magaminの雑記ブログ

2018年06月

娘が言うには、この小説は乙女ゲーム「緋色の欠片」のノベライズ。乙女ゲームというのは女の子向けゲームの名称らしい。

内容は、普通の高校2年の女の子が実は巫女みたいな存在であって、5人の特殊能力を持ったイケメン男子に守られながら、鬼斬丸という怖そうな何者かを閉じ込めている封印を守るという。そして、ドイツ系らしい5人の男女が現れて、その封印を開放しようとするのでバトルになってそこで「つづく」となった。よく見るとこの本は、「緋色の欠片 -壱の章-」 となっていて、どうやら2章以降に続くらしい。

正直、乙女ゲーム小説は馬鹿にできないと思った。驚いたのは、そのハイテンポぶりだ。
主人公の高2の女の子は全く普通の女の子。彼女は田舎のおばあちゃんの家に行く。バス停からおばあちゃんの家まで歩こうとしたら変な森に迷い込んだ。彼女はそこで妖怪に襲われるのだけれど、イケメン高校生に助けられる。彼女が、助けてくれてありがとう、というと、彼は、君を守るのが自分の任務だ、という。ほとんど無言で彼は彼女をおばあちゃんの家まで送ってくれる。

ここまで説明は一切なし。何が何だかわからない。

彼女はおばあちゃんの家に泊まり、翌日からその町の高校に通い始める。どうやら彼女は転校生らしい。同じクラスに助けてくれた彼がいる。彼は、もう二人彼女を守る使命を帯びたイケメン高校生を彼女に紹介する。
彼らはなぜ彼女を守るのか。小出しに説明しながら、主人公の女の子と3人の男の子たちはすでに仲良くなっている。

と、ここまででまだ60ページだから。

この4人の関係性がよくわからないまま、彼らは学校の屋上で昼ごはんを食べる。その時に彼女がおばあちゃんからもらった手乗り狐(ナウシカのテトみたいなやつ)にみんなで名前をつけようという。みんなでワイワイキャイキャイ、決まった名前が結局「おーちゃん」。
この茶番に6ページ使っているからね。

この奇妙な緩急って、ちょっとすごいなって思った。

桶谷秀昭はこの本の中で、大正末から終戦まで20章に分けながら、様々な人の内面まですくい上げながらトータルとして時代の雰囲気というものを描き出そうとしている。

二二六事件については、「第8章 雪降る朝 北一輝と青年将校」と「第9章 あを雲の崖 北一輝と青年将校」の二章が当てられている。
昭和11年2月26日、陸軍の下級将校が部下を引き連れてクーデターを起こし、高橋是清や斎藤実などの総理経験者を殺害しながら4日間で鎮圧された事件。
主犯格のほとんどは死刑になった。二二六事件以降、軍部の発言力は強まり、この事件は太平洋戦争への道を切り開いたとされている。

「二二六事件によって軍部独裁の道が開かれた」という考え方に桶谷秀昭は疑問を持っている。

そもそも二二六事件の原因というのは、下級将校の一般兵士に対する同情だ。
戦前の日本には社会保障というものはなかった。貧富の格差というのが激しくて、特に農村は不況のどん底だった。兵士は貧しい階層から調達されて日本が守られたとして、守られたのが日本ではなくただ単に日本の金持ち層だとするなら、これは完全にスキャンダルだろう。
二二六事件に参加して、後死刑になった安藤輝三大尉は、二二六事件中その第六中隊の兵を集めた最後の訓示でこのように語ったという。

「何という日本の現状だ。おまえらにはずいぶん世話になったなあ。いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、と叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。しかしお前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなってしまった」

二二六事件発生直後、軍上層部は「陸軍大臣告示」というのを出して、クーデターを認めるかのような態度を示したのだけれど、昭和天皇が二二六事件にきわめて強い嫌悪感を持っていることがあきらかとなって、軍上層部は手のひらを返してきた。

これがまずかった。軍上層部の節操のなさというのが明らかとなってしまった。

軍の上層部が自身の能力によってその地位を占めているというのであれば納得がいくのだけれど、もし金持ちの息子だからという結果でその地位を占めているとするなら、これはスキャンダルだろう。組織における上司がただ威張るだけのぼんくらで、恫喝に対してただオドオドする人間性だとするなら、このような上司のために働こうなどという部下がはたして存在するだろうか? 

二二六事件以降、明らかに陸軍において現場に対する統制が利かなくなっていく。盧溝橋事件の後、陸軍上層部は事件不拡大の方針をとるのだけれど、現場はどんどん戦線を拡大して行く。結果日本はなし崩し的に日中戦争になだれ込んでいった。
上層部が現場になめられてしまっていたのだろう。中国戦線において血気盛んな下級将校を統制するためには、すぐ上の上級将校はより過激な態度をあらわして下級将校に理解を示すという方法をとらざるをえない。彼らを統括する中国戦線の司令官は、参謀本部に対して強気なことをいわざるをえない。なめられないための方策というのが、より強気の態度を示すのみということになりがちだったのではないだろうか。

このような悪循環の原因が二二六事件にあると考えるなら、これは間違いだろう。二二六事件は、軍の上層部の人間の人格的弱さというのを明らかにしただけで、彼らの人格的弱さの原因はもっと深いところにあるだろう。そのような人物を軍の上層部に押し上げてしまうような社会的なシステムこそがが問題にされなくてはならないだろう。

戦争が終わって、日本の指導者層が戦犯として生きて巣鴨に連行されるという状況になった。しかしこいつらは玉砕戦だとか生きて虜囚の辱めを受けずとかを呼号していたのではないだろうか。彼らも所詮は臆病な小人にすぎないことが明確に証明されてしまったのだけれど、以前から彼らの小人ぶりというのは、国民はうすうす、軍関係者は明確に知っていただろう。

軍首脳部の哀れな小人ぶりを暴露したひとつのきっかけが二二六事件だったのだと思う。











この小説は重め。
私は、週末1円パチンコをやりながら小説を読むというパターンなのだけれど、高村薫の「照柿」はパチンコ屋で読むというのはちょっときつかった。

文庫本の解説に
「高村薫は現代日本のドストエフスキーである」
とあるけれど、読み終わってあながち間違っていないとは思う。

「照柿」のメインパートの主人公は、35歳工場勤務の野田達夫。野田の世界は臙脂(えんじ)色に満ちている。例えばこんな感じ。

「達夫は、暮れかけた夕焼けのどす黒いまだらと、その中に残る炉心のような臙脂色を眺め、そうだ、自分が郷里で目に焼き付けたのはせいぜいあの照柿色ぐらいだと冷静に思い直した。絞れば濃厚なしずくが滴るようなその色は、同時に一寸No4の浸炭炉の懸案を呼び起こし、さらには達夫の頭の芯に乗り移って頭痛をも呼び覚ましながら、しばし燃え続けた」

野田の思考は、いつも臙脂色の世界に溶けてしまう。色というのは説明はできない。野田の世界も説明はできない。意味や説明以前に情緒や気分の世界があるとするなら、野田はそんな世界の住人だ。臙脂色にとらわれている。
近代小説というのは、整合性とその根拠を必要とし、個人が意味を告白しながら話が展開していく表現形式だとするなら、この「照柿」はそのような枠組みから少し外れるだろう。臙脂色の世界がまず与えられていて、野田という人間はその世界から発生したなにか人格的なものにすぎない。この辺は確かにドストエフスキー的ではある。

野田の世界は臙脂色である。臙脂色という説明不能の世界が野田を捕らえている。野田にとって青が敵対的な色となる。
野田の父親というのは、放蕩三昧の全く売れない画家だった。父親は青色を使った抽象的な絵ばかりを描いていて、野田は父親が憎いのか青が憎いのか分からなくなってくる。
野田が子供のころ、友だとの飼っていたカラスの雛を絵の具の青で塗って、雛が死んでしまう。友達は、「絶交だ、君みたいな人間は未来の人殺しだ」 という走り書きの紙をよこす。野田はこの紙片を20何年も仕舞いこんでいた。
野田は、深夜に父親の知り合いだった画商を訪ねる。エミール・ガレの赤いガラススタンドが部屋全体を真っ赤に染めている。画商が父親の昔話をしながらハンカチを出して汗を拭く。青いハンカチが突然現れ上下に動いた後再び消えていく。
この場で野田は画商を殺す。
なぜ殺したのか理由とかはなく、赤と青の相克としか言いようがない。

この小説がドストエフスキーレベルで成功しているとは言えないけれども、その方向性とチャレンジ精神というのはすばらしいものがあると思った。

密室ものの推理小説だった。

探偵役はN大学工学部犀川助教授。舞台は愛知県だから、N大学とは名古屋大学だろう。犀川助教授というのがちょっと頼りない。N大学学生の西之園萌絵は、犀川助教授をすごく頭がいいと思っている。なぜかというと、萌絵の趣味である手品のトリックをたちどころに見抜いたからというものだ。探偵能力の根拠としてはちょっと薄いのではないだろうか。

犀川助教授と西之園萌絵は生物の定義について議論する。犀川は生物であるための条件として、自己防衛能力、自己繁殖能力、エネルギー変換能力をあげている。
まあ、ここまではいいだろう。
しかしこの後、故にコンピューターウイルスも生物である、などという論理を展開している。
エネルギー変換能力はどこに行ってしまったのだろうか。

事件は小さな島で起こる。セキュリティーの厳しい研究施設内の24時間監視されている部屋で天才プログラマである真賀田四季が異常な殺され方をする。犯人はどこにもいない、密室である。
被害者である真賀田四季は天才だとか、さらには神に最も近い人間とかいわれるのだけれど、しょせんは1990年代のプログラマであって神に最も近いとかいわれても困るものがある。天才だから超能力が使えるというわけでもないだろうし、真賀田四季の能力は推理小説内においては二次的な問題だろう。

犯人についてなのだけれど、ほとんど怪しい人物は出てこない。あえて言えば、真賀田四季の妹なる人物が途中で現れるのだが、ただ出てくるだけで探偵との絡みとかはあまりない。

探偵は頼りない、天才は殺される、犯人はいないとなると、密室のトリックのみがこの推理小説の整合性の根拠になる。
だいじょうぶか? と思う。

結論としてはだいじょうぶでした。さすがに有名な作品だけある。密室トリックがしっかりしているので、多少のぐだぐだ議論は許せるレベルだ。

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