magaminの雑記ブログ

2018年02月

ネタバレなし、と言っても、まだ最後まで読んでいないので当たり前なのだけれど。 残り100ページ。

推理小説ってどういう構造になっているのかと思って、「黄色い部屋」を読んでみた。

話の内容としては密室ものだった。
スタンガースン博士(以下博士)と35歳の美貌の娘が、家の離れの実験室で日々物理実験をしている。この実験室の奥にある仮眠室が「黄色い部屋」(壁紙が黄色いらしい)、夏場、娘さんの寝室になったりする。夜、娘が「黄色い部屋」に引き上げて内側から鍵をかけた。博士とその老僕は実験室でマッタリしていた。
突然、「黄色い部屋」の中から、「助けてー」という娘の声が聞こえた。「黄色い部屋」の扉を開けようとしても、内側から南京錠がかかっているから開かない。たから、ベルニエ夫婦という、スタンガースン家の門番をまで連れてきて、4人で「黄色い部屋」の扉をぶち破った。すると、部屋の中で博士の娘が、こめかみを羊の骨で殴られて倒れていた。犯人はどこにもいない、忽然と消えてしまったと言う。

この事件にたいする警察の推理。
密室は完全である。ゆえに最も高い可能性というのは、博士が老僕にベルニエ夫婦を呼びに行かせた時、「黄色い部屋」の内外で、博士、博士の娘、犯人、という3人の時間があり、犯人が内側から南京錠を開けて部屋を出て、博士はそれを黙認し、瀕死の娘が部屋の内側から再び南京錠をかけた、というものだ。

合理的推論だろう。これで決まりでいいのではないかと思うのだけれど、さらなる犯人消失事件が起こって、博士、娘、犯人グル説というのが成立しにくくなってくる。読者は、名探偵による真実の合理的推論というものを期待するようになるわけだ。

「黄色い部屋の謎」という本は、推理小説の古典だけあって、名探偵ルールタビーユが名探偵の思考の本質を告白する場面がある。以下、抜粋してみる。

「およそ知覚によってつかめるものなんぞ証拠にはなりえないんだ。僕も、知覚しえる痕跡、の上にかがみこんだが、しかしそれはただ、僕の理性が描いた円の中へ、それがちゃんと入るようにするためだったんだ。その円は実に狭かったこともある。しかし、いかに狭いとはいえ、やはり広大だった。その理由は、その円はただ真実のみを入れていたからだ」

興味深い告白だ。非常に興味深い。
ルールタビーユには、事件の事象は自分の描く理性の円の中に意味を持ってはまるはずだという信念があるわけだ。
世界は合理的であるはずだという非合理な信念。
名探偵における問題というのは、理性の描く円の内部における緻密さということになる。理性は与えられてあり、与えられた理性は世界を限り、限られた世界はカテゴリーに分けられるという。
名探偵の事件解決能力というものは、このカテゴリー分けについてのデリケートな具合みたいなものに起因しているのだろう。
だから、推理小説においては、与えられた理性がなぜ世界を限るのかというのは問うてはならないのだろう。

「黄色い部屋」における密室の謎なんだけれど、博士の娘というのが二重人格で、結局被害者と加害者が同一人物なのではないだろうか。推理小説の種明かしとしては筋はよくないと思うのだが、これぐらいしか思いつかない。博士というのが、原子物理学の権威というのだけれど、1907年に原子物理学というのも怪しい。この博士の友人のランスという男は、骨相学者という。骨相学なんてインチキ科学の代名詞みたいなものだ。だから理性の描く円の内部に、二重人格という密室の回答も、ギリギリ入っているのではないかと思うのだけれど。

推理小説のプロトタイプってどういうものなのかと思い、ガストン.ルルーの「黄色い部屋の謎」を読んでいる。230ページほど読んだ。

若き新聞記者ルールタビーユが探偵役で、密室傷害事件に挑むというもの。この本は、密室事件解決に向けて一歩一歩淡々という感じで、文学的に面白いというものでもない。
推理小説というものは、確かに文学的に面白い必要性はない。しかしだからと言って、謎があってそれを解決すればいいというものでもないだろう。
探偵の最後の謎解きが腑に落ちるみたいな、あのカタルシスってなんだろうね。

その辺のところを考えながら、「黄色い部屋」の続きを読んでいきたい。

論語を読むと、いつも引き締まった気持ちになれる。論語は現存する書物の中で最高峰であるというのは、まず間違いない。

なぜそんなことが断言できるのか、ということを説明します。

よく言われるのが、西洋には哲学があって東洋には哲学はないということ。
ふざけるな。ありえない。
そもそも哲学とは何か? 哲学者とは何か?

ニーチェ 「権力への意思」 972 にこのようにある。

「私は最後にこう認めるに至った、哲学者には異なった2種類があると。すなわち、
 1 価値評価の何らかの偉大な事実を確立しようとする哲学者。
 2 そうした価値評価の立法者である哲学者。
前者は全ての過去の事物をその未来の有用のためにつかうという人間の課題に奉仕している。
しかるに後者は命令者である。彼らは言う、かくあるべしと」

前者の哲学者は二流、後者は一流の哲学者だ。西洋近代の大哲学者は全て二流だ。価値評価の立法者である哲学者というのを、私はプラトンと孔子以外に知らない。そして、二つを読み比べた場合、孔子の論語はプラトンをはるかに凌駕している。

論語を、何か役に立つ教訓集だと思ってはダメだよ。論語というのは、これは驚くべきことなのだけれど、その一節一節が互いに互いを保障しあい、互いに互いを持ち上げあい、普遍的世界観というものを形成している。この論語的普遍的世界観が妥当なものであったのかどうかという判断なのだけれど、現在、日本や中国がまとまりとして存在しているところを思えば、妥当であったと判定して問題ないだろう。
この論語的世界観の強力さというのは、プラトン的世界観と比べて明らかだ。西洋は、プラトン的世界観を保障するものとして、一神教のキリスト教を必要とした。東洋には絶対神は存在しない。その理由は、論語的世界観が一定以上の強度を持っていたので、社会の秩序を保障するところの絶対神を必要としなかったからだろう。

論語のすごさを知ってもらうには、実際に読んでもらうしかないのだけれど、一つ論語の深さを紹介します。

論語 里仁第四 073 にこのようにある。
「子日わく、人の過ちや、各々其(そ)の党に於(おい)てす。過ちを観て斯(ここ)に仁を知る」
これをどう読むか。 私なんかは、人の振り見てわが身を、みたいな感じで読んでしまう。例えば、東洋哲学の碩学、宇野 哲人は、
「過失を見ると仁者が不仁者かがわかる」
と解釈している。妥当な線だと思う。
ところが、吉田松陰はこの部分を、講孟箚記の告子上第11章の箚記で以下のように解釈している。

「人を殺すは不仁なり、殺すの心は必ず仁なり。仁は愛を主とす。人を愛する。己を愛する。同じく仁なり。もし愛するところなくんば、憎むところなく、殺すところなし」

驚くべき論理を展開している。「論語」の「過ちを観てここに仁を知る」のなかの「ここ」を、過ちを犯した本人その人自身をさしていると、吉田松陰は判断しているわけだ。
そして、この吉田松陰の強力な論語解釈によって、論語の世界観は崩れるのかというと、そうはならない。論語世界はより強化されている。

論語とは計り知れない強度を備えた言論体系なんだよね。

「本が好き」内の信頼できる複数のレビュアーさんが、貴志祐介の「黒い家」を紹介していたので読んでみた。
貴志祐介という小説家が存在しているということは知っていたけれども、貴志を「きし」と読むのは知らなかった。たぶん貴志祐介、初読書だと思う

実際読んでみて、かなりよく出来たホラー小説だな、と思った。

この主人公の保険屋の男というのが、ちょっととろいんだよね。
主人公の彼女というのが、小柄で優しくて主人公のインポも許してくれるような女性だ。
このような女性は絶対いないとは言わないけれども、ほとんど天然記念物だね。作者によってこの女性をあてがわれた主人公は、普通に見えてメンタル弱めなのが推測できる。実社会ならこれでかまわないのだけれど、いやしくもこれから「黒い家」を訪れようかというのでは先行き不安だね。

主人公は精神分析が好き。さらに、主人公の彼女は精神分析を学ぶ大学院生だという。これはやばいね。「黒い家」に行ってヤバイヤツが出てきたときに、精神分析などというものが役に立たないことは明らかだ。主人公は精神分析などという関係ないことをやっている間に、かなり追い詰められていくだろうなということが推測できる。

主人公は、会社にかかってきたやばい電話にマジレスして、自分の秘密の身の上話を喋ってしまう。これはいかんよ。これから「黒い家」に行こうとするやつが、この無防備さ。 こいつ、死ぬまであるな、と思った。

主人公は、普通を装われながらも、ちょいちょい弱さをアピールされている。

一方、犯人の方なのだけれど、ほとんどサイコパスあつかいだな。人間の心がないみたいな推測のされ方で、「背徳症候群的人格障害」という病名まで与えられている。
私は、背徳症候群的人格障害の人に会ったことはないけれども、明らかに何らかの人格障害だろうという人は何人か知っている。私は社会の底辺に近い会社に20年以上勤めているのだけれど、ちょいちょい人格障害その他の精神疾患が疑われる人が紛れ込んでくる。よくいるのが、論理が通じない、根拠なく威張る、弱いものをいじめる、というコンボで責めてくるやつ。こういうやつらにどう対処するかというと、最後は恫喝と無視のコンビネーションだね。恫喝とかひどいと思われるかもしれないのだけれど、これは底辺の世界の話だから。
私は恫喝しながらも、人格障害のやつらにも「心」はあると思っている。心の中には善があると思っている。しかしね、その善は極めて厚い氷に覆われていて、とても私なんかでは溶かすことは出来ない。

孟子 告子章句上 八 にこのようにある。

牛山の木、かつて美なりき。 以下はこの部分の私の現代語訳。

「孟子は言う。あの牛山を見ろ。あの山はかつて木に覆われ美しかった。だが薪として、木は切られてしまった。だが山はまだ生きていて、雨や露の潤すところ、切られた切り株にも緑がたちこめた。
ところが人々は牛や羊を放牧する。やわらかい緑もすべて食べられてしまった。
長い月日がたち、何もなくなった山を見て、人々は、この山ははじめから何もなかったと思うようになる。しかしこの今の牛山は、本当にあるべき牛山の姿なのだろうか? 人間の心も、この牛山と同じなのではないだろうか? 人が良心を無くしてしまう理由も、日々において牛山の木が失われてしまったことと同じなのではないだろうか? 日ごとに木を切ったのでは、その美しさを保つことはできない。あの夜明けの緑の芽生えも、良心を失った人が多いことを思うなら、昼間にそれを牛や羊に食べられてしまったのだろう。このようなことを繰り返せば、緑の芽生えも失われる。緑の芽生えが失われれば、人は禽獣と変わらなくなるだろう。人が禽獣であるさまを見て、その人は善であったことはないとして、そのことで本当に人の性善を否定したことになるのだろうか。正しく育てれば成長しないものはないが、育てるのをやめればそれは消えてしまう。
孔子が、「取ればあり、捨てれば失う、出入り時なく、あるところを知らない」と言ったのも、このような意味ではないのか?」

真理とはそれなくしては自分が生存できないものであるとするならば、この孟子の言説を真理だと確信したとして、別に何の問題もないと思う。

この、ちくま学芸文庫「フーコーコレクション4」では、狂人さらには精神病院の成り立ち、犯罪者さらには刑務所の成り立ちが語られている。
私たちは、病人は病院へ、狂人は精神病院へ、犯罪者は刑務所へみたいなことは当たり前だと思っているが、歴史的に考えれば、実はこれ当たり前ではない。例えば、18世紀のフランスでは、孤児とか浮浪者とかも刑務所的なところに放り込まれていた。

問題は、なぜフーコーが狂人や犯罪者について語るのかということだ。、これはちょっと飛躍になるのだけれど、フーコーは、この社会に何らかの価値体系があるとして、その周辺の視点に立つことによって、その価値体系を相対化しようということだろう。
当たり前の事は、それが当たり前の世界の内側にいては、当たり前としか思えないという、実に当たり前の話なんだよね。

おそらく話は、ホロコーストにさかのぼるのだと思う。第二次大戦中、ドイツで強制収容所に送り込まれたのはユダヤ人だけではなく、狂人や犯罪者も同じ運命だった。
ホロコーストというのは、ナチスドイツの特殊事例と言うのではなく、近代ヨーロッパには、まあなんというか隠された排除の哲学論理みたいなものがあって、
ホロコーストとは、ヨーロッパ近代精神のカリカチュアではないかという、まあ、フーコーの直感みたいなものがあったんだろうと思う。

これは別に分かりにくい話でもない。仕事で明確な目標があって人数が集められて、仕事が始まったとする。そのうち使えないやつというが明らかになってくる。使えるか使えないかという境界線上のやつらは、明らかに使えないやつをさらに蹴落とすことによって、自分たちが境界線内に残れることの保障にしようとする。
このようなことはよくある。
そのうち、明確な目標の回りに真理の体系みたいなものができたりする。この場合はこうするべきだ、みたいな。さらに、明確な目標が忘れられた時に真理の体系のみが残ることはありえる。仕事レベルだと、他と比べてということが出来るけれども、国家レベルだと方針転換も難しい。

と、ここまでの予備知識で以下のフーコーの言説を読んでみる。

「思うに、重要なことは、真理は権力の外にも、権力なしにも存在しない、ということです。真理はこの世のものなのです。真理は、この世の数々の制限があればこそ、生み出されたものなのです。真理は権力作用、それも調整済みの権力作用を手中に収めています。どの社会も固有の真理体制を、すなわち真理についての固有の一般政策をもっています。具体的にいえば、言語表現に真偽の区別を与えるメカニズムとベクトル、真理の獲得に有効とされる技術と手続き、何が真であるか決定する権限を持つ人間の地位、などがその内容です」

真理というものは絶対というものではない。ある観念無くしては、集団が生存できないとするならば、その観念はその集団において、集団内の権力関係の中で真理として押し上げられるだろう。この真理のうさんくささみたいなものを、フーコーは真理世界の周辺、すなわち、狂人、犯罪者、性的逸脱者の立場から明らかにしようということだと思う。

これねー、何も知らないでフーコーだけ読むと、真理を相対化するフーコーすごい、みたいになると思うけれど、ニーチェを読んでから判断するなら、フーコー、地道に頑張ったなーということになると思う。

フーコーは、その前期の言説はきわめて難解で、後期の言説は分かりやすいという特徴がある。前期の言説の難解さというのはちょっと異常で、ほとんど何が書かれているのか分からないレベルだ。たぶん第二次大戦後の一時期に、難解さこそが価値である、みたいな雰囲気の時代があったのではないかと思う。

この筑摩書房のフーコーコレクションシリーズ全6巻も、3、4巻あたりから分かりやすくなってくる。

この、ちくま学芸文庫「フーコーコレクション4」では、狂人さらには精神病院の成り立ち、犯罪者さらには刑務所の成り立ちが語られている。
私たちは、病人は病院へ、狂人は精神病院へ、犯罪者は刑務所へみたいなことは当たり前だと思っているが、歴史的に考えれば、実はこれ当たり前ではない。例えば、18世紀のフランスでは、孤児とか浮浪者とかも刑務所的なところに放り込まれていた。

まあ問題は、なぜフーコーが狂人や犯罪者について語るのかということだ。それは、この社会に何らかの価値体系があるとして、その周辺の視点に立つことによって、その価値体系を相対化しようということだろう。
当たり前の事は、それが当たり前の世界の内側にいては、当たり前としか思えないという、実に当たり前の話なんだよね。

おそらく話は、ホロコーストにさかのぼるのだと思う。第二次大戦中、ドイツで強制収容所に送り込まれたのはユダヤ人だけではなく、狂人や犯罪者も同じ運命だった。
ホロコーストというのは、ナチスドイツの特殊事例と言うのではなく、近代ヨーロッパには、まあなんというか隠された排除の哲学論理みたいなものがあって、
ホロコーストとは、ヨーロッパ近代精神のカリカチュアではないかという、まあ、フーコーの直感みたいなものがあったんだろうと思う。

これは別に分かりにくい話でもない。仕事で明確な目標があって人数が集められて、仕事が始まったとする。そのうち使えないやつというが明らかになってくる。使えるか使えないかという境界線上のやつらは、明らかに使えないやつをさらに蹴落とすことによって、自分たちが境界線内に残れることの保障にしようとする。
この状況が問題とされる場合、問題にされるべき事柄というのは、誠実に考えるとするならだよ、境界線上に存在する人の弱さというものではなく、明確な目標とは本当に明確で目標とは本当に目標であるのかということだろう。
社会は仕事ではない。仕事では認識の範囲は限られているけれども、社会という人間の生存という意味においては、別に範囲を限らなくてはならないという必然性はない。

限らなくてもかまわないのに、あえて限る。その限ってしまった結果、必然的にホロコーストが起こる。
では何故限ってしまったのか?

人間というものは、それなくして生存できないとすれば、それを真理だと確信してしまう。恋に落ちたときに、その女性をなぜ好きになっちたか考えることに、はたして意味を見いだせるだろうか? 

限られた世界とは何なのか。普通、話はそこから始まる。
フーコーの直感というのは悪くないと思う。もがくうちに、より世界が相対化されるというのはあると思う。

「監獄的監禁について」
パノプティコンというものは、フーコーが発見したのだろう。

パノプティコンとは一望監視装置というもので、その中では誰かに見られているということで秩序が維持されるわけだ。
フーコーは、1970年代のフランスもこのパノプティコン状態ではないのかという。フーコーはこのように言う。

「私たちは一望監視的社会に生きています。完全に一般化された監視組織が存在します。刑罰制度、司法制度はその一部ですが、刑務所が今度はその一部を成し、心理学、精神医学、犯罪学、社会学、社会心理学はその結果です」

フーコーは考えすぎたと思うね。
秩序の根拠が失われた場所において、パノプティコン程度のシステムで秩序が形成されるとは思えない。想像するにきわめて不安定なシステムだろう。
ニーチェは、近代ヨーロッパの秩序の根拠は、プラトン由来の普遍的観念とそれを保障するキリスト教への信仰だ、言っていたけれども、現代フランスにおいても、秩序の根拠は近代のままだろう。

日本の話。仕事とかでも同じで、見てないとサボるヤツというのはいるのだけれど、そんなヤツでもだいたいにおいては、仕事を本当はやらなくてはいけないという気持ちはあるよ。そもそも働く気の全くないヤツに、パノプティコン程度のシステムで継続的に仕事をさせることが出来ると考えるなら、まったくおめでたいだろう。

ニーチェを読むための予備知識として、啓蒙とは何かを考えてみる。
近代教育は、近代人にふさわしい知識を与えるところの教育であり、発展途上国なんかは、教育制度が整備されていないからいつまでも途上国であると考えられたりする。現代日本においても、教育、啓蒙というものには、かなりの価値比重が与えられている。

しかし、この現代教育における啓蒙の比重というのは、はたしてふさわしいものなのだろうか? 

精神科医の木村敏による、人間の存在構造についての仮説。
3層に分かれている、というもの。最下層は外界と直接接するところの、生存本能や情動が支配する世界。これは全ての生物に存在する。
第2層は、その種に特有の価値判断によって、情報がカテゴリー化されている世界。これは、犬や牛や馬にも存在する。牛は馬には興味が全くないらしいが、牛同士は興味が存在するらしい、見つめあったりするし。価値の差異というのが存在するのだろう。
人間の最上層は論理の世界。合理的推論が支配する。
人間の存在構造とは、最下層からエネルギーを調達しながら、第2層と最上層との情報の循環が、人格というものを形成するという。
精神疾患を図式的に理解するなら、最下層からのエネルギーの調達が弱いと、分裂病になり、第2層と最上層との接続が弱いと境界例になり、第2層の形成が弱いと離人症になるという。

例えばこのような仮説があるとして、教育的啓蒙というのは、最上層の論理世界にしか影響を及ぼせないわけで、啓蒙と言うだけでは人格の十全な形成には不十分だということになる。啓蒙が無条件に真理だということはありえないわけだ。

この予備知識を持ってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」898
「人間の卑小化の増大は、より強い種族の育成に想いをかけるための原動力である。このより強い種族は、卑小化された種が弱まり、ますます弱まりゆくところで、まさしくおのれの有り余る力をふるうのである」

このようにあって、啓蒙というものが人間存在の表層にしか影響を及ぼせないと認めてしまうのなら、人間の存在体制の最下層である情動の世界からどれだけの力を汲みだせるかというのが、人間の価値を決定するような大きな価値となるだろう。
これはべつに難しい話でもなんでもなく、気の弱いやつよりも気の強いやつのほうが価値が高いと判断されやすい、という話なんだけれど。
続きは明日

「権力への意思」を、ちくま学芸文庫下巻180ページまで読んだ。 自分がかつて書いた、この本のニーチェ評を読み返したのだけれど、とぼけたことを書いてあると思った。

ニーチェを理解するためには、既存の枠組みではダメだ。当たり前だと思うことを、徹底的に疑っていかないとダメだ。
例えば人間と動物。普通私たちは、人間は動物とは異なり懸絶した価値があると考えている。しかし、本当にそうか? 人間は言葉を話すから価値のある存在だとされているとして、言葉というのは本当に価値があるのか? 
人間を特別視する世界観からは、人間が特別であるという価値が発生するのは当たり前だ。

世界を限ったらニーチェは理解できないナー。真理とは、そのものが生存するための条件だろう。好きなアイドルが心のよりどころだったなら、その人にとってそのアイドルは真理となるだろう。物理学を専門として食べているなら、物理学が真理となるだろう。
この程度の真理は、本当に真理なんだろうか? ニーチェを理解するためには、限られた真理なんかにこだわっていてはダメだ。捨て身だよ捨て身。こうであるべきだとか、こうであってほしいとか、そういうのはなしてお願いしていかなくてはならないだろう。

「本が好き」内のレビュアーさんが、初野晴という現代小説家の作品を紹介していたので、読んでみることにした。
初野晴って知らなかった。近所のブックオフで探してみると、実際あるんだよね。この「退出ゲーム」という本を選択してみる。表紙がクールな少女マンガテイストで、裏表紙にイケメン風の初野晴の写真が載っている。
信頼できるレビュアーさんの書評を読まなかったなら、まずもって選択しないような種類の本だと思った。

実際に読んでみたのだけれど、これがまずまず面白い。
「退出ゲーム」は、4つの短編からなる連作短編集だった。高校1年の男の子と女の子がコンビで学園のちょっとした謎を解くというコミカルミステリーで、トータルの出来は悪くないと思った。

主人公の高1の女の子は、学校の若い男性教師にあこがれている。そして、中盤あたりでこのように独白する。

「実は、先生を追いかけている私自身が好きなの!」

これはある。
私には2つ下の妹がいる。この妹が、この主人公と同じように高校時代、若い先生を好きになって、「今日、シゲタ先生とこんなことをしゃべった」とか、「今日、シゲタ先生はこんなにかっこよかった」とか、ちょくちょく私に報告してくれていた。
妹も高校を卒業して大学生になった。
妹が高校の同窓会に行った。ニコニコしながら、私にそのときの様子を報告するんだよね。

「お兄ちゃん!、シゲタ先生にホテル誘われたんよー」
「シゲタ先生って、君が高校の時に好きだったあのシゲタ先生?」
「そうそう、帰りに先生に車で送ってもらったんよー。そしたら先生、車をラブホテルの前で止めて、入ろうか、って言うんよー」
「えっ、シゲタ先生ってそういう人だったの?」
「あー、わたしゃー勝ったー思うたねー」

兄として、意を決して聞いたね。

「それで、ホテルには入ったの?」
「入りゃーせんよ。丁重にお断りしたよ」

兄としてほっとしたと同時に、女性の強さというものを知った。

この本を読んで昔の事を思い出した。

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