magaminの雑記ブログ

2017年12月

この本だけは何回読んでもすごい。 丸山真男は「日本の思想」という評論の中で、「日本の思想は伝統的に座標軸が欠如していて、あらゆる外来思想を等価値に自分の中に抱え込み、時代にふさわしい価値観をそのつど取り出すというスタイルだ」 と言っていた。 はっきり言って、これは丸山の認識不足だね。 吉田松陰が孟子をてこに、幕末の世界観を持ち上げようとして、それが明治維新として結実したということは、日本には、伝統的に思想の座標軸が存在していたということの証明だ。  確かに、孔子とか孟子とかの言説は中国のもので、日本固有ではないのだけれど、そんなことはたいした問題ではないだろう。 そもそも日本には、紀元前の記録などはない。弥生時代に思想の座標軸を探したって意味ないんだよ。春秋戦国に生きた孔子孟子に、日本思想の座標軸が設定されているからといって、別にそのことは日本の恥でもなんでもない。 日本語というものすら、漢文を読み砕くために成立したのではないかと、私は思う。 漢文を読むために成立した日本語の以前に、どのような言語が日本に存在していたのか、そのようなことはもう誰にも分からないことだろう。   最近の歴史教育では、吉田松陰をテロリストだと規定しようとする考えがあるという。 ひどいね。 吉田松陰を読んだことがないのだろう。戦後の知的レベルの低下はひどい。 確かに、吉田松陰の文章は書き下し文調で書かれていて読みにくい。しかし、書き下し文などというものは、日本語の範疇であって、半年も訓練すれば読めるようになる。半年の訓練も怠り、読みもしない吉田松陰をテロリストなどと断定する知識人なるものを、私は信用しない。 吉田松陰の「講孟箚記(こうもうさっき)」は、渾身の言説だ、血で書かれた文字だ。 このような書物は現代にはない。 この世界で生きる意味を失うってことは、ありがちだと思う。そういう人は、死ぬ前に、一度ちょっと奮起して「講孟箚記」を読んでみればいいと思うんだよね。 そう、テロリストの言説ってやつを。  

一言で言えば、少女マンガ的小説、だね。  土曜日、仕事でトラックを運転していた。川崎区の東海道線の踏切が、私のちょっと前で閉まって、それっきり開かないんだよね。ずーとカンカン鳴っている。 30分ほど我慢していたのだけれど、通行人のオジサンが、「架線が切れたらしく、あと3時間、開かないらしいよ」 と教えてくれた。 私も馬鹿げた暇人でもないから、Uターンすることにした。しかし、4トントラックだから、簡単には切り返せない。後ろ二台の乗用車に、事情を説明してUターンしてもらい、その後ろの2トントラックには、そこで待ってもらって、ちょっと後ろの駐車場の出入り口みたいなところで、やっと切りかえした。 1時間もロスした。  私は土曜日には、パチンコをしながら、軽めの文庫本を読むことにしているのだけれど、この時間ロスのおかげで、十分なパチンコ時間をとることができず、結果、「クローズド・ノート」を土曜日中に読むことはできなかった。 だから日曜日まで使って読んでしまった。 もしかして2行づつ読めば、読むスピードが2倍になるのではないかと試したりした。読めないことはないのだけれど、何が書いてあるのかほとんど分からなくなる。二行読みは、ある程度の訓練が必要だと思った。    で、「クローズド・ノート」の話なんだけれど、少女マンガ的小説だった、ということは、もう書いた気がする。 内容は、主人公の女子大生が、引越しの後、そのマンションから前の住人の日記を見つける。小学校の先生をしている25歳ぐらいと思われる女性の日記。 その後、二階の主人公のマンションを見上げる、ちょっとかっこいい25歳ぐらいの男に、主人公は気づく。 そして、バイト先で、偶然この男性と仲良くなるという。 小学校の女性教師の日記を読むと、この女性には彼氏っぽい人がいて、そしてこの女性はぜんそくだという。  これでだいたい後の展開は分かる。女性教師の彼氏っぽい人は、主人公と仲良くなった男本人であり、この女性教師本人は、ぜんそくで既に死んでいるだろう。後は、主人公の女子大生と、この女性教師の元彼っぽい人とが、他の人によヨイショしてもらいながら自分たちのポジションを高めながら、互いに仲良くなるみたいなことだろう。  実際にほぼその通りだった。唯一つ違ったのは、女性教師が死んだ理由というのが、ぜんそくではなく事故だったことだ。 この辺は作者本人の個人的な理由があるのだろう。  最初に蒔いた伏線を最後に回収するというのが、近代小説に特徴的なパターンだし、「クローズド・ノート」は、その覇道を行く。  覇道的少女マンガ小説。  47歳のオヤジが読むものでもないね。

孟子と孔子のつながりみたいなことを考えたい。 孔子は春秋末期に生きて、個人、家族、国、世界、の序列の中で社会の秩序を形成しようとした。孟子が生きたのは戦国中期、秦の始皇帝の中国統一まで100年だ。この時代背景を元に、孟子においては、国という概念がきわめて流動的だ。 中国戦国時代は、だいたい紀元前400年から秦の始皇帝による中国統一の紀元前221年までの時代の名称なのだけれど、この戦国時代において、継続的な領域国家が存在していた。五胡十六国時代や五代十国時代も中国は分裂状態だったけれども、これらの時代は、継続的な領域国家の時代とは言えないのではないかと思う。 戦国時代には、戦国七雄といって、七つの大きい国があった。西の秦・南の楚・東の斉・北の燕・中央の趙・魏・韓。 領域国家が互いの生存をかけて、しのぎを削っていた。まさに第二次大戦前の列強みたいなものだった。 このような戦国の世の孟子の言説における国とは、ある時は個人に寄り添い、ある時は世界に寄り添う。  論語 先進第十一 279 季子、周公より富めり。しこうして球やこれがためにしゅうれんしてこれをふ益す。子いわく、吾が徒にあらざるなり。小子、鼓を鳴らしてこれを攻めて可なり。   これだけを読むと、先生はすごく怒っているのだけれど、まあまあそれはそれだけのことだ。ところが、これを孟子が解釈するときつくなる。 孟子 離婁章句(りろうしょうく)上 14章 仁政を行わざるに君を富ますは、皆孔子に棄てらるる者なり、だって。孟子は孔子の「鼓を鳴らしてこれを攻めて可」という言葉を、そのまま採用している。孟子はさらにここから畳み掛けて、「いわんや君がために強戦し、地を争いてもって殺人野に満ち、城を争いて殺人城に満つるをや。罪死にも容れられず」 とくる。 はっきりと、こうなってくると微妙で、国のために死ぬのは無いけれど、世界のために死ぬのはあり、みたいなことにもなる。国と世界との距離が非常に短くなっている。 日本のために死ぬのは無いが、天皇のために死ぬのはあり、みたいなことにもつながってくるだろう。 孔子の中庸を、ギリギリの感じで傾けてくる孟子って、時代のなせる業なのだろうけれど、なんだかすごいと思う。

私は、プラトンの言説が西洋の価値観を傾け、あのように西洋を巨大にしたのだと考えている。プラトンを読んですごいとは思うけれど、自分はヨーロッパ人ではないからプラトンの言説がこの世界を傾けたなんていう実感はない。日本もまがりなりに先進国として、近代以降の世界の中で戦ってきた。日本をここまで押し上げたものは何なのか。日本にも、その世界観を傾けるような強力な言説があったはずだ。   

日本史上、最大のイデオローグは吉田松陰だろう。吉田松陰の高杉晋作への手紙にこのような言葉がある。    

「死は好むべきにあらず、また憎むべきにもあらず。 道尽き心安んずる、即ちこれ死処。世に身生きて、心死する者あり。身滅びて魂存する者あり。 心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。  
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

これを読んだ高杉晋作の魂の震えまで伝わってくるような、まさに圧倒的な迫力だ。吉田松陰も、全くの無根拠からこの境地に到達したわけではない。この吉田松陰の言説に対応する孟子の言説がある。告子章句上10の孟子を私の現代語訳で以下に紹介する。   

「孟子は言う。生きるということも私が望むところであり、正義というのも私が望むところだ。二つのものを兼ねることができないのなら、生を捨てて義をとろう。生きるということも、私の望むところだけれども、それよりも大事なことがある。かりそめに生きていればいいというわけではない。死もまた私の憎むところであるが、死よりも大事なことがある。ためらった時、卑怯者という心の声に従わなくてはならない時がある。もし生きるということより大事なことがないのなら、生きるためだけのために何でもやるようになるだろう。死ぬことが最も恐ろしいことであるのなら、死なないために何でもやるようになるだろう。しかし人は、こうすれば命が助かるといっても、敢えて拒否することもあるし、このままでは死ぬという時も敢えてまっすぐ道を歩く時もある。だから、生きることより大事なことはあるし、死ぬことより憎むべきことはある。人はみな同じだ。英雄だけが生死の執着を越えた特別な能力を与えられているわけではない」    

これが世界を傾ける言説だ。私の稚拙な訳で申し訳ない。原文は100倍すばらしいよ。

吉田松陰が孟子の言葉を自分なりに練り上げて、高杉晋作に手紙を書いたのは明らかだろう。しかしこれで、吉田松陰の価値が減ずるなどというものでは全くない。吉田松陰も高杉晋作も、幕末のあの時点で、3000年の東アジアの歴史の積み重ねによって遙か高みに持ち上げられたということだろう。吉田松陰が命を賭して、孟子を信じ崖の向こうに飛び降りた。今この日本があるということは、崖の向こうに確固たる孟子があったということだろう。


論語というと儒教ということになって、近代以降においては守旧ということで、あまり評判がよくない。中国や朝鮮は儒教にとらわれすぎて近代合理性を受け入れることが、日本より遅れたという意見もあるだろう。  私はこれを正しい歴史認識だとは思わない。 論語の構造を注意深く観察すると、まず、人間個人の自己同一性の確立への努力を推奨している。これが修身といわれるものだ。しかし、ただ修身しろと言われても困るわけで、その手本というのが聖人ということになる。聖人の代表は、古代の伝説の聖王の尭舜(ギョウシュン)だろう。このような聖人の言動を深く学ぶことが、「学」ということになる。そして、聖人の治め、世界がその自己同一性を確立した状態を、平天下という。  論語世界観において目指されることは、個人と世界との間に、それぞれの自己同一性を強化しあうような循環を強化して、社会の秩序を強固に形成することだ。 論語において大事なことは、個人と世界との何らかの関係性なんだよ。 この関係性を、孔子は「道」といっている。 まあしかし、個人と世界との間には距離がある。その距離を埋めるものが、家族や国だったりする。家族を治めることを斉家(せいか) といい、国を治めることを治国(ちこく)という。 この斉家や治国というのは、修身と平天下をつなぐための中継地点みたいなものだ。孔子は、春秋末期の社会状況を勘案して、修身と平天下をつなぐための中継地点として斉家や治国という概念を採用したのだろう。  為政第二 37  書にいう、「孝なるかなこれ孝、兄弟(けいてい)これ友(ゆう)に、政あるにほどこすと、これまた政をなすなり」   国を治める政治の本質は、家族が仲良くするということにも存在する、というわけだ。   さらに言えば、論語世界において大切なことは、修身と平天下の関係性であって、その始まりと終わりをつなぐ斉家や治国は改変可能だということだ。 斉家や治国の改変可能性を大胆に主張したのが孟子だろう。そしてこの改変可能性を極小に見積もれば、守旧的儒教となるだろう。  儒教が守旧的だったとしたら、これは論語ではなく、人間の弱さに責任があるだろう。  論語をてこに、世界を守ることも出来るし、変えることも出来る。吉田松陰をみれば明らかだろう。  

養老猛司の「馬鹿の壁」を読んだことがある。ひどい本でね、ジジイが思いついたことを、プラトンや論語のまた聞きレベルの論理で補強しているだけだった。かなり売れた本だから、読ませるような場面もあると思ったのだけれど。読みやすいだけの、ライトノベルレベルだと思う。    この本の論理の筋道のどのへんがずれているのか、というのを一つ例をあげて示してみる。    里仁第四8 朝(あした)に道(みち)を聞(き)かば、夕(ゆうべ)に死(し)すとも可(か)なり。   養老猛司は、論語の「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というのをあげて、この意味がわからなかったのだけれど、最近わかるようになってきたという。どのように分かったかというと、道すなわち真理の実現がきれば、その人の世界観が変わって生まれ変わったようになると。生まれ変わるんだから、一回夕べに死ぬようなものだ、ということらしい。  話にならんね。  孔子の追い求めた真理の実現というのは、そんな軽いものではない。孔子のこの部分を言葉通りに理解して何の不合理性もない。  養老猛司は便宜上、世界が違って見えて、とか言っているけれども、彼は道というのをお金とか名誉とか、そんなレベルのものだと思っているのだろう。確かに、朝に大金をゲットして、夕方死んでもいいというのでは、ここの意味は分からないだろう。お金を使う暇がないからね。  そもそも何故、養老猛司が論語のこの部分を引用したかというと、人間は変わる情報は変わらない、という彼の奇妙な思いこみを証明するためだ。何故彼がこのような奇妙な思い込みをしているのかというと、現代は、人間は変わらない情報は変わる、という論理に支配されているからダメなんだ、ということらしい。  このような論理が認められるだろうか。  自分に都合のいい思い込みを証明するために、論語の曲解までするという、これでは「馬鹿の壁」の内容こそが、まさに馬鹿の壁だろう。  借りた本だし、1時間程度で読めるから、読んで損したという気持ちにもならないのだけれど、読む「意味」というのは、はっきり言ってない。 論語自体を読んだほうが100万倍マシだ。

論語の基本的世界観というのは、個々人の自己同一性と世界の自己同一性が、互いに互いを強化しあうというシステムにある。このシステムが作動した場合、世界に秩序が形成されるであろうということだ。  人間は社会的な動物だといわれるけれども、人間世界において、秩序とは無条件に与えられてきたわけではない。社会秩序というのは、結構簡単に崩壊する。ローマ帝国しかり大漢帝国しかり。ローマ帝国や漢は、そのあとを継ぐ文明に恵まれたからまだ救われるけれども、崩壊してそのまま消えてしまった文明もいくつもある。 社会秩序というものは、人間の能力のギリギリのところで成立している。キリスト教圏やイスラム教圏は、一神教的絶対神を仮定することで、広範な地域の秩序を維持する選択をした。こういうことを言うと申し訳ないのだけれど、そのような絶対神なんているわけない。もしいるとしても、地球の一部の地域を優遇するようなおめでたい選択をするわけない。 しかし、キリスト教圏やイスラム教圏は、このような当たり前の事を認めるわけにはいかない。なぜなら、絶対神の非存在といことを社会的に認めてしまったら、社会秩序の柱を失ってしまうからだ。 暗闇の中で彷徨うことほど恐ろしいことはないだろう。  これに対し、論語の世界観というのは、一神教的絶対神を導入することなく、社会秩序を形成しようとするものだ。すなわち、個々人の自己同一性と世界の自己同一性が、互いに互いを強化しあうというシステムということになる。 個々人の自己同一性というは、論語においては狭義の「仁」ということになるだろうけれど、世界の自己同一性とは「聖人」に象徴されるだろう。 では聖人とは何か。 殷(いん)の湯王(とうおう)の発言。    尭曰第二十 507    「選ぶこと帝の心にあり。朕(わ)が身、罪あらば万方(ばんぽう)をもってすること無かれ。万方(ばんぽう)罪あらば、罪、朕が身にあらん」 帝とは、天のこと。万方とは、天下の人民のこと。 論語世界において、天は人間価値観の具体的指導を行わない。ただ、存在非存在の現前によって運命的裁定を行うのみなんだよね。 私なりに湯王(とうおう)の発言を解説すると、「自分は全力で人民の秩序を願うのだけれど、もし自分の力が足りない時は、それは自分の責任であって、人民の存在を無に帰すのはやめてほしい、私の存在を罰して欲しい。もし人民の力が足りないとするなら、その一切は自分の罪である」 ということで、これはある種激烈な決意なんだよね。論語世界においては、その最も大きい枠組みにおいて、個々人と聖人との自己同一性をめぐる循環によって、その秩序を維持していこうというわけだ。  こう考えると、日本が神なくして秩序を維持しているのは、このような論語世界に依存しているからだろう。

大して期待せずに見た。主演はキムタクだし、1vs300というキャッチコピーだし。 予想に反して、内容はすばらしかった。 映画という表現形式における評価の基準とはなんだろうか。私たちは、何を持ってこの映画は面白いとか、面白くないとか判断しているのだろうか。 私は、なんらかの「整合性とその根拠」が、その映画内で表現できているかどうか、にあると思う。 「無限の住人」という映画の中で、主人公の剣士は不死の体を与えられている。不死こそは、現代における人間の夢だ。その夢を、主人公の剣士は体現している。 不死とは何か、それは完全な整合性だ。 ここからここまでみたいに、時間が区切られてしまった場合、そこには完全な整合性は存在しえない。整合性を救うためには、過去に天国を設定するか、未来に天国を設定するか、それとも、永遠の時間を生きるか、のどれかしかない。 現代は、永遠の時間を設定することによって、その整合性を維持している。ヘーゲルは、歴史とは様々な地域の競合による進歩によって、個人の精神が確立、解放される過程のことである、と考えた。このヘーゲル的世界観には、永遠の時間というものが設定されている。 しかし、この世界観で世界は救われるかもしれないが、個人は救われないだろう。個人の時間は有限だから。人は必ず死ぬ。 このギャップは根源的には埋められないのだけれど、個人的に、「自分は永遠に生きる」 と思い込むことは出来る。 じつは、このように思い込んでいるヤツは、現代社会においてかなり多い。 自己評価が高く態度のでかいヤツは、たいがいこのパターンだ。 そして、まがい物の整合性に本物の整合性がぶつかったらどうなるか?  どんな天才でも、本物の整合性には勝てない。世界の整合性における個人とは、金や名誉や才能や奇妙な思い込みによって救われるものではなく、自らの整合性を他者との関係により、より強化することによってのみ救われる。 「無限の住人」という映画は、この辺をうまく表現していたと思う。 (以降 ネタばれあり)  そして、あとは整合性の根拠なのだけれど、この映画においては、キムタクに敵討ちを頼む女の子だね。このこはキムタクの昔の連れに似ているという。ただ似ているだけで、整合性の根拠としては薄弱なのだけれど、なんせ主人公が整合性の化け物だから、根拠を敢えて薄弱にしている。このへんは、うまいと思った。キムタクの昔の思い女性は、キムタクのことを「兄さま」と呼んでいたのだけれど、敵討ちを頼む女の子は、キムタクのことを、ことあるごとに「兄さん」と呼んでしまう。 そして最後の最後、死にゆくと思われたキムタクに、女の子は「兄さん」語りかけ、キムタクに「兄さまだろ」と突っこまれる。整合性の完全性と、その根拠の薄弱性のコントラストがすばらしい。 この映画は、今年の実写邦画ではおそらくベストだろう。

土曜日は、仕事が終わった後1円パチンコに行って、ぼんやりすることが多い。 ただぼんやりすると、なんだかもったいないような気がするので、パチンコをしながら本を読む。  さらっと読めるような本を、紙屋で拾ってキープしてある。拾ってるわけだから、ほとんど選ぶことは出来ない。小説形式のものなら、とりあえず拾うみたいな感じだ。 この世界においては、様々な本が捨てられている。多いのは、英語が上達する何とか、みたいなやつ。あと、上下巻本の上巻。こういうのは拾いにくい。下巻がないから。 拾ったのはいいのだけれど、いまだに読んでない本に、「インディアン酋長のためになる説話」 というのがある。拾いやすくて読みにくいみたいなレベルだろう。  今日は、内田康夫の「紫の女、殺人事件」というのを、パチンコをしながら読んでみた。 これは正直ちょっとおもしろかった。 あまでじ1円パチンコが400円で大当たりして、安心して本が読めちゃったという。3時間ぐらいやって、3000発、3000円になって、本も読み終わって、疲れて換金しちゃった。 2600円儲かったという。 「海」をやったのだけれど、やっぱり海は魚群こなくては当たらない。そういいながら、魚群が来なくて、2回ほど当たったのだけれど。  えーっと、「紫の女、殺人事件」についての事なのだろうけれど、犯人とかよく覚えていないのだけれど、まあ、とにかく読みやすい。 なんだかこじゃれた会話もあって、パチンコしながら読むには最適だろう。

私は実際、25年前に旭川近くの肉牛牧場で1年間働いたことがある。 なぜ1年なのかというと、当時1年働けば、辞めたあとに、地元に帰って失業保険がもらえたんだよね。 牧場で働いて、そして今思うことは、仕事はきつかったし給料は安かったけれど、そこで働いていた若い男の子女の子はかっこよかったし可愛かったということだ。 だいたいにおいて、大きい牧場で1年も働けば、彼氏彼女は必ず出来る。 これだけは、私は保障する。 なぜ保障できるのかというと、牧場の仕事はきついからだ。  だいたい、北海道という日本の果てまで行って働こうという、誠実でまじめな女性に言い寄られて落ちない男はいない。北海道という日本の果てで働くような心の不安な女性で、まじめに働く若くて力強い男性にアプローチされて、心を動かされないなんてありえない。  東京のマチコンなんかで、パートナーを見つけようとする人たちの一番の不安なところは、相手が誠実な人かどうか分からないところだろう。牧場においては、来て一ヶ月以内に辞める人というのは半分ぐらいいる。すなわち、1ヶ月で異性としてのある程度の価値が保障されるわけだ。 これはかなりの効率だ。 逆に言えば、それだけ牧場の仕事がきついということなのだけれど。 

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