magaminの雑記ブログ

2018年03月

生涯未婚率が上昇している。
2020年時点、男性生涯未婚率の予測は26.6%だという。

未婚男性というが最後どうなるかというと、当たり前なのだけれど孤独死みたいなことになる。私の職場というのは社会の底辺みたいな感じのところで、50歳を過ぎても独身という男が昔から一定数いた。
小さい会社なのだけれど、この二十年の間に二人死んでいる。無断欠勤するから家に呼びに行ったら死んでいたというのが2回あった。どちらも独身のおじさんだった。

葬式とかはない。兄弟という人が来て、骨を焼いて持ち帰るだけだよ。きわめてあっさりしたものであって、人が死んだら葬式をするというは、当たり前ではないというのを知った。
これは10年ぐらい前の話で、60才になって独身男というのは、当時まだ少なかった。これが現在生涯未婚率は25%、30%に向けて上昇中だという。
若いうちはいいんだよ。しかし、50、60になると親も死んでくるからね。

気楽に遊んでの独身で死ぬのだからしょうがないんじゃないの、なんて職場では話される。働いているから、そのつながりで死んで1週間程度で発見してもらえるけれど、本当にそれだけ。他にどうしようもない。 男って女に比べて精神的に弱いから、高齢独身の孤独って、なかなか男には耐え難いのではないかと思う。

ライトテイストの読みやすい文章の推理小説だった。
この本自体は1981年刊行なのだけれど、話の舞台は1930年代のイギリス。 バーフォード伯爵のオールダリー荘という大邸宅で事件が起こる。

本当に軽い感じ。このオールダリー荘を映画で使いたいのでちょっと中を見せてくれということで、映画のプロデューサー、映画俳優、脚本家がこの大邸宅を訪れる。そこには、バーフォード伯爵夫妻、その娘と2人のボーイフレンド、バーフォード伯爵婦人のいとこ夫婦がいる。そのうち、有名映画女優がピストルで殺されて、犯人は誰か、というもの。

最後は刑事同士の推理比べみたいなことになる。二人の刑事が、オールダリー荘内の人間模様をより整合的に提示して、どちらがジョーカーを見つけるかという競争をする。

推理小説とはどのような構造になっているのだろうか。
刑事の推理によって犯人は自白する。自白によって真理は確定する。刑事は真理にいたる過程というのを最後に種明かしする。読者は、そういえばそんなことが書いてあったよね、アレがヒントだったのかと納得したりする。
いったいこの構造は何なのか。いつもメガネをかけていない人がその時だけかけていたとか、ある人だけが絨毯でつまづいたとか、そんなフラグに観察者はいちいち付き合わなくてはならないものなのだろうか。
細かいフラグがそれぞれ回収されて、結果犯人が自白するとしたら、それは作者と名探偵とのコンビネーション世界観が完結したということなのだろうけれど、それがこの現実世界と何の関係があるというのだろうか。

推理小説というのは、原因と結果のグロテスクな単純化だろう。だからこの現実世界には、原因と結果の関係性についての単純化パターン意識みたいなものが存在するのだろう。
言葉を変えれば、この世界は整合的であるはずだとか、この世界には意味が与えられてあるはずだという観念が、この世界には存在するのだろう。

このような非合理な信念が無条件に与えられるなんていうことは常識的にありえない。だからこの「切り裂かれたミンクコート事件」という推理小説でも、舞台がオールダリー荘とその近辺、登場人物も一定数に限定されている。
ということは、私たちの現代世界の世界認識も、ある一定の範囲に限定されているのではないだろうか。

推理小説の登場人物は、自由に見えて自由ではない。作者の世界観にとらわれている。彼らの常識に外れた言動は、最後名探偵によって回収される。このような小説を読んで私たちは安心する、下には下があるという。小説よりも推理小説のほうが楽に読める。レベルが低いから。何のレベルかというと、自由の世界観のレベルが。
純文学より大衆小説のほうがレベルが低い。なぜなら自由の世界観のレベルが低いから。

マトリョーシカ人形みたいなものだろう。

いったい最初に世界認識を限って、その限りを当たり前だとしたところのものとは何なのだろうか。
フローベールの「ボヴァリー夫人」の中に以下のような表現がある。

「しかしいったい何が彼女をこんなに不幸にしているのだろうか? 彼女を転倒させてしまった異常な禍はどこにあるのか? 自分を苦しめる原因を捜すように彼女は頭をあげて周囲をみまわした」

推理小説の登場人物が、何で自分はこのような奇妙な世界に迷い込んでしまっているのかなんて、「頭をあげて周囲をみまわす」なんていうこともありえるだろう。

推理小説の構造というのはどうなっているのかと思いこの本を読んでいる。

推理小説って読むと面白かったりする。でも面白いからってのめり込むのも違う気がする。密室トリックのパターンがどうだとか、著述トリックがどうだとか、きりがないだろう。

推理小説の枠組みみたいなものが分かれば、個別の推理小説とは、その枠組み内での想定可能なカテゴリー細分化の度合いみたいなことになるわけで、なんというか、このラインで推理小説好きの心を静められないものだろうか。

私の経験上思うことは、恋心を静めるためにはとにかくその子と一発やるというのが大事だということ。とにかく枠組みを確定させないと、何度も手管に引っかかる。もうそろそろ確定しよう。

宮崎市定といっしょに、ゆるーい感じで「論語」について考えていこうかという。

孔子の弟子で曾子(そうし)というのがいる。こいつが出来るやつなんだよね。論語というのはだいたい孔子が語ったところのものなのだけれど、ちょいちょい孔子の弟子がドヤ顔で語ったりする。孔子の話に比べると、やっぱり弟子だから落ちるところはある。しかし曾子というやつは、なんだかキラリと光る部分を持っている。
例えば、

泰伯第八193
「曽子(そうし)日わく、もって六尺(りくせき)の孤児を託すべく、もって百里の命をよすべく、大節に臨んで奪うべからざるなり、君子人か、君子人なり」

加藤清正が論語のこの部分を思い出しながら、二条城で秀吉の遺児である秀頼を守ったという逸話もある。
言葉の力という点においては、曾子は孔子に負けてない。

曾子はいいよなーと思う。
泰伯第八191はこのように始まる。

曽子、疾(しつ)有り。孟敬子(もうけいし)之を問う。曽子言いて日(い)わく、

病気の曽子に孟敬子というヤツがおみまいに来たんだな。曽子言いて日わく、だから、孟敬子に言霊をぶつける感じだろう。来るよー曾子節ー。

「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し。人のまさに死せんとす、その言やよし」

曽子は詩人だろう。私の話を聞け、という代わりの言葉がこれだから。たまらんね、まったくたまらん。いったい曽子は何を孟敬子に語ろうというのか。

君子道に貴(たっと)ぶ所の者、三。容貌を動かして、斯(ここ)に暴慢に遠ざかり、顔色を正しくして、斯に信に近づき、辞気を出して、斯に鄙倍(ひばい)に遠ざかる、籩豆(へんとう)の事は則(すなわ)ち有司(ゆうし)存す。

あれ??? 曽子は普通の事を言い出したね。ちょっと訳してみる。
君子は3つのことを大事にする。顔つきを変えるときもドヤ顔はしたらだめ、顔色はいつも落ち着いた感じで、しゃべるときは下品なことはいかんよ。つまらない仕事は部下にやらせる。

私は正直、曽子も外すということがあるんだな。だってそれ以外考えられないでしょう? まあまあ、「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し」という部分だけでもすばらしいからいいだろう、と思っていた。

しかしこの部分を宮崎市定は、目からうろこで解釈している。
まず「君子」という言葉を、「君子であるべきあなた」と解釈する。

これはあるな。

だから泰伯第八191は曽子最後の、友である孟敬子に対する祈りの言葉になるんだろう。
「君子」を「君子であるべきあなた」と解釈しなおして、泰伯第八191の後半部分をもう一度訳してみる。

君子であるべき孟敬子さんは3つの事を大事にして。あんた、話をする時はすぐ自慢話になってドヤ顔になっとるよ、そういうのはアカンよ。顔色はいつも穏やかにして、喋る時はあんまりヒドイ言葉を使ったらアカン。あんたちょいちょいカッとなるからなー。あと、何でもこまごま部下に言ったらアカン、最後のところは部下にまかせていかんと

おーー、関西弁風に訳してみたけれど、前半と後半の語調を整えれば、かなりピッタリ来る感じだろう。
こんな解決策があったとは。さすが宮崎市定だよなー。

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血盟団事件とは昭和7年に起こった連続テロ事件である。
日蓮宗の僧侶である井上日召に教導された10人の若者が、「一人一殺」をスローガンに当時の政財界の巨頭をテロの標的とし、実際、井上準之助(前大蔵大臣)、団琢磨(三井合名会社理事長)の二人まで暗殺することに成功した。

現代の感覚からすれば、テロとかとんでもない、みたいなことになる。
しかし、昭和初期の日本というのは、時代の雰囲気の位相みたいなのが戦後とは異なっている。当時の事件を現代の価値観で判断すると、トータルで整合性がとれないことになる。

では昭和初期の日本と現代日本とは、どのように時代の雰囲気の位相が異なっていたか。

戦前の帝国日本において、金本位制をめぐる物語があった。
血盟団事件で最初に暗殺された井上準之助は、現代風に言えば「ミスター金本位制」だった。
当時世界の主要国間には金本位制システムみたいなものが存在していた。第一次世界大戦の混乱で、各国は金本位制を離脱していたのだけれど、戦後それぞれ金本位制に復帰していた。ところが日本は関東大震災などの影響で他の主要国に比べて金本位制への復帰が遅れていた。
しかしついに、1930年(昭和5年)1月11日、浜口内閣の井上準之助大蔵大臣の主導で、日本は金本位制に復帰した。

近代における金本位制とは何かというと、各国が通貨発行量分の金を保有しつつ通貨の価値を金とリンクさせ、なおかつ金の輸出入は完全自由というものだ。
この体制は、現代と比べて各国の通貨政策が制限される代わりに、各国が互いにインフレに対して監視しあうという特性を持っている。
たから金本位制システムというのは、通貨政策上の一つのあり方にすぎない。しかし、これは何にでもよくあることなのだけれど、当時の金本位制にはさまざまな価値が上乗せされていた。
金本位制を採用している状況こそが一等国の証であるとか、さまざまな学術論文が金本位制の優秀さを喧伝したりとか。

当時の金本位制は、単なる通貨政策ではなく、一つの価値体系一つの世界観を形成していた。井上準之助は、金本位制世界観の日本における喧伝者であった。もちろん彼はこの世界観を真理だと思っていただろう。
金本位制世界観とはそもそもイギリスの世界戦略であって、金本位制、イギリス追従、協調外交、中国不介入というのは思想的につながっている。このような思想系列を最もよく体現したのは、昭和天皇、西園寺公望、憲政会、大財閥というラインだ。
第2次若槻内閣もこのラインに沿って成立している。

この第2次若槻内閣は昭和6年12月13日に崩壊。その原因というのは、内務大臣安達謙蔵のサボタージュだった。
よく言われるのが、安達謙蔵は政友会とグルだったというやつ。しかしこれは歴史を簡単に考えすぎている。「安達謙蔵自叙伝」にこのような部分がある。

「昭和6年9月21日、朝日新聞は大活字をもって英国が禁輸出再禁止を断行せる旨特報した。予はこの報道に少なからず驚倒し、英国がかかる政策を執る以上は、我が国独り金解禁政策を維持することは不可能なりとの信念浮動して、これを若槻総理に勧告せんと決意した」

さらにこのようにある。

 「翌22日、総理官邸に若槻と面会して曰く、財政政策の大家に対し全くの素人考えかも知れぬが、予は深憂に堪えず。そは他にあらず金問題についてなり。昨日ロンドンの電報は英国が再禁止を断行する旨報じたり。英国再びこの挙に出ずる以上、我が国独り解禁を継続するの力なきは明瞭」

これに対して若槻は、

「右手を振り声を低くして曰く、これは秘中の秘だが君の意見の通りと思う」 

と発言したという。

おそらく若槻は日本の金輸出再禁止について井上準之助や幣原喜重郎に相談したところ反対されたんだろう。これに対して安達謙蔵は態度を硬化させたのだろう。
イギリスがいきなり金輸出再禁止をするってヒドイよね。これによって日本の自由主義世界観の根拠は失われた。これ以降、日本の自由主義は力を失い、自由主義と総力戦思想は太平洋戦争の敗戦に向けて壮大な死のダンスを踊ることになる。

血盟団事件の最初のテロというのは、小沼正の井上準之助暗殺だ。
昭和7年2月9日 小沼正は演説会会場に向かう井上準之助を、後ろからブローニング小型三号自動拳銃で3発撃った。1発目は左でん部、2発目は右肺を貫通、3発目は脊髄骨を粉砕した。井上準之助は病院に運ばれたが、ほとんど絶望状態だったという。

このレベルの事件になると、テロが悪いとかそのような話でもないと思うんだよね。暗殺された井上準之助はかわいそうな被害者だと考えるなら、それは井上準之助に失礼だろう。
この事件は、日本の歴史における世界観同士の相克の結果であり、井上準之助はこの事件により日本の歴史にその名を刻んだ。


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「黄色い部屋の謎」 連発。

前回の書評は、100ページ未読で書いたのだけれど、今回は完読版だ。
この推理小説の密室の謎というのは、博士の娘というのが二重人格で結局被害者と加害者が同一人物なのではないだろうか、と推理してみたのだけれど、全くの的外れだった。

この結論は当てにくいと思った。原因と結果の過程の間に飛躍があるのではないかと思ったね。まあ、負け惜しみなんだろうけれど。

この推理小説の不思議なところは、名探偵が自分の推理パターンを、ちょいちょい告白する場面がある。

「眼に見える事実は、どうみるかによってどうにでも取れるものですから、それを判断の根拠にしてはいけないのです。まず推理することです。そしてそれから、眼に見える事実が、自分の推理の輪の中にうまくおさまるかどうか調べてみるのです」

おいおい、弁証法だろう。
そもそも、このような名探偵によるネタバラシ的告白というのは必要ない。名探偵の無意味な告白は、推理小説としての完全性を傷つけるものだろう。そして、あえてガストン・ルルーは、名探偵に告白をさせるわけだ。

弁証法。
さまざまな事象間に関係性が推測される状況があるとする。例えば推理小説内の手がかりみたいなやつ。その関係性の中の本質みたいなものを仮定してみる。例えば犯人は誰かとか。その仮定に基づいて、与えられた事象を秩序付けてみる。もちろん最初はうまくいかない。次に別の本質を仮定して、与えられた事象を再編成してみる。もちろんたいしてうまくはいかない。
しかしこの時点で、二つの世界解釈が与えられたわけだ。この二つの世界解釈を比較することによって、より整合性の取れた世界解釈を得られることが期待できるだろう。

正、反、合。

この思考パターンを繰り返すことによって、より世界観の本質への理解を深めようというのか弁証法だ。そして、「黄色い部屋の謎」における名探偵は、推理とは弁証法であると不必要な告白をしているわけだ。

ガストン・ルルーが目指したのは単なる推理小説というものではなく、ユゴーやフローベールのような時代を貫くような「文学」だったのだろう。
時代も20世紀に入り文学の根拠が失われて、それを取り戻すためにガストン・ルルーは派手なネタバラシみたいなことをいる感じだね。

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