きは珍しいものではありません」

ヘーゲルの歴史に対する研究熱心さを考えれば、これらのことはおそらく事実だったろう。

普遍的観念が共有できなくなった社会は、歴史を失い、奈落の底を見ることになるだろう、とヘーゲルは言うわけだ。

ここまでのヘーゲル歴史哲学の基礎構造は、間違っていないと思うんだけれども、ここから先の、自由主義的進歩史観にいたる論理部分に、ちょっとついていけないというか、ヘーゲル節炸裂みたいなところがある。

広範な地域に社会秩序が成立するためには、そこに暮らす人々に普遍的観念の体系が共有されていなくてはならない。

例えば、人を殺してはいけないとか、まじめには働かなくてはいけないとか、約束をまもらなくてはいけないとか、そういうことの概念体系だ。

では、なぜ人を殺してはいけないのか? 

日本人的に考えると、そんな殺していいというと社会が存在しなくなるよね、みたいな、歴史に育まれた直感みたいなことになるだろう。

ヘーゲルは、ヨーロッパ社会は一神教的キリスト教によって、社会の普遍的観念体系が保障されているという。だから、絶対神の存在しない中国(歴史哲学講義においては日本に対する言及はない)は、社会の一体性においてヨーロッパより構造的に劣っている、という。

絶対神が存在しないのは、日本も同じである。

受け入れがたい第一のヘーゲル節だ。

この第一のヘーゲル節をてこに、ユーラシア大陸の東から西に、空間的時間的に人類は進歩してきたという。最低は中国(ヘーゲルが中国という場合、東アジアを指す)で、最高はヨーロッパだ。

進歩史観の原型とは、このようなものだったわけで、これが受け入れがたい第二のヘーゲル節だ。

社会の一体性は個人の一体性、すなわち個人の自己同一性の強度にシンクロしている。そして、人間の自由というものは、個人の一体性に依存している、とヘーゲルは言う。

これは認めてもいいかと、個人的には思うのだけれど、この後がまたヘーゲル節なんだよね。

神によって保障された一体性を持つヨーロッパ社会は、人類を自由の世界に導くところの選ばれた者だ、とヘーゲルは言う。

これが受け入れられない第三のヘーゲル節だ。

この第一から第三のヘーゲル節をつなげると、自由主義的進歩史観ということになる。一言で言えば「リベラル」ということだろう。

まず第一のヘーゲル節、ヨーロッパ社会はキリスト教に保障されているからすごいんだというヤツ。しかしそもそも、神に保障されているからヨーロッパはすごい、というのは原因と結果が逆なのではないか。こういうことを言うとキリスト教徒には申し訳ないのだけれど、社会の安定性をより強固にするためにキリスト教はローマ帝国末期に発見されたのではないだろうか。東アジアでは、一神教を発見する必要がなかったのではないだろうか。一神教の宗教を信じているからといって自分が優れていると考えるのは、我田引水ではないだろうか。

次に第二のヘーゲル節、人類は東から西に向かって進歩するっていうやつ。生物学的進化というものを軽く考えすぎていないか? たかだか3000年程度の時間で、人類の進歩とか傲慢だろう。確かに20世紀の中国はしょぼかった。日本は本当にそれで苦労した。マジで中国はダメなんじゃないのかと思われた時間もあった。しかし現在はどうか。中国のGDPは日本の3倍を越えている。もう日本は追いつくことは出来ないだろう。



眠れる獅子はついに目覚めた。



自由主義的進歩史観の根底は覆った。現代日本でのリベラルの退潮というのは、中国の発展というのが原因だろう。

そして第三のヘーゲル節、自由の実現について。自由を最高の価値とする考えというのは罪深いと思う。社会や個人の一体性からどれだけ自由が引き出せるかということを価値の基準とするなら、その世界は「一体性」を前提としている。しかしそもそも、「一体性」というものは神に与えられたものではないのか? 神が失われたのなら、前提を変更しなくてはならないはずだ。「一体性」とは何なのか、よく考えなくてはならないにもかかわらず自由を主張し続けるのなら、それは真の自由ではなく、依存の自由、奴隷の自由だろう。

このように、ヘーゲル哲学といっても、受け入れられるところ、そうでないところと重層的になっている。だから、「ヘーゲルの観念論」などという言葉があったとするなら、どこまでの観念論なのか判断が出来ないところがある。



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