magaminの雑記ブログ

2018年10月

趙の武霊王が乗馬戦法を始めたのですが、その前までは馬に戦闘馬車を引かせて戦っていました。



こんなやつです。

こういうヤツよりは乗馬戦法のほうが合理的だというわけでしょう。
しかしどこにでも合理性より伝統を重視する人たちはいるわけで、そんな頭カチカチのひとに武霊王は殺されてしまいます。


magamin1029

坂口安吾「デカダン文学論」は昭和21年発表。

「デカダン文学論」の中で、坂口安吾の島崎藤村の煽り方が強烈。

島崎藤村は近代日本文学を代表する大作家だと思う。藤村の何がすごいかというと、近代文学のメインフレームである三人称客観形式というものを「破戒」の時点でほぼ完全にマスターしている点だ。「破戒」の発表は明治39年。

外部の視点で登場人物たちの内面を描きながら物語をまとめるという近代小説的作業というのは難しいのだけれど、藤村はこれを苦も無くこなしている。
夏目漱石だってなかなか藤村のようにはいかなかった。例えば「こころ」は一人称主観形式だし、「吾輩は猫である」は一人称猫観だ。

だから藤村の小説のすごさというのは、その内容にあるのではなく形式にある。

評論家の平野謙が藤村の「新生」を評論したものに、安吾はこう咬みつく。


『「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思い入れよろしくわが身の罪の深さを思うところが人生の深処にふれているとか、鬼気せまるものがあるとか、平野君、フザけたもうな。人生の深処がそんなアンドンの灯の翳みたいなボヤけたところにころがっていて、たまるものか。そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、一番よくないところだ。』



これは平野謙が悪い。藤村の小説の内容を誉めてしまったのではきつい。
安吾はさらにこのように藤村批判を展開する。


『島崎藤村は誠実な作家だというけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離というものを見れば分る。藤村と小説とは距りがあって、彼の分りにくい文章というものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘というものではない。

藤村とその文章との距離というものが、藤村の三人称客観小説世界を形成しているわけで、藤村独自の距離感を「小手先の悪戦苦闘」とまで言ってしまったのでは、これちょっと言いすぎなのではないかというのはある。』


安吾の言いたいこともわかる。安吾は大文字の「文学」とは形式ではなく内実だと言いたいのだろう。

安吾はさらにかぶせてくる。


『彼がどうして姪という肉親の小娘と情慾を結ぶに至るかというと、彼みたいに心にもない取澄し方をしていると、知らない女の人を口説く手掛りがつかめなくなる。彼が取澄せば女の方はよけい取澄して応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかも知れぬ口説にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので、藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由に又自然にポーズから情慾へ移行することが出来易かったのだと思う。』


これには参った。形式とか言っているから、藤村お前は女にもてないんだと言っているわけだ。滅茶苦茶なんだけれど、オタクよりもヤンキーのほうが女の子にもてたというかつての時代状況を考えれば、安吾の言うことは一理ある。
安吾の剛腕、炸裂だ。


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坂口安吾、昭和22年の評論。

安吾には長島萃(ながしま あつむ)という友人がいた。戦前の衆議院議員、長島隆二の子息であった。彼は若くして脳炎で死んだのだけれども、この長島萃をめぐる安吾の文章には一種異様な迫力がある。
こんな感じ、

「彼の死床へ見舞つたとき、そこは精神病院の一室であつたが、彼は家族に退席させ、私だけを枕頭によんで、私に死んでくれ、と言つた。私が生きてゐては死にきれない、と言ふのだ。お前は自殺はできないだらう。俺が死ぬと、必ず、よぶから。必ず、よぶ。彼の狂つた眼に殺気がこもつてギラギラした。すさまじい気魄であつた。彼の精神は噴火してゐた。灼熱の熔岩が私にせまつてくるのではないかと思はれたほどである。どうだ。怖しくなつたらう。お前は怖しいのだ、と彼は必死の叫びをつゞけた。 
彼はなぜ、そこまで言つてしまつたのだらう? そこまで、言ふべきではなかつた」

最後の言葉は語るべきではない、というのはあると思う。
現代のような世界に暮らしていると、どうやら自分の言葉の意味が相手に届いてないらしいということがあり得る。だからと言って最後の言葉を絶叫していいというものでもない。

よく新聞とかで、駅なんかで女性のスカートの中を盗撮して捕まったヤツの動機の告白で、
「スカートの中が見たかったから」
のようなことが書かれていたりするけれど、これって本当に最後の言葉だよなって思う。女の子のスカートの中を見たければ、いくらでも合法的な手段があるだろう。様々な可能性を排除して、ただ原因と結果のみの言葉、
「スカートの中が見たかったから」

怖ろしい。最後の言葉を要求する世界が怖ろしい。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、ドミートリーの裁判の中で彼の恋人であるカテリーナがこのように告白する場面がある。

「あたしと結婚する気になったのだって、あたくしが遺産を相続したからに過ぎません。そうじゃないかとかねがね思っていました。ああ、このひとはけだものです。あたくしがあのとき訪ねていったことを恥じて、一生この人にびくびくしつづけるだろう、だから自分はその子とで永久にあたくしを軽蔑し、優越感を抱いていられると、いつも思っていたのです」

カテリーナもドミートリーを愛していると感じた瞬間だってあっただろうし、もちろん憎んだ瞬間もあっただろう。カテリーナの存在というのはゆれていたのだけれども、「断言」することによって存在が固定されてしまう。

断言を要求する世界って怖ろしいと思う。そういう場所に追い込まれないよう注意しなくてはいけない。
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坂口安吾「日本文化私観 」は昭和17年発表。

「日本文化私観」は

一 「日本的」ということ
二 俗悪について(人間は人間を)
三 家について
四 美について
という構成になっていて、それぞれに安吾らしい文章がつづられている。

「家について」の中にこのようにある。

「僕はもうこの十年来、たいがい一人で住んでいる。何もない旅先から帰ってきたりする。すると、必ず、悔いがある。叱る母もいないし、怒る女房も子供もいない。それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、後ろめたさから逃げることができない。帰るということの中には、必ず、振り返る魔物がいる。そうして、文学は、こういうところから生まれてくるのだ、と僕は思っている」

本当にこういう感覚ってある。私は結婚するまで何年か一人暮らしをしていたけれど、夜中、ドアを開けてから、誰もいない真っ暗な部屋に入り電灯のひもを引っ張るまでは、何だか薄らさみしいような気持になった。

エリア88という漫画で、一人暮らしの部屋に帰った時に真っ暗なのが嫌だから、部屋を出るときはいつも電気をつけっぱなしにするというヤツがいた。そいつが乗る戦闘機がもうダメだというときに、彼は親友に無線でこのように言う。

「オレの部屋の電気は消しておいてくれ」

分かるわー、と思って。
誰もいない部屋に帰った時のあの感覚って何だろう。気圧が外より低いような、地面がちょっとゆるいような、そんな場所に迷い込んだような。
それを安吾は、

「帰るということの中には、必ず、振り返る魔物がいる」

とか、さらには、

「文学は、こういうところから生まれてくるのだ」

とか、本当にうまいことをいうと思って。久しぶりに「日本文化私観」を読み返して感心した次第。

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ジルドゥルーズによるニーチェの入門書。ジルドゥルーズはニーチェを説明しきれてないと思う。そのあたりのところをくわしく。

ただニーチェを解説しながら、何だか微妙にニーチェが分かりにくくなっている。ドゥルーズはニーチェを限定しすぎなんだと思う。
例えばドゥルーズはこのように言う。

「哲学は能動的な生と肯定的な思想との統一の代わりに、思想は生を裁くこと、いわゆるより高い価値を生に対立させることを自らの任務として定めるのである」

ニーチェ思想を無理に敷衍して、現代社会における自由意志のエネルギーの衰退を嘆いているような論調だと思う。現代の自由主義社会において、自由意志の旗を高く掲げようというのは悪いことではないとは思うけれども、そのことにニーチェを使うというのはニーチェ思想の限定であり、ちょっと危険だと思う。

そもそも自由意志とは何か?

右手を上げようと発意して右手を上げたとする。これを素晴らしい自由意志の発現と考えるなら、私たちの意識の中枢に「意思」というコアがあって、その意思が右手を動かしたということになる。さらに言えば、「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させ、その結果右手が持ち上がったということになる。
「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させる?
これではサイコキネシスになってしまう。ありえない。サイコキネシスは存在しない。
近年の研究によると、自由意志が自覚される0.何秒か前に脳内シナプスの発火が認められるという。脳内シナプス発火がある程度自覚できる状況になって初めて、その自覚が自由意志として認識されるというだけだろう。すなわち私たちが普通自由意志だと感じているものは、自由意志というものではなく単なる事後認識みたいなものだと考えるのが合理的判断だろう。

こう考えると、ドゥルーズの「能動的な生と肯定的な思想との統一」というところの「能動的な生」とは、人間情動の事後認識みたいなものになる。
さらに、ドゥルーズの言う「生を裁く思想」とは何か?

自由意志の自覚から実際に行動が起されるまで0.何秒かあるのだけれど、この0.何秒の間のどこかの時点に行動を抑制することができなくなるポイントオブノーリターンの時点が存在する。
逆に言えば、自由意志の自覚から行動抑制のポイントオブノーリターンの時点までは行動抑制が可能だということだ。この行動抑制の判断というのは何によってなされるのかというと、彼我の強弱だとか社会的通念などの価値判断だ。

お腹がすいているからといって、大人はコンビニの商品棚にあるパンをその場でむしゃむしゃ食べたりしない。なぜなら価値判断によって行動抑制の判断をしているからだ。これがドゥルーズの言う「生を裁く思想」ということになるだろう。

結局どういうことになるかというと、ドゥルーズが否定的に語った
「思想が生を裁きより高い価値を生に対立させることを、哲学が自らの任務として定め」て別に何の問題もないということだ。
価値判断という思想が能動的な生と統一されたりしたら情動駄々洩れであって、たぶん人格障害のレベルになってくると思う。

ニーチェは狂気の中で狂気の哲学を展開したわけであって、それはそれで強力なものがあるのだけれど、狂気の哲学をエスタブリッシュメントの教養として限定し取り入れるというのは無理があると思う。

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もう10年以上前だ。私には2つ年下の妹が、今度結婚したから親戚同士の顔合わせをしたいといってきた。私と妹は仲はいいほうだと思う。妹は早稲田を卒業してそこそこの企業に就職して、そこの年上の部下と付き合っていた。私としては、あの健ちゃんと結婚するんだね、おめでとう、みたいな感じだ。私の妹は性格がきつく金に辛い。私は結婚式等というくだらないものに私の貯金を1円も使いたくないと宣言していた。というわけで今回、新郎側の親が全額出すことによって、新郎新婦の親戚同士が食事会をするということなったと、妹が実際私にこのように説明した。 
                                                      
私たち兄弟は岡山県生まれなのだけれども、大学から東京にでてしまった。うちの両親というのは妹が就職したぐらいに2人とも死んじゃって、結局2人して田舎から切れてしまったんだよね。妹が親戚同士の食事会で呼べる人間は私しかいない。 
                                                  
妹に呼ばれて、私は待ち合わせの埼玉県の川口市のホテルに行った。これが思ったよりいいホテルで、食事会にしては不思議な感じがしたのだけれど、向こうのご両親もちょっと頑張った、1人あたり2万ぐらいのコースかななどと思ってホテルを入ってズンズンいくと、妹がウエディングドレスを着ているんだよね。
           
「キミ、なにそんなものを着ているの?」

いや、親戚同志の食事会ではないのかと、ウエディングドレスでは食事会と違うよね。
             
「まあまあお兄ちゃん、お兄ちゃんの席はあるからちょっと座ってて」
                       
こんな感じで手なずけられた。結局、向こうの親戚は25人ぐらいはいたと思う。食事会というよりは、簡単な結婚式風な感じで状況は展開していった。でそのうち司会者の人が、新婦側からのスピーチをお兄さまから、なんていうことを言い出した。
いやこれはやばいよ、食事会だと思っておなかをすかせてのこのこやってきたら、ぶっつけ本番、妹の結婚式のスピーチだというのだから。
                                               まず思ったのはずうずうしくやらなくてはいけないということ。そもそも妹だって、新郎の親戚25人の中に私一人をずうずうしくも呼んで澄ました顔で目の前に座っているのだから、この上をかぶせていく必要がある。兄なのだから妹の結婚式のスピーチは当たり前みたに堂々と立ち上がり、全く当たり前のようにマイクの前に立つ。もちろんスピーチのためのカンニングペーパーなどは出さない、そもそもないから。

さてここからどうするか。

妹の両親はすでに死んでいるというということをまずアピールした。本当はこの場所で父や母が話すべきだったと思いますが、両親共に亡くなっているので私が挨拶させていただきます、みたいな感じ。これは効いた。ちょっと場がシーンとなった。ここちょっと押せるんじゃないの、という感触をつかんだ。父親は妹のウエディングドレスを見たいといっていたとか、母親は健治さんなら妹を嫁がせても心配ないといっていたとか、死人にくちなしみたいなことを喋った記憶がある。
妹は帰り際に、 
                                                      
「今日はありがとう」

とニヤニヤしながらいっていた。そのずうずうしさ。妹よ、キミはだんだん死んだ母親に似てきたよ

ゴーギャンがモデルだろうとか、月は6ペンスは何を象徴しているのだろうとか、この本の前ではそんなことはたいした意味はない。そんなエセインテリチックなところにこだわると、この小説の良さが分からなくなる。

この本のあらすじというのは、

世界大戦前のロンドン、家族や仕事を投げ出して画家を目指した中産階級上層の40男について、ある小説家が戦後になって振り返ってみた。
というものだった。

この小説は一読、とても面白いのだけれど、いったい何が面白いのかという説明をするとなるとちょっと難しいものがある。
まず画家を目指して家庭を捨てた男はゴーギャンがモデルだという。この小説がゴーギャンの自伝的なものであるということは小説の面白さと関係がない感じ。例えば、画家を目指して身を持ち崩した40男に結局絵画の才能がなかったとしても、この小説の面白さの枠組みというものは存在し続けるだろう。

この面白さの枠組みとは何なのかという。
率直に言うと、40男が中産階級上層から下層へ、中産階級下層から下層階級へ、文明の下層階級から辺境の植民地へという階層移動することに対して、それを価値の堕落と考えるか真実の場への降下であると考えるのか、その認識の揺れみたいなものがさわやかなリアルさを表現しているのだと思う。

ゴーギャンと目される40男の妻は良妻賢母の専業主婦で、家をピカピカに磨き上げながらロンドンの名士を家に呼んでサロンの女主人を装うのが趣味なんだよね。人に評価されたいという気持ちは分かるけれどもやりすぎるのもどうか。しかし頑張りすぎの人たちが集まっちゃって一段高い世界観を形成して互いに満足しあうということはあり得る。
こういう持ち上げられた奇怪な世界から逃げ出したいというのはある。ゴーギャンと目される40男のように。

私の勤める会社の取引先のお偉いさんというのが車好きベンツ好き。悪い人ではないのだけれど、ベンツの話になると止まらなくなる。最近のベンツ乗りはタイヤのところに補助ブレーキシステムをつけている奴が多いらしいのだけれど、それはベンツの美学に反するらしい。
ベンツに美学なんて言うものがあるのかと思って。どうやら奇怪な認識共有が一段高い世界観を形成しているらしいのだけれど、ハイソな世界をのぞき見したいような、馬鹿げた世界にはかかわりあいたくないような。

ゴーギャンと目される40男はブルジョア的な相互承認世界にウンザリしたのだろう。ロンドンを逃げ出しパリで絵を描き始める。しかしパリでの唯一の友人が差し伸べる手をやんわりとお断りする。中産階級下層に留まる手段を自ら放棄する。


このような誘惑というのは確かに存在する。
田舎の葬式に出たときに、親戚の叔父さんが近寄ってきて、
「葬式というものは生きている人のためにやるものだってしみじみ思う」
なんて語りかけられたりする。
何言ってんだこの馬鹿。哭泣は生者のためにあらざるなり(孟子)だ。なんて思うのだけれど、これを言ってしまうと田舎での関係性が切れてしまうので、「そうですね」と神妙な顔をしてうなずくわけだ。

ゴーギャンと目される40男は、このようにして下層階級、さらには文明の辺境へと流れつく。このことが堕落であるのか遍歴であるのかの判断となると、普通は堕落ということになるだろう。できるだけ頑張って上の階層にいるほうがいいということになる。
しかしこの「月と6ペンス」が発表されたのは1919年で、世界大戦終戦直後だ。近代ヨーロッパの価値観の転換期であって、ゴーギャンと目される40男の人生が堕落であるか遍歴であるかというのは判断が難しい時代だった。

その判断の揺れみたいなものが、この小説ではうまく表現できていてすばらしい。

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かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道






内容はというと、高校2年の男の子が母親の再婚相手を完全犯罪を目論んで殺すというものだった。

この少年、頭がよくて行動力があって、という設定になっている。再婚相手を殺すのにハリを使って感電死させようとするのだけれど、使うハリはステンレス製がいいか銀製がいいか検証されたりする。銀製のハリは折れやすいということで却下されるのだけれど、何だか変にリアリズムがある。
この辺りは軽く端折ってくれると読みやすいと思うのだけれど、主人公の少年はハリの素材についてしつこく悩む。

とにかく話が重い。話の細部も重いのだけれど、話のメイン部分も重い。
母親の再婚相手がクズなので、母親と妹のためにこのクズを殺そうとするわけなのだけれど、これはエディプス的だろう。父親を乗り越えることで少年が成長するという物語かもしれないが、私は個人的に思うのだけれど、父親って無理に乗り越えるものでもないだろう。
私には21歳の息子がいるけれど、私を乗り越えて成長しろなんて思わない。私が二十歳のころはヘーゲルを読んでいたから、お前もヘーゲルを読めとは言わない。ヘーゲルなんて読んでもロクなことがない。昔彼女(今の妻)が部屋に遊びに来た時に気にせずヘーゲルを読んでいたら、取り上げられて壁に叩きつけられたことがあった。

この「青の炎」という小説は、出来はいいのだけれど話の内容が無駄に重い。反抗期前の子供を持つ若い知的なパパが読むのはいいのではないかとは思うけれど、それ以外の層の人が読むには重すぎるだろう。

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