magaminの雑記ブログ

2018年09月

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」のあらすじというのは、
主人公「僕」は井戸の底でリアルな夢を見た。真っ暗なホテルの部屋で妻をめぐって義兄と対決する夢。バットでぼこぼこにしたのだけれど、現実世界では、義兄は同時刻に脳卒中で倒れていた。

というもの。なんだそれ、という要約になってしまうのだけれど、村上春樹の楽しみ方というのは、この要約にどういう意味をのせていくかということになると思う。意味をのせるなんて意味がないと考える人もいるだろうが、それはそれでかまわないと思う。

どのように意味をのせるかというのは、真理を探究するなんていうものではなく、世界説明の仮説をつくってみるという程度のもの。以下に「ねじまき鳥クロニクル」世界の個人的説明仮説を展開します。

女性をめぐっての対決という図式は、ごぞんじ「ノルウェイの森」にも存在している。

「ノルウェイの森」の主人公「僕」は高校時代の親友であったキズキの彼女であった直子を好きになる。キズキと直子はベストカップルだったのだけれど、何故かキズキは直子を残して自殺してしまう。残された直子は精神的に極めて不安定になる。「僕」は直子を助けようとするのだけれど、結局直子はキズキの後を追うようにして自殺してしまう。

すなわち直子をめぐって、生きている「僕」と死んだキズキの綱引きがあって、結果「僕」はキズキという死者に負けてしまう。
ではどうすれば「僕」は直子を救うことができたのだろうか。「ねじまき鳥クロニクル」はこの疑問から始まる(仮説だよ)。

なぜ直子が自殺したのかというと、直子の精神状態が不安定だったからだ。精神的な不安定さから回復するためには、回復しようとするその本人に回復するための精神的な足場がなくてはならない。足場がなくては登ることはできない。井戸に落ちたら独力では登ることができないように。

直子は自殺した。自殺者を救うにはどうすればいいのか。

大正時代以降、日本において最も自殺率の低い年は昭和18年だ(昭和19,20,21年は統計がない)。昭和9年以降、徐々に自殺率が低下し始めている。これは満州事変以降の戦時動員体制の進捗と軌を一にしている。総力戦体制は直子を救える可能性がある。

「ねじまき鳥クロニクル」の主人公「僕」の敵役である義兄「綿谷ノボル」は新進の政治家だ。綿谷が選挙地盤を継いだ彼の叔父というのは、戦前において対ソ連戦のための防寒研究をする軍官僚だった。すなわち日本総力戦体制の一翼を担うような革新軍官僚だったわけだ。綿谷はこの血脈を継いでいる。

「ねじまき鳥クロニクル」の中でノモンハンとか北部満州での描写が多く出てくるのは、日本の戦時総力戦体制を小説的に肉付けするためだろう。
ちなみに総力戦を呼号する現在の安倍総理の祖父は岸信介であり、岸は戦前、満州を総力戦の実験場にした革新官僚群のトップだった。
そして安倍が総理に就任した2012年以降、日本の自殺率は劇的に低下している。
綿谷ノボル陣営は、強力にグロテスクに直子的存在を救おうとしている。それに対して「僕」はどうか? はっきり言って徒手空拳だ。本文中にこのようにある。

「オペラの中では王子さまと鳥刺し男は、雲にのった三人の童子に導かれてその城まで行くのよ。でもそれは実は昼の国と夜の国との戦いなの・・・・・」
ナツメグはそう言ってから、指先でグラスの縁を軽くなぞった。
「でもあなたには今のところ鳥刺し男もいないし、魔法の笛も鐘もない」
「僕には井戸がある」と僕は言った。

井戸があるからどうだというのだろうか?

「僕」はナツメグ、シナモン母子と知り合う。この母子の仕事というのは、本文中には明確には書かれていないのだけれど、どうやら精神的に不安定になってしまったエスタブリッシュメントの子女たちの一時的精神矯正みたいなものらしい。
はっきり言ってしまえばオカルト療法だね。
「僕」は井戸という裏技?を使い、この母子と組んでエスタブリッシュメントの子女たちにオカルト的精神療法を施す。

確かに直子を救うことができるのならオカルトでも何でもいいという論理は成り立つ。村上春樹のオウム真理教にたいする興味は、このあたりから発生しているのではないかと思う。
どちらが直子をより救えるか。総力戦思想vsオカルト療法、ファイ!! みたいなことに結局はなるのではないだろうか。

オカルト療法もなくはないと思う。ローマ帝国だって、その末期にキリスト教というオカルトを導入して帝国の一体性を延命させようとしたのだし。
でも、個人的にはオカルトはちょっと遠慮したい。日本はまだそこまで落ちぶれてはいないと思う。

大体以上が私が「ねじまき鳥クロニクル」を読んでの世界説明なのだけれど、もちろん様々な世界説明があってかまわないと思う。ただし村上春樹も普通の人間なのだろうから、あまりに村上ワールドを巨大に考えてしまうと、それは過大評価だろう。

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ねじまき鳥クロニクルの主人公「僕」は、近所の空き家の庭にある涸れた井戸に縄梯子を下ろして、井戸の底で井戸ライフを送り出す。二日間ぐらいの井戸ライフだったけれども、ページ数にすれば130ページぐらいになる。

「ねじまき鳥」はここまでとにかく井戸押し。第2部に入り、主人公はついに井戸の底にまで降り立った。
井戸といっても普通の涸れた井戸だから取り立てて何もない。井戸の底でファンタジーの扉が開くとか、そういうのはない。普通の井戸。
井戸という観念に何か意味があるのではないか? 大袈裟に言うと、井戸はメタファーであるというということになる。
村上春樹が導こうとする井戸メタファー世界観というのは、私が推測するに、

私たちは井戸の外の世界で当たり前に生活していると思っているけれど、真の世界は実は広大であって、人間は日々生活するにあたりそれぞれの心に井戸を掘り、その底で自分の世界を守りながら生きているのではないだろうか。そして現実に井戸に潜ることで、人間の真の井戸性というものが明らかになるだろう。人間の孤独、共感性、運命などが、より明確になるだろう。

というようなものだと思う。

しかしそもそも何故井戸なのか?
「ノルウェイの森」の冒頭でヒロインの直子が主人公の「僕」に向かって、この森のどこかにすごく深い井戸があるのよ、みたいなことを語っていた。この直子というのはちょっと精神の不安定な女性で、この深い井戸のくだりも、直子が京都北部の精神療養所に収容されている時に、そこを訪れた「僕」に対して直子が語ったところの話だ。
深い井戸とは、精神の不安定な女の子が自殺する前に「僕」に語った無駄話の中に出てくる単語に過ぎない、という考え方も出来る。
村上春樹は井戸に拘る。ここで奇怪なことは、井戸とはそもそも村上春樹が作ったフィクションにでてくる単語に過ぎなかった、ということだ。井戸にこだわるということは、「ノルウェイの森」の直子にこだわるということで、しかし直子とは、村上春樹が書いたフィクションにおける登場人物の1人に過ぎない。井戸に価値を付与して、井戸をメタファーとしての造形したとしても、トータルとしての奇怪さというのは隠せないと思う。

「僕」は井戸の底で夢を見る。
その夢の中で、「僕」の妻の兄がこのように語る。

「愚かな人は世界のありようを何ひとつ理解できないまま、暗闇の中でうろうろと出口を捜し求めながら死んでいきます。彼らはちょうど深い森の奥や、深い井戸の底で途方にくれているようなものです。彼らの頭の中にあるのはただのがらくたか石ころのようなもので、だから彼らはその暗闇の中から抜け出すことが出来ないのです」

彼は全く明らかに「ノルウェイの森」の世界観に喧嘩を売っている。「ねじまき鳥クロニクル 第3部」は、主人公「僕」のこの義兄に対する反撃をメインに展開するのではないかと予想する。
どっちも頑張れって思う。

「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」 に続きます。


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村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」の主人公「僕」は法律事務所を退職して現在無職。出版社に勤める妻がいる。
飼っているネコがいなくなって、マルタという女性にネコの探索を依頼する。

「海辺のカフカ」でも中田さんの職業がネコ探しだった。そういえば「ノルウェイの森」では、主人公の引っ越し先の下宿にネコが訪ねてきていた。そのネコを探しているのか。

いなくなったネコを探しに、主人公の「僕」は近所の空き家の庭先に行く。そこに井戸があって、石を落としてみたけれど、どうやら水は枯れてしまっているらしい。

井戸? そういえば「ノルウェイの森」で直子が、この辺りには誰も知らない深い井戸があるのよ、なんて言っていた。

井戸のある空き家の向かいに16歳の女の子が住んでいる。例えば彼女のかつらについての考察。
「それでね、まあとにかく、もしあなたがかつらを使っていて、二年たってそれが使えなくなったとして、あなたはこんなふうに思うかしら? うん、このかつらは消耗した。もう使えない。でも新しく買い替えるとお金もかかるし、だから僕は明日からかつらなしで会社に行こうって、そんな風におもえるかしら?」

ん? これは「ノルウェイの森」の緑の口調そのままだろう。
緑の家の裏の空き家の庭に井戸? 

ネコを捜すマルタの妹はクレタという名前で、マルタの助手をしている。クレタの告白によると、彼女は二十歳まで非常な痛みに苦しんできたという。生理痛はひどいし、飛行機やエレベーターに乗ると気圧の関係か頭がガンガンするし、傷は治りにくいし。痛みというのは人に伝えられない。孤独に苦しんで二十歳の誕生日に自殺しようと思っていたのだけれど、二十歳を過ぎたら急に痛みが人並みになったという。
しかし気づいたことは、今までは精神と肉体を痛みがつないでいたということ。痛みがなくなって精神と肉体との間に距離が出来てしまったかのように感じるという。

「ノルウェイの森」の直子のカリカチュア? マルタのファッションというのは、1960年代のファッション雑誌のモデルそのままの野暮ったいもの。「ノルウェイの森」の時代設定もそれぐらいだった。

小説というのは基本的に、まあなんというか現実世界の真理やリアリティーを探求するという面があると思うのだけれど、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説は第1部を読む限り、村上春樹世界を探求するという方向に舵が切られている。
こうなると、村上春樹ファンにとってはたまらないけれど、アンチ村上春樹にとっては全くどうでもいいということになるだろう。

私個人としては、意味があるか分からないような井戸やネコ探しに興味が出てきた感じで、何だか少しハルキスト。
第2部、予言する鳥編に続きます。

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高校1年の男の子が、自分が存在しない代わりに二歳年上の姉がいるというパラレルワールドに迷い込むという話だった。
この姉というのが主人公と比べて何かと優秀で、この世界は自分の代わりに姉がいるだけなのに何だかいい方向に動いているという。例えば、主人公の世界では、彼の恋人は事故死しているのだけれど、こちらの世界ではピンピンしていたり、険悪な仲だと思っていた両親がこちらの世界ではラブラブだったり。
そしてこの小説の題名が「ボトルネック」だという。
猛烈にいやな予感がするだろう。おまけに主人公の少年はほんのりとネガティブなんだよね。

278ページで主人公の少年が、

「見るべきものはすべて見た」

なんて言っている。
イヤイヤイヤイヤ、君はそんな平家物語みたいなことを言っているからダメなんだよ。
オジサン、少年よ大志を抱けって思うね。


米澤穂信という小説家の小説ははじめて読んだ。

この「儚い羊たちの祝宴」は五つの作品からなる連作短編集だった。
お嬢様限定の大学読書サークルというのがあって、そのサークルに参加する女の子たちのそれぞれのミステリーみたいな感じだった。
読書好きのお嬢様はいったいどのような本を読んでいるのかというと、
第1作目 「身内に不幸がありまして」 のお嬢様の愛読書はなんと、

泉鏡花の「外科室」

マジか? あれってうわごとを聞かれたくないからといって麻酔なしで手術しようとする女性の話だろう。そこまで自分を追い込まなくてもいいのにという。
まあいいだろう。

第4作目 「玉野五十鈴の誉れ」 のお嬢様の愛読書はなんと、

「荘子」

マジか? 荘子だよ。老子、荘子の荘子だよ。
「鳥となる。名を鵬という。羊角して昇ること九万里」
「誰も知らず、荘周の夢の胡蝶であるか、胡蝶の夢の荘周であるか」
こんな感じで、女の子が読むようなものではないと思うけれど。でもこれは彼女の祖母が悪い。この祖母は家の暴君で、お嬢様が友達を作ろうとするとことごとく反対して、その言い草が、

「直(なお)きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは、益なり」 それなのにあのものにはどれもが欠けています。

ときた。論語です。しかしこの言葉には続きがある。

「便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり」

おばあさん、あなた損な友達しかいないでしょう、みたいなことになってしまう。
女の子を奇怪な文学から解放してあげたいと思う。もちろんこの小説の中での話なのだけれど。米澤穂信の短編小説とかはオススメだ。とにかく読みやすい。気の利いたひねりが利いていたりするし。

まあでもお嬢様たちは、すでに米澤穂信の小説の中にいるのだけれど。


現代日本の20代(この本の出版は2011年9月なので、2018年現時点では7年たっている)は、生活満足度が高いという。
その理由は著者の分析によると、
日本においては最低限の生活は保障されていること。
ネットツールの発達により、簡単に友達同士の相互承認のコミュニティーに参加できるということ。
の二つにあるという。

著者の論理の筋道をざっくりまとめると、
現代の若者の多数は小さい相互承認のコミュニティーで満足している。確かにSEALDsのような善意で日本を盛り上げようというリア充集団もいるし、ネトウヨのような国家主義にコミュニティーを求める人たちもいる。しかし多数の若者は近代国家というものに意識の力点がない。しかしそもそも近代国家日本は明治維新以降に創られたもので、このまま時がたてば日本は明治維新以前の中世的江戸世界に自然と移行していくであろうし、別にそれでかまわないのではないか、というものだ。

この論理にそって、著者は自分も含めた現代日本の若者を「生温かい目」で見るという姿勢をこの本全編で貫いている。

「絶望の国の幸福な若者たち」の文庫本には、この本の出版の4年たった後の著者の心境の変化みたいなものが脚注や追記として書かれている。この中で著者は、江戸時代は前近代ではなく「前期近代」ととらえる認識に変化したという。

これは大変な変化だよ。この本の論理の根底を覆すレベルだ。

日本の前期近代がいつ始まったのかを精密に考えるなら、戦国大名が現れた時だろう。すなわち前期近代以前となると、室町の荘園制度時代ということになる。近代が終わって江戸時代に戻るならまだしも、室町中期に戻るとしたらちょっとヤバイのではないだろうか。
著者自身も4年後の追記に、近代システム崩壊後の無政府状態は時に戦争よりも多くの犠牲者を生み出す、と書いていて、シリアの内戦などの例をあげている。
時代を生温かい目で見る本書の追記に危機を煽る文言のあるこの文庫版は、とても一貫した主張のある論理構成だとは言えない。
まあでも逆に考えるなら、新しい考えをフレキシブルに取り入れる著者の態度は誠実であるとは言えるわけで、ここからの著者の活躍に期待したいとは思う。

「東京奇譚集」のハナレイ・ベイ映画を見る前に読んでおくというのもいいでしょう。

私の村上春樹読書体験というのは、
ノルウェイの森」を読んで、
これはいい、日本近代文学を代表する名作だわ。胸にジンジンくる。
海辺のカフカ」を読んで、
なんだこれ、ノルウェイの森の劣化版だな。直子ファンとか怒り出すんじゃねーの。
アフターダーク」を読んで、
ひどいなこれは。村上春樹、寝ながら書いただろう。
というものだ。

「東京奇譚集」は短編集なのだけれど、正直本当に面白いのかと疑いながら読み始めた。
これが結構おもしろかった。

「偶然の旅人」

村上春樹の友達が神奈川のショッピングモールでオバサンにナンパされてホテルに誘われたけれどヤンワリ断ったという話。ショッピングモールでおばさんに逆ナンというのが奇妙なリアリズムを生む。

「ハナレイ・ベイ」

サーフィンの事故で一人息子を失ったオバサンと、サーフィン好きな二人の大学生とのたいして心も温まらない話。オバサンの口の悪さと二人の大学生のぐだぐださとのコントラストがいい。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」

タワーマンションの24階と26階の間で行方不明になった男を捜すボランティア探偵の話。しかしこの探偵、24階から26階までの階段しか探索しない。タワーマンション高層階の階段なんて誰も使わないだろうと普通思うのだけれど、ジョギングしている人がいたり子供の遊び場になったりと結構階段ライフって楽しそうなんだよね。そのうち行方不明になった男とかどうでもよくなってくるから不思議。

「日々移動する腎臓のかたちをした石」

主人公の男性は、男には人生の中で運命的な女性が3人現れる、と確信していて、この目の前の女性がその2人目かどうかと考える話。読みながら、私には運命の女性がもう3人現れたのかと考える。妻を3人のうちの1人に数えないとまずいよね。じゃあ後の2人は誰にしよう、なんて思っているうちに読み終わってしまった。

「品川猿」

この猿が喋るんだよね。喋り方が「海辺のカフカ」の中田さんにそっくり。これはまずいでしょう。

このように全ての短編でそれなりに楽しめるという。村上春樹、やれば出来るじゃないか。


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伊坂幸太郎「ラッシュライフ」は映画化もされていますね。ネタバレをしていますので、この作品をもっと知りたい方のためのレビューになります。


「ラッシュライフ」は「オーデュポンの祈り」に続く伊坂幸太郎の第二作目の小説らしい。五つの物語がバラバラに進行する。

たちの悪い拝金主義者の画商の話。
ちょっとスマートな泥棒の話。
未来を予言できるとされる「高橋さん」を信じる集団内での話。
失業して離婚して郵便局強盗未遂までしてしまう豊田という男の話。
それぞれの配偶者を殺す計画を立てるダブル不倫の男と女の話。

この五つの話が小説の残りページが少なくなるにつれて徐々に重なってくるという形式だった。特に五つの話は同時進行的に語られていたのだけれど、実は2.3日のずれがあったらしく、例えば昨日失業者豊田が会った女性は今ダブル不倫の相手である男に裏切られて憔悴した女性であったとか。
空間的だけではなく時間的にも五つの話を関係させて、小説としての一体性を形成しようということになる。

ここまでは表の書評。ここからは裏書評。

伊坂幸太郎の前作「オーデュポンの祈り」では、喋るカカシがでてきて未来を予言したりしていたのだけれど、実はこのカカシは二羽の鳩を救うために状況をコントロールしていたという落ちだった。無意味に見える出来事はカカシによってコントロールされていたということによって、整合性のある小説世界が立ち現れるという。いうなれば小説という表現形式に対するイロニーだ。

同じことが、この「ラッシュライフ」にも言えるのではないだろうか。
この小説の最後で、無職の豊田は拝金主義の画商から野良犬を守るのだけれど、これは守るのではなく守らされているのではないだろうか? 誰によってかというと、未来を予言できるとされる「高橋さん」だ。「高橋さん」は犬を守るために全体をコントロールしたとするなら、これは「オーデュポンの祈り」と構造的には同じとなるだろう。

「高橋さん」は「オーデュポンの祈り」のカカシよりも隠微に世界をコントロールしているのではないだろうか、ただ一匹の野良犬を救うために、さらには世界に小説としての整合性を与えるために。

「ラッシュライフ」を精密に読めば、「高橋さん」が世界を整合的にするためにまいた伏線というを発見できるかもしれないが、私も馬鹿げた暇人でもないからそこまではしないけれど。

伊坂幸太郎というのは油断ならない小説家だと思う。



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ウォーラステインの世界システム論を分かりやすく理解しちゃおうという本です。
 
「世界システム論」を簡単に説明すると、現代の資本主義世界というのは歴史的に経済的分業体制の中から現れたというものだ。
これだけ聞くとたいしたこともないような感じなのだけれど、突き詰めて考えるとすごいことになる。

現代世界には先進国と発展途上国とがある。日本もはまがりなりにも先進国なのだろうけれど、私たちは発展途上国が発展途上国であるのはそこにくらす人々の教育が足りないからだとか、怠け者の国民性だからだとか考えがちではないだろうか。
カリブ海諸島が砂糖を生産して、イギリスの労働者がその砂糖を消費しながら工業製品を造るという経済的分業があった。
カリブ海諸島の人々はサトウキビを育て収穫すればいいだけであって、その世界はサトウキビで単純化されていて別に何も難しいことを考える必要はない。
イギリスの労働者は工場で働くための規律を求められる。定時に工場に来なくてはならないとか、我慢強く機械を操作しなくてはならないとか。彼らには前もっての訓練が必要だろう。教育という名の。
時は流れて、カリブ海諸国が発展途上国となりイギリスが先進国になったとして、カリブ海諸国が発展途上国であるのは、その国民が怠け者だからなのだろうか。イギリスの労働者を優秀にしたとされる教育とは、そもそも一体何なのだろうか。

現代において国家の存在というものは当たり前となっている。それを前提に私たちも紫式部を読んで、いにしえの日本はすばらしいなどとおもう。しかし明確な近代国家というのが現れたのは、ヨーロッパ近代の絶対王権以降だ。何故かと言うと、経済的分業体制の中では出来るだけ上流に行ったほうが有利なんだよね。相手に伍して上に行くためには出来るだけ多くの仲間と出来るだけ一体となって進んだ方がいいわけで、その文脈から国家的なものが現れたのだろう。
日本は島国で国家的な一体性を醸成しやすかったというのはあるかもしれないが、この考えを世界の全ての地域に当てはめるというのは危険だろう。

資本主義を歴史的経済分業体制だと考えると納得できることもある。
お茶に砂糖を入れるというのは普通ありえない。お茶を飲みながら甘いお菓子を食べるというのはあるけれど、お茶に直接砂糖を入れてしまったら趣も何もなくなってしまう。
しかしこのありえないことを実行してしまった国民がいる。
イギリス人である。
紅茶である。
17世紀のイギリスでは、お茶も砂糖も高級品だったらしい。イギリスの王侯貴族が、最初に高級品であるお茶と砂糖を混ぜる自分すごいというアピールをしたらしい。イギリスの発展と共に、その奇妙なアピールが庶民に広まったという。
経済分業体制、恐るべしだね。

刑務官の南郷と傷害致死で仮出獄中の三上の二人が、匿名者の依頼により死刑囚樹原の冤罪を証明しようというミステリー小説だった。
南郷は仕事で死刑執行に立会った結果精神的に不安定になる。自分が死刑囚を殺したみたいな。だから死刑囚の冤罪を晴らして贖罪したいということらしい。
気持ちは分かるけど考えすぎだろう。そんなことを言ったら、オウム関連の死刑囚の死刑執行命令書に立て続けにはんこを押した今の法務大臣はどうするの?ということにもなる。
傷害致死で仮出獄中の三上は、殺してしまった相手の保障に親が7000万出して親の小さい工場が傾いてしまった。親の苦労を見かねて冤罪証明の成功報酬1000万が欲しいという。
そもそも親が子供の不始末に7000万出すというのがおかしい。子供といっても三上は成人しているのだから自分で払わなくてはならないだろう。

このように精神的状況としてある一定レベル以上にあり、そのことにあまり気がついてないような二人が、天涯孤独でかつ強盗殺人の冤罪で死刑判決を受けたという樹原を救おうという、よく考えるとありがたい話みたいな感じだよね。
「13階段」の映画は三上に焦点を合わせすぎていて、ありがたい話が当たり前の話みたいになってしまっていた。

犯人なんだけれど、これがまた探偵役の二人にさらに輪をかけてありがたい人だった。この話をトータルで考えると、ありがたい人たちが天上界で争った結果、たまたま蜘蛛の糸が一本地獄におろされて、死刑囚のカンダタがうまくそれをつかんだということになるだろう。

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