magaminの雑記ブログ

2018年12月

この本は何でしようか。小説というわけでもないし、エッセイなんていう洒落たものでもないですし、まあなんて言うか、グダグダ本ですね。
内容はというと、これ別に内容というものないんですよね。書評を書くのもどうしましょう? こうなったら例えましょう。

「たとえます!」

昨日ブックオフに行ったんですよ。事前にネットで調べると、600円以上買うと110円割引のクーポンがあるのです。これはいいわー。このクーポンを印刷するかスマホで表示して店員に見せればいいらしいのですが、私、スマホもプリンターも持ってないんですよね。まあでも何とかなんだろ、と思いまして。600円以上買って、意気揚々とレジに行きまして店員さんに言いました。

「110割引きのクーポンを印刷してきました、頭の中に」

完璧だわ。だいたいさー、スマホのクーポン画面を見せればいいだけなんだから、これすなわち店員がクーポンの画面を見た事実が大事ではなく、クーポンの画面を見たと信じさえすればいいわけで。その辺は空気読むでしょ。店員、にっこり笑ったよ、いけるか、いけるか。

「ネタでしょう?」

なんやねんネタって。そんなネタあるかー。そもそも間髪入れずネタでしょう?って、おまえどんだけフレンドリーやねん。こいつあかんわ。あかんっぽい。でももうちょっと押してやれ。

「でも裁量というのもありますよね。フレキシブルな判断みたいなやつです。そういう裁量を持っている人ってこの店にいたりします?」

でたフレキシブル。フレキシブル最強。もうフレキシブルって言いたいために、ごねてるところもあるかも。いやそれはない。いくらなんでもそれはない。そもそもごねてないし。もう財布から1000円出して渡してるし。

「そういうのは誰が担当してもお断りしてます」

あっそ。頭来た。頭来たからブックオフポイントカードのポイント使ったろ。133ポイント? くほほ。全部使ったろ。133ポイントって結構貯まったよな。いっつも108円の本しか買わんへんのに。
店員、そういうの、って言いよったな。でも、そういうの、って何なん? やっぱり、クーポンを頭の中に印刷してきましたっていうヤツ、多いんちゃうん? 大事なのはお客がクーポンを見たっていうことで、そりゃー見たにきまってるよ。見てなきゃ110円とか言われへんやん?

「頭の中にクーポン印刷しました、なんていう人、他にいたりします?」

なんか店員、めっちゃ笑てるで。オレの話、徹頭徹尾ネタだと思ってんちゃうん? 春夏秋冬ネタだと思ってんちゃうん?

「一人もいないですね」

いねーのかよ。おらへんのか。ほんなら、そういうの、とか言ったらあかんのちゃうん? 言葉の選択ミスちゃうん? 
なんか暑いわ。もう帰ろ。隣のまいばすけっとで、プリン体ゼロの発泡酒でも買って、飲みながら帰ろ。
(以上の話は、実体験をもとに脚色したものです)

何が言いたいのかといいますと、町田康の「バイ貝」という本は、こういうたぐいのぐだぐだ話ということです。ただ登場人物は語り手一人なので、ぐだぐだ度合いというのはかなりのハイレベルです。


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桃鳩図(ももはとず)      国宝
桃鳩図


皇帝徽宗の筆になると伝えられる中国絵画で、院体画の傑作の一つ。日本国宝。

中国宋代の皇帝が描いた絵画が、日本の国宝になっているのは不思議というかしっくりくるというか。

歴史を感じますね。



あの安藤が、栗原が、磯部がよみがえる。二二六事件を読みやすいタイムトラベルSFで紹介しようという、二二六事件ファンにはたまらない一冊(上下で二冊なんだけれど)。

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二二六事件に至る経緯をより知りたい方はこちら
 

二二六事件はそもそもが評価の難しい事件だ。それをSFという手法を用いて現代の世界観と関係付けながら表現しようというのだから、この小説はある種のチャレンジだろう。
恩田陸はこの難しい設定をどう解決するのだろうと思いながら読んでみた。

SFだからこの小説内においては21世紀には時間遡行の技術が存在していることになっている。現代の国連は、正義と称し過去に遡ってヒトラーを暗殺したらしいのだけれど、結果さまざまな時間的ひずみが生じて歴史のタガが緩んでしまい、国連が二二六事件当時の日本にも介入しなくてはならなくなったという。
国連職員は二二六事件に関与した安藤輝三と栗原安秀の協力を得ながら歴史を確定しようとするのだけれどなかなかうまくいかないという流れで話は進んでいく。

ヒトラーを暗殺したらしい国連が二二六事件に介入するという設定の結果が、政治思想的に読む者を限定するようになるのではないかと最初は思ったのだけれど、そうでもないね。国連の事務の現場のみを描くことによって、政治的にセンシティブな問題はほとんど回避されている。
ただこのSF小説の中で石原莞爾が

「日本は父親を必要としているだけなんだ。明治維新前、それは中国や朝鮮だった。明治維新後、 父親はヨーロッパになった。今の日本は父親を失って苦しんでいるだけだ」

みたいなことを言わされていた。戦後の日本の父親はアメリカだということなのだろう。挑発的な発言ではあるだろうが、女性作家に言われたのでは腹も立たない。

この小説では、安藤や栗原がリアルな感じでしゃべったり行動したりするのがじつにいい。栗原が国連職員にこのように啖呵を切る。
「おまえら安藤大尉がただの善人だと思ったら大間違いだぞ」
いいぞ栗原、もっと言え。

おまけ。
二二六事件をもっとよく知るための、二二六事件名場面ベスト3。

 第3位
二二六事件で生き残った将校の50年後の座談会での清原康平の発言。

「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

反論の出やすい発言だろうと思うけれど、清原はこの発言の上にさらにこうかぶせてきた。

「陛下の記者会見で、
 記者 おしん、は見ていますか
 陛下 見ています
 記者 ごらんになって如何ですか
 陛下  ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
 記者 226事件についてどうお考えですか
 陛下 遺憾と思っている

遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝された」

 第2位
磯部浅一 「獄中手記」

「天皇陛下、この惨たんたる国家の現状をご覧ください、陛下が私共の義挙を国賊反徒業と御考え遊ばされているらしいウワサを刑務所内で耳にして、私共は血涙を絞りました。
陛下が、私共の義挙を御きき遊ばして
 日本もロシアのようになりましたね
ということを側近に言われたとのことを耳にして、私は数日間、気が狂いました」

いかんね。ロシア革命というのは貴族と庶民とが懸絶してしまった結果起こったもので、日本一体性のアンカーである天皇自らが、日本もロシアのようになりましたね、では何がなんだかわからない。磯部はさらにこのように続ける。

「日本もロシアのようになりましたね、とはいかなる御聖旨かわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動がロシア革命当時のそれであるという意味らしいとのことをそくぶんした時には、神も仏もないものかと思い、神仏をうらみました。
天皇陛下 何という御失政でありますか 何というザマです 皇祖皇宗に御あやまりなされませ」

そりゃあ言われるよ。言われてもしょうがない。

 第1位
安藤輝三部隊の鈴木貫太郎侍従長公邸襲撃

安藤大尉は、拳銃の弾を4発打ち込まれて倒れた鈴木貫太郎にとどめをさそうと軍刀に手をかけた。夫人が侍従長をかばうように体を投げ出すと、安藤大尉は彼女の気持ちにうたれて思いとどまり、折敷け! と命じて自ら黙祷し、立ち上がると、

「閣下に対し、捧げ銃(つつ)!」

と挙手の礼をし、静かに部屋を出て行った。
鈴木貫太郎は回復し、終戦時の総理大臣となりポツダム宣言を受託した。
後、鈴木貫太郎は安藤大尉は命の恩人であると語っていたという。




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大型ショッピングモールで原因不明のパニック型事故が起こり何十人も死亡する。この事故にかかわった人たちの対話によって事故原因が明らかになるだろうという体裁でこの小説は成立している。

事故原因なるものは明らかにならないままこの小説は終わる。私は恩田陸の「真夜中の小夜子」「黒と茶の幻想」「ねじの回転」「黄昏の百合の骨」の4つの小説を読んだけれども、事件の根本原因が明らかになったことなど1度もなかった。

恩田陸には、真理は明らかにされるべきだというミステリーの基本的枠組みを踏襲する気などさらさらないのだろう。

恩田陸の小説パターンというのは、何か不条理な事象が与えられて、その不条理を受け入れられる人間と受け入れられない人間との相克というものだ。恩田陸の小説世界では不条理を受け入れられる人間を優位に描いているので、不条理は解明されるはずもない。

恩田陸的不条理というのは、特別な女性を神輿の上に掲げながら進行していく。「黒と茶の幻想」では一人芝居をする美人女学生だったし、「ねじの回転」ではネコだったね、ネコ。この「Q&A」では、事故後のショッピングモール内を血塗られたぬいぐるみを引きずって歩く二歳の女の子。

特別な女性を伴って進行する不条理現象とは、すなわちこれ祭りだね。ショッピングモールのパニック事故も祭りの様相を呈している。

祭りの内部においては、なぜ祭りなどというものがあるのかと問うような合理性はさかしらであって、大きな一体性にわが身を任せることが重要とされる。

「Q&A」でも、パニック事故の原因を確定しようとする者は排除されている。

祭りにおいては時間の観念も重要だ。合理的世界観においては、時間とは無限の過去から無限の未来に向かって進歩発展をともないながら一直線に進むもの、という認識になる。ところが、祭り世界においては、時間は循環するという認識になりがちだ。ニーチェ永劫回帰もこのパターンだろう。

「Q&A」でも、祭り上げられた特別の少女のところに、突然未来の本人が尋ねてきていろいろアドバイスをする。今の少女も未来ではかつての自分のところに戻り同じアドバイスをするようになるだろう。完全な時間循環とはいかないけれども、何らかの循環が期待されている。そもそも、恩田陸はそのような時間循環を期待して、未来の少女が現代の少女を突然訪ねてくるというSF的な設定を、この小説に突然割り込ませてきたのだろう。



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恩田陸「三月は深き紅の淵を」という小説の中で、繰り返し語られた、決して読むことの出来ない幻の本がありまして、実際に書かれた小説がこれということになりますね。


ストーリーは、学生時代の友人である利枝子、節子、彰彦、蒔生(まきお)。
30代後半になった彼らは久しぶりに再会し、伝説の桜を見に行くという目的で、屋久島散策に出かけるというもの。

大学時代の友人である梨枝子、彰彦、蒔生、節子の男女4人が40歳近くになって、屋久島に3泊4日の旅行に行って、学生のころの謎についていろいろ話し合う。

謎といってもたいしたものではない。あのカップルはなぜ別れてしまったのかとか、あの変わり者だった同級生の女の子は今どうしているのかとか、基本的に私たちの同窓会での会話と大差はない。

でもこういうのってすごく楽しかったりする。

男同士で過去を語り合ってもたいしたことはないのだけれど、そこに女性が加わると話の厚みがぐっと増すというのはある。「黒と茶の幻想」は全編そんな感じですごく面白い。

「黒と茶の幻想」での謎を紹介してもいいのですが、こういうのは雰囲気を楽しむもの。

ですから、この本を読んで思い出した、かつて私の参加した同窓会で語られたある男と女の謎とその解答を書いてみたいと思います。


私は大学時代は体育会でバレーをやっていた。男子バレー部と女子バレー部は仲がよかった。私と同学年に高林という男がいて、こいつはうちの大学バレー部のスーパーエースだった。

高林は190近い長身で頭の回転も速かった。女の子に十分もてるレベルだったろう。ただ性格がゲスだった。私は彼のゲスなところが嫌いではなかったけれど。

この高林は1学年下の女子バレー部の女の子と付き合っていたのだけれど、卒業後に2人は別れてしまって、高林は彼女をストーカーするようになったという。互いに大人だしそのうち折り合いをつけたのだろう。別に事件なんていうものにも発展しなかった。よくある話だろう。

20年の時が流れた。

名古屋の名駅の裏の居酒屋で同期の男子バレー部と女子バレー部の同窓会があった。女の子はかわいいまま、昔と変わらない。お前ら美魔女か。

二次会になる。メンバーも絞られる。高林の話になった。なんで高君はストーカーなんてしたのかっていう、熟成された「謎」の登場だ。

まず私が、

「あいつは性格がゲスいから、ストーカーなんていかにもやりそうだ。結局、自分に正直なんだと思うよ」

といってみた。するとある女の子が、

「でも高林君って性格ゲスいかな? 今日も一次会に子供連れてきて、子供を可愛がってたじゃん?」
と言う。まあまあ、高林も立ち直ったのかもしれないねなんて言おうと思ったら、今までニコニコ話を聞いていた我らが女バレのヒロインが、突然このようなことを言う。

「そういえば私、高林君に言われたことがある」

「何を?」

「一発やらせろって。体育館の裏で。減るもんじゃないんだから一発やらせろって。最低って思った」

すばらしい告白だ。ここちょっと押してやれ。

「高林は、そのことをヒロインにだけ言ったのかな?、他の女の子には言っていないのかな?」

「絶対言っているよ。高林君のあの彼女も言われてるよ。あの子、真面目だったから真に受けたんじゃないの?」 

「ゲスいことを言って付き合って振られてストーカーというんだから高林は確かにゲスいでしょう? そこがアイツの正直なところなんだけれど」



謎はすべて解けた。



今回は真理を私の論理に引き付けて解決したけれど、引き付けて引き付けられて、そして謎が解決されていくならすごくリアルで楽しいだろう。

でも年をとるとなかなか旧友と時間を合わせてかつての謎を解くなんてのもまれなわけで、3泊4日の旅行で過去と向き合えるこの小説の主人公たちがうらやましい。

この小説は、これだけ読んで面白いというものでもないだろう。若いころに男女のグループで真剣にかつ軽い感じできゃいきゃいやった世代向けだと思う。


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最高の精神科医による哲学書を理解できるレベルの言葉で語ります。メンヘラ研究付録。

 養老孟司の「バカの壁」を読んだときは、これはひどいと思ったけれども、まあ、なんでもそうなのだけれど、医者にもピンとキリがあるんだろう。


この本のハイレベルなところは、統合失調症とは何かを考える時に、下から、すなわち科学的な積み重ねという手順ではなく、上から、すなわち統合失調症における意識の存在体制を解明しようとしているところだ。

この世界にはよく分からない事というのがある。いくら科学が進歩しても分からないままという。

例えば、意識とは何なのか? 

巨大な謎でございます。しかしね、ここから派生する謎で、自分が自分であるとは何なのか、というのもある。夜寝る前と朝起きた後の自分が同一の自分であると当たり前に確信しているのは何故なのか。そして、ある種の人々が奇妙な妄想を抱くのは何故なのか。

木村敏は、このあたりの謎を崩していこうという。すばらしいチャレンジだ。

具体的にこの本の内容なのだけれど、これが非常に難解。ヘーゲル、フッサール、ハイデガー西田幾多郎、などを引用しながらの論理を展開している。例えばこんな感じ、


しかし西田幾多郎の言う「絶対の他」は、ただこのように自己の自覚の根底をなすだけではなく、自己と他者、私と汝が共にそこでそれぞれの自己を自覚する間主観的な場所でもある。
はっきりいって、何を言っているのか分からない。だいたい全編こんな感じだ。医者でもこの論理についていけるヤツは、そう多くないと思う。これを分かるように説明してみようという。 



私たちは雰囲気みたいなものの中で生きている。通常、日常生活ではこのようなことは意識しない。でもね、例えば昔の事を思い出す場合、まず当時の雰囲気を思い出し、そのあと次々に記憶が再生されるということはないだろうか。

私たちのこの現在の意識というのは、雰囲気の海に浮かぶ島みたいなものなんだよね。夜寝る前と朝起きた後の自分が同一であるとたちどころに確信できているのは、論理的推論の結果ではなく、雰囲気の継続性に対する確信に依存している。

他にも、私たちは普通他人を、心のないゾンビだとは思わない。他人を自分と同じような立体的に生きている人間だと確信している。このことは論理的推論の結果ではなく、自分が感じている雰囲気を他人も共有しているはずだという確信に依存している。

その「雰囲気」というものは、どこにあるのか。

もちろん自分の中にある。雰囲気も自分なんだよね。


私は以下、断言する。注意深くイメージして欲しい。

「雰囲気も自分であり、この意識も自分であるならば、自分が自分であるという自己同一性は、雰囲気と表層意識との関係であり、その循環だ。」

西田幾多郎の「絶対の他」という概念は、この雰囲気のことだろう。「絶対の他」という言葉を雰囲気に変えてもいいのだけれど、坂口安吾風に「ふるさと」と言い換えて、上記の意味不明だった文を以下に再掲する。


しかし西田幾多郎の言う「ふるさと」は、ただこのように自己の自覚の根底をなすだけではなく、自己と他者、私と汝が共にそこでそれぞれの自己を自覚する間主観的な場所でもある。

かなり分かりやすくなったのではないだろうか。

分裂病、境界例、などの精神疾患は、この「ふるさと」の形成不全、もしくは「ふるさと」と表層意識との関係性不全に起因するという。

画期的な論考だと思う。

自己の一体性は、無条件に与えられるものではなかった。コミュニケーション能力などというものは、自己の一体性に依存している。しかし、自己の一体性というものは筋肉を鍛えるように鍛えられるものではない。「ふるさと」を形成したり、「ふるさと」と表層意識との関係性を促進するような方法論などは近代世界には存在しない。

プラトンは「プロタゴラス」で、

「徳は教えることは出来ない」

と主張したけれども、ある意味正しかったと思う。

木村敏は、分裂病の治療についてこのように語る。


「薬物療法、精神療法、その他どのような治療をおこなったとしても、患者がより安定し充実した人生を歩み始めた場合、それは必ず、治療者との間の長期間の人間的対話によって支えられていると言ってよい。治療者が患者の中に「ふるさと」を見いだしてそれと関係を設立し、この関係そのものを彼自身の自己の場所として生きる時、この関係は逆に患者の内部にも必ず何らかの応答を生じるはずである」

これはもう治療というより、救いであり祈りだろう。

個人の力で救えるものと救えないものとはある。私もかつてメンへらの女性を好きになったことがある。これはね、ただ自分の無力さを痛感するだけだ。



     以下、無駄話。メンヘラ研究


私の上司の話なのだけれど。

明らかに何らかの精神障害だと思っていた。症状として、

責任感がない

失敗を人のせいにするのだけれど、彼の場合は尋常ではない。トラックのシートをフォークリフトで突っついて破った時、なんと、

「風が悪い」

と言ったからね。

依存癖がある

上司には絶対服従。別にそんなスパルタ会社でもないんだよ。率先して服従。極度のワーカーホリック。仕事が暇なときはイライラして、忙しい時はテンパルという。上司や仕事に人格を傾けて依存している。

自分勝手

仕事だから何をしてもいいと思っている。廃棄物の引き取りで、ある大手電機メーカーのビルによく行くのだけれど、オフィス内で大声で指示を出し、クレームをつけられたこと多数。ここ何年かは、部下である私が、

「大声出さないでよ」

と、頃合いをみての確認をしている。メンドクサイのでため口です。

彼は何らかの精神疾患を抱えていると思っていた。でもなー、分裂病予備軍でもない。あんなぐいぐい来る統合失調症患者はいないだろう。神経症でもない。責任感もないのに神経症なんてならないだろう。

木村敏の「分裂症と他者」を読んで、明確に理解した。

彼は「境界性人格障害」だ。よくいわれるところの「メンヘラ」だね。

「メンヘラ」の本質というのは、祝祭だ。

人間の精神というのは3層構造になっている。

一番上は、明確な意識世界。論理や推論をつかさどる。その世界においては、時間は1秒1秒過去から未来に淡々と流れる。

その下は、雰囲気の世界。自分にとって大事なものは大きく感じたり、つまらないものは小さく感じたり。実感みたいなものが充満している世界。その世界において時間が始まる。

最下層は祝祭の世界。生物の外の物質世界というものは、そもそも生物の生存などには何の興味ももっていない。石や水は、生物のためにあるわけではなく、ただただそこにあるだけだ。生物とは一次的には、そのような全く残酷な世界に接しながら生存している。何らかの力をどこからか与えられて、この地球上にへばり付いて生きている。その何らかの力の分与は人間にも与えられてある。人間だって生物だから。その力の世界というのは、時間もなく自他の区別もなく、ただ生きようとする意志のみがある世界だろう。

このように3つの世界が、人間の精神内にあるとして、「メンヘラ」の障害というのは、第1と第2の世界における接触不良にある。だから、第1の世界、すなわち近代世界における常識的な人格形成がちょっと甘いのだろう。第3世界の「生きようとする意志」というものが突出しがちなのだろう。

「生きようとする意志」に責任感などというものはないだろう。生きることこそが責任だろうし、そりゃあ、風が吹いて失敗したら、風が悪いに決まっている。

表面世界での人格形成が甘いから、人の存在を借りて自分のこの近代世界での自己同一性を保証したいという気持ちも分かる。

「メンヘラ」がなぜあんなに行動的なのかというのも、当たり前だよね。彼ら彼女らの人生は、生きようとする力の突出そのものなのだから。

迷惑千万だね。でも使いようによっては役に立ちそうな人材だろう。

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ニーチェの「権力への意思」は、ニーチェの死後にその遺稿をニーチェの妹がまとめたもの。このニーチェの妹、エリザベートというのだけれど、後世の評判があまりよくなくて、それに伴って「権力への意思」という本の評価も低めだ。

しかし実際読んでみての内容は素晴らしい。



【「権力への意思」解説】

ニーチェが難解だとされるのは、言っていることが難しいというのではなく、まあ何というか、誰もが持っている固定観念を、誰もが相対化できないからだと思う。


人間というのは、それなくしては生存できないような観念を、普遍的真理だと思い込む習性がある。例えば、潔癖症の人が手を洗ってばかりいたとする。正常とされる人は、そのような人を不思議に思う。そんな手が荒れるまで洗う必要もないのにと。しかし、潔癖症の人にとって、手を洗うことが自分の生存を保障すると確信していたとするなら、その人にとって手を洗うことは真理となるだろう。

キリスト教などのような一神教の宗教を信じる人は多い。キリスト教を信じなければ、社会の一体性や秩序が保てないとするなら、その社会においてキリスト教は真理となるだろう。

原因と結果が転倒している。もう一発いこう。

1という数は1だ。1が1ではないなどということはありえない、と普通考える。しかし、1がいつでもどこでも1であるということは、いったい何によって保障されているんだ? 

何によっても保障されてはいない。

人間個人にとって、その自己同一性と、1がいつでもどこでも1であるということはリンクしている。1=1というのは、何らかの真理何らかの原因というものではなく、社会がその維持のために個人に要請している自己同一性というものの結果なんだよね。

このような考え方が正しいとか正しくないとか、そのような判断はおいといてだよ、この予備知識をもってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」484

「思考作用がある、したがって思考するものがある、デカルトの論拠は結局こういうことになる。しかしこのことは、実体概念に対する私たちの信仰を当たり前のものとして設定することに他ならない。デカルトのやりかたは、達せられるのは何か絶対に確実なものではなく、一つのきわめて強い信仰の事実にすぎない。このデカルトの形式においてでは思想の仮象性を退けることはできない」

デカルトの「我思うゆえに我あり」というやつ。ニーチェは、これを当たり前ではないと言う。「我思うゆえに我あり」と認識するためには、認識主体に何らかの一体性がなくてはいけない。しかし、この一体性というものはあたりまえではない。

「我思うゆえに我あり」という言説は、正確に語るなら、「我思うゆえに我あり」と認識できる程度の自己同一性を、近代世界に参加する人なら備えておくべきだ、という価値判断なんだよね。

ではなぜ私たちは、たんなる価値判断を真理だと思ってしまうのか。

それは社会的要請だろう。近代という厳しい時代では、社会秩序を維持するために個人の自己同一性というのが、かつての時代よりもより必要とされているということだろう。

田舎の話なんだけれど、今から40年ぐらい前は、頭のおかしい人というのは案外その辺をふらふらしていて、地域の人もひどく悪いことをしないのなら、まあしょうがないよね、みたいな雰囲気があった。福沢諭吉の「福翁自伝」のなかに、村の中をふらふらするキグルイ女の話があった。「カラマーゾフの兄弟」でのスメルジャコフの母親は、村のキグルイ浮浪女だった。

現代ではもうありえない。

かつて個人の自己同一性というのは、あればよりいいという程度の価値判断だったのだろう。ところが現代では、自己同一性の価値が高まって、ほとんど真理のような扱いだ。自己同一性のあやしげなやつは、とりあえず排除の勢いだ。

いいとか悪いとかいう物ではないのだけれど、単なる価値判断が真理かのように語られるということはある。ニーチェは、真理だと思われているあらゆるものは、単なる価値判断だ、というのだけれど。

近代教育は、近代人にふさわしい知識を与えるところの教育であり、発展途上国なんかは、教育制度が整備されていないからいつまでも途上国であると考えられたりする。現代日本においても、教育、啓蒙というものには、かなりの価値比重が与えられている。

しかし、この現代教育における啓蒙の比重というのは、はたしてふさわしいものなのだろうか? 

精神科医の木村敏による、人間の存在構造についての仮説。

3層に分かれている、というもの。最下層は外界と直接接するところの、生存本能や情動が支配する世界。これは全ての生物に存在する。

第2層は、その種に特有の価値判断によって、情報がカテゴリー化されている世界。これは、犬や牛や馬にも存在する。牛は馬には興味が全くないらしいが、牛同士は興味が存在するらしい、見つめあったりするし。価値の差異というのが存在するのだろう。

人間の最上層は論理の世界。合理的推論が支配する。

人間の存在構造とは、最下層からエネルギーを調達しながら、第2層と最上層との情報の循環が、人格というものを形成するという。

精神疾患を図式的に理解するなら、最下層からのエネルギーの調達が弱いと、分裂病になり、第2層と最上層との接続が弱いと境界例になり、第2層の形成が弱いと離人症になるという。

例えばこのような仮説があるとして、教育的啓蒙というのは、最上層の論理世界にしか影響を及ぼせないわけで、啓蒙と言うだけでは人格の十全な形成には不十分だということになる。啓蒙が無条件に真理だということはありえないわけだ。

職場とかにおかしいヤツっていると思うんだよね。話が通じないみたいな。

なぜ話が通じないのか? 可能性は2つある。

おかしいヤツの人間存在構造の最上層以下のどこかの部分がいかれているか、もしくは、自分自身の存在構造のどこかがいかれているか。

現代においては、何が普遍的観念なのか、かつてに比べて怪しくなってきている。さまざまな意見の百家争鳴がこの自由世界のいいところだという意見もあるだろうが、それは社会の一体性というものの犠牲の上に成り立つ論理となってしまった。

ニーチェはこのようにぐらついた世界観を一掃して、新しい秩序を形成しようとしていたのだろう。すなわち、ニーチェ哲学には二つの柱がある。全ての価値観を相対化するということ、相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ。

全ての価値観を相対化するということについては、よく語られる。ポストモダニズムのネタ元というのはだいたいにおいてニーチェだ。フーコー柄谷行人も、ニーチェのパクリだと言われてもしょうがない部分がある。

「相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ」

ニーチェのこの部分については、あまり語られない。だからここで、「権力への意思」の第4書「訓育と育成」のなかから、ニーチェの構想を紹介してみたい。

ニーチェの構想は2つあると思ったね。一つ目。「権力への意思」898にこのようにある。

「この平均化された種は、それが達成されるやいなや、是認されることを要する。それは、主権をにぎる高級種に奉仕しているのであって、この高級種は、それを地盤としており、それを地盤としてはじめておのれの課題へと高まることができるからである。彼らは、その課題が統治することにつきる君主種族であるのみならず、おのれ独自の生活圏をもっている種族であり、美、勇気、文化、最も精神的なものにまでおよぶ手法のための力をあり余るほどもっている種族である」

高級種と枠組みを区切っているあたり、生活圏という言葉から、ナチス思想の起源であることは明らかだろう。一つの考え方ではあると思うけれども、いうなれば覇道だね。

では、二つ目。「権力への意思」980

「価値評価の立法者である哲学者。哲学者を、偉大な教師であり、孤独の高所からいく世代かの長い連鎖をおのれのところへと引き上げるほど強力であると考えるなら、その人は哲学者に偉大な教育者の不気味な特権を認めなければならない。教育者というものは、おのれ自身が考えていることをけっして言わない。そうではなくて、つねにただ、彼が教育するものの利益を考慮しながら、ある事柄について考えていることを言うにすぎない。このように偽装するので彼の本心は推測を許さず、彼の真実性が信ぜられるということは彼の名人芸に属する。  そのような教育者は善悪の彼岸にいる。しかし誰一人としてこのことを知ってはならない」

王道だ。しかし、これほど難しい道はない。ニーチェでさえ、さらにいえば、ニーチェ程度ではこの「王道の書」を記すことはできなかった。

私は思うのだけれど、古代と近代って似ているところがあるよね。普遍観念で広範な地域で社会の秩序を維持しようとするところ。プラトン哲学って、いうなれば覇道だよね。枠組みを区切ってその中で観念世界を形成しようとする。その考えはローマ帝国に引き継がれて、ローマ帝国は最後は滅び、そして二度と復活しなかった。

ギリシャ哲学の覇道なるが所以だろう。

現代の日本も含めての西洋文明というのが、まあ何百年後かに滅びたとして、かつてのように中世に移行したとして、おそらくローマ帝国末期のように悲惨なことになるだろう。

アウグスティヌスはアッティラのことを神の鞭と表現していた。

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王陽明は明代の新儒教の思想家て、形骸化した朱子学を再編成しようとした人だ。「論語」「孟子」というラインを強調することで中国の近世を強力に持ち上げた。日本にも多大な影響を及ぼして、例えば大塩平八郎とかは完全に陽明学者だった。

「聖人、学んで至るべし」

別に勉強して東大に入れという意味ではない。

孟子の「我も人なり、舜も人なり」という気迫の言説を変換しているんだね。学んだからといって、どういう理屈で舜のような聖人になれるのか。素朴な質問に王陽明は答える。

「聖人の聖たるゆえんは、ただそれその心。天理に純にして、人欲に雑じる無きのみ。なお精金の精たるゆえんは、ただその成色足りて、銅鉛の雑じり無きをもってのごとし」

出た! 精金(純金)の例え。

純金に価値があるように、人欲を排した「天理に純」な心に価値があるという。

天理とは何か、というのはこの暑い中考える必要はない。

「聖人の才力は、また大小の同じからざるもの有ること、なお金の分量に軽重あるがごとし。

尭(ぎょう)、舜はなお1万オンスのごとく、文王、孔子はなお9千オンスのごとく、禹(う)、湯(とう)、武王はなお7,8千オンスのごとく、伯夷(はくい)、伊尹 (いいん) はなお4,5千オンスのごとし。才力は同じからざるも、天理に純なること同じければ、みなこれを聖人と言うべし」

尭、舜は伝説の聖王コンビだけあって1万オンスか。孔子はさすがだね、うん9千オンス。伊尹って誰だったっけ? 

いやいや、こういう重量比べをしてはいけない。純金であればみな聖人。

「凡人といえども、あえて学ぶことをなし天理に純ならしむれば、すなわちまた聖人となるべし。なお1オンスの金の1万オンスに比ぶれば、分量は懸絶すといえども、その足色に至る所はもって恥ずること無かるべきがごとし。故に、人は皆もって尭、舜となるべし」

論理は循環した。聖人とは、心に抱える黄金の量によってではなく、質によって決定される。まったくすがすがしいまでの意思の哲学だ。


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日露戦争の時の総理大臣は桂太郎だ。この後、西園寺公望-桂太郎―西園寺公望―桂太郎と続く。この明治34年から大正2年までを桂園時代(けいえんじだい)という。

第3次桂内閣の後の総理大臣は海軍大将山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)をはさんで大隈重信。その後は陸軍大将寺内正毅(てらうち まさたけ)をはさんで原敬。

原敬は大正10年11月4日、総理在任中に暗殺された。

これは明治34年から大正10年までの歴史的事実だ。そしてこの歴史的事実に何らかの歴史的必然性というものはあるのだろうか。

それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。必然性があるとしても、それは進歩かもしれないし堕落かもしれない。

文久3年生まれ、明治大正昭和を生き抜いた大言論人徳富蘇峰はこのように語る。

「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」

徳富蘇峰は明治維新から太平洋戦争にいたる時の流れを、世界水平運動の継続的発展である、と言っている。このラインに沿って、明治34年から大正10年までの政治的展開を考えてみようとおもう。

日露戦争は当時の日本なりの総力戦だった。

北一輝は日露戦争の帰還兵に、「一将功成りて万骨枯る」と書かれたビラを配ったという。さすが総力戦思想のカリスマだ。明治国家で虐げられている一般兵士がいくら命を賭けて戦っても、名誉は支配者層に回収されてしまうだろう、というわけだ。

分裂した社会状態では総力戦を戦うことはできないということをヨーロッパ列強が明確に理解したのが第一次世界大戦(1914から1918年)だ。日露戦争終戦は1905年だから。

日露戦争を経験した日本人は、より厳しい総力戦を戦うためには日本のさらなる一体性、さらなる水平化が必要であるという「ぼんやりとした観念」を持っただろう。

桂太郎は長州奇兵隊出身であり、山県有朋の子分格だ。明治維新以降の藩閥体制から、日露戦争後に民権思想への譲歩として、衆議院の最大政党である政友会の総裁「西園寺公望」に大命が降下した。

しかしこれは譲歩といっても微妙な譲歩だ。政友会という民党の党首が総理になったからといって、直ちに政党政治が行われると言うわけではない。政友会は衆議院の政党ではあるのだけれど、政友会党首西園寺公望自身は衆議院議員ではない。

譲歩と回収が繰り返す。

そして、桂-西園寺-桂―西園寺―桂 と続いた。

藩閥勢力と政友会はグルなのではないかという認識が広まってきた。第二次西園寺内閣の後、第三次桂内閣が成立した時に、いいかげんにしろいつまでやるんだと、都市民衆が怒りだした。

本来は民衆デモ程度は政変には至らないのだけれど、当時は日露戦争後の不況だったんだよね。長州閥―陸軍、薩摩閥―海軍、政友会―内務省、という三つ巴の予算分捕り合戦が展開されていて、桂太郎はこれを調停することができなかった。桂新党を創って衆議院を解散しようと思ったのだけれど、反桂大衆運動のせいで十分な党員を集めることができなかった。

第三次桂内閣は二ヶ月で崩壊した。

民衆運動が直接藩閥内閣を倒したわけではないのだけれど、支配者階層に亀裂が生じている場合は、民衆運動も有効に政変となりえるということが証明された。

第三次桂内閣の後は海軍大将山本権兵衛内閣となった。今までは陸軍-政友会内閣だったのが、海軍-政友会内閣に変わっただけで、桂園時代(けいえんじだい)と代わり映えしない。

海軍内閣に都市民衆はプンプン丸かと思えばさにあらず。大衆運動は急速に収束した。

結局どういうことなのかと言うと、民衆は時代に不満なのだけれども、いったい何が不満なのかよくわからないから、運動が継続しない。徳富蘇峰的に言えば、社会の水平化を民衆は望むのだけれど、いったいどうすれば日本社会が水平化するのか分からないということになる。

当時は現代と異なり、最低賃金、年金制度、失業保険、八時間労働制、などはなく、これらの権利観念の根拠思想もあいまいだった。当時の日本は極めて自由主義的な世界だった。

山本権兵衛内閣はよろしくやって海軍の軍事費を増やすのかと思われたときに、とんでもない爆弾が爆発する。

シーメンス事件である。海軍ぐるみの汚職事件だね。

この状況で海軍補充費7000万円予算が衆議院を通過。怒った民衆が国会議事堂を囲む中、この予算案が、なんと貴族院で否決。両院協議会が不調に終わり予算不成立となり山本権兵衛内閣は大正3年4月16日総辞職した。

第三次桂内閣、第一次山本内閣と立て続けに民衆運動が倒閣に力を発揮した。しかし一般国民の意識が明確に政治を左右するようになったとはいえない。支配階層に統合性が欠けている場合、民衆運動を味方にすれば敵を追い落とすのには有利だった、というレベルの話だろう。

日露戦争後の日本は、国力を傾けた戦いに勝ちながらも賠償金を取れなかったことにより、財政的に極めて厳しい状況だった。陸軍、海軍、内務省の三者すべてを満足させるような予算を組むことはできなかった。結果、足の引っ張り合いみたいなことになって、結果民衆運動が利用されるということがありえた。

明治維新以降の日本の歴史は世界水平運動の継続的発展であるという歴史観からすれば、当時の日本は奇妙な隘路に嵌まり込みつつあった。

山本権兵衛の後は第2次大隈内閣となった。大隈重信は衆議院第二党の立憲同志会の支援を受けることが期待できたし、陸軍と海軍に予算獲得の保障もして組閣した。しかしそもそも、陸軍、海軍、内務省のすべてが満足する予算を組むことは不可能だ。それができるのなら、桂園時代(けいえんじだい)が存在する必然性はないし、第3次桂内閣も第1次山本内閣も倒れなかっただろう。

そして第2次大隈内閣はどうなったのだろうか。

これがなんと神風が吹いた。

第一次世界大戦の勃発である。

世界大戦勃発の8ヵ月後、大正3年12月25日大隈重信は衆議院を解散し大勝した。この第12回衆議院議員総選挙では陸軍や海軍の予算削減は問題にならなかった。さらに大隈重信はこの選挙期間中に袁世凱に対し悪名高い対華21カ条要求を行っている。

日露戦後から第二次大隈内閣まで、明治38年から大正4年まで、この時代をどう考えるか?

シーメンス事件発覚から1年ほどしかたっていないのに大正政変のエネルギーは収束した。それほど世界大戦のインパクトは大きかったのだろう。

大正政変というのは古い時代からの解放の願望だろう。これを徳富蘇峰のように社会水平化運動の展開と言ってもいい。世界が平和であるなら、ほとんど無条件に社会水平化運動は正義であると人々は考えるだろう。しかし危機の時代になったとしたら、例えば世界大戦などというものか始まったとするなら、人々は社会水平化運動も日本という枠組みがあってこそ意味があると考えるようになるだろう。

日本という枠組みと社会水平化運動との両立。できれば互いが互いを持ち上げあうシステムが望ましいだろう。

その答えを求めて彷徨ったのが日本の昭和だと思う。

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