magaminの雑記ブログ

2018年07月

【貧困は社会の問題なのに、未婚は自己責任である理由】

結論から言うと、女性にも男を選ぶ権利があるわけだから、今の社会状況のままでモテナイ男に女性をあてがうことは出来ないからだ。
貧しい人を救うことは出来るけれども、結婚できない男を救うことは出来ない。


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【未婚による社会システムの変動】

こうなってしまうと、モテナイ男はかなり早い段階で、自分はたぶん結婚は出来ないだろうと悟ることになるだろう。このように悟られてしまうと、意欲的に労働しようという気持ちは減退してくるだろう。どうせ結婚できないのだから、無理して一人前のふりをする必要はない。出来ることを出来る範囲でやれは十分だ、ということになるだろう。

かつてこのようなやる気のなさというは排除されていたのだけれど、結婚できない男がある一定数を超えてくると、若年層において「無理な仕事はお断り」という雰囲気が生まれてくるだろう。下層労働者の50代以下年齢層では、すでにこの傾向が顕著だ。


未婚男性というが最後どうなるかというと、当たり前なのだけれど孤独死みたいなことになる。私の職場というのは社会の底辺みたいな感じのところで、50歳を過ぎても独身という男が昔から一定数いた。

小さい会社なのだけれど、この二十年の間に二人死んでいる。無断欠勤するから家に呼びに行ったら死んでいたというのが2回あった。どちらも独身のおじさんだった。

葬式とかはない。

兄弟という人が来て、骨を焼いて持ち帰るだけだよ。きわめてあっさりしたものであって、人が死んだら葬式をするというは、当たり前ではないというのを知った。

これは10年ぐらい前の話で、60才になって独身男というのは、当時まだ少なかった。これが現在生涯未婚率は25%、30%に向けて上昇中だという。

若いうちはいいんだよ。しかし、50、60になると親も死んでくるからね。

気楽に遊んでの独身で死ぬのだからしょうがないんじゃないの、なんて職場では話される。働いているから、そのつながりで死んで1週間程度で発見してもらえるけれど、本当にそれだけ。他にどうしようもない。 

男って女に比べて精神的に弱いから、高齢独身の孤独って、なかなか男には耐え難いのではないかと思う。

日本というのは助け合いの社会だったと思う。助け合いの社会の根底を支えていたのは皆婚制度だろう。結婚して子供を育てることで、個人は社会に貢献できるということをアピールする。社会もそれを受け入れて、個人に社会的立場を提供する。そんな循環があったと思う。

ところが現代において、皆婚制度は急速に崩れた。日本における皆婚制度の起源というのは室町時代末までさかのぼる。500年来の制度が崩れつつあるのだからこれは大変なこと。



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伝習録 (中公クラシックス) [ 王陽明 ]
伝習録 (中公クラシックス) [ 王陽明 ]



王陽明は明代の新儒教の思想家て、形骸化した朱子学を再編成しようとした人だ。「論語」「孟子」というラインを強調することで中国の近世を強力に持ち上げた。日本にも多大な影響を及ぼして、例えば大塩平八郎とかは完全に陽明学者だった。

もうこんな解説はいらないか。
とにかく暑くて融けそうなんだよね。
融けるな、融けるな。腹に力を入れろ。
「伝習録」よ、私のミゾオチに力を与えたまえ。

「聖人、学んで至るべし」

別に勉強して東大に入れという意味ではない。
孟子の「我も人なり、舜も人なり」という気迫の言説を変換しているんだね。学んだからといって、どういう理屈で舜のような聖人になれるのか。素朴な質問に王陽明は答える。

「聖人の聖たるゆえんは、ただそれその心。天理に純にして、人欲に雑じる無きのみ。なお精金の精たるゆえんは、ただその成色足りて、銅鉛の雑じり無きをもってのごとし」

出た! 精金(純金)の例え。
純金に価値があるように、人欲を排した「天理に純」な心に価値があるという。
天理とは何か、というのはこの暑い中考える必要はない。

「聖人の才力は、また大小の同じからざるもの有ること、なお金の分量に軽重あるがごとし。
「尭(ぎょう)、舜はなお1万オンスのごとく、文王、孔子はなお9千オンスのごとく、禹(う)、湯(とう)、武王はなお7,8千オンスのごとく、伯夷(はくい)、伊尹 (いいん) はなお4,5千オンスのごとし。才力は同じからざるも、天理に純なること同じければ、みなこれを聖人と言うべし」

  尭、舜は伝説の聖王コンビだけあって1万オンスか。孔子はさすがだね、うん9千オンス。伊尹って誰だったっけ? 
いやいや、こういう重量比べをしてはいけない。純金であればみな聖人。

「凡人といえども、あえて学ぶことをなし天理に純ならしむれば、すなわちまた聖人となるべし。なお1オンスの金の1万オンスに比ぶれば、分量は懸絶すといえども、その足色に至る所はもって恥ずること無かるべきがごとし。故に、人は皆もって尭、舜となるべし」

論理は循環した。聖人とは、心に抱える黄金の量によってではなく、質によって決定される。まったくすがすがしいまでの意思の哲学だ。
意思の哲学。そう、気合いだよ気合い。

ハイデガー「存在と時間」を木田元の「ハイデガーの思想」を元に解説します。

ハイデガーの「存在と時間」は未完であって、木田元はこの未完部分を推測しようという。

ハイデガーの「存在と時間」は序論に目次が存在していて、以下のようになっている。

第1部  現存在の解釈と時間の解明
 第1編 現存在の基礎分析
 第2編 現存在と時間性
 第3編 時間と存在
第2部  存在論の歴史の現象学的解体
 第1編 カントの時間論について
 第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
 第3編 アリストテレスの時間論について

そして実際には第1部第2編までしか書かれていない。だから「存在と時間」は未完だといっても、その未完レベルはかなり高い。だいたいにおいて、大事なことは後半に記されるわけで、木田元といえども「存在と時間」の全体を推測しようというのは大丈夫かとは思う。

木田元の議論についていくためには、「存在と時間」なる哲学書はどういうものかというのを自分なりにでも知っておく必要がある。
「存在と時間」という題名だけあって、この本は存在とは何か、時間とは何か、ということについて書かれている。存在とは何か、については、まあ何か言い様もあるかとも思うのだけれど、時間とは何か?って、いったいこれどうするよ? 常識的に考えて、いくらハイデガーでも、時間について評論しようもないだろう。

とまあこんな心構えで「存在と時間」を読んでみる。

3分クッキングでもないのだけれど、はい読んでみました、いろいろ考えてみましたということで。
まず存在について。
ハイデガーは、人間というのは「世界内存在」だという。人間とは世界の中に投げ出されてあるという。だから存在とは、人間に前もって与えられている何かだというわけだ。
消極的な考え方のように見える。自由意志はどうなっているのか。人間は意志によって世界を変えることができる、なんて建て前もある。
ところが人間の脳においては、意思を発動する0.2秒前にシナプスの発火が認められるという研究がある。意思によってシナプスが発火するのではなく、シナプスの発火過程において意思が自覚されるだけなんだよね。自由意志だと思っているものはすべからく脳のシステムによって自由意志だと思わされているだけだという。
実はこれ当たり前の話であって、意思によってシナプスが発火したら、それはただちにサイコキネシスだから。
そう考えると、ハイデガーの言うように、人間とは世界の中に投げ出されている「世界内存在」だという説明は説得力がある。

次に時間について。
ハイデガーは「存在と時間」の中で、本来的時間体制と非本来的時間体制があると言うのだけれど、なんだかちょっとゲルマン的道徳臭がする。
例えばジャック・デリダは、人間において存在認識が差異化することによって現在、過去、未来という時間認識が発生する、というのだけれど、正直コイツ何を言っているのか分からない。分からない事を差異化とか言ってしまったら、分からないままだろうと思う。
自分で勝手に考えてみる。
懐かしいという感情が存在したりする。子供のころ慣れ親しんだ情景を時間がたって体感すると懐かしいと感じる。懐かしいという、あの一種安心するような感覚は何なのかという。記憶が勝手に呼び起こされて、あったかい気持ちになる。結局、その情景の中において、過去と未来とがある程度確信を持ってシステマティックに再現されるからだと思う。
ところが、現在過去未来というものが厳然と存在していて、故に人間は時間差異を認識できると考えることも出来るのだけれど、人間の時間認識システムによって私たちは時間的差異が存在すると思わせられているということもありえる。
なにせ「時間」という怪物が相手だし。「存在」について考えるよりもフレキシブルにならなくては、なんて思う。

とここまで「存在」と「時間」について考えてみた。これを予備知識として、木田元の「ハイデガーの思想」における「存在と時間」の未完部分の推論に付いていってみたいという。

ハイデガーの「存在と時間」目次、第1部第3篇に「時間と存在」とある。木田元によると、ここでは時間体制と存在体制の関係性について書かれる予定であったという。時間と存在との関係性って、これが分かったら大変なことだよ。人間は存在の方は直接いじれないとしても、時間の方はいじれるかも。
すなわち、ある時間認識に基づいて、人間は「世界内存在」として世界の中に投げ出されているわけだ。身近な表現をすると、私たちは時代の中に投げ出されている。自分の時代認識を自分の意思で直接変えるというのは不可能だろう。ところが、自分の現在の時間認識を変える事によって、自分の時代認識を変えることは可能かも。
これが出来たら自由意志の復活だろう。サイコキネシスの不存在により自由意志は否定されていたのだけれど。

ところがハイデガーは、時間認識に対する介入の可能性を諦めた。木田元によると、これをハイデガーの転回(ケーレ)という。ここをケーレしてしまうと、「存在と時間」の続きは書けなくなるだろう。

時間認識にも介入できない、存在認識にも介入できない、となると、後はある時代の時間認識と存在認識を受け入れて、その世界を内側から見るということしか出来なくなる。別の世界を内側から見る手法を現象学という。内側から見た世界を時代順につなげていけば、現象学的歴史学ということになる。ハイデガーがそのケーレの後に行ったことは、現象学的哲学史だった。
木田元も、ハイデガーの現象学的哲学史の内容について詳細に語っている。これはこれで非常に興味深いのだけれど、やはり「存在と時間」のあのインパクトはないよね。現象学的歴史学というのではヘーゲルと変わらないだろう。



ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]
ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]






哲学上の重要な問題に、人間の社会秩序はどのように与えられているのか、というのがある。
この問題において大事なことは、人間にとって社会秩序は無条件に与えられているわけではない、というところから論理を組み立てなくてはならないということだ。

古代中国の戦国時代。人口は2000万ほどだったと推計されている。そして前漢末には6000万弱になったという。ところが後漢が崩壊した後の魏・呉・蜀の三国志の時代、それぞれの国の戸籍登録人口は、魏443万、呉230万、蜀94万、足しても767万人にしかならない。社会秩序の消失によって人口崩壊が起こった。曹操の魏という国は、社会秩序の再建を目的として屯田制を基軸とした兵営国家体制をとった。

人間にとって社会秩序が無条件に与えられていないということは、人間の条件であり、逃れられない弱さだと思う。

関東大震災の時に、「御真影」を燃えさかる校舎の中から救おうとした学校長が何人も焼死するということがあった。丸山真男は「日本の思想」のなかで、死んだ学校長たちをファナティックで非合理な、前近代的な日本を象徴するかのような人物群だとして批判した。
大正時代、燃えさかる校舎に飛び込んで死んだ学校長たちのメンタルとは、正直どのようなものだったのか。

現代の税制は、基本的に家族単位で課税されている。しかし、江戸時代の税制は村請負だった。村の名主は藩に納める年貢を取りまとめる義務があった。この制度は村の秩序を維持する責任が名主たち村の名望家にあるという共通認識を前提としている。
村の秩序というのは無条件に成立するものではない。大体どこにでも、ならず者、ばくち打ち、チンピラみたいなやつらはいるわけで、何かのきっかけでこのようなアウトサイダーに村が乗っ取られて村の秩序が崩壊するということはありえる。
このようなことは現代でもよくある。例えば企業。現代日本の株式市場にも事業内容の極めて怪しい、おそらくフロント企業に乗っ取られているのではないかと推測してしまうような会社が複数上場している。

村の名望家たちにとって村の秩序を維持強化するためには何らかの努力を必要とした。例えば、労働と倹約の推奨、祭りの規制、休日増加の規制などだ。村の名望家たちは、これらの政策を実行するためには何らかの精神的支柱があったほうがよりいいと考えるようになるだろう。
そのような願いの一翼を支えた思想が、平田篤胤(ひらた あつたね)の皇国思想とそれを地域社会で受け止めた草莽国学だ。

草莽国学とはどのようなものかと言うと、幕末の国学者である六人部是香(むとべよしか)の「顕幽順考論」においては、

日本人は産土大神のおかげですぐれた性器と精力をもっている。対して西洋人の陰茎は細くて貧弱だ。だから男女の交合は神術であり、とくに夫婦の交合は現世において幽政の一端を許し行わしめるものだ。

という。奇怪な論理のように聞こえるのだけれど、この論理の意図というものは、村人の個々のセックスまで思想的に介入しようというものだろう。
江戸時代の村の祭りというのは、盛り上がりの最後にはフリーセックス状態になった。セックスを規制することは祭りを規制することになり、祭りを規制することは村の秩序強化に貢献することになる。

名望家が村の秩序を維持強化するために利用した草莽国学は、明治維新以降、天皇制価値秩序に回収されより強化された。

ここで関東大震災で「御真影」を守るために燃える校舎に飛び込んで死んだ学校長の話に戻る。
学校長というのは村の有力者であって、そのような人たちは、村の秩序に対する責任と自らの尊厳を精神の中で循環させながらその意識形態が存在している。そして彼らの精神体制を背後で保障するものが、天皇や国家の権威であり、これら全ての状態が、長い伝統によって学校長などの村の有力者層において精神的に内面化されていた。
命を賭して自らの正義の根拠を守ろうとすることは、ありえないことではないと思う。
「御真影」を守るために燃える校舎に飛び込んで死んだ学校長たちを簡単に批判するということは出来ない。彼らのような人たちのがんばりの積み重ねが、日本を現代の地位にまで押し上げることに貢献したというのはあるだろう。

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