magaminの雑記ブログ

2018年04月

伊藤計劃の「虐殺器官」で、悪役がこのように言う。

「仕事だから。19世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方ないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間達から、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、君は知っているのかね。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり仕事とは宗教なのだよ」

あー、マックスヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だなーと。でもどういう論理構造だったかなと思って再読してみた。

宗教改革以前のキリスト教、すなわちカトリックはちょっとゆるい感じだった。良いことをした人は死後天国昇天で悪いことをした人は地獄ですよみたいな、まあ普通なんだよね。
こういう既存のキリスト教の緩さというのを拒否するという流れで、ルターによる宗教改革が起こった。神は絶対の存在なのだから緩くやっていたんではイカンよというわけだ。

絶対神の論理を突き詰めたらどうなるか。プロテスタントのカルヴァン派においては、天国に行く人地獄に行く人は最初から決まっているというんだよね。
合理的推論だろう。神が絶対だとするなら運命論にいたる。

救われるのか救われないか、神が勝手に決めたものを人間はどのように知るのか? 結局これは個人的確信ということになる。
救いというものが個人的確信に依存しているとするなら、はっきり言ってこれは狂気と紙一重だ。狂気を回避しながらの救いの道について、ヴェーバーはこのようにいう。

「宗教的達人が自分の救われていることを確信しうるかたちは、自分を神の力の容器と感じるか、あるいはその道具と感じるか、そのいずれかである」

これはすばらしい論理の跳躍だと思った。渾身のイデオロギー暴露だろう。そして、自分を神の力の容器であると考えれば神秘思想に傾き、道具だと考えれば禁欲的行為に傾く。この後者のモチベーションが資本主義の精神という。なぜなら、世俗での献身と禁欲が重なれば、資本の蓄積ということになるから。

世俗での献身と禁欲というのは、救いのための手段だった。しかし時は流れて、救いという麗しき観念が忘れられて、世俗での献身と禁欲だけが残り、これが現代において目的となってしまった。「虐殺器官」における悪役の発言を再掲する。

「仕事だから。19世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方ないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間達から、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、君は知っているのかね。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり仕事とは宗教なのだよ」



しかし、マックスヴェーバーの資本主義の起源に関するこの論理というのは、真に受けるほどのものでもないと思う。この論理が100%正しいとするなら、欧米以外の国々がキリスト教を受け入れないで先進資本主義国になるのは不可能ということになる。現代の東アジアの成長を考えると、牽強付会みたいな論理だったわけだ。

実際の歴史の枠組みは、マックスヴェーバーが考えたものより大きかったということになるのだろう。しかし、ヴェーバーの論理の跳躍力は魅せるよなーとは思った。


五つの短編からなる、連作短編集だった。あらすじをざっくり語ると、

第一話
アニメ好きアラサー既婚ダメ主婦が、「斉藤くん」なる高校男子をナンパして、自宅に連れ込んでたびたびやると。その描写はかなりキツイ。この小説はR18文学対象受賞とあるけれど、この辺がR18だったのだろうと思う。
第二話
アラサー既婚ダメ主婦のこれまでの経歴みたいな話。高校時代、根暗だから級友から無視されていたとか、旦那がマザコンだとか、そういう独白。あと、「斉藤くん」との不倫が旦那にばれるという。
第三話
「斉藤くん」の彼女(女子高生)から見た「斉藤くん」についての話。妻を「斉藤くん」に寝取られた旦那が、ネットに妻と斉藤くんとのいかがわしい動画をアップしちゃって、斉藤君はいろいろショックなんだね、自業自得ではあるけれど。そして彼女は斉藤君を渾身のフォロー。斉藤君が好きだから、斉藤君とやりたいと、斉藤君の子供が欲しいと、生々しいまでの女心。
第四話
「斉藤くん」の友達についての話。この友達というのが母子家庭で、なおかつ母親がボケたおばあちゃんを高校生の息子に押しつけて家出するという。こうなると国家の出番だろうとすら思う。
第五話
「斉藤くん」も母子家庭なのだけれど、このお母さんはちゃんとしている。助産院を経営する助産師なんだよね。日々、妊婦さんのために猛烈にいそがしい。「斉藤くん」もいつまでもいじけてられないぞ。そもそも彼は変なアラサー女のクモの巣に引っかかっていただけだし。

まあこういう話だったのだけれど、トータルで考えるとどういうことなのかという。
ぶっちゃけて言ってしまうと、性行為というのは子供をつくるための手段であるということになるだろう。男は好きな女に自分の子供を産ませたいと思うだろうし、女は好きな男の子供を生みたいということになる。この小説の最初と最後をつなぐと、手段と目的を転倒してはろくなことがないという意味がただよう。
この意味が真理であるかどうかは別にして、性行為をめぐる整合性がこの小説世界を支えている。

助産師という女性についてなのだけれど、本当に彼女たちは出産に関するプロだ。私の妻も助産師なのだけれど、仕事に対してはすごく意識が高い。やっぱり命に直接かかわる仕事というのは緊張感が違うのだろう。助産師よりも産婦人科医のほうがすぐれものだという価値序列を考える人もいるだろうけれど、現実はそう簡単ではないらしい。助産師の間では、産婦人科医と妊婦を二人きりにするなという了解事項があるという。すなわち助産師にはプロを見張る役割もある。

私は子供が四人いるのだけれど、妻にコントロールされた結果ではないかと思う。自由ってなんだろう? 今さらそんなことを考えてもしょうがないのだけれど。

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