magaminの雑記ブログ

2018年02月

ニーチェが難解だとされるのは、言っていることが難しいというのではなく、まあ何というか、誰もが持っている固定観念を、誰もが相対化できないからだと思う。
人間というのは、それなくしては生存できないような観念を、普遍的真理だと思い込む習性がある。例えば、潔癖症の人が手を洗ってばかりいたとする。正常とされる人は、そのような人を不思議に思う。そんな手が荒れるまで洗う必要もないのにと。しかし、潔癖症の人にとって、手を洗うことが自分の生存を保障すると確信していたとするなら、その人にとって手を洗うことは真理となるだろう。
キリスト教などのような一神教の宗教を信じる人は多い。キリスト教を信じなければ、社会の一体性や秩序が保てないとするなら、その社会においてキリスト教は真理となるだろう。

原因と結果が転倒している。もう一発いこう。

1という数は1だ。1が1ではないなどということはありえない、と普通考える。しかし、1がいつでもどこでも1であるということは、いったい何によって保障されているんだ? 
何によっても保障されてはいない。
人間個人にとって、その自己同一性と、1がいつでもどこでも1であるということはリンクしている。1=1というのは、何らかの真理何らかの原因というものではなく、社会がその維持のために個人に要請している自己同一性というものの結果なんだよね。

このような考え方が正しいとか正しくないとか、そのような判断はおいといてだよ、この予備知識をもってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」484
「思考作用がある、したがって思考するものがある、デカルトの論拠は結局こういうことになる。しかしこのことは、実体概念に対する私たちの信仰を当たり前のものとして設定することに他ならない。デカルトのやりかたは、達せられるのは何か絶対に確実なものではなく、一つのきわめて強い信仰の事実にすぎない。このデカルトの形式においてでは思想の仮象性を退けることはできない」

デカルトの「我思うゆえに我あり」というやつ。ニーチェは、これを当たり前ではないと言う。「我思うゆえに我あり」と認識するためには、認識主体に何らかの一体性がなくてはいけない。しかし、この一体性というものはあたりまえではない。
「我思うゆえに我あり」という言説は、正確に語るなら、「我思うゆえに我あり」と認識できる程度の自己同一性を、近代世界に参加する人なら備えておくべきだ、という価値判断なんだよね。

ではなぜ私たちは、たんなる価値判断を真理だと思ってしまうのか。

それは社会的要請だろう。近代という厳しい時代では、社会秩序を維持するために個人の自己同一性というのが、かつての時代よりもより必要とされているということだろう。

田舎の話なんだけれど、今から40年ぐらい前は、頭のおかしい人というのは案外その辺をふらふらしていて、地域の人もひどく悪いことをしないのなら、まあしょうがないよね、みたいな雰囲気があった。福沢諭吉の「福翁自伝」のなかに、村の中をふらふらするキグルイ女の話があった。「カラマーゾフの兄弟」でのスメルジャコフの母親は、村のキグルイ浮浪女だった。
現代ではもうありえない。
かつて個人の自己同一性というのは、あればよりいいという程度の価値判断だったのだろう。ところが現代では、自己同一性の価値が高まって、ほとんど真理のような扱いだ。自己同一性のあやしげなやつは、とりあえず排除の勢いだ。

いいとか悪いとかいう物ではないのだけれど、単なる価値判断が真理かのように語られるということはある。ニーチェは、真理だと思われているあらゆるものは、単なる価値判断だ、というのだけれど。

ニーチェが難解だとされるのは、言っていることが難しいというのではなく、まあ何というか、誰もが持っている固定観念を、誰もが相対化できないからだと思う。
人間というのは、それなくしては生存できないような観念を、普遍的真理だと思い込む習性がある。例えば、潔癖症の人が手を洗ってばかりいたとする。正常とされる人は、そのような人を不思議に思う。そんな手が荒れるまで洗う必要もないのにと。しかし、潔癖症の人にとって、手を洗うことが自分の生存を保障すると確信していたとするなら、その人にとって手を洗うことは真理となるだろう。
キリスト教などのような一神教の宗教を信じる人は多い。キリスト教を信じなければ、社会の一体性や秩序が保てないとするなら、その社会においてキリスト教は真理となるだろう。

原因と結果が転倒している。もう一発いこう。

1という数は1だ。1が1ではないなどということはありえない、と普通考える。しかし、1がいつでもどこでも1であるということは、いったい何によって保障されているんだ? 
何によっても保障されてはいない。
人間個人にとって、その自己同一性と、1がいつでもどこでも1であるということはリンクしている。1=1というのは、何らかの真理何らかの原因というものではなく、社会がその維持のために個人に要請している自己同一性というものの結果なんだよね。

このような考え方が正しいとか正しくないとか、そのような判断はおいといてだよ、この予備知識をもってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」484
「思考作用がある、したがって思考するものがある、デカルトの論拠は結局こういうことになる。しかしこのことは、実体概念に対する私たちの信仰を当たり前のものとして設定することに他ならない。デカルトのやりかたは、達せられるのは何か絶対に確実なものではなく、一つのきわめて強い信仰の事実にすぎない。このデカルトの形式においてでは思想の仮象性を退けることはできない」

私も完全に理解しているというものでもないから、完全にニーチェを説明できるというものではないのだけれど、その深さ、ニーチェの深さというのではなく人間存在の深さということだろうけれど、その深さを感じてもらえただろうか。

上巻を読んでみて、昔の私の同じ本の書評と、感想を比べてみた。
かわり映えしないな、と思った。現代の価値観を相対化しようということは、分かりやすいことなのだろう。
勝負は「権力の意思」下巻だな。 私、過去のこの本のニーチェ書評で奇妙なことを書いているけれども、同じことを感じるかどうか。 

面白いことを思いついたりしないかなー。

高山樗牛はニーチェを個人主義の哲学だ、と言っていたけれども、これはちょっと甘いと思うんだよね。
確かにニーチェは、あらゆる価値観の相対化ということは言った。古い価値観が相対化されたとするなら、新しい価値観、自己実現としての個人主義の世界が現れたりすることもあるだろう。
しかし、ニーチェの哲学は、「あらゆる」価値観の相対化だよ。もちろん、個人主義なるものも相対化されるだろう。

あらゆる価値観を相対化する哲学、とは何なのかというと、異様な感じがするかもしれないけれど、それは「メンヘラ哲学」だと思う。
メンヘラ女ってよくいる(最近はメンヘラ男も多いらしいけれども)。メンヘラ女を好きになって酷い目にあったという男性もかなり多いと思う。
メンヘラの特徴というのを、以下に列挙してみる。

1 極度の依存性
おそらく自己の確立というものができていないのだろう。自己の一体性を維持するために、絶えず他者を必要としている。
2 責任感が全くない
石に躓いたら石が悪いといい、坂道で疲れたら坂道が悪いという。
3 祭り好き
まわりのメンヘラに聞いてみよ。
4 活動的、以外にも
迷惑千万なんだよね。

メンヘラはかつては境界例といわれていた。精神病の二大疾患、統合失調症と神経症のどちらでもないという意味で境界。それが現在では、かつての境界例はさまざまなパーソナリティー障害に分割されていて、それをまとめた俗語がメンヘラということだろう。

このメンヘラ精神構造の本質というのは、情念の突出ということだろう。近代的人格の形成が甘いゆえに一次感情である情念が突出しやすい、もしくは、一次感情である情念が突出しやすいがゆえに近代的人格形成が甘い、ということになる。

ニーチェの哲学というのは、この近代的人格形成の全体を相対化しようということだろう。その結果として、人間の一次感情である情念の価値回復というの目論んでいるのだろう。
ニーチェは「偶像の黄昏」の中でこのように言う。

「誰一人としてもはや責任を負わされないということ、存在の様式は一つの第一原因へと還元されてはならないということ、世界は感覚中枢としても精神としても一つの統一ではないということ、このことがはじめて大いなる解放である。私たちは神を否認する、私たちは神において責任性を否認する。すなわち、このことではじめて私たちは世界を救済するのである」

そもそも情念とは何か? 
大地にへばり付いて生きているみじめな生物があったとして、はたしてそこに、論理や合理性や意味や時間などがあったりするだろうか? そこにあるのはただ、生きようとする意志のみではないだろうか。情念とは、そのような生きようとする根源的な力のことだろう。
そのような力に意識の座をすえるなら、その人にとって責任などというものの意味はなくなるだろう。 近代的自我というものは末節となり、必要に応じて他人の自我を借用して問題なしということになるだろう。
ニーチェ哲学というのは、強い人間がこの世を楽しむ、などというレベルではなく、もっと生々しい世界観を提唱しているのだと思うよ。

古代から中世に至るときに人口崩壊というものが起こった。例えば、中国の戦国時代においては、その人口は2000万人前後だといわれている。前漢末には6000万人。ところが、三国志の時代には、魏・呉・蜀の三国の人口をたしても770万人にしかならない。

全てが相対化された情念の世界? まあ、、いいだろう。
しかしその世界というのは、美しさを突き抜けたところにある全く残酷な世界だと思う。

休日は、私が家族の夕食をつくることになっている。 子供が四人いる。 長男21歳大学生、長女高2、次男小5、次女小2。こいつらと妻の分の夕食ということになる。

今日は鳥もものトマトソース煮込みにした。
作り方は簡単。 鳥もも4枚に塩コショウをふって、フライパンで焼く。皮のほうから焼くというのは常識だろう。焼き目がついたら、料理酒を適量ぶっこむ。 沸騰したら、カットトマト2缶とコンソメ2粒を入れて、適当に切った、玉ねぎとジャガイモを上に乗っけてふたをする。

これだけなんだよね。

出来上がったら、台所鋏をわたして、適当に鶏肉を切ってもらうという。
鶏のから揚げとかより、はるかに楽チンだ。今日は鹿児島産の地鶏が安かったので、高めの鳥ももを使ったけれど、トマトソースを入れて煮込むのだから、安い鳥ももでも、味については関係ないのではないかと思ったりする。

「本が好き」内の有名レビュアーさんが、吉村昭推しをやっていたので、私もつられて読んでみた。
「吉村昭」という作家は知らなかった。近所のブックオフに行って探したら、この「海軍乙事件」しかなかった。

買うかどうか迷った。私は戦前の歴史観にこだわりがある。変な歴史観を押し付けるようなハズレ本だったらキツイなー、と思った。その有名レビュアーさんの書く文章は非常に面白い。知識の範囲も広く、教養という意味ではかなり信頼できる。ただ、あのプロフィール画像の男が喋っているような気がする時があるんだよなー。

そして、意を決して読んだのだけれど、

  これはかなり硬骨の戦記文学だろう

と思った。文庫内にある著者紹介では、吉村昭は1927年生まれ、2006年永眠とある。巻末の「吉村昭の本」では、著書がずらずら紹介されている。
これもしかして、吉村昭ってかなり有名な作家なんじゃないの? 今まで知らなかったとか、ちょっと恥ずかしいんじゃないの?  

あの太平洋戦争についてなんだけれど、確かに大惨敗だった。日本軍部のここがダメだったあそこがダメだったという議論は山ほどある。でも、日本軍が軍隊の体をなしていなかったとまで考えるのは間違いだと思うんだよね。吉村昭が淡々と表現しているように、軍部においても要所においては、ちゃんとした人材がはまっていたのではないだろうか。これは現代日本でも同じで、どの階層にいっても、案外ちゃんとした人というのはいるもので、そういう人がそれぞれにその場を守ることで、全体の秩序というのが維持されているというのはある。
旧日本軍も吉村昭が描くように、そんなに弱くなかったと思う。ではなぜあんな大惨敗の結果になったかというと、物量の差がそのまま結果に表れやすい太平洋の諸島が主戦場になったからだと思う。
アメリカは万能ではない。物量の限界というものはある。世界戦略的には、アメリカは中国大陸を回って日本に進軍するべきだった。そうすれば東アジアの息の根は止まっただろう。中国も共産化することはなかっただろう。アメリカは島伝いに日本を直接攻撃するという、比較的安易な道を選んだ。
その結果、現在において歴史はどのようになっているだろうか。
中国は全く巨大化した。長期の歴史的観点で考えたら、日本の近代って、中国がその巨大な姿を世界史に再び現すための露払いみたいなものだったのではないか。
今までは、保守というのは親米保守というのがメインだったけれど、これからは親中保守というのもありえると思う。

吉村昭の「海軍乙事件」を読んで、以上のような白昼夢を見た。

「本が好き」内の信用できるレビュアーさんがこの本に高評価だったので、ちょっと読んでみようかと思った。
朱川湊人という小説家は聞いたことがなかった。そんな作家、超絶マイナーなのではないかと疑いながら近所のブックオフに行って探したら、あったあった、マジあった。「花まんま」という本は、普通に本棚に刺さってあった。
手にとってみて思ったのだけれど、自分的には普通、絶対選択しない本だと思った。まずもって、題名が「花まんま」で、この文庫本の表紙が、花畑に座る赤い服を着たツインテールの少女のイラストなんだよね。関係ない話かもしれないけれど、私はロリコンではありません。
何かの根拠がないと、いい年をしたオッサンが、この本をレジに持っていくというのは不可能だろう。

これだけのハードルを越えさせといて、この本がつまらなかったら本当に激おこプンプン丸だよ、と思って読み始めた。そして読んだ感想なのだけれど、

「ええ話やなー」

6篇の短編集なんやけれど、「花まんま」ではちょっと泣いてもーたね。
昭和40年代大阪の子供目線の物語だった。男の子が東京から大阪に引っ越してくる。文化住宅という長屋式の賃貸住宅に住む。大阪の長屋というのはコの字になっていて、真ん中に空き地上のスペースがある。私は昔、大阪大学にバレーボールの試合で遠征に行ったことがある。大学には体育会のための宿泊施設みたいなものがあるのだけれど、大阪大学の宿泊施設はコの字型の文化住宅スタイルだった。なんだこれ、と思った。
ペリーヌ物語のペリーヌの家かよ
本当にそんな感じだった。ちなみに京都大学の宿泊施設はこじゃれたペンションみたいだった。

そして、東京から大阪の文化住宅街に引っ越してきた男の子の、コの字世界で暮らした日々はどうだったのかというと、

「あの袋小路での日々こそがまさに黄金だった」

本当に、子供時代って今から考えると、濃密で息苦しいようで、まさに黄金だったよね。この本では、怪獣とかラジコンの戦車が流行っていたりしているけれども、私の町では、それは「恐竜」だった。小学生の時、「まさなが君」というのが恐竜博士で、クラスの羨望の的だった。私は気の弱い小学生で、でも実は恐竜大好き、隙を見て「まさなが君」に喋りかけた。
「ねえ、まさなが君。恐竜って、いっぱい種類があるよね。でもさすがにさー、うんこザウルスっていう名前の恐竜はいないと思うんだよね」
まさなが君は答えた、今でもはっきり覚えている。
「いるよ、うんこザウルス」

マジで信じた。子供時代とは、まさに黄金の時代だった。

ヘーゲルの「精神現象学」にこのようにある。
 かつて世界のあらゆる事物はコンジキの糸によって天とつながれていた。近代とはその糸を切る時代である
その通りだとおもう。黄金の糸をることによって、大人というものになったのだろう。「花まんま」を読んで、いいこと悪いこと、昔の事を思い出した。

私の上司の話なのだけれど。
明らかに何らかの精神障害だと思っていた。症状として、

責任感がない

失敗を人のせいにするのだけれど、彼の場合は尋常ではない。トラックのシートをフォークリフトで突っついて破った時、なんと、
「風が悪い」
と言ったからね。

依存癖がある

上司には絶対服従。別にそんなスパルタ会社でもないんだよ。率先して服従。極度のワーカーホリック。仕事が暇なときはイライラして、忙しい時はテンパルという。上司や仕事に人格を傾けて依存している。

自分勝手

仕事だから何をしてもいいと思っている。廃棄物の引き取りである大手電機メーカーのビルによく行くのだけれど、オフィス内で大声で指示を出し、クレームをつけられたこと多数。ここ何年かは、部下である私が、
「大声出さないでよ」
と、頃合いをみての確認をしている。メンドクサイのでため口です。

彼は何らかの精神疾患を抱えていると思っていた。でもなー、分裂病予備軍でもない。あんなぐいぐい来る統合失調症患者はいないだろう。神経症でもない。責任感もないのに神経症なんてならないだろう。
木村敏の「分裂症と他者」を読んで、明確に理解した。
彼は「境界性人格障害」だ。よくいわれるところの「メンヘラ」だね。

「メンヘラ」の本質というのは、祝祭だ。
人間の精神というのは3層構造になっている。
一番上は、明確な意識世界。論理や推論をつかさどる。その世界においては、時間は1秒1秒過去から未来に淡々と流れる。
その下は、雰囲気の世界。自分にとって大事なものは大きく感じたり、つまらないものは小さく感じたり。実感みたいなものが充満している世界。その世界において時間が始まる。
最下層は祝祭の世界。生物の外の物質世界というものは、そもそも生物の生存などには何の興味ももっていない。石や水は、生物のためにあるわけではなく、ただただそこにあるだけだ。生物とは一次的には、そのような全く残酷な世界に接しながら生存している。何らかの力をどこからか与えられて、この地球上にへばり付いて生きている。その何らかの力の分与は人間にも与えられてある。人間だって生物だから。その力の世界というのは、時間もなく自他の区別もなく、ただ生きようとする意志のみがある世界だろう。

このように3つの世界が、人間の精神内にあるとして、「メンヘラ」の障害というのは、第1と第2の世界における接触不良にある。だから、第1の世界、すなわち近代世界における常識的な人格形成がちょっと甘いのだろう。第3世界の「生きようとする意志」というものが突出しがちなのだろう。
「生きようとする意志」に責任感などというものはないだろう。生きることこそが責任だろうし、そりゃあ、風が吹いて失敗したら、風が悪いに決まっている。
表面世界での人格形成が甘いから、人の存在を借りて自分のこの近代世界での自己同一性を保証したいという気持ちも分かる。
「メンヘラ」がなぜあんなに行動的なのかというのも、当たり前だよね。彼ら彼女らの人生は、生きようとする力の突出そのものなのだから。

迷惑千万だね。でも使いようによっては役に立ちそうな人材だろう。

この本を読んで、木村敏なる精神科医はすごいハイレベルの思想家だと思った。 養老孟司の「バカの壁」を読んだときは、これはひどいと思ったけれども、まあ、なんでもそうなのだけれど、医者にもピンとキリがあるんだろう。

この本のハイレベルなところは、統合失調症とは何かを考える時に、下から、すなわち科学的な積み重ねという手順ではなく、上から、すなわち統合失調症における意識の存在体制を解明しようとしているところだ。

この世界にはよく分からない事というのがある。いくら科学が進歩しても分からないままという。
例えば、意識とは何なのか? 
巨大な謎でございます。しかしね、ここから派生する謎で、自分が自分であるとは何なのか、というのもある。夜寝る前と朝起きた後の自分が同一の自分であると当たり前に確信しているのは何故なのか。そして、ある種の人々が奇妙な妄想を抱くのは何故なのか。
木村敏は、このあたりの謎を崩していこうという。すばらしいチャレンジだ。

具体的にこの本の内容なのだけれど、これが非常に難解。ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、西田幾多郎、などを引用しながらの論理を展開している。例えばこんな感じ、
しかし西田幾多郎の言う「絶対の他」は、ただこのように自己の自覚の根底をなすだけではなく、自己と他者、私と汝が共にそこでそれぞれの自己を自覚する間主観的な場所でもある。
はっきりいって、何を言っているのか分からない。だいたい全編こんな感じだ。これを分かるように説明してみようという。 

私たちは雰囲気みたいなものの中で生きている。通常、日常生活ではこのようなことは意識しない。でもね、例えば昔の事を思い出す場合、まず当時の雰囲気を思い出し、そのあと次々に記憶が再生されるということはないだろうか。
私たちのこの現在の意識というのは、雰囲気の海に浮かぶ島みたいなものなんだよね。夜寝る前と朝起きた後の自分が同一であるとたちどころに確信できているのは、論理的推論の結果ではなく、雰囲気の継続性に対する確信に依存している。
他にも、私たちは普通他人を、心のないゾンビだとは思わない。他人を自分と同じような立体的に生きている人間だと確信している。このことは論理的推論の結果ではなく、自分が感じている雰囲気を他人も共有しているはずだという確信に依存している。
その「雰囲気」というものは、どこにあるのか。
もちろん自分の中にある。雰囲気も自分なんだよね。

私は以下、断言する。注意深くイメージして欲しい。

雰囲気も自分であり、この意識も自分であるならば、自分が自分であるという自己同一性は、雰囲気と表層意識との関係でありその循環だ。

西田幾多郎の「絶対の他」という概念は、この雰囲気のことだろう。「絶対の他」という言葉を雰囲気に変えてもいいのだけれど、坂口安吾風に「ふるさと」と言い換えて、上記の意味不明だった文を以下に再掲する。

しかし西田幾多郎の言う「ふるさと」は、ただこのように自己の自覚の根底をなすだけではなく、自己と他者、私と汝が共にそこでそれぞれの自己を自覚する間主観的な場所でもある。

かなり分かりやすくなったのではないだろうか。

分裂病、境界例、などの精神疾患は、この「ふるさと」の形成不全、もしくは「ふるさと」と表層意識との関係性不全に起因するという。
画期的な論考だと思う。
自己の一体性は、無条件に与えられるものではなかった。コミュニケーション能力などというものは、自己の一体性に依存している。しかし、自己の一体性というものは筋肉を鍛えるように鍛えられるものではない。「ふるさと」を形成したり、「ふるさと」と表層意識との関係性を促進するような方法論などは近代世界には存在しない。
プラトンは「プロタゴラス」で、

「徳は教えることは出来ない」

と主張したけれども、ある意味正しかったと思う。

木村敏は、分裂病の治療についてこのように語る。
「薬物療法、精神療法、その他どのような治療をおこなったとしても、患者がより安定し充実した人生を歩み始めた場合、それは必ず、治療者との間の長期間の人間的対話によって支えられていると言ってよい。治療者が患者の中に「ふるさと」を見いだしてそれと関係を設立し、この関係そのものを彼自身の自己の場所として生きる時、この関係は逆に患者の内部にも必ず何らかの応答を生じるはずである」
これはもう治療というより、救いであり祈りだろう。

この本を読んで、木村敏なる精神科医はすごいハイレベルだと思った。 養老孟司の「バカの壁」を読んだときは、これはひどいと思ったけれども、まあ、なんでもそうなのだけれど、医者にもピンとキリがあるんだろう。

この本のハイレベルなところは、統合失調症とは何かを考える時に、下から、すなわち科学的な積み重ねという手順ではなく、上から、すなわち統合失調症における意識の存在体制を解明しようとしているところだ。

この世界にはよく分からない事というのがある。いくら科学が進歩しても分からないままという。
例えば、意識とは何なのか? 
巨大な謎でございます。しかしね、ここから派生する謎で、自分が自分であるとは何なのか、というのもある。夜寝る前と朝起きた後の自分が同一の自分であると当たり前に確信しているのは何故なのか。そして、ある種の人々が奇妙な妄想を抱くのは何故なのか。
木村敏は、このあたりの謎を崩していこうという。すばらしいチャレンジだ。

具体的にこの本の内容なのだけれど、これが非常に難解。ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、西田幾多郎、などを引用しながらの論理を展開している。例えばこんな感じ、

しかし西田幾多郎の言う「絶対の他」は、ただこのように自己の自覚の根底をなすだけではなく、自己と他者、私と汝が共にそこでそれぞれの自己を自覚する間主観的な場所でもある。

はっきりいって、何を言っているのか分からない。だいたい全編こんな感じだ。これを分かるように説明してみようという。 以下明日。

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