magaminの雑記ブログ

2018年01月

アリストテレスを読んだことがあるだろうか? 

例えば「形而上学」。
この本を読んでいない人は幸せだ。
これほどつまらない本もそうはない。数学の教科書を読んでいるような味気なさだ。

数学の教科書はなぜあんなにつまらないのか。 それは、境界が限られているから、そして、その境界内において煩瑣なカテゴリー分割が繰り返されるからだ。
積分の授業では積分の教科書を読む。もちろんそこには積分のことしか書かれていない。積分のことなら、いくらでも詳しく語ってもよい、しかし積分以外のことは語ってはならない。

半径何センチかの円があるとする。円なのだから有限の平面だ。 この円の中に、点はいくつあるだろうか? 
無限だ。
有限の円の中に無限の点がある。

アキレスは亀に追いつくことはできるだろうか? 前を歩く亀の場所にアキレスが達した時、亀は少し前に前進している。その場所にアキレスが達した時、亀は少し前に前進している。それを繰り返せば、アキレスは永遠に亀に追いつけない。
ここにおいては、有限の時間が無限に分割されている。

これらのパラドックスはアリストテレスの枠組み、そのままだ。時空を限って、その内部を詳細に分割する。
はっきりいって、これほどつまらない思考法というのはないと思う。
オタクの話がなぜあんなにつまらないのか。
神経症患者の話がなぜあんなにつまらないのか。
数学の教科書がなぜあんなにつまらないのか。

アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師だったという。アレキサンダー大王、かなり苦労したのではないかと思うね。

経験上、この竹田青嗣という哲学者は信用できる。ちょっと踏み込みが浅いところはあるのだけれど。

謨吩シ�, 繧オ繝ウ繝医Μ繝シ繝句ウカ, D, 繧ョ繝ェ繧キ繝」, 蟲カ, 繧「繝シ繧ュ繝・け繝√Ε, 鬚ィ譎ッ


プラトンというと、「プラトン主義」とか「イデア論」とかになって、それに対する批判というのが普通になっている。ありえない批判だと思う。プラトン現物を読んでいないのだろう。竹田先生には、ずばりプラトンを救って欲しいと思う。

竹田先生はまずこのように言う。

「哲学とは、物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行うというルールの設定だ」

いいよー、出だしはいい。
狭い地域の血族集団なら、物語で秩序を維持するということも出来るだろう。しかし広範な地域で秩序を維持しようとするなら、抽象概念を用いた世界説明が人々の間で共有される必要がある。この場合、その抽象的概念は「絶対的真理」よりも「普遍的観念」の方が望ましい。「絶対的真理」というと、排除の論理というものに陥りやすい。「普遍的観念」で秩序を秩序を形成できるなら、より多くの人を巻き込んで秩序を形成できる。
しかしここで問題なのは、「普遍的観念」とは何か、ということだ。

竹田先生はこのように言う。
「プラトンは「客観的真理」という考えではない仕方で、思考の普遍性の可能性を見いだそうとした」

すばらしい。本当にそうなんだよ。イデア論とか言ってしまうと、イデアと物質の二元論ということになってしまう。結局、西洋合理主義はプラトンが源流だということになってしまう。
数学ってあるよね。あれって本当に客観的真理なんだろうか。そりゃー、人類が存在しなくなっても地球は太陽の周りを回り続けるだろうが、客観的真理なんていうものには意味がなくなるのではないだろうか。
「普遍的観念」という場合、人間相互の共通観念という意味が含意されているわけで、神的なものを必要とはしない。そして、プラトンは何をもって「普遍的観念」としたのか。

竹田先生はこのように言う。
「プラトンのイデア論の基本構造は、はじめに世界への欲望とエロスが存在し、これと相関的に世界が分節されているという欲望論的構造を示しているのである」

ちょっと待て、竹田。 詰めが甘いだろう。

欲望が根拠って何なんだ? そこはもっとさかのぼれるだろう。個人的に言わせてもらえば、プラトンの言う「普遍的観念」とは、それぞれの「一体性」のことだろう。国家においては国家の一体性、個人においては、自分が自分であるところの自己同一性。そもそも自己同一性のないところに欲望の充足はないだろう。

竹田青嗣が、プラトンの一体性の思想にたいして詰めが甘いのもしょうがないところがある。ここを掘っていくと、ヒトラーにつながっちゃうんだよね。プラトンの哲人王とヒトラーのナチズムというのは、明確に相関関係がある。せっかく持ち上げたプラトンが、ヒトラーの思想によってけがされるのが忍びないという意識があるのだろう。

この本はすごくいいところまでプラトンを説明していると思う。北村透谷まで持ち出しているのだけれど、この部分は渾身の言説だと思った。


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この竹田青嗣という哲学者は信用できる。哲学者、思想家には4種類のパターンがある。
1
 難しいことを簡単に語ろうとする。
このような人は知的に誠実だと思う。プラトンや竹田青嗣はこの範疇に入る。
2
 難しいことを難しく語ろうとする。
しょうがない面もある。語ろうとすることが、そもそも難しいのだから。
3
 簡単なことを簡単に語る。
普通だね。日常会話レベルは全てこれ。
4
 簡単なことを難しく語る。
下の下だね。

この「プラトン入門」という本を140ページ(全310ページ)読んだのだけれど、かなりいい感じだと思った。

「哲学とは、物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行うというルールの設定」

という。私もこれに賛成だ。ではプラトンの採用した中心概念としての抽象概念とは何なのか。まだ140ページしか読んでいないので、ここの部分は語られていない。私が思うに、それぞれの存在レベルにおける「一体性」だろう。このあたりに議論を収束させて欲しいね。

土曜の昼下がり、なんか軽く読める本はないかと思ってブックオフに行ったら、恩田陸の「六番目の小夜子」を発見。
そういえば、「本が好き」内の有名レビュアーさんが、この本を紹介していたことを思い出し購入。

恩田陸なる小説家のものは始めて読んだ。表紙裏の作者写真から判断すると、この人は女性なんだろうね。

内容は、高校生の青春と後ちょっとオカルトみたいな話だった。全体として悪くないと思った。
高校時代を思い出した。でも私が通っていた学校は、こんな青春学校ではなかったのだけれど。進学校というところは同じなのだけれど、岡山県のド田舎にある中高一貫の全寮制の男子校という、シャレたオカルトよりも横溝の金田一のほうが似合うような場所だった。
とにかく最悪だった。周りのやつらは、医者、歯医者、税理士、大学教授などの息子が多かった。親が自分の跡を継がせようというので、子供をスパルタ式の進学校に押し込んだということなんだろう。私は八百屋の息子で、高校生なのに場違いなところにいるという感覚があった。
大学に入って、体育会男女バレー部仲間と名古屋の東山動物園にピクニックに行った。みんなでワイワイ弁当を食べている時、
「世の中にこんな楽しいことがあるんだ」
と感動したことを覚えている。

この小説の沙世子というのはすごい美人で、美女は権力の源泉だみたいな設定になっているのだけれど、世の中、美人にへつらう馬鹿男ばかりでもないだろう。面の皮1枚で権力でもないと思うけど。

プラトンは、「正義」とは一体性というものの中にこそあるという。

正直これだけ聞くと、正義と言うものを限定しすぎなのではないかと思ってしまう。正義といっても、人によっていろいろ解釈があるだろう。
名誉が正義だったり、お金が正義だったり、自由が正義だったり、快楽が正義だったり。
例えば、今日なんかすごく寒いのだけれど、家に帰って、暑い風呂なんかに入ったりすると、
「あったかいって正義だな」
なんて思ったりしないだろうか。

プラトンは、あえて「正義」とは一体性のことだという。国家の正義とは、国家の一体性のことであるし、個人の正義とは個人の一体性、すなわち自分が自分であるところの自己同一性の確立のことであり、正義の社会システムというのは、国家と個人が互いにその一体性を強化しあうシステムだというんだよね。

このようなことが証明できるのだろうか。そんなことはとても無理だと、普通思う。ところが驚くべきことに、正義の根拠をプラトンはみごとに証明した。

国家と個人が互いにその一体性を強化しあう社会システムが機能しなくなったとき、国家は堕落を始めるという。正義の国家は、名誉支配制国家、金持ち支配制国家、民主国家、僭主国家と、この順番に堕落していくという。この移行していくありさまを、プラトンは詳細に書いているのだけれど、それが近代の歴史そのものだ。全てを説明すると長くなってしまうので、金持ち支配制国家から民主制国家に移行するあたりをここで紹介してみる。

フランスでもドイツでもいいのだけれど、分かりやすいように、日本近代をプラトンの論理と比べてみる。
まず「金持ち支配制国家」とは何かというと、財産の評価に基づく国制だ。かつて日本の明治憲法下においては、選挙も議会も存在はしていた。しかしその選挙制度というものは大正14年まで制限選挙だった。ある一定の税金を納めた成人男子のみに選挙権と被選挙権が与えられていた。このような状況の国家が「金持ち支配性国家」と判断されてもしょうがないよね。
プラトンはこの「金持ち支配制国家」についてこのように言う、

「このような国はどうしても一つの国ではなく、二つの国であらざるをえないということだ。つまり、一方は貧乏な人々の国、他方は金持ちの国であって、共に同じところに住み、互いに策謀し合っている」

戦前の歴史を少しでも知るなら、プラトンのこの言葉がたちどころに当時の日本に当てはまることは理解できるだろう。さらにプラトンはこのように言う、
「金持ち支配制国家においてその支配者は、怠慢な態度で放埓な消費を許しておくことによって、、しばしば凡庸ならざる生まれの人々を貧困へと追い込むのだ」
「こうして貧乏になった人々は、針で身を武装して、この国の中でなすこともなく座していることになるだろう。彼らは財産を手に入れた人々に憎しみを抱いて、陰謀をたくらみ、革命に思いを寄せているのだ」

大正昭和初期には多くの暗殺事件があった。今から考えると不思議な感じがするのだけれど、戦前には戦前の論理があったのだろうと思う。

「このような状態にある支配者達と被支配者達とが何かの都合で一緒になる時に、危険のさなかにあって互いを観察しあうような機会があるとしたならば、そのような条件の下では貧乏な人々が金持ちたちから軽蔑されることは決してないだろう。むしろ逆に、しばしば痩せて日焼けした貧乏人が、戦闘に対して、日陰で育ち贅肉を沢山つけた金持ちのそばに配置された時、貧乏人は金持ちがすっかり息切れして、なすすべもなく困り果てているのを目にするだろう」

戦前の軍部にはびこった下克上ってなんだったんだろうね。制度の問題というより、人間としての力関係に原因があるだろう。このことを指摘した者を、私はプラトン以外には知らないけれども。
結局、金持ち支配制国家はどうなるのかというと、

「貧しい人々が戦いに勝って、あるものを追放し、そして残りの人々を平等に国制に参与させるようになった時、民主制というものが生まれるのだ」

二二六事件の実行犯である湯川康平は、戦後、このように語っている。

「二二六の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」
「陛下の記者会見で、
 
記者
おしん、は見ていますか  
陛下
見ています  
記者
ごらんになって如何ですか  
陛下
ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった  
記者
226事件についてどうお考えですか  
陛下
遺憾と思っている
遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝されたと」

湯川康平は、分裂した日本国に、陛下は陳謝されたと解釈したわけだ。

プラトンの言説は、なぜこうも当たるのか。ここでは紹介しないが、他の部分も驚くべき予言力を発揮している。古代ギリシャと近代日本との、はるかなる時空を越えてだよ。
答えは一つしかない。プラトンの最初の設定、「正義とは一体性にこそある」というものが正しいからだろう。自由こそが正義だなどという、民主主義の正義というのは甘いということだ。

「国家」は10章まであるのだけれど、7章まで再読した。実はこの本、8章、9章が強力なんだよね。

プラトンが私たちに関係がないと思ったら大間違いだ。

中学、高校、大学と、将来役に立たないであろう知識を詰め込まれた記憶はないだろうか。数学の微分積分とか、あんなものなんの役に立つんだ? 生物学で、DNAはアデニン、グアミン、チミン、シトシンの4つ塩基から形成されていると習ったけれども、30年間、この知識が役に立ったことは一度もない。
善意に考えたとしても、現代教育というのは壮大な我慢大会なのではないだろうか。普通それぐらいしか思いつかない。

もちろん教育という国家の根幹が、たんなる我慢大会であるわけがない。日本の近代教育はヨーロッパを模範にしているだろう。特別に研究したわけでもないけれども、理系科目のヨーロッパの影響というのは、ほぼ100パーだろう。そして、ヨーロッパ近代のあの合理性というのは、プラトンにその起源を発しているだろう。 すなわち、私たちが学生時代、数学なんかでその魂を削られた原因というのはプラトンにある。

「国家」において、ソクラテスは「正義を救ってくれ」と懇願される。どういうことかというと、この世の中、多くの物や観念は何らかの役に立つという理由で存在が許されているわけなんだけれど、「正義」ほどの重要観念ならそれ自身の中に存在の価値を確立して欲しいという。「正義」というものが、人から評価されるとかお金が儲かるとか、そういう下賎な価値で支えられるというのではなく、正義が自らの足で立つにはどうすればいいのかというわけだ。

結論から言うと、プラトンは「正義」とは一体性というものと同義であると言うんだよね。
国家というもので考える。
国家とは血縁でもない多数の人々が身を寄せ合う集団だ。このような国家において、正義を彫刻するためには、国家の成員たる個々人が能力に応じてやるべきことをやり、優秀な指導者を選抜して全体を秩序付け、外に対しては独立を保つという。
いわれてみると、このような国家の周辺には「正義」が立ち現れているような気がしてくる。

正義を示現する強固な一体性を保持する国家の指導者には、どのような選抜、どのような教育がふさわしいだろうか。
一番よくないのは、物にとらわれるということだ。役に立つから価値が高いだろうとか、そういうゲスな勘ぐりは、一体性の保持を目指す正義国家の指導者にはふさわしくないだろう。価値は、外にあるのではなくその中にあるのだから。
指導者にふさわしい教育というのは、物の価値を見定めることではなく、物のむこうにある真理を感得することだ。物にとらわれてはダメなんだよ。

太郎さんが3個のりんごを持っていて、1個食べました。残りは何個でしょう。
こういう問題に、元気に2個、とか答えているようでは話にならないんだよね。物のむこうにある真理を感得することが必要だ。「太郎さん」とか「りんご」とか「食べた」とか「何個」とか、そんなものは物の価値であって意味がないんだよ。大事なことは、3-2,1 ということだけだ。 これの延長線上に数学がある。

これすなわち、プラトンの一体性国家の指導者を養成するための、選抜、教育と同型だろう。

日本は別に西洋から教育制度を借りているだけで、実は変幻自在の国だろうと思う。辺境国家の強みだ。しかし西洋自身にとってはどうだろうか。逃れられない呪いとなっているのではないだろうか。近代西洋哲学は、プラトンをひっくり返そうとして、どうしてもそれが出来ない。ヘーゲルもニーチェもハイデガーもフーコーも。

確かにプラトンの言説は強力なのだけれど、「国家」の7章まで読む限りは、どうしても相対化できないというものでもないようにも思われる。しかしプラトンの本領はここからだから。

岩波文庫の「国家」上巻まで読んでみた。

プラトンは対話を通じて、正義の国家とはどのようなものか、ということを考えていこうという。
何を根拠にしての正義なのかという問題がある。キリスト教の聖書を根拠にした正義というものなら、キリスト教に関係ない人たちにとっては受け入れられない。
プラトンは正義の根拠を何に置いたのかというと、合理性だ。国家が合理的に運営されれば、外敵に対しての抵抗力が高まり、国家の存続ということがより保障される。そして、内的に判断すれば、その合理的国家とは厳格な兵営国家のようなものだ。優秀な人材を男女問わず国民から選抜し、選抜されたエリート集団は、私有財産を認められず国家のために尽くすことを義務づけられる。エリートになっても何もいいことがないかのように思われるかもしれないが、結果を残したエリートには国家から名誉とより子孫を残すための権利が与えられるという。

この合理的国家というものは、どこまでも大きく出来るというものではない。合理性を維持できる限界というものがある。プラトンも「国家」の中で、正義の国家はその範囲を広げすぎないよう注意しなくてはならない、と書いてある。
合理性に根拠を置いて正義を判定するというのは、一つの見識だと思う。それも有力な見識だ。合理性とは一体性のことだ。何のための合理性かというと、結局はある集団の一体性を維持するためのものだ。

このことを人間の個体で考えてみる。一人の個体を国家と考えてみる。大人になれば多くの人が気がつくのだけれど、この社会でそれなりに生きていくためには、自分が自分であるということの確信、すなわち自分の一体性というものが何より必要だ。その一体性の根拠を何に置くか。親が金持ちだとか、学歴が高いとか、まあそういうのもいいだろう。しかし、そのような根拠というのは、自分のそとにあるものであって、はっきり言って信ずるに足らないという面はある。自分の内部に自分の一体性の根拠を持とうとしたら、それは何によってか。
合理性によって。合理性の確信によって。 本当にそれは一つの見識だと思う。

一つの見識が唯一の見識となったとしたらどうだろうか? 
ここまではプラトン「国家]の上巻だ。全ての西洋近代哲学はプラトンの脚注にすぎない。プラトンの渾身の呪いの言葉は、下巻のほうにある。

ソクラテスは、「正義を救ってくれ」と頼まれる。 そこから正義をめぐる対話が始まる。

正義の個人というのでは対象が小さくて正義を判定しにくいということで、正義の国家について論じ始める。正義を体現した理想国家というものを、ちょっと想定してみようということになる。
普通の感じで始まる。 国民がやるべきことをやる。靴屋は靴を作り、大工は家を建てるっていうような。次に、正義国家の指導者たるものは、特別に選抜養成しなくてはならない、と来る。そのためには全国的な教育システムもなくてはならない。ここまでは現代でも受け入れやすいのだけれど、この後がちょっときつくなってくる。
正義の教育を貫徹するために、くだらない言論や芸術というのは規制の対象になる。表現の自由というのは尊重されないみたいだ。
さらにきついところが、肉体的精神的に劣ったものは排除されるべきだ、というんだよね。特に、そのようなものは子供はつくるべきではないという。優生学的な考え方を展開してくる。

現代生物学では獲得形質は遺伝しないというのは鉄則だ。体をいくら鍛えても、そいつの子供がマッチョで生まれてくるわけではない。数学をいくら究めても、そいつの子供が数学的知識を持って生まれてくるわけではない。生後に獲得した形質は、子供には遺伝しない。
獲得形質に限れば、優生学は成り立たない。

優生学の権威を決定的に貶めたのがナチスドイツだ。「わが闘争」においてヒトラーは、遺伝的に劣るドイツ国民が子供を残さないという選択をしたなら、そのことは決して恥ではなくドイツ国民としての名誉である、とさえ言い切った。

第二次大戦後におけるプラトンの評価の低下というのは、プラトン正義国家とナチスドイツとの相似にある。
しかしプラトンの「国家」という本は、優生学的正義国家だけでは終わらない。 ここからが本番なんだよね。

日速200ページペースで読む感じでいきたい。

「国家」という本は、ヨーロッパ哲学の頂点に輝くものだろう。ヨーロッパ史上最高の言説を、ゆっくり読んでいこうという。

「正義を救ってくれ」

ソクラテスは懇願される。 正義とは何なのかというと、通俗的にはよい評判とか多くのお金とかをもたらしてくれるものなんだよね。そんな堕落した場所から「正義」を救ってくれという。正義が正義として価値があるように、正義の概念を確立してくれという。
これは難しい問題だ。正義感による行動が、実は個人的な思い込みに過ぎなかったなんていうことはザラにある。普通に考えたのではこの問題は解けない。 つい、正義なんていうのは相対的なものだと言いたくなるよね。

ところがプラトンは驚くべき論理と巨大な枠組みを展開し、「正義」とは何かを見事に説明した。西洋人は、このプラトンの枠組みからいまだに出ることができない。

ではそのプラトンの「正義」の論理とはどのようなものか、それを今週、じっくり読んでいこうというわけだ。

休日は、私が家族の夕食をつくることになっている。 子供が四人いる。 長男21歳大学生、長女高2、次男小5、次女小2。こいつらと妻の分の夕食ということになる。

スーパーで豚ロースが安かったので、夕食はトンカツにした。
から揚げに比べてトンカツって手間がかかる。から揚げは、片栗粉を鶏肉に揉みこんであげるだけでいいのだけれど、トンカツは、豚肉に小麦粉をつけて溶き卵に漬けてパン粉をつけるという、三工程必要だ。
ネットでトンカツ料理を検索すると、小麦粉と溶き卵を混ぜて、それに豚肉を漬けてパン粉をつけるという技が紹介されていた。
1工程省こうという。
これは合理的だ。合理性だい好き。

買ってきた豚ロースを一センチ幅に切る。フライパンに肉が半分くらいしか浸からない程度しか油は使用しないのだから、1枚豚ロースをそのまま揚げるというのは無理。油だってタダではない。というか、サラダ油はけっこう高い。
トンカツ1キロを揚げなくてはいけないのだから、フライパンに肉を順繰りに入れていく。出来た順番に食卓に運んでみんなに食べてもらうという。揚げている合間に、次の肉にパン粉をつけたりとか、食器を洗ったりとか、はっきり言って、自分が座ってトンカツを食べる時間とかはない。 みんなは、きゃいきゃいなんか喋っている。

うちの長男は、ゲームセンターでバイトをしているのだけれど、どんなお客山がいるのかみたいな話。ゲーセンでは未成年に制限時間があるらしい。それを指摘すると、小学生は素直に帰るのだけれど、中学、高校生はなかなか帰らないという、まあたわいもない話。
その間も、私はトンカツを揚げているからね。そのうち妻に、

「明日の弁当に使うから、7切れぐらい残しといて」

と言われる。それを揚げている間に、食べ終わったやつも現れて、そいつらが使った食器も洗う。最後には、肉も揚げおわる、台所もきれいになるという着地となった。

私はいつ食べているのかというと、立ちながら食べてるんだよね。座っている暇なんかない。 昔の女性は、立ちながら食べていたというけれど、毎日だと大変だっただろうと思う。

トンカツは大変だということを思い出したから、もうしばらく作らない。

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