ハンナアレント 「人間の条件」 は非常に読みにくい本だった。難解というより、論理の筋道が散漫なんだよね。まあでもあえて、ハンナアレントの論理を私なりにつないで考えてみる。
ハンナアレントは人間の活動生活を、「労働」、「仕事」、「活動」に分ける。
私たち人間は、生まれてから死ぬまで、何らかの活動生活を送るわけだ。その生活の中では、自分をしっかり持って生きる時間もあれば、自分を失って生きる時間もある。しかし、どのような時に自分を維持し、どのような時に自分を失っているのか? 揺れる人間精神を、「労働」、「仕事」、「活動」に分けることによって、そのあたりを明らかにしよう、ということだと思う。
「労働」というのは、家事仕事や賃金労働の事で、自分というものを失いやすいという。
「仕事」というのは、職人仕事みたいなもので、誇りをもってお金を稼げるみたいな、すなわち自分を失いにくいという。
「活動」というのは、自分を失わない生活そのものであって、いうなれば自己同一性の確立ということになる。
このようにカテゴリー分けで分かることは、「仕事」はともかく「労働」に関わりすぎると、個人の自己同一性が怪しくなるということだ。そうならないためにはどうすればいいかというと、文脈から判断すると、キリスト教と科学的精神ということになる。労働によって自分を失いそうになったとしても、近代人というのは、合理的精神で自己同一性を自分の中に再発見し続けるべきだというわけだ。例えば、プラトンがダメなところは、「仕事」というものを中心概念にして、その論理を構成したところだ。もっと科学的精神で世界を構成しなくてはならないと言うわけだ。
はっきり言って、このハンナアレントの論理は認められない。この程度の論理ではプラトンをひっくり返せない。
合理的精神が自己同一性を育むなどという啓蒙思想は、原因と結果が転倒している。自己同一性が合理的精神を育むのであって、ハンナアレントの論理は成り立たない。
1+1=2 という数式がある。これを私たちは当たり前だと思う。なぜ当たり前だと思うかというと、「1」という数がいつでもどこでも「1」だという確信が私たちにあるからだ。すなわち、私たちの自己同一性が「1」という概念を成立させ、それをてこに1+1=2という数式を成り立たせている。
同じように、デカルトの「我思うゆえに我あり」という論理も、無条件に成立するというものではなく、個人の自己同一性というものが前提となっている。ボケ老人が「我思うゆえに我あり」とは思わない。さらに、私たちがリアルであると思っている世界と、ボケ老人が夢見ている世界とどちらが真実かということは、啓蒙思想を厳密に展開した時には判断が出来なくなる。
この世界は全ての人が救われるというたてまえなのだけれど、この忘れられた前提のために、ある一定水準の自己同一性を発揮できない人は、そこはかとなく社会から排除されるということになっている。私はこの世界観を、公正で一貫性のある論理だとは思わない。
ボケ老人にはボケ老人の世界があるというと分かりにくいのだけれど、子供には子供の世界があったというと分かりやすいかもしれない。子供時代の世界がたとえ不合理だったとしても、それを切り捨てていいというものでもないだろう。
ハンナアレントは結局、近代啓蒙主義世界の前提に寄りかかってその論理を展開しているわけで、その言論はインテリの遊びみたいなものだと思うね。それが悪いわけではないけれど、渾身の言説ではないと、私は判断した。
ハンナアレントは人間の活動生活を、「労働」、「仕事」、「活動」に分ける。
私たち人間は、生まれてから死ぬまで、何らかの活動生活を送るわけだ。その生活の中では、自分をしっかり持って生きる時間もあれば、自分を失って生きる時間もある。しかし、どのような時に自分を維持し、どのような時に自分を失っているのか? 揺れる人間精神を、「労働」、「仕事」、「活動」に分けることによって、そのあたりを明らかにしよう、ということだと思う。
「労働」というのは、家事仕事や賃金労働の事で、自分というものを失いやすいという。
「仕事」というのは、職人仕事みたいなもので、誇りをもってお金を稼げるみたいな、すなわち自分を失いにくいという。
「活動」というのは、自分を失わない生活そのものであって、いうなれば自己同一性の確立ということになる。
このようにカテゴリー分けで分かることは、「仕事」はともかく「労働」に関わりすぎると、個人の自己同一性が怪しくなるということだ。そうならないためにはどうすればいいかというと、文脈から判断すると、キリスト教と科学的精神ということになる。労働によって自分を失いそうになったとしても、近代人というのは、合理的精神で自己同一性を自分の中に再発見し続けるべきだというわけだ。例えば、プラトンがダメなところは、「仕事」というものを中心概念にして、その論理を構成したところだ。もっと科学的精神で世界を構成しなくてはならないと言うわけだ。
はっきり言って、このハンナアレントの論理は認められない。この程度の論理ではプラトンをひっくり返せない。
合理的精神が自己同一性を育むなどという啓蒙思想は、原因と結果が転倒している。自己同一性が合理的精神を育むのであって、ハンナアレントの論理は成り立たない。
1+1=2 という数式がある。これを私たちは当たり前だと思う。なぜ当たり前だと思うかというと、「1」という数がいつでもどこでも「1」だという確信が私たちにあるからだ。すなわち、私たちの自己同一性が「1」という概念を成立させ、それをてこに1+1=2という数式を成り立たせている。
同じように、デカルトの「我思うゆえに我あり」という論理も、無条件に成立するというものではなく、個人の自己同一性というものが前提となっている。ボケ老人が「我思うゆえに我あり」とは思わない。さらに、私たちがリアルであると思っている世界と、ボケ老人が夢見ている世界とどちらが真実かということは、啓蒙思想を厳密に展開した時には判断が出来なくなる。
この世界は全ての人が救われるというたてまえなのだけれど、この忘れられた前提のために、ある一定水準の自己同一性を発揮できない人は、そこはかとなく社会から排除されるということになっている。私はこの世界観を、公正で一貫性のある論理だとは思わない。
ボケ老人にはボケ老人の世界があるというと分かりにくいのだけれど、子供には子供の世界があったというと分かりやすいかもしれない。子供時代の世界がたとえ不合理だったとしても、それを切り捨てていいというものでもないだろう。
ハンナアレントは結局、近代啓蒙主義世界の前提に寄りかかってその論理を展開しているわけで、その言論はインテリの遊びみたいなものだと思うね。それが悪いわけではないけれど、渾身の言説ではないと、私は判断した。