magaminの雑記ブログ

2018年08月

資本主義とは、農村などの共同体を徐々に解体することによって、共同体構成員を労働し消費する労働者に移行させるシステムだという。  国家は資本に依存し、資本は労働者の消費に依存し、労働者は失われた共同体への郷愁を国家に求める。互いが依存し互いに強化しあうシステム。 この理論を使って現在の安倍政権について考えてみたい。 安倍政権は度重なるスキャンダルにもかかわらず高い支持率を維持している。その内訳を見てみると、40代以下男性の支持率が高い。 なぜか。 資本主義は共同体を解体する。戦後、田舎から都会に「金の卵」と称しての集団就職というものがあった。これも日本の農村共同体解体のひとつの例だろう。資本主義は地域の共同体を解体して、ついに現代日本において最後の共同体「家族」を解体し始めた。女性の解放の結果、女性は家族に対する無条件の献身を拒否するようになった。女性は男性を選ぶようになり、結婚できない男性が増加した。2015年現在、男性の生涯未婚率は23%、将来的には30%ほどになるのではないかと予測されている。 歳をとり親が死に妻も子供もいない老後というのは、想像するに極めてきついものがあるのではないだろうか。何らかの共同体に参加すればいいと考える人もいるかもしれないが、女性に相手にされない下位30%の男が気軽に参加できる共同体もそう多くないだろう。多くの未婚男性は、日本近代史上かつてないほどに共同体からの阻害圧力にさらされている。 「労働者は失われた共同体への郷愁を国家に求める」とするなら、40代以下の男性の多くが強権的な安倍政権を支持し続けるのも理解しやすいだろう。 これをトータルで考えてみると、何が悪いというものでもないだろう。そのような構造になっている。

なぜ資本は剰余価値を巻き込みながら成長していくのかという話。 頑張れば成長するというのは個別資本の話であって、総資本という枠組みで考えると話は簡単ではない。頑張った資本の影に駆逐された資本を考えれば、総資本の観点からは差し引きゼロということになる。 全体が成長するということは、いったいどういう意味なのか。 賃金労働者が生産して賃金労働者が生産物を買うという循環があるとして、この循環をより大きくしようとするなら賃金労働者の数を増やすというのが息の長い解決法だ。労働を強化したり消費を煽ったりという手法もあるけれど。 賃金労働者、賃金消費者の実数を増やすためには、伝統的な自給自足生活をしている人たちを近代の労働の枠組みに引っ張り込むというのが現実的となるだろう。 成長は参加者の増加であるとするなら、国という枠組みの中で全ての人が近代化され、新たに動員される人が存在しなくなった時に、その国の成長というのは止まるだろう。 この枠組みで考えると、物理的条件により先進国といえども平均的生活レベルの上限というのは決まっているというこになるだろう。 日本はあの大バブルのおかげで成長が止まって28年なのだけれど、国民一丸で頑張りすぎたおかげで世界に先駆けてその上限というやつに到達してしまったということになるだろうか。

封建制の存在した地域が近代に入って先進国になるという論理が存在する。西アジアや中国のように巨大帝国を形成した地域は、近代において周辺に押しやられ、ヨーロッパや日本は封建制を採用していたので産業革命に成功したという。 カラ谷もこの論理を採用している。 簡単に考えてしまうと、日本は江戸時代に封建制を採用したがゆえに明治以降に先進国への切符を手にしたという、日本スゲーみたいな話になる。さらには封建制を体験していなければ先進国になれないという、正直よくわからない論理を展開する人もいた。 実際はどうなのだろうか。 ふつうに考えれば、巨大文明の辺境に存在した社会は、文明の恩恵は蒙るけれども文明そのものに対するこだわりは少ないので、より強力な文明が現れた時に方向転換がしやすいということだけだろう。 中国は本物かもしれない。スゲー成長力を眼前に現してきた。日本のはるか上をかましてきた。あのアメリカとガチンコ貿易戦争一歩手前という。 かつて日本が日中戦争と対米戦争の両面戦争を戦ったというのが、なんだか不思議な感じがするようなレベルになってきた。

世界はなぜこのようにあるのか、とたずねても普通誰も答えてはくれない。これがミステリーだと名探偵が世界の整合性を説明し、犯人が整合性の根拠となる告白を行う。しかし残念ながら実際の現実世界はミステリー小説ではなく、名探偵も登場しなければ犯人の告白も存在しない。 では世界説明というのは不可能なのかというと、じつはこれそうでもない。世界は強固な一体性を持って眼前に厳然と存在すると考えてしまうと手がかり足がかりはなくなってしまうのだけれど、世界は変化していて、その変化の境目にくさびを打ち込むことができると考えるならば、世界説明はある程度可能となる。

プラトンの「饗宴」とは】、6人の話者が順番に愛(エロス)について語るという内容。

これだけ聞けば、「愛」などという漠然としたものについて6人が語り継いでいくって、これだいじょうぶか?と思うだろう。6人それぞれが、自分勝手な愛認識を語って終わりなのではないかというのが疑われる。
しかし実際にこの「饗宴」を読んでみると、6人の話者はそれぞれに非常に有能であって、強力な論理を順番に積み上げ、最後のソクラテスに全てをたくすという構造になっていた。さすがヨーロッパ文明の古典中の古典だと思った。


Justitia, 螂ウ逾�, 豁」鄒ゥ縺ョ螂ウ逾�, 螂ウ逾槭・逵溷ョ�, 豌エ蟷ウ, 逶ョ髫縺�, 豁」鄒ゥ



トップバッターはファイドロス。彼の論理の骨格はこれ。

「愛は素晴らしい。何故なら少年愛が素晴らしいから」

いきなりヤバイことを言いだしたんじゃないの? 
ファイドロスの少年愛に対するこだわりは止まるところを知らない。
愛する少年を持つことほど素晴らしいことはこの世界にはない、とか、
愛する少年の前では卑怯なことは絶対にできない、とか、
戦争において武器を投げ出して逃げるところを愛する少年に見られるくらいなら何度でも死んだ方がマシだ、とか、
故に、愛する者と愛される少年とから成る国家があるとするなら、それは全く無敵の国家となるだろう、とか、
なるほどと。価値観は様々だろうから。

2人目の話者はパゥサニアス。愛には下級、上級の二種類があるという。分けて考える、悪くない。下級の愛というのは、女性に対する肉体目当ての愛。オヤジ最低だよね。では上級の愛とは何かというと、これが少年愛。

また少年愛かよ!

女性の肉体に対する愛が何故低級なのかというと、女性の花時が過ぎ去ってしまうと男はたちまち飛び去ってしまうからだという。それに対して少年愛は二人にとって永続的であるから、より価値があるという。
(評価は控えたい)
パゥサニアスは少年愛に匹敵する愛があるという。それは徳(アレテー)に対する愛だという。
女性の肉体や富に対する献身は恥辱であるけれども、徳(アレテー)や少年に対する献身は恥辱ではない。故に愛するものがその少年と共に徳(アレテー)に向かって行進することが最もすばらしいエロスである、ということになるらしい。
結局、少年愛というのは今で言うプラトニックラブのことだろう。プラトニックラブを足場に徳に向かって進軍することが第一級のエロスだということになる。
ギリシャ的だなとは思うけれど、言いたいことは分からなくはない。

3人目の話者はエリュキシマコス。彼の職業は医者だ。
彼は語る。少年愛のような良いエロス、女性の肉体を求めるような悪いエロスがあるというが、それは人間それぞれの個体の中にもある。調和的なエロスは人を健康にするが、放縦なエロスは人を不健康にする。医者の役目というのは、人にとってどのエロスが調和的でまたどのエロスが放縦かを判断することだ、という。

言論レベルがちょっと上がったんじゃないの?

さらにこう続く。
いま医者から診ての人のエロスについて語ったけれども、同じことが多くのことにに当てはまるのではないかという。例えば、音楽や詩や季節など。よい音楽というのは、エロスと和合とを喚起するところの音楽である。
良いエロスとは周りの事象を調和的にするある種の力だということだろう。
素晴らしいアイデアだ。さすがエリュキシマコスはアスクレピオスの末裔を自称するだけある。

4番目の話者はアリストファネス。職業は喜劇作家。
彼は喜劇作家らしいことを語る。
現在、人間の種類は男と女の2種類なんだけれど、太古においては、二人で一人的な男男、女女、男女という合体的なあり方で人類は存在していたという。人間はその一体性に満足していたのだけれど、満足したが故の傲慢のために神によって二つに分けられた。
それ以後、かつて同性同士くっついていたものたちは同性を捜し求め、男女とつながっていたものは異性を求めるようになったという。
この寓話はどういう意味かというと、エロスとは失われた一体性を回復しようとする渇望だ、ということだろう。
これまでの話のつながりから言うと、アリストファネスは「良いエロスこそが和合として価値がある」という話の中での「良い」という意味を相対化してやろうとしているのだろう。
医者という権威に対して寓話で挑もうというのだ。さすが喜劇作家だけある。

5番目の話者はアガトン。職業は役者。
彼のスタンスは、とにかくエロスを褒め倒そうというもの。
エロスは若くて、精神的に柔軟で、姿はしなやかで、物腰が優雅である、という。

アガトン君、君は具体的な少年を眼前に思い浮かべながら語っていないか?

アガトンのエロス賛美は続く。
何人も強制によってエロスに手を触れることはできない、とか、
エロスと共に歩めば勇気が沸きおこり「アレスさえも敵ではない」、とか、
エロスがひとたび触れれば、これまでムーサ神に無縁であった者ですら巧妙な詩人となる、とか、
アガトンは、何と言うか「口説きモード」に入っているだろう。彼の言説は意味がないように見えるのだけれど、口説くことの大事さそれ自体を教えている。男として生まれてきて、(少年は口説かないけれど)女性の一人も口説かないでどうするか。白馬に乗った王女様が自分を迎えに来るだろう、という考え方が一番危険だ。人はエロスの導きによって上昇していかなくてはならない。

6番目、最後の話者はソクラテス。西洋史上最大の哲学者。
ソクラテスはディオティマという女性から聞いた話を語り始める。
人間の寿命は有限だ。故に永遠を求める。この永遠を求める情熱がエロスだという。男は美しい女性をはらませたいと、ぶっちゃけて言えばヤリたいと。わかりやすいエロスだ。子供が生まれて子孫が続いていくなら、これは永遠だから。
これだと動物と同じで、肉欲に止まっていてはいけない。肉欲よりも精神の方がより人を永遠に導くわけで、精神のエロスに人は移行しなくてはならない。精神のエロス、これすなわち少年愛。

徹頭徹尾、少年愛。

ここまでは前の5人の話者と内容レベルは同じだ。
さらにソクラテスの話は続く。
一人の少年の中に精神の美を観取したものは、自然と多くのものの中に精神の美を見るようになるだろう。多くの少年や様々な職業や制度の中に。これらの美は互いにつながっている。
(これは3人目の話者エリュキシマコスが語っていたことと被っている)
全ての美はつながっているのだから、一人の女性や一人の少年や一つの職業活動に執着するのは、もはやみじめな奴隷的こだわりである。人は美の大海に乗り出し、崇高な思想を生み出しつつ、ついにはこれによって人は力を増し成熟していくという。

これはもう予言だろう。ギリシャのポリス世界からローマという大帝国の世界へ。ローマが何故あのような大帝国になったのかというと、細かい諸事情はあるだろうが結局のところは「全ての美がつながっている」という確信が古代世界にあったからだろう。現代の私達の世界が多くの国々に分裂してあるのは、「全ての美がつながっている」という確信が今だ十分に育っていないからだろう。

ソクラテスの話はさらに続く。
愛の道についてここまで教導を受けたものは、今ようやく愛の道の極致に近づく。最後にいたり人は突如として驚くべき性質の美を感得する。独立自存し永遠で圧倒的な美が彼の前に表れるでありましょう。
生がここまで到達してこそ、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生き甲斐があるのです。

これこそが本物のイデア論だろう。

長々と「饗宴」について書いてきた。このレベルの書物になると、世界を説明する哲学ではなくて、世界に命令する哲学みたいなものだろう。ド迫力だよ。


関連記事
プラトン「国家」詳細レビュー


伊坂幸太郎のデビュー作です。この作品で第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しています。



amazon.co.jpで確認


あらすじというのは、
まず主人公の青年が、他所と交流を絶って久しい島に連れてこられる。青年は島を歩き回っていろんな人と知り合いになる。最重要のキャラクターは、未来を知ることができる喋るカカシだ。田んぼの真ん中に立っている。
このカカシって結構最初の方で殺される。殺されるといってもカカシなんだけれど。カカシ殺しの犯人が強力に追及されるのかというと別にそうでもない。主人公はペンキ屋の青年と一緒に天気を予報するネコを見に行ったりとか、ペンキ屋の青年が憧れの女性とデートしたりとか、主人公が知らない女の子からフライパンとバターをもらったりとか、少女が道端で寝転んでいたりとか、船長が川原でブロックを集めていたりとか、意味があるとも思えない出来事がバラバラに起こり続ける。多少重要だろうと思われることは、嫌われ者のさえないオヤジが殺されたことだ。しかしこのオヤジは島にごく最近来ただけで、島民はほとんど無関心。

460ページの本も残り100ページを切って、これ後どうするの? と心配になってくる。

ところが伏線は強引に回収された。
カカシは、未来を予言するカカシではなく、未来をコントロールするカカシだった。小説内の無意味と思われる出来事は、じつはカカシが望む未来の一事象のためのカカシによる誘導だった。
そしてカカシが望む未来の一事象とは何かというと、これが何と鳩のつがいの保護だった。

まさか二羽の鳩のために世界が回っていたとは!

そういえばみんなチョイチョイ鳩のことを語っていた。この小説の題名「オーデュボンの祈り」のオーデュボンも100年ほど前のアメリカの鳩学者らしい。かつてアメリカにはある種の鳩が20億羽いたらしい。この鳩が集団で飛ぶと何日も空が暗くなったという。
崇高な二羽の鳩のために伏線は回収され、世界が整合性を持って立ち現れる。

鳩愛ここに極まれりだな。

鳩愛はいいのだけれど、それを語るのがカカシというのはどうだろう。何故あえてカカシなのか?カカシとは鳥を追い払うために作られた人形に与えられた名称だろう。 
カカシと鳩との和合によって平和のイメージを読むものに与えようとするためか、
鳩を守るという目的のために世界をコントロールしようとする意図をギリギリまで隠すために、鳥の敵役であるカカシを名探偵役に抜擢したか、
このどちらかだろうけれど、私は後者の仮説を選択したい。

 
関連記事




明治維新から現代までの日本近代の流れを解析する。よって見ていってください。

日本の近代というのは「官僚主義」と「維新主義」の相克と考えることもできる。戦前においては統制派と皇道派、明治維新後においては政府と西郷軍、明治維新前においては幕府と攘夷派。いったいこれ、どこまでさかのぼることが出来るのだろうか。

まず「官僚主義」について。
テツオ・ナジタは初期官僚主義の代表的イデオローグとして山崎闇斎(やまざき あんさい 1619-1682)と荻生徂徠(おぎゅう そらい 1666-1728)の二人をあげている。
山崎闇斎とは朱子学系統の儒学者。朱子学というのは、秩序の規範はこの世界の外にあると考える。伝説の古代に秩序の規範を求めたりして、考え方としては分かりやすい。
荻生徂徠は荀子、韓非子ラインの法家系統の儒学者。法家思想は、秩序の規範はこの世界の内にあると考える。だから秩序を支える法律というものは絶対ではなく、時代に合わせて変えていかなくてはならないとする。
山崎闇斎と荻生徂徠、これはどちらが正しいというものでもないだろう。時代の要請にあわせて、より有効な哲学が社会のヘゲモニーを握ればいいという感じだろう。

次に「維新主義」について。
テツオ・ナジタは初期維新主義の代表的イデオローグとして中江藤樹(なかえ とうじゅ 1608-1648)と本居宣長(もとおり のりなが 1730-1801)の二人をあげている。
中江藤樹は江戸初期の陽明学者。陽明学というのは朱子学と同じ新儒教の一派。朱子学では規範は世界の外にあると考えるのだけれど、陽明学は規範は世界の内にあると考える。それでは法家と一緒ではないかと思われるかもしれないが、法家は性悪説に立つ。だからビッチリした法律体系が必要だと考えるわけだ。これに対して陽明学は性善説に立つ。性善説の言論なんてぬるいのではないかと思ったら大間違い。性善説はギリギリの言説だ。テロリストというのはだいたい性善説をとる。
本居宣長は国学者だ。国学者というのは体系的言論が嫌いなんだよね。めんどくさい話が嫌いだというだけなら別に毒にも薬にもならないのだけれど、これ例えば、あなたは日本人ですよね、日本人なら万葉集は好きですよね、万葉集はすごくいいです、それぞれの人がそれぞれに素直なこころを歌います、それにしてもさかしらって嫌ですよね、なんていうささやきがあったとする。これを受け入れてしまうと美しき天皇制への一筋の血路が開かれ、朱子学とか官僚主義とか絶対勘弁みたいなことになる。国学というのは時代状況によっては強力な力を発揮する可能性がある。

江戸時代において役者は出そろっている。これらの思想群が昭和初期にどのように変形してあったのか? 幕末から昭和初期までの思想の流れを、上記にあげた四つの思想潮流に当てはめながら「明治維新の遺産」にそくして簡単にみてみる。

ペリー来航以来不安定になってしまった幕府的秩序を立て直すために大老井伊直弼は強権的手法に出た。朱子学的世界観をわきにおいて法家的思想を突然前面に押し出した。しかしこういうのはよくない。井伊直弼は全体の合理性のために安政の大獄を行ったと思っていただろうが、外から見れば、この合理性は井伊直弼個人の合理性なのではないかと判断されかねない。そして桜田門外の変以降テロルが止まらなくなってしまった。

明治維新から明治10年まで内乱が多発し政情はきわめて不安定だった。これは結局、大久保利通に代表される合理的官僚主義の完成を目指す勢力と西郷隆盛に代表される陽明学的維新主義を貫こうとする勢力との相克だったろう。明治政府は維新主義を排除したのだけれど、なかなか民心は収まらない。明治10年以降は自由民権運動が隆盛を極める。法家的合理主義を押し出すだけでは安政の大獄と同じであって、その合理性はお前の勝手な合理性に過ぎないと判断されてしまう可能性がある。

合理性には根拠が必要だというのは朱子学的思想だ。もう朱子学の根拠は使えない。新たな根拠として設定されたのが明治憲法だ。伊藤博文は憲法発布を予告することによって、自由民権運動を押さえ込むことと合理的官僚体制を整えるための時間稼ぎとの二つのことを成し遂げた。
合理的官僚体制は明治憲法を根拠にして、さらに明治憲法は「日本は独立してあるべきだ」という国民的総意によって支えられ、明治日本は朱子学的に安定した。

日露戦争に勝って日本は一等国になった。そして同時に、明治憲法は「日本は独立してあるべきだ」という支えを失った。日本官僚体制は、その合理性の根拠である明治憲法から解放された。この間隙をついて政界でのし上がったのが原敬だ。
原敬の論理と言うのは、官僚体制の中で政党が利益配分のヘゲモニーを握ることで全体をコントロールしようとするものだ。簡単に言えば利権政治。根拠を持たずに官僚的整合性を達成しようとするのは、荻生徂徠の法家思想の流れだ。この思想の欠点はなんだっただろうか?

大老井伊直弼は安政の大獄で法家思想を前面に押し出し、「その合理性はあなたの勝手な合理性でしょう?」という反論を喰らいテロルが止まらなくなった。
戦前政党政治は1925年4月公布の治安維持法によって、その法家思想ぶりを前面に押し出し、結果テロルが止まらなくなってしまった。
陽明学と国学がハイブリッドした維新主義が幕末と同様に凄惨を極めた。原敬以降政党政治家で総理大臣になったものは、原敬、高橋是清、加藤高明、若槻禮次郎、田中義一、濱口雄幸、犬養毅の7人だけれど、このうち4人が暗殺されている。
戦前軍部の皇道派と統制派を明治初期に当てはめるなら、皇道派は西郷隆盛で統制派は大久保利通だろう。皇道派が226事件で既存の官僚体制を沈黙させた後、統制派は日中戦争、太平洋戦争の非常時を利用して、明治官僚体制よりさらに合理的な「総力戦体制」とも呼ぶべき官僚体制を作り上げた。

アメリカの物量の前に、日本の総力戦体制もあっけなく崩壊し、日本は一敗地にまみれた。戦後の混乱期を切り抜けると、日本の合理的官僚制度は復活した。
戦争体験によって強化された総力戦的官僚体制は日本国憲法という根拠を与えられ、日本国憲法は「経済的に欧米にキャッチアップするべきだ」という国民的総意によって支えられていた。
しかしバブル崩壊により、上記の国民的総意は失われた。日露戦争の勝利によって「日本は独立してあるべきだ」という国民的総意が失われたのと同じように。
バブル崩壊以降の日本の政治は不安定化し、どこが政権をとっても、「その合理性はおまえの勝手な合理性なのではないのか?」と指摘される危険にさらされている。

江戸時代から現代までを、朱子学、法家思想、陽明学、国学の四つの思想の絡み合いという視点から見てみた。これをトータルで考えてどう判断するか?
なぜ日本という極東の小国がいち早く先進国まで自らを押し上げることが出来たのか。それは、古い合理性を後にして新しい合理性を求めてチャレンジしたからだろう。それも二度も。
そのチャレンジのための思想、朱子学、法家思想、陽明学、国学の四つの思想(このうち三つは中国思想だけれど)が、近代以前の日本にはすでに与えられていたということにもなる。


お気に召したなら楽天で何か買って






このページのトップヘ