magaminの雑記ブログ

2018年01月

ハンナアレント 「人間の条件」 は非常に読みにくい本だった。難解というより、論理の筋道が散漫なんだよね。まあでもあえて、ハンナアレントの論理を私なりにつないで考えてみる。

ハンナアレントは人間の活動生活を、「労働」、「仕事」、「活動」に分ける。 
私たち人間は、生まれてから死ぬまで、何らかの活動生活を送るわけだ。その生活の中では、自分をしっかり持って生きる時間もあれば、自分を失って生きる時間もある。しかし、どのような時に自分を維持し、どのような時に自分を失っているのか? 揺れる人間精神を、「労働」、「仕事」、「活動」に分けることによって、そのあたりを明らかにしよう、ということだと思う。

「労働」というのは、家事仕事や賃金労働の事で、自分というものを失いやすいという。
「仕事」というのは、職人仕事みたいなもので、誇りをもってお金を稼げるみたいな、すなわち自分を失いにくいという。
「活動」というのは、自分を失わない生活そのものであって、いうなれば自己同一性の確立ということになる。

このようにカテゴリー分けで分かることは、「仕事」はともかく「労働」に関わりすぎると、個人の自己同一性が怪しくなるということだ。そうならないためにはどうすればいいかというと、文脈から判断すると、キリスト教と科学的精神ということになる。労働によって自分を失いそうになったとしても、近代人というのは、合理的精神で自己同一性を自分の中に再発見し続けるべきだというわけだ。例えば、プラトンがダメなところは、「仕事」というものを中心概念にして、その論理を構成したところだ。もっと科学的精神で世界を構成しなくてはならないと言うわけだ。

はっきり言って、このハンナアレントの論理は認められない。この程度の論理ではプラトンをひっくり返せない。

合理的精神が自己同一性を育むなどという啓蒙思想は、原因と結果が転倒している。自己同一性が合理的精神を育むのであって、ハンナアレントの論理は成り立たない。
1+1=2 という数式がある。これを私たちは当たり前だと思う。なぜ当たり前だと思うかというと、「1」という数がいつでもどこでも「1」だという確信が私たちにあるからだ。すなわち、私たちの自己同一性が「1」という概念を成立させ、それをてこに1+1=2という数式を成り立たせている。
同じように、デカルトの「我思うゆえに我あり」という論理も、無条件に成立するというものではなく、個人の自己同一性というものが前提となっている。ボケ老人が「我思うゆえに我あり」とは思わない。さらに、私たちがリアルであると思っている世界と、ボケ老人が夢見ている世界とどちらが真実かということは、啓蒙思想を厳密に展開した時には判断が出来なくなる。
この世界は全ての人が救われるというたてまえなのだけれど、この忘れられた前提のために、ある一定水準の自己同一性を発揮できない人は、そこはかとなく社会から排除されるということになっている。私はこの世界観を、公正で一貫性のある論理だとは思わない。
ボケ老人にはボケ老人の世界があるというと分かりにくいのだけれど、子供には子供の世界があったというと分かりやすいかもしれない。子供時代の世界がたとえ不合理だったとしても、それを切り捨てていいというものでもないだろう。
ハンナアレントは結局、近代啓蒙主義世界の前提に寄りかかってその論理を展開しているわけで、その言論はインテリの遊びみたいなものだと思うね。それが悪いわけではないけれど、渾身の言説ではないと、私は判断した。

冷戦終結の後、日本経済の停滞が明確となった現在、保守と革新などというカテゴリーは意味がないと思う。

経済成長もしないのに、「進歩の調節」という概念で敵味方をつくっても効果はない。観念で判断するのではなく、日本に有利な状況を作るための戦略が必要だと思う。
現状、保守はアメリカ寄りということになっているけれども、中国寄りの保守があってもいいと思う。 現状の中国の経済成長は半端ない。もう日本のGDPの3倍を超えている。あと何年か後にはアメリカを追い越そうかという勢いだ。 はっきり言って、日本は中国を追い越すことは出来ない。眠れる獅子はついに目覚めた。 ここは認めなくてはいけない。 中国をいつまでも発展途上国だと考えることは、女性に家庭を守って欲しいとという古い考えを捨てきれず、いつまでも結婚できないもてない独身中年の思考と変わらない。

日本が出来るのは、アメリカと中国をてんびんにかけることだ。両国に思わせぶりな振りをして、両国から利益をえるという。 安倍自民がアメリカ寄りなら、中国寄りの保守政党があってもいい。二つの政党が拮抗することによって、二大国からのプレゼント合戦が期待できる。

中国とアメリカが分かり合えるなんていうことは考える必要はない。これが出来たら世界政府だよ。大事なことは、日本というものの一体性を大切にすることだろう。統一性のあるところにこそ、相手にとっての交渉の価値がある。

本当は、日本がアメリカと世界統一の決勝戦を戦えればよかったのだけれど、全く力及ばずだったね。

ハンナアレントは、3つの人間の活動力を、「労働」、「仕事」、「活動」、分割しようという。
活動力を分割した一つが「活動」というのが、読み始めて微妙な感じがする。
実際、第5章 「活動」まで読んで判断すると、活動とは人間が自分が自分であると思うところの自己同一性のことだろう。 これは無理な解釈というのではなく、精神活動がうまく循環すれば、自分の心持というのを強くもてるわけで、精神活動を自己同一性と同義と考えて問題ないと思う。

第5章「活動」の冒頭、
「労働的動物は生命過程の反復的サイクルに閉じ込められている」
とある。現代でも、繰り返される日々の労働にウンザリするということは日常だよ。労働に倦んだ精神がどうすれば救われるかというと、
「製作によって維持される世界性」
という。職人となって納得できる物を作れるようになったなら、この空しい日常が救われるんじゃないかという。 まあでも、なかなかそうはいかない。人間国宝でもない限り、造りたいものを造ってそれで評価されるというも、現代では難しいだろう。では、どうすれば職人は救われるのか。 「無意味性から救われるのは、活動と言論という相互に関連した能力によってのみである。

このハンナ女史の論理をどう判断するべきだろうか。

彼女は明言している。救われるためには活動、すなわち自己同一性が必要だと。彼女はナチスのような全体主義の病根を探るためにこの本を書いたのではないのだろうか。 ナチスを支持したような人たちは、第一次大戦敗戦後の混乱したドイツで、自らのアイデンティティーを失った人たちだろう。 アイデンティティーを失ったひとたちに、無意味性から救われるためには、アイデンティティーが必要だとか言ってみても、何の意味もないと思う。 ハンナ女史は、まぎらわしいことを言っていても論理の入り口と出口が同じだろう。

第6章をいまだ読み残しているけれども、彼女の論理の着地点は見えてきた。 この程度の論理では、プラトンやヒトラーの言説をひっくり返すことは出来ないだろう。

ハンナアレント 「人間の条件」、かなり読みにくい。 論理を追いにくいんだよね。 構成上、持ち上げるのかと思いきや、けなし始めて、このままけなすのかと思うと最後持ち上げたりする。 おまえ、ツンデレかっ。

この本、3章が「労働」で4章が「仕事」。 この「仕事」というのは職人仕事みたいなものだ。労働よりも価値が高いとされている。そして、この職人仕事の上に芸術的仕事というのがあるということになっている。

300ページほど読んで、これを判断するのも大変なんだよね。ハンナ女史、労働をけなしてみたり持ち上げてみたり、職人をけなしてみたり持ち上げてみたり、トータルでどっちがどうなんだという判断も難しい。
ここからの展開の予測なのだけれど、労働の価値に支配されるようになったつまらない現代を、芸術の独立性をてこにひっくり返そうというのかな。
昨日も書いたのだけれど、西洋近代をひっくり返そうとするなら、まずプラトンを引っくり返さなくてはならない。芸術の独立性程度の根拠で、プラトンをひっくり返そうというのは無理ではないだろうか。

この本は6章まであるのだけれど、3章「労働」まで読んだ。 

ハンナアレントは人間社会の条件に、労働、仕事、活動、を数える。 まずもって、労働と仕事って同じじゃねーの?と思う。 でもあえて区別するのだから、現代における労働と仕事との区別のなさというのが、ナチス全体主義の病巣だったという彼女の結論をまず予測した。

まずハンナアレントの言う「労働」とは何かというと、何かを造るという仕事ではなく、造られた物を維持するみたいな仕事のことだね。消費財を造る仕事も、「労働」ということになるらしい。 だから、職人仕事以外の仕事は全て「労働」ということだろう。

しかしこのような区別をつけていったいどういう意味があるのか? 
「労働]というのは、古代ヨーロッパにおいては奴隷がやることが多くて、近代においては女性がやることが多かった。
労働を「労働」と「仕事」に分けて、労働を下に仕事を上に配置して、価値の序列をつけて、一体これが何なのか。現代日本において、「労働」と「仕事」が一体化して、その結果女性が解放されつつあるのだから、昔の事をほじくり返すこともないのではないかと思うんだけれど。

第一次大戦前の金持ち支配体制が続いていたら、大戦争が立て続けに起きるなんていうことはなかったのに、なんていう論理じゃないだろうな。

今日の夕食時、高2の長女が、大学生の長男に、

「お兄ちゃん、結婚とかしたいと思う?」

と聞いた。すると長男は、

「結婚したいというのあるよね。仕事から帰ってきて、暖かいご飯ができてるっていうのいいじゃない?」

と言った。

リアクション
私、  「その考え古いよね、昭和、それも中期」
長女、 「そういう男の人と、私、結婚したくない]
妻、  「あんたそれ、託卵されるタイプだわ」

長男、急に機嫌が悪くなったのだけれど、これ、私たち悪くないよね?

ハンナアレントは女性。 1906年ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、マールブルク大学でハイデガーに師事、1933年フランスに亡命、1941年アメリカに亡命。 1975年没。 全体主義を生み出した現代の病理を生涯をかけて探求、とある。

ヨーロッパの生み出したナチス全体主義を、ヨーロッパ人が批判的に探求するというのは、はっきり言ってかなりのチャレンジだと思う。
なぜかというと、ナチス全体主義はプラトンの哲人国家との相似が指摘されている。この指摘が正しいとするなら、ヒトラーの世界観をひっくり返そうとするなら、プラトンの世界観まで引っくり返さなくてはならないということになる。
これはどうか。
ニーチェだって、プラトンをひっくり返すことによって近代世界を相対化しようとしたが、結局ヒトラーによってその思想は回収され、あの第三帝国の礎になったわけだから。普通に考えて、プラトン的思考パターンによって秩序付けられた西洋世界内で生きる人間が、プラトン的思考パターンを足場にプラトン的思考パターンをひっくり返すというのは無理だと思う。 可能性があるとするなら、外からだろう。 例えばいま中国がものすごい勢いで成長している。何を足場に中国が成長しているのか、私は明確には知らないけれども、おそらく何らかの国民的世界観というのがあるのだと思う。この新興?世界観によって、ヨーロッパの古い?世界観をひっくり返すことは論理上可能だろう。 しかし、世界観を外からひっくり返されて、当人が幸せかというと、それもちょっと違うだろう。

この「人間の条件」という本、読めないわけではないけれど、読みやすいというものでもない。文庫本で500ページなのだけれど、日速120ページぐらいだろう。今日は、第2章まで読んだ。

ここまで気になったところ。

ヨーロッパは近代以前、公的世界と私的世界とが分かれて存在していたのだけれど、近代に入ってその二つの境界が曖昧になって、「共通世界」というものが生まれてきた、という。共通世界という確定された世界の人は、世界が確定されたからという理由で世界に対する興味を失うという。

なくはない論理だとは思うけれど、オタクの論理ではあるだろう。確定したようにみえる世界に挑むのが普通だろう。現代は、諦めるほど確定した世界でもないだろう。 ハンナアレント、この程度の覚悟でプラトンに挑もうというのは、ちょっと無理なのではないのかな。
この本はそうつまらないわけでもない。けなげな感じがいい。

休日は、私が家族の夕食をつくることになっている。 子供が四人いる。 長男21歳大学生、長女高2、次男小5、次女小2。こいつらと妻の分の夕食ということになる。

今日は、手作りミートソースのスパゲッティー。
まず玉ねぎ3個をみじん切りにして、フライパンでいためる。合いびきひき肉を500グラム投入。 そしてここがポイントなのだけれど、ひき肉の色が変わったかなと思ったら、ウスターソースをかけてグツグツやる。 これを最初にやっておかないと、最後にどうしても肉の臭みみたいなのが出てしまう。その臭いを消すためには、はちみつを入れたりとかケチャップを余計に入れたりとか、いろいろ大変なんだよね。 生焼けのひき肉にソースをかけて炒めるだけで、後超簡単。
あと、カットホールトマト(スーパーで100円ぐらいで売っている)を2缶入れて、ケチャップ適量、ソース適量、入れて、ふたをして20分ぐらい煮るだけ。

自分の食べるものは自分でつけろ、と子供たちには言っている。親がご飯を持ってきてくれるのを座って待っているのってよくないと思うんだよね。ママにご飯を運んでもらうのになれてしまうと、男の場合に大人になった時、女性にご飯を運んできてもらいたいと思うようになるだろう。 これでは今の時代、ちょっと彼女をみつけるのは難しくなるのではないか。
ドラえもんという漫画があるのだけれど、あれが前時代的で好きになれない。ノビタって甘やかされすぎだろう。ドラえもんというサポーターがいるのはしょうがない、設定だし。でもね、食事をママに運んでもらっているのはよくない。小学5年にもなって、
「ママ、おかわり」
といって、お茶碗をママに差し出すのはやめた方がいい。ママは高級旅館の仲居さんではない。あの態度では21世紀にしずかちゃんと結婚するのはムリだろう。 でもノビタは間に合うと思う、まだ小学5年だし。これが、30にも40にもなってしまったら、女性を口説くということ自体、難しくなってくるだろう。

ソクラテスとプロタゴラスは、「徳」とは教えることが出来るのか出来ないのか議論した。
ソクラテスは徳は教えることが出来ないと主張した。徳があるとされている人たちの子供が必ずしも徳があるとは限らない。徳が教えることが出来るのなら、例えばペリクレスの子供は必ず有徳な人物になったはずではないか。
ソクラテスの意見に対して、プロタゴラスは徳は教えることが出来ると主張した。
プロタゴラスはこのように言った。

「彼らは子供達を教育せず、十分な配慮もしていないというのだろうか? いや、ソクラテス、していると考えるべきだよ。
彼らはね、まだ子供が小さい頃から始めて、子供が人生を歩み続ける限り、教育としつけを行っているのだ。
それでは、父親が優れているのに、その息子の多くがつまらない人間になってしまうのはどうしてか?
  それでは、われわれ全員が笛の演奏家でないと、国は成り立つことができず、各人は可能な限りの演奏力をもたなければならないと仮定してみよう。私的にも公的にも、全ての人が誰にでもその技術を教えてやり、技術を与えるのを惜しむもの等いないとする。ソクラテス、その場合きみは、すぐれた笛の演奏家であれば、劣った演奏家の息子よりも、優れた演奏家になる見込みが少しでも高くなると思うかね? 私はそうだと思わない。にもかかわらず、これらの息子達が、みな十分な笛の演奏家であることも事実なのだ。何も知らない素人と比較するならね」

すばらしい啓蒙思想だ。「プロタゴラス」という本の中で、ソクラテスは反論が出来なかった。 この論理は、現代においても極めて受け入れられやすいだろう。例えば、発展途上国がいつまでも発展途上国なのは、教育が足りないから啓蒙の力が足りないからという先進国の受け入れやすい論理に簡単に帰着しえる。

しかしこのプロタゴラスの論理を注意深く読んでみる。
まず「徳」とは何か。プロタゴラスは、「われわれ全員が笛の演奏家でないと、国は成り立つことができず」 と仮定しているところを見ると、「徳」とは人間集団の一体性を支えている何かだというのは認めているわけだ。 親は子供に教育やしつけをしているのだけれど、プロタゴラスはそのことを「笛の技術の習得」にたとえて、そのあとの論理を展開する。 しかしここの、徳を技術の習得的なものにたとえることに、論理の飛躍があるのではないだろうか。 だって、「人間集団の一体性」と「技術の習得度合い」というのは、直接的に関係性を持つものではないだろう。
不思議なのは、啓蒙思想ではなく、私たちがなぜ簡単に啓蒙思想を受け入れてしまうのか、ということだ。

自分の所属する世界観自体を問題にするような場合、だいたいにおいて相対主義、ポスト構造主義みたいになるのだけれど、プラトンは「プロタゴラス」以降の著作で、まったく巨大に解決した。啓蒙主義を相対主義に陥ることなく、巨大に再編成してみせた。

プラトンって本当にすごいなって思う。だって、自分で問題を提出して、自分でその問題を巨大に解いて、2500年間、他の追随を許さないっていうのだから。 

岡嶋二人の「ビッグゲーム」という本は、

「高度データ野球の暗部を鋭くえぐる傑作ミステリー」

と帯に書いてある。
これは拾った本。なじみの古紙問屋でもらってくる。
なぜ拾った本を読むのかというと、活字中毒患者がゼロ円で読むため、というのがメインなのだけれど、他に、みんなどんな本を読んでいるのかな、というリサーチの意識もある。 あと、誰かが読んだのだから、ある程度は面白いのだろうという、あやしげな信頼感というのもある。

しかしこの「ビッグゲーム」という本はどうかな、と思った。
まず、昭和59年発表という。週間現代に連載されていたらしい。昭和59年って古すぎるだろう。スーパーファミコンの時代だよ。 読んでる途中、おかしいと思ったんだよなー、モニターに蛍光ペンでチェックとかしてるし。
あと、自分って野球に興味がなかった、ということを、読みながら思い出した。 私の死んだ親父なんて、毎日晩酌しながらプロ野球のナイター中継を観ていた。子供心に、あんなもの何が面白いのか、と不思議でしょうがなかった。 でももしかしたら自分も大人になったら、プロ野球を見るようになるのかな、なんて思っていたけれど、やっぱりそんなこと全然なかった。今プロ野球は視聴率が取れないからあまりテレビではやらなくなった。 なんでプロ野球は視聴率が取れないのか、なんていう議論もあるだろうけれど、私は逆に、昔は(そんな昔でもない)何であんなに視聴率が取れていたのか聞きたいぐらいだよ。

まあまあ、こういうことをぐだぐだ書けるのも、安価な本を読んだおかげだろう。定価で買っていたら、なかなかざっくばらんに本の感想なんて書けないだろう。

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