magaminの雑記ブログ

2018年10月

オリンピックのボランティアを定員を決めて募集していることについてなのですが、これって企業が社員にサービス残業を期待するところのメンタルと変わるところがないですね。

社会全体が成長しているような時代、すなわちバブル崩壊以前の日本にはサービス残業もしょうがないみたいな雰囲気は確かにあったのですが、これって未来のために今の自分を投げ出すみたいなもので、ちょっと今の時代にはそぐわないのではないかと思います。

バブル崩壊から20年ぐらいは、成長しないの?アレ? みたいな感じだったのですが、10年ぐらい前から、経済が成長しないことを前提で人生を考えなくてはならない、みたいな雰囲気になってきたと思います。そこら辺のニーズをとらえたのが安倍政権でしょう。

安倍政権支持層のメンタルというのは、社会の中で没個性的な歯車でかまわないから自分の居場所を確保したい、というものでしょう。このようなメンタルにリベラル左翼が、

「あなたはあなたらしさを出して!」

なんて言っても大きなお世話なんですよね。
ボランティアであなたがあなたらしく、なんて嘘くさく響いてしまう。
どうしようもないんですよね。

このような状況を自分に引き付けて解決しようとするなら、ささやかでもいいので何か面白いコンテンツをボランティアに付随させればいいと思うのですが、リベラル左翼のおじさんおばさんというのは頭がカチカチで、くそまじめな正論しか言わなかったりしますから。






バイ貝

この本は何でしようか。小説というわけでもないし、エッセイなんていう洒落たものでもないですし、まあなんて言うか、グダグダ本ですね。

内容はというと、これ別に内容というものないんですよね。書評を書くのもどうしましょう? こうなったら例えましょう。

「たとえます!」

昨日ブックオフに行ったんですよ。事前にネットで調べると、600円以上買うと110円割引のクーポンがあるのです。これはいいわー。このクーポンを印刷するかスマホで表示して店員に見せればいいらしいのですが、私、スマホもプリンターも持ってないんですよね。まあでも何とかなんだろ、と思いまして。600円以上買って、意気揚々とレジに行きまして店員さんに言いました。

「110割引きのクーポンを印刷してきました、頭の中に」

完璧だわ。だいたいさー、スマホのクーポン画面を見せればいいだけなんだから、これすなわち店員がクーポンの画面を見た事実が大事ではなく、クーポンの画面を見たと信じさえすればいいわけで。その辺は空気読むでしょ。店員、にっこり笑ったよ、いけるか、いけるか。

「ネタでしょう?」

なんやねんネタって。そんなネタあるかー。そもそも間髪入れずネタでしょう?って、おまえどんだけフレンドリーやねん。こいつあかんわ。あかんっぽい。でももうちょっと押してやれ。

「でも裁量というのもありますよね。フレキシブルな判断みたいなやつです。そういう裁量を持っている人ってこの店にいたりします?」

でたフレキシブル。フレキシブル最強。もうフレキシブルって言いたいために、ごねてるところもあるかも。いやそれはない。いくらなんでもそれはない。そもそもごねてないし。もう財布から1000円出して渡してるし。

「そういうのは誰が担当してもお断りしてます」

あっそ。頭来た。頭来たからブックオフポイントカードのポイント使ったろ。133ポイント? くほほ。全部使ったろ。133ポイントって結構貯まったよな。いっつも108円の本しか買わんへんのに。
店員、そういうの、って言いよったな。でも、そういうの、って何なん? やっぱり、クーポンを頭の中に印刷してきましたっていうヤツ、多いんちゃうん? 大事なのはお客がクーポンを見たっていうことで、そりゃー見たにきまってるよ。見てなきゃ110円とか言われへんやん?

「頭の中にクーポン印刷しました、なんていう人、他にいたりします?」

なんか店員、めっちゃ笑てるで。オレの話、徹頭徹尾ネタだと思ってんちゃうん? 春夏秋冬ネタだと思ってんちゃうん?

「一人もいないですね」

いねーのかよ。おらへんのか。ほんなら、そういうの、とか言ったらあかんのちゃうん? 言葉の選択ミスちゃうん? 
なんか暑いわ。もう帰ろ。隣のまいばすけっとで、プリン体ゼロの発泡酒でも買って、飲みながら帰ろ。
(以上の話は、実体験をもとに脚色したものです)

何が言いたいのかといいますと、町田康の「バイ貝」という本は、こういうたぐいのぐだぐだ話ということです。ただ登場人物は語り手一人なので、ぐだぐだ度合いというのはかなりのハイレベルです。








フリージャーナリストの安田さんをめぐる自己責任論がある。

自己責任なんていう人は余裕のない人だなーと思うけれど、逆に考えると、余裕がなくなるまで頑張っているともいえる。私なんて、
「安田さん、解放されてよかったね」
なんて思うのだけれど、これは余裕があるからで、たいした稼ぎもないのにこんな余裕のよっちゃんイカみたいな生活をしていていいのかなー、なんて。
余裕がなくなるまで頑張るって、やっぱりすごいヨ。

自己責任論に否定的な人はいる。いい人だと思う。友達になりたい。
ただ、
ツイッターで素顔を出して千以上のフォロワーを抱えている人は、自己責任論に否定的だったりすることが多いけれど、あれは本音かどうか分かったものではないな。余裕のあるポーズをしている可能性だってある。本音かどうかわからないような人のつぶやきをリツイートしたりする人も。
きついパターンが、自己責任論に対して余裕のない言葉で上からかぶせようとすること。自己責任論を展開するような余裕のない奴は自己責任だみたいな話であって、これもうちよっとわかんないよね。

こんな議論でエネルギーを使っても日本が分裂するだけで意味ないよ。
このエネルギーを、サウジの皇太子を煽る方向にもっていけばいいんじゃないのかな。
あの皇太子の名前、サルマンだっけ? あのふざけた王子を煽って煽って、火が消えそうになったらバタバタ煽っていけばいい。あれより金持ちって日本人にはいないだろう。ちょうどいいターゲットだ。



「くっすん大黒」は町田康という作家のデビュー作です。町田康は小説家としてデビューする前はパンクロッカーでした。これは今でもか。

これ、小説というよりも、テンションの高い大阪のおっちゃんのオモシロ日記みたいなものです。普通、話っていうのはオチに向けて多くの出来事を落とし込んでいくというスタイルをとるのですが、この小説はスタイルというものもなくて、面白いところは自分で探してくださいみたいな、なんというかまあそんな感じですね。

こういうのって、小説に慣れてしまった近代人には、逆に新鮮だったりします。

私の知り合いに76歳の中島さんという話好きなお爺さんがいるのですが、この人の話が「くっすん大黒」と同じパターンです。
中島さんは昭和32、3年ごろ中学生で、英語の塾に行っていたという。勉強ができないので親に、
「あんた、塾にでも行きなさいよ」
と言われて、近所の塾、東京の碑文谷なんですけれど、に行かされていたという。60年も前に通っていた塾の話を聞かされるのも、私としてめんどくさいというのはあるのですが、私も暇なんで、フンフンと聞くわけです。
そこの塾長というのは数学を教えるのですが、英語の先生は大学生のバイトを雇うのです。中島さんを教えてくれた英語の先生は早稲田の学生で、すごく温厚ないい人だったらしいですよ。いつもニコニコしていて、中島さん曰く、ぽちゃぽちゃっとした小太り体形の男性だったらしいです。
ここまで昔話としては成立しているのですが、話として何も面白くないです。
その英語の先生は、ある日、塾の生徒に本を配ったというのです。
「その先生、本を出したって言うんだよね。だから塾の生徒にその本を配ったんだよ」
塾の先生が自費出版したような本を配っても、そんなこと全くどうでもいいとは思うのですが、一応マナーとして私も聞くわけです。
「それ、どんな本だったんですか?」
「野獣死すべし、っていう題名だったね」
「えっ?」

なんていうか、とんでもないこと言いだしたんじゃないのかと思いまして。


「その英語の先生、大藪って名前じゃなかったですか?」
「うん、そんな名前だったね」
「ちょっと待ってくださいね。その大藪春彦、いや大藪先生、どんな先生でしたっけ?」
「うん、ぽちゃぽちゃっとして愛想のいい先生だったよ」

実話です。

中島さんがもし大藪春彦を頭に持ってきて話を組み立てたなら、普通の自慢話みたいになってくると思うのです。ところが中島さんの話は、あり得ないレベルのグダグダ話なわけで、話を聞くものは、そのグダグダ畑から宝を見つけたり見つけなかったりするようになるわけです。

これって斬新だよなーと思っていまして、町田康も、もしかしたら同じラインを踏襲しているのではないかと思いまして。

こうなると町田康の評価は分かれるでしょう。意味のある話しか読みたくないという人は、町田康を遠慮するようになるでしょうし、町田康の書くものは必ずあたりというものでもないでしょうし。


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あらすじ・ネタバレ解説 あります。 王子はたぶん死んでますね。

「マリアビートル」のあらすじなんですけれど、

蜜柑と檸檬の殺し屋コンビ、たちの悪い中学生と元殺し屋、七尾という腕はいいのだけれど気が弱く運の悪い殺し屋、この3グループが、東北新幹線という閉じられた空間で一つのトランクをめぐって争う、という話でした。

七尾の運の悪さというのは普通ではないのです。簡単な仕事のために入ったお店で銃撃戦に巻き込まれたりとか。
これで私、ピーンときました。
この小説世界で作者の意思を代弁するような何者かが、七尾の運をコントロールすることによって物語を大団円に持っていこうとするだろうって。だっておかしいじゃないですか。殺し屋が携える奇妙な不運さが小説の整合性の根拠に何の関係もないとするなら、その不運さは小説の整合性を棄損するものでしかなくなるわけですから。

特異な設定から作者の代弁者が物語をあからさまにコントロールしようというのは、伊坂幸太郎の得意のパターンです。彼のデビュー作、「オーデュボンの祈り」では「喋るカカシ」がこの役でした。
これが作家の態度として悪いというわけではないです。普通の作家は、近代小説の三人称客観形式を利用して個人的な世界観を普遍的な世界観だと主張しがちです。しかし伊坂幸太郎はそういうのが嫌いなのでしょう。誠実な態度だと思います。
この小説の中で、たちの悪い中学生が大人たちに、
「なぜ人を殺してはいけないのか」
と質問して回ります。どの回答にも中学生は納得しないのですが、こういう小説内問答も、個人的な世界観を普遍的なものだと主張するのを拒否するような、伊坂幸太郎の小説家としての誠実な態度の表れだと思います。

ここからネタバレになります。

七尾の不運が、最終的に小説世界の大団円に役に立ったのかというと、実はそうではなのです。たちの悪い中学生をとっちめたのは、七尾の不運てせはなく突然現れた伝説の殺し屋でした。ちょっとアレッていう肩透かしを食らわされた感じでした。多分この小説は、作者の中で続編予定なのでしょう


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[カザリとヨーコ]
[SEVEN ROOMS]
[SO・far]
[陽だまりの詩]
[ZOO]

という5つの短編からなる短編集でした。
とにかく読みやすいです。全編、僕や私という一人称主観が語り手で、なんというか私小説風です。語り手に合わせて話を理解していけばいいだけで、読む方としてはすごく楽です。
この語り手たちは置かれている環境が酷かったりするのですが、自分のささやかな才覚で酷い状況をできるだけ克服しようとします。ですから、どの話もある意味若干ポジティブな内容となっていて、辛気臭い内容をえんえん読まされてウンザリするということはないです。

[SEVEN ROOMS]が一番出来が良かったです。ただこの短編は、「ミステリーアンソロジーⅡ 放課後の殺人者」というアンソロジー集に書き下ろしで採用され文庫化されていています。私はこの短編は再読になってしまい、出来のいい短編だけにちょっと損したような気持になりました。

[陽だまりの詩]が私的にはいまいちでした。アンドロイドか主観形式で語るのですが、設定に無理があると思います。いい話だと言えなくもないのですが、感情を持ったアンドロイドが主観的に語ってしまっては人間中心主義の世界観が強烈で、逆にアンドロイドが可哀そうになってしまいました。

トータルで悪くない短編集でした。ただZOO〈1〉1は250ページほどの薄い文庫本です。この後にZOO〈2〉があります。これ、二冊に分ける必要があるのかという疑問は残りました。

magamin1029

安倍政権の年代別支持率は、40代以下は支持のほうが高くて50代以上は不支持のほうが高い。普通の保守政党のパターンとは逆だ。

何故逆転現象が生じているのか。

これやっぱり年金がらみだと思う。
高齢者の年金に対する執着というのはすごい。年金をもらうことを当然の権利だと確信している。

アベノミクスというのはインフレ政策であって、突き詰めて考えると、年金給付の確実性を棄損するところがある。このあたりのことを高年齢層は嗅ぎつけて、アンチ安倍に回っているのではないだろうか。

高齢者に多い左翼リベラル思想というのは、結局自己保身によって支えられているということになる。
このような支持層に支えられている野党が政権を取ることは全く不可能だろう。
真のリベラルは年金ギャングの向こう側に出なくてはならないだろう。








趙の武霊王が乗馬戦法を採用したのですが、昔ながらの戦いに固執する保守派によって殺されてしまいます。そしてこの乗馬戦法を徹底的に採用したのが秦です。

秦という国は辺境の新興国で、古いものに対する執着がほかの六国に比べて少なかったのです。現代で言えば、こだわりの少なかったアメリカが旧世界を抑えてヘゲモニー国家になったみたいなものです。


キングダム理解のために 2
キングダム理解のために 1

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秦の中国統一の40年ほど前(紀元前260年ごろ)

の七ヶ国で戦国七雄。
昔、晋(しん)という国があったのですが、紀元前四五三年にの三国に分裂しました。
この紀元前四五三年以前を「春秋時代」、以降を「戦国時代」といい、あわせて「春秋戦国時代」ともいいます。

日本の歴史区分の名称である「戦国時代」は、中国の「戦国」から採られています。


キングダム理解のために 1


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坂口安吾は芥川龍之介の甥である葛巻という人物と親しくしていて、芥川の晩年の手記を見ることができた。

坂口安吾の昭和16年の評論、「文学のふるさと」こうある。


私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いし

ながら、ただ
しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

すなわち安吾のいう「ふるさと」というのは、
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」
みたいなノスタルジックな思い出の場所のようなものではない。

芥川の遺稿の手記に、

農民作家なる人が芥川の家を訪ねてきて、生まれた子供を殺して一斗缶に詰めて埋めたという話をする、

というものがある。

農民作家に、
「あんた、これをひどいと思うかね。口減らしのために殺すというのを、あんたひどいとおもうかね」
と言われて芥川は言葉に詰まったという。


さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去った

のですが、
この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。

この突き放すところのものを、安吾は「ふるさと」と言っている。

自分なりにいろいろ考えてみる。

「インターステラ」という映画がある。主人公たちは滅びゆく地球の代わりを探そうと別宇宙の惑星を巡るのだけれど、まー、ろくでもない惑星ばかりなんだよね。しかし他惑星の住環境が酷いのは惑星の責任ではなく人類の都合であって、これは全くどうしようもない。同情も正義も文学もない宇宙で主人公たちは悪戦苦闘する。別の宇宙空間で自分たちは世界から突き放されるのではないかという予感が満ちる中、実際何度かドーンって突き放される繰り返し。

結局「インターステラ」の面白さというのは、人類が宇宙(世界)に突き放されるところの「突き放され具合」にあると思う。
この突き放すところのものが、安吾のいう「ふるさと」ということになるのではないか。

中国思想にも同じ「ふるさと」観がある。荘子の中に、


会えば離れ、成すれば壊れ、角は砕け、貴は辱められ、愚は堕ちる。知を積み重ねても、それは悲しい。弟子よ、これを記せ。ただ道徳の郷があるだけだと

とある。


なぜ安吾がこのような「ふるさと」思想に至ったのかというと、太平洋戦争切迫の結果だと思う。あの戦争は日本にとって中国とアメリカとの両面戦争だった。正直、中国とアメリカ相手に両方同時に戦争するなんてあり得ないでしょう。ナチスドイツだってフランスを制圧して、返す刀でソ連に侵攻した。日本なんかよりはるかに合理的だった。日本は世界に突き放されて、その結果として見えたものが「ふるさと」なのではないか。残酷な「ふるさと」なんて見ずに死ねればそれに越したことはないのだろうが、見てしまったものはしょうがない。

安吾の後の「堕落論」などは「ふるさと」思想の延長戦上にある。生きよ堕ちよ、だから。


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