magaminの雑記ブログ

2018年11月

「孟子」の性善説の解説です。

性善説とは、人間の性質はもともと善である、などというおめでたいような思想ではありません。性善を信じれば社会が強くなり、その強い社会で生きている人は性善を信じなくてはならない、という、一種逆説的な思想です。それなくして生きることのできない思想を人間は「真理」と呼びます。

「孟子」は儒教の経典になっているので、葬式のしきたりだとか長幼の序だとかをくどくど書いているのではないかと思われるかもしれないですが、全然そんなものではないです。

では具体的に何が書かれているのかと言いますと、例えば孟子はこのように言います。

「我よく我が浩然の気を養う」

弟子がですね、先生、浩然の気とは何ですか? とすかさず問います。結論から言いますと、浩然の気とはやる気とか元気とかそのようなものです。
ではどうすれば「やる気」を自分の中で養うことができるのか? この難しい問題を孟子は真正面から答えようとします。

私は思うのですが、個人的社会的な問題の多くは「元気」の払底から起こっているのではないでしょうか。不登校、引きこもり、ニート。さらに、現状の保守と左翼リベラルのギスギスした対立というのは、突き詰めれば、保守の秩序主義と左翼リベラルの自由主義との社会的な限られた「元気」の奪い合いに原因があると思います。

元気を盛り上げようとする時にやってはいけないことを、孟子はこのように言います。

「気を正とすることなかれ。助けて長ぜしむることなかれ」

これは「元気」そのものを直接盛り上げようとしてはいけないという意味で、孟子は以下のような例えをあげています。私の現代語訳で。

「宋人ごとくすることなかれ。宋国のある人が、苗がなかなか大きくならないことを心配して、苗を引っ張って伸ばそうとした。その人は家に帰って息子に語った。
 今日は疲れた。苗を引っ張って伸ばしてきた
息子がびっくりして田に行ってみたら、苗はすべて枯れていた」

元気を直接盛り上げることは出来ないというのは、なんとなく実感できます。やったとしてもカラ元気みたいなことになります。
では元気を滋養するにはどうすればいいのか。これは難しい問題で、現代において明確な答えは存在しないことになっています。ですから、元気の総量は個人個人に前もって与えられていて、出来るだけ元気を節約して生きるのが賢い生き方だとされがちです。現代社会でお金とか周りからの承認とかが重要視されるのも、元気の消費を節約しようとすることの結果だと思います。

では元気を盛り上げるにはどうすればいいのか?
孟子は、この現代において誰も答えることができなくなった問題に真正面から切り込みます。
これが哲学ではなくて何でありましょうか? 真の哲学ここにありです。東洋に哲学がないなどと奇怪な知識人が語ったりするのですが、ふざけきった馬鹿を言うものありです。

ハードルもいい感じに高くなってきたようなので、元気を醸成する方法にいての孟子の論理を紹介したいと思います。

「その気たるや、義と道とに配す。これなければ飢うるなり」
「故に告子は未だかつて義を知らずと言えるは、そのこれを外にせるをもってなり」

やる気は「義」に伴って発生するもので、「義」というものは心の内にあるからこそ意味がある、ということになるでしょうか。
「義」とは何かということはまず置いといて、何らかの根拠というものが心の内にないと「やる気」というものは本当には発生しないのだと孟子は言うわけです。
それはそうでしょうね。
やりたくないことばかりやっていたら、生きることが馬鹿馬鹿しくもなるでしょう。しかし、やりたいことばかりやって生きていくというわけにもいかないですし、この辺の折り合いをどうすればいいのでしょうか? 
野球好きなら野球が「義」となるでしょうし、本好きなら読書が「義」となるでしょう。ないよりはましですが、この程度の「義」だと生活との折り合いということにどうしてもなってしまいます。

ここから論理の跳躍になるのですが、「孟子」には推奨されるべき「義」というのが書かれています。それが何かと言いますと、

性善

ということになります。性善とは、すべての人に天から善の心が付与されている、という思想です。性善思想を心の中心に置くべきだと孟子は言うわけです。
性善と言われて、ちょっと待てと、すべての人に善の心があるというのは無理なんじゃないの、性善なんて考え方は甘いんじゃないの、と誰もが考えます。サイコパスなんていう言葉もあります。
孟子の弟子も、その辺のところを問いただします。先生、善の心を持ってなさそうな人もいるんですけど、その辺はどうなのでしょう? みたいな感じです。
孟子、答えて曰く、ですね

「かの牛山を見よ」

牛山というのは、中国戦国時代最大の都市である臨淄(りんし)の近郊にあった山の名称です。

「かの牛山をみよ。(以下私の現代語訳です) あの山はかつて木に覆われ美しかった。だが薪として、木は切られてしまった。だが山はまだ生きていて、雨や露の潤すところ、切られた切り株にも緑がたちこめた。
ところが人々は牛や羊を放牧する。やわらかい緑もすべて食べられてしまった。
長い月日がたち、何もなくなった山を見て、人々は、この山ははじめから何もなかったと思うようになる。しかしこの今の牛山は、本当にあるべき牛山の姿なのだろうか? 人間の心も、この牛山と同じなのではないだろうか? 人が良心を無くしてしまう理由も、日々において牛山の木が失われてしまったことと同じなのではないだろうか? 日ごとに木を切ったのでは、その美しさを保つことはできない。あの夜明けの緑の芽生えも、良心を失った人が多いことを思うなら、昼間にそれを牛や羊に食べられてしまったのだろう。このようなことを繰り返せば、緑の芽生えも失われる。緑の芽生えが失われれば、人は禽獣と変わらなくなるだろう。人が禽獣であるさまを見て、その人は善であったことはないとして、そのことで本当に人の性善を否定したことになるのだろうか。正しく育てれば成長しないものはないが、育てるのをやめればそれは消えてしまう。
孔子が、「取ればあり、捨てれば失う、出入り時なく、あるところを知らない」と言ったのも、このような意味ではないのか?」

性善を心の中心に置けば、人を信用してフレンドリーにもなれます。どうしようもない人がいたとしても、それは心の善が厚く覆われてしまっているだけであって、腹も立たない、スルーですよ。そのような難しい人を救うのは一般人ではなく、堯舜(ぎょうしゅん)のような聖人の仕事ですし。
このような思考パターンに移行していければ、やる気を滋養するということは不可能ではないと私は思います。
孟子は、この性善思想をあらゆる社会レベルにはめこもうとします。世界、国家、村、家族、個人、などのすべての社会レベルで性善の歯車が回り出せば、元気というのが天地に満ちるようになり、これが「浩然の気」ということになるでしょう。

だから有用な性善思想を復活させるべきだなどと、私は思ったりしないです。
論理は逆です。
「孟子」が存在したから東アジアの世界はこのように膨らんであるわけで、「孟子」が存在したから東アジアは19世紀のウエスタンインパクトを辛うじてではありますが、跳ね返すことができたのではないでしょうか。
ですから、「孟子」とは近代西洋哲学のような世界を説明する哲学ではなく、世界に命令する哲学です。一段高い哲学です。真の哲学とはそのようなものだと思います。

関連記事







私は現在47歳なのだけれど、父親は私が27歳の時に53歳で死んだ。20年前ということになる。死因は肝硬変だった。酒の飲みすぎだろう。

朝から飲んでいた。 
仕事は青物市場経営。小さい会社だったけれど、社長なわけで、酒気帯びでも誰も文句を言う人はいなかったのだろう。 
酒が好きだというわけではなかったと思う。気が弱い人だった。、酒を飲まなければやっていかれなかった、というのが真実だろう。  

父親の事はあまり好きではなかった。私が子供のころの夕食時、父親はテレビで野球を見ながら、酒を飲みながら、白菜の出来はどうとか、みかんの出来はどうとか、なんていう話をしていた。 
私はそんな会話がいやだった。野球とか、白菜とか、みかんとか、そんな話どうでもよくないか? って思った。私は子供のころから勉強が出来て、中学、高校はちょっと遠くの中高一貫の進学校に行った。本が好きで、中学生の時から、カフカとかドストエフスキーを読んでいた。ますます父親との距離が遠くなった。彼は白菜の話がメインなんだから、正直、共通の話題とかはない。 
私が大学の時も、父親との関係は同じようなものだった。私がヘーゲルやニーチェを読んで、人生の難問に挑んでいるつもりになっている時に、彼は相変わらず白菜の話だから。   

怒りすらわいたね。   

普通、父親ってサー、子供に人生の有益なアドバイスを要所要所に与えるものなのではないだろかって、それがいつまでたっても自分の野菜王国が気になってしょうがないような感じだった。 結局最後まで、父親とまともに話したことはなかった。父親と息子って、息子が成人した後には、一緒に酒を飲んで、なんだか腹を割って話すみたいな美しい物語があったりしがちなのだけれど、私と父親との間には、そのようなことは全くなかった。 父親が死んだ時、父親の会社の貸借対照表というのを見せてもらった。まあ、ひどい内容でね、あれだけ頑張ってこの程度かと、ガッカリするより納得するような感じだったと記憶している。  
父親が死んで3年ぐらいたって母親も死んだんだよね。実家の風呂場で死んでいた。警察によると、死因は脳溢血だっという。死因は脳溢血と心筋梗塞が疑われたのだけれど、検視の結果、脳溢血と判定された。なんだか、脊髄液の濁り具合で分かるらしい。  
思ったのは、あの二人は愛し合っていたんだな、ということ。私の父親は、背がすらりと高くてイケメンだった。母親はそんな父親を好きになったのだと思う。二人は恋愛結婚だった。いくらイケメンでも、頭の中身が野菜王国では意味がないだろうと、私は思うのだけれど、母親は違った。頭のいい女性だったけれども、父親の事が好きだったのだろう。3年で後を追いかけていったから。長い年月の間に、夫婦が互いに互いの胸を掘り崩すというのはあるという。  

あと6年で、私も父親が死んだ歳になる。  
べつに感慨とかもない。私も結婚して子供もいる。私が子供に気をつけていることは、野菜の話はしないということ。彼らは野菜に興味がないだろうし。その代わりドストエフスキーの話をして嫌われているという。  
妻は私が死んでも、すぐに追いかけてきたりはしないだろう。女性の平均寿命まではしっかり生きる勢いだ。  
結局、私は、父親を越えたということもないし、超えていないということもないのだろう。


関連記事/
死んだ父親について
死んだ母親について
死んだクラスメートについて
結婚した妹について






ネタバレ的なことを書いてしまっています。ライトノベル出身の作家さんで、直木賞も取りました。

とびきり顔の造作が美しいとされる高校3年生の女の子の日常生活を描いた小説でした。


この小説世界における整合性の根拠は、主人公の女の子の「かんばせの美しさ」だけです。
正直、こういうのはどうかなと思います。言葉で美しいと言われても、ここは漫画ではなく小説世界なのですから、美しさの実感みたいなものがつかめないです。
私の過去の美少女の記憶というものを、この少女に当てはめていけばいいのでしょうが、そこまでする必要も感じられないです。

個別の女性の美しさに関する価値判断というのは、ほぼ男性の性欲に依存しているわけで、あまりこだわるほどのことでもないと思います。
美しいとされる若い女性を男性が過度にちやほやして、何だか勘違いしてしまった女性というのはいっぱいいます。
私はトラックの運転手をしているのですが、無理な割り込みをしてくるのは、だいたいにおいてかつては美しいとされていたであろうオバサンです。男は自分に譲ってくれるものだと勝手に判断しているのでしょう。迷惑千万です。

少女の顔が人並み以上に整っているからと言って、それだけで小説の整合性の根拠になると考えるのは甘すぎます。さらには女性の人間性に対する冒とくです。
この小説が何かの漫画のノベライズというのであれば、もしかしたら許容範囲かとも思うのですが、そうではないのでしょう? 

この小説は280ページぐらいの薄い本なのですが、48歳のすれたオジサンが読むにはちょっとキツすぎました。



関連記事/
     
               


関連記事/ 
底辺会社の現実1 底辺会社の現実2 底辺会社の現実3 底辺会社の現実4
底辺会社の現実5 底辺会社の現実6 底辺会社の現実7.......底辺会社の現実ラスト




かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道








荻生徂徠というのは、18世紀初頭の儒家です。
荻生徂徠なんていう忘れられた儒家の「政談」などという忘れられた書物を現代に読んで何の意味があるのかと思われるかもしれないのですが、まあまあ。

人類は中世という弱肉強食の世界から近世という時代に移行したと。近世というのは、社会全体にまとまりをつけて、集団がより合理的により強くなろうとするモチベーションの存在する世界です。日本で言うと、16世紀初頭に畿内でこのような精神運動が発生して、徐々に周りの諸国に広がっていったと思われます。このような社会の動静をうまく利用してのし上がったのが戦国大名と言われる人たちでしょう。

日本では16世紀初頭から徐々に人口が増え始め、17世紀に爆発的に増えたのですが、18世紀初頭には人口が停滞するようになります。200年続いた経済成長が止まったということになります。現代日本みたいな感じです。

成長が止まったからといって中世世界に戻っていいかというと、そういうわけにもいきません。現状維持のために、ある一定以上の社会秩序を維持しなくては。
社会秩序の維持という問題は、哲学的政治的問題となります。成長の止まった社会には様々な問題が現れます。その解決策として、個人の生産性を高めなくてはいけないとか、個人がもっと消費を節制するべきだとか、そのような意見も出てくるでしょう。

しかし社会秩序の維持に関して最も重要でセンシティブな問題は、社会からこぼれ落ちそうな人をどうするかということです。
よくある意見というのが、個々人がそれぞれにしっかりと人格形成すればいいのではないか、というものですが、そんなことが簡単にできるのならば、そもそも社会秩序の維持という問題は存在しないのです。

例えば近世イギリスの場合、犯罪者もしくは犯罪者予備軍を毎年5000人、新大陸に向けて切り捨てたという統計があります。犯罪者といっても、借金が返せないとか、現代では犯罪にならないような人たちを大量に含んでいます。犯罪者予備軍といっても町の浮浪者とかです。イギリスはヤバそうなやつは大陸送りにすることによって、その内部の秩序を維持したわけです。

では18世紀初頭の経済成長の止まった日本はどうするか? 日本はイギリスのように底辺層を切り出すような植民地を持っていません。
イントロが長くなってしまったのですが、ここで荻生徂徠の「政談」ということになります。

荻生徂徠は「古学」というものを始めたという、また以下これめんどくさい説明になって申し訳ないです。

儒教の聖典を「四書五経」といいます。五経のほうが四書より上とされていて、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の5つの文書を指します。しかしこの「五経」、正直読んでも何を書いてあるのかわかりません。例えば「春秋」なんですけど、これ自体は春秋時代(春秋が書かれたから春秋時代というのですが)の魯という国の極めて淡白な年代記です。これだけ読んで何か深淵な意味が理解できるというものではないです。なんせ淡白な年代記ですから。
なぜ読んでも意味の分からない「五経」が儒教の経典になったのかというと、後世の儒家が「五経」に意味をドンドンのせていったわけですね。そのうち伝統の重みみたいなものも出てくるわけです。
これがですね、宋代に入りまして、新しい時代に伝統の重みはうんざりだということになりまして、「五経」を棚上げにして「四書」を重視するという流れが出てきました。
「四書」というのは、「論語」「大学」「中庸」「孟子」の4つの文書を言いまして、これらは直接読んでも意味が分かります。この「四書」をメインにして、これまでの儒教を再編成しようという新儒教の運動が現れまして、この運動を集大成したものが朱子学と言われるものです。
ですから朱子学というものには、伝統にとらわれず古典を直接読もうという意思が内在しています。
しかし朱子学も伝統化してしまうのですが、荻生徂徠の古学というのは、この朱子学の伝統を振り払い「四書」を直接読もうという運動であり、話が長くなって申し訳ないのですが、荻生徂徠の古学というのは、結局朱子学の一派ということになります。

そこで荻生徂徠は古典を直接どのように読んだのか?ということになります。

「孟子」という書物がありまして、孟子という人物自体は紀元前300年ぐらいの人です。中国の紀元前300年というと、もうあと100年ほどで秦の始皇帝が中国を統一するという時でして、秦以外のほかの国々は、いかに自分の国を維持するか、さらにあわよくば自らの国を覇者の国、現代風に言えばヘゲモニー国家にするかを真剣に考えていた時代です。そのような時代に孟子は、いかにすれば国家は強くなるかというのを君主に説いて回るような遊説家だったのです。

孟子の論理というのは、国家が強くなるには人民をシバキあげて言うことを聞かせるなどというレベルの低いことではだめで、国家は人民を慈しみ人民は互いにその性善を信じて助け合うという上下の努力によって、その社会秩序を強化するべきだというものです。
要するに孟子には、国家が人民の生活にまで介入する、という論理と、人民が互いにその性善を信じあうという二本柱の思想になっています。
荻生徂徠の思想というのは、どちらかというとこの前者の「国家の介入」というところに重きを置くスタンスです。
国家が人民の生活にまで介入する、なんていうと何だかイヤーな感じがするだろうと思うのですが、これは別にまじめに生活している人にまで国が介入するというものではないです。社会からはみ出しそうになっている人たちに介入するという意味です。
例えば、ハロウィンの渋谷で多くの若者が暴れるという事件がありました。あのような若者をどうするかと考えた場合に、まじめな人とダメな人とは住む区域を別にして日本という一つの国にあたかも二つの国があるかのようにするべきだ、などと明確に考えたりする人はさすがに少数派でしょう。多くの人は、国家がふざけた若者を正業に導くような介入をするべきだ、と考えるか、周りの大人が若者の性善を信じて若者を正業に導くべきだ、と考えるかという二つの考えのバランスの内にあると思います。
荻生徂徠は、このような意味での国家主義者です。

具体的に「政談」でどのようなことが書かれているかというと、

「近年になって無宿者になった類は、いずれも自分の身の働きが悪かったためとはいえ、もともと愚かなもので、その身の慎みが悪くなったというのも、国の政治が悪いために、世の中の風俗も悪くなり、また景気が悪くなったという状況の中から生じたものであるから、つまりは為政者たる幕府の責任というべきである」

というような論調です。
さらに荻生徂徠が体罰問題について語るとこのようになります。

「本当の治めというのは、末々の者まで一人も見捨てることはできないと思い込んで、その人々のことを心にかけ世話をしてやることである。下の者を処罰したりだましたりすることもあるが、要するに面倒をよく見て、心にかけ、とにかく下の者の生活が成り立っていくようにしてやることが仁である」

誰もができることではないでしょうが、一つの見識だとは思います。

歴史的な条件から考えて、これからの日本が荻生徂徠的な世界観に移行していくことも十分あり得ると思います。



関連記事/関連記事/ 
底辺会社の現実1 底辺会社の現実2 底辺会社の現実3 底辺会社の現実4
底辺会社の現実5 底辺会社の現実6 底辺会社の現実7.......底辺会社の現実ラスト


かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道



ハロウィンの渋谷で多くの若者が暴れるという事件がありました。あのような若者をどうするかと考えた場合に、まじめな人とダメな人とは住む区域を別にして日本という一つの国にあたかも二つの国があるかのようにするべきだ、などと明確に考えたりする人はさすがに少数派でしょう。多くの人は、国家がふざけた若者を正業に導くような介入をするべきだ、と考えるか、周りの大人が若者の性善を信じて若者を正業に導くべきだ、と考えるかという二つの考えのバランスの内にあると思います。



magamin1029

WIKIによるとADHDの特徴として、

  • 簡単に気をそらされる、細部をミスする、物事を忘れる
  • ひとつの作業に集中し続けるのが難しいその作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる
  • その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる
  • 結論なしに喋りつづける
  • 自分の話す順番を待つことが出来ない

などが挙げられている。これらの特徴は境界性人格障害などの人格障害カテゴリーに顕著にみられる特徴で、簡単に言えばADHDは軽度の人格障害ということになると思う。

しかし軽度の人格障害が障害と言えるほどのことなのか、というのはある。貴族のサロンに平民が迷い込んだ場合、平民は場違いな感覚に苛まれるのと同じように、近代メンタルのきびしい世界にゆっくりな世界観を持った人間が迷い込んだら周りとうまくやっていけないというだけだろう。
極端な例をだすと、チンピラみたいなやつが大企業のサラリーマンとしてはやっていけないだろうということで、だからと言ってチンピラメンタルが病気というわけでもないわけで、チンピラはチンピラなりに自分で社会の中に居場所を見つけて、それで別に何の問題もない。

ADHDの特徴である、簡単に気をそらされるだとか結論なしに喋り続けるなどは、自分の中に何らかの価値観の序列体系を持っていないことの帰結であって、労働者階級のオジサンとか専業主婦のオバサンとかみんなこれだよ。


自分の中に価値の序列体系を持っていなければ、喋る内容にも結論はないだろうし、我慢して何かを成し遂げようとも思わないだろう。それは悪いわけではなく、そのような人は何かをコントロールするような仕事にではなく、自ら額に汗して働くような仕事に向いているということだろう。

しかし近年、大学進学率が急速に上がっている。大学を卒業して工事現場の作業員とかトラックの運転手とかになるわけにもいかない。ゆっくりな世界観を持ったまま大学に行ってホワイトカラーになって、使えないとか言われて周りから排除されて、精神を病んで自分はADHDだと自覚するなんて、ちょっとかわいそうというかヒドイなというのはある。

どうするかということなのだけれど、ゆっくりした仕事に就くというのが一番だけれど、それではプライドが許さないというのがあると思う。大学まで行ってそれなりの友達もいるのに自分だけトラックの運転手というわけにもいかないだろう。
ここ重要なのだけれど、プライドがあるからハイ起業というのは正直きびしい。起業して食べていけるまでになるというのは平均以上の能力がいるし、ADHDを疑われるような人にはほぼ無理だ。ネットには、

「ADHDの人でも起業して成功しますよ。現に私も成功しました」
何ていう人もいるけれど、彼らはADHDの人たちの情念を利用して成功しているわけで、あんなものをまじめに受け取ってはダメだよ。弱い人間の上前をはねて生活している人間がまともなわけない。

ゆっくりの世界観を克服して自分のプライドを救おうとするなら、近代のシステム方式に習って、自分の中に自分なりの価値の序列体系というものを作るしかない。どうやって作るかというのも難しいのだけれど、その話は次の機会に。



記事更新のモチベになりますのでクリックしてもらえたらありがたいです
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

magamin1029

左翼リベラル的な考え方をする人には、知的レベルが高く精神的にハイセンスな人が多い。常識的な整合性を大切にするということで、いっけん何の問題もないかのように見える。

例えば、ネトウヨなんかが、

「このような犯罪を犯したのは、彼らが日本人ではないからだ」

などという奇怪な論理を展開した場合に、左翼リベラルは、

「なに奇怪な論理を展開しているのか? 頭のおかしい奴は精神病院に行って叫んでろ。もしくは自分の頭のおかしいことを自己認識して黙ってろ」

と考える。もっともな意見だろう。
しかし、頭のおかしい奴は切り捨てろ、というのでは新自由主義になってしまう。この立場を左翼リベラルは取らない。
左翼リベラルの立場はもっと慈愛に満ちていて、頭の弱い奴は黙ってハイセンスな私たちについてこい、というものだ。

このような論理が本当に慈愛に満ちていると言えるだろうか? 

ネトウヨが奇怪な論理を展開するのも、彼らは彼らなりに何らかの必然性があるからではないだろうか。奇怪な論理を展開せざるを得ない彼ら自身がそもそも苦しんでいるのではないだろうか。
左翼リベラルの思想は、自分の自己同一性というのは与えられているのだから、他人の自己同一性も与えられているだろうという根拠のない前提に依存している。

左翼リベラルを表現する人というのはそもそも優秀な人で、中学や高校で上級階層に選抜されてしまい、この世界にはどうしようもない人たちが多数存在するということを実地に知らないのだと思う。

甘いんだよな。日本には貴族階級は存在しないのに貴族主義的なんだよね。

左翼リベラルは実際に下層階級の人たちの実体を体感して、彼らを切り捨てるような新自由主義者になるか、もしくは彼らも巻き込んだ秩序を構想するような真のリベラリストになるかを選択しなくてはならない。




magamin1029



この前パチンコ必勝法というのを書いたら評判が良かったので、今度は株の必勝法について書きたいと思います。

私は株歴17年ぐらいになりますが、トータル損益は

利益金額合計
331,330,909 円
損失金額合計
-306,949,527 円
実現損益合計
24,381,382 円
となっています。
上記の損益はネット証券の実現損益ページをそのままコピペしたものです。

株で大事なことは、いつ何を買うかということになるのですが、今回は「いつ」ということについて話していきたいと思います。

いつ買うかとなるともちろん安い時に買うということになるのですが、どのレベルが安いかというのは普通判断が難しいのです。ところが明らかに安いという時間が株式市場には存在します。
21世紀に入ってまだ18年しか経っていませんが、この18年で3度株が売られすぎの時間が存在しました。

1 2001年 アメリカ同時多発テロ後
2 2008年 リーマンブラザーズ破綻後のアメリカ住宅ローン会社の危機
3 2011年 福島原発爆発



私たちは日常生活を送っていると、普通この日々が永遠に続くと思ってしまいがちです。しかし実は21世紀に入って3度も常識の底が抜けるのではないか? という恐怖の場面が存在したのです。18年で3度ですから、はっきり言って次に何が起こるか分かったものではないです。

そしてこのような場面で株を買うのです。

資本主義の底が抜けてしまったら株を買う意味がないだろう、と思われるかもしれませんが、そもそも資本主義の底が抜けたなら現金を持っている意味もありません。かといって社会が崩壊しそうだから何百万何千万も食料を買うというわけにもいかないです。怖いけれども資本主義が崩壊しないという側にベットして株を買うというのが合理的な選択です。そもそも、何もしないか株を買うかの選択しかないのですから、この選択はローリスクハイリターンです。

いつ来るかわからないローリスクハイリターン状態を生かすためには、絶えず現金もしくは現金同等物を持っている必要があります。



参考になった方は以下のアイコンをクリックしてください。続きを書くモチベになります。

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

このページのトップヘ