magaminの雑記ブログ

2017年11月

吾十有五にして学に志す  
三十にして立つ  
四十にして惑はず  
五十にして天命を知る  
六十にして耳順(したが)ふ  
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

し‐がく【志学】
1:学問に志すこと。
2:[論語為政「吾十有五而志於学」]15歳の称。

じ‐りつ【而立】
[論語為政「三十而立」]30歳の称

ふ‐わく【不惑】
1:[論語子罕]まどわないこと。
2:[論語為政「四十而不惑」]年齢40歳をいう。

ち‐めい【知命】
1:天命を知ること。
2:[論語為政「五十而知天命」]50歳の称。

じ‐じゅん【耳順】
[論語為政「六十而耳順」]
(修養ますます進み、聞く所、理にかなえば何らの障害なく理解しうる意)
60歳の異称。

(『広辞苑』)



孔子は、15歳にして学を志したという。この学というのは何か? 数学とか倫理学とか社会学とか、そのようなものではない。学とは、人格形成への道を意味する。 では、人格形成とは何か? 現代的な言葉で人格形成という概念を言い換えるとするなら、それは、自分が自分であるという自己同一性の確立、ということになるだろう。  

現代世界は整合的に出来ているように見える。歴史的に様々な矛盾を解決して、あるレベルの文明水準を形成している。しかし豊かになったにもかかわらず、精神的な問題で、社会からドロップアウトしてしまう人間が多すぎないだろうか。さらに私の体感的に、ドロップアウト予備軍というのは、かなり多いだろう。  

これはいったいなぜなのかというと、この世界では、自分が自分であるという自己同一性というのが当たり前のものとして前提されているからだと思う。 そして、多くの人々が、当たり前の事が出来ないからといって苦しんでいる。  

しかし、自己同一性というものは本当に当たり前のものなのだろうか?  自己同一性とは生まれ持った才能の一つなのだろうか?   

ここで孔子だ。 

孔子は15歳にして、自己同一性の確立の道を志したという。その結果、三十にして立って、四十にして惑はず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)い、七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず、という。文句なしだろう。


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太平洋戦争って何で起こったのか不思議に思ったことはないだろうか。第一次世界大戦の時のように、勝ちそうなほうに乗っておけばそれで十分だったのに。 よくある考えは、「当時の日本人は間違いを犯した。すなわちちょっと頭が足りなかった」というものだ。しかしこの考えは違う。昭和初期に書かれたものは、今読んでも読むに耐えるものが多いです。彼らの頭がちょっと足りなかったなんて信じられない。 団塊ジュニアにとってのおじいさんとは、実際に太平洋戦争に行った人たちだと思うが、彼らは頭が足りなかったたのだろうか。事実は逆ではないだろうか。彼らの人間としての重みのようなものから、現代の私達は世界にはどうにもならないことがあるということを悟るべきではないだろうか。 社会の秩序はどのようにしてあるのか? ということを考えてみる。 私は昔トマス・アクイナスの神学大全というのを読んだことがある。そこにあるのは美しい思想のカテドラル。ヨーロッパの中世において、秩序とははるか高みにある神から与えられたもうたものであり、その結果この世界は形式がみっしりと積み重なったものである。 近代においては、秩序の根源がもっと近いものになる。ヘーゲルにおいては市民社会の無秩序さは上は国家、下は家族によって制御されているとされた。この世界に秩序を与えるものが神から国家や家族に変換されている。この世界に意味を与えるのははるか遠くにある神ではなく、この世界に隣接する国家や家族なわけだ。意味の根源は近くに引き寄せられた。マルクスは社会的下部構造が上部構造を決定する言ったが、これも市民社会はその隣接する外部から秩序の根源が与えられているいうことなわけで、話の構造というのはヘーゲルと変わらないと思う。 日本も、大正まではこのような「秩序はこの世界に隣接する外部から与えられる」という近代国家だったとおもう。ところが満州事変が起こり、日本はより合理的な国家を創る必要に迫られた。近代国家より合理的な国家とは何なのか。結果からいうと、今まで秩序というのは隣接する外部から与えられているという考えを、秩序というのは社会の内部から発生するという考えに転換するということだろう。 これは驚くべき転換。 それまでの日本国家は形式的強制によって国民からそのエネルギーを吸い上げてきた。しかしこれからは国民の自由意志をコントロールすることによってより大きなエネルギーを調達しようというのだ。例えば年金というものは戦中に制度化された。これも老後のことは心配せず今を一生懸命戦ってくれという、国家による自由意志コントロールの一つの顕現だと思う。 秩序の根源が世界の外側にあるのではなく、世界の内側にあるというのが現代日本の真理だ。これはきわめて重大なことで、現代日本においては生きる意味というのは自分の外側にあるのではなく、自分の内側にあるというとになる。倫理は自分の外にあるのではなく、自分の内にある。このことは戦時中の日本人が勝ち取ったものであり、戦後の日本人がその記憶を抹消しようとしたとしても、もうすでに不可逆的なものだ。 知識人という人たちがいた。戦後の知識人なる人たちは大なり小なりある種のピエロだ。世界の外側から秩序の意味を大衆なるものに与えようというのですから。考え方が100年古いんだよね。生きる価値というのは誰かに教えてもらうものではなく、この世界に内在して実存するものだ。

休日は、私が家族の夕食をつくることになっている。 子供が四人いる。 長男21歳大学生、長女高2、次男小5、次女小2。こいつらと妻の分の夕食ということになる。  今日の夕食はから揚げにする。スーパーに行ったら、国産鳥ももが100グラム100円だったから。 となりのブラジル産鳥ももは78円だったのだけれど、これはちょっと気がひけた。鶏に国籍はないだろうけれど、なんでブラジル? といつも思う。地球の裏側からご苦労さんだね。 まあそれはいいとして、唐揚げなんだけれど、これが意外と簡単だ。揚げ物というとメンドクサイように思うのだけれど、そうでもない。一人分作るとなると、確かにメンドクサイのだけれど、5人分鶏肉1キロを揚げるなら、コストパフォーマンスがかなりあがってくる。 唐揚げのいいところは、その準備が片栗粉を練りこむという1工程ですむところだ。これがフライになると、小麦粉、卵、パン粉、と3工程必要になってくる。フライとかたいした評価もされないのに3工程とか、割が合わないって思う。 合理主義者の私は、揚げ物は唐揚げ、唐揚げ一本。 実際に揚げる時は、丸底のフライパンに、鶏肉が3分の2ぐらい漬かる程度の油を入れる。なみなみと油を入れたいところなんだけれど、油だってただじゃないから。下半分が揚がったらひっくり返してもう半分、みたいなノリだ。 適量の油の入ったフライパンを強火で熱する。油の温度なのだけれど、さいばしを突っ込んで泡がかなり出てきたら、唐揚げ適温だ。この「さいばしから泡」というのが、唐揚げ初心者には分かりにくい。私も最初は、さいばしからたいして泡も出てないのに、油中に食材を投入してしまい、結果べちょべちょ唐揚げになるということがあった。今では、さいばしからでる泡の具合で、こんがり唐揚げのイメージが浮かぶほどになった。 人間、何でも訓練だと思う。 そして、唐揚げ1キロともなると、いっぺんには上げられないから、フライパンの右から左、ベルトコンベアー方式で揚げていく。 揚がった鶏肉を、妻や子供が待つ食卓へ運ぶ。  では、自分はどうやって食べるのか?  それは立って食べる。唐揚げの出来具合を見ながら、使った食器とか洗いながら、家族の会話に参加しながら、動きの中でご飯に唐揚げを乗っけて食べるわけだ。  何でも合理的にやっていかないとダメだと思う。 もしかして何かを犠牲にしているのではないかとも思うのだけれど、その何かというのがよく分からない。

「こころ」という小説は、どうもわからない。いろいろあったとしてもだよ、20年もたって自殺しようというのはないと思うんだよね。   まずこの小説はおかしいことだらけだ。   まず、「先生」の友達のKが、女に振られたから自殺するんだけれど、こんなのまずない。女に振られたからって自殺していたんでは、命がいくつあっても足りない。私なんて何回死ななければいけないんだ、ということになる。  これを乗り越えたとして、「先生」はなんで先生なんだ?  主人公の青年が、彼のことを先生と呼んでいるから「先生」なのだろうけれど、「先生」は尊敬できる部分がなにもない。中年無職、生涯ニートの暇人だし。 これも乗り越えたとして、最後のあの手紙。いくらなんでも長すぎるだろう。私があの量の手紙を貰ったら、まず怖くて読めないね。 これも乗り越えよう。 青年は「先生」のことが個人的理由でとても好きだったとして。  そして最後、「先生」が自殺する理由というのが、自分と妻との三角関係で、20年前に自殺したKに対する贖罪だという。最初に言ったけれども、これはない、これだけはない。20年ってかなりだよ。私は20年前に結婚したけれど、結婚した経緯というのはよく覚えていない。私は、妻が「結婚すれば」と言った記憶があるのだけれど、妻に聞くと、私のほうが結婚しようと言ったらしい。20年たつと、本当に真実は闇の中だ。 「先生」、何が悪かったのかというと、毎月、Kの墓参りをしていたことだと思う。 これは、あえて理由を探したらだよ。 墓参りなんていうものは、自分の前に、親族があって、地域社会があって、それらの思いを自分の後ろに伝える子供があって、始めて意味を持つ。前にも後にも何もないのに、ただ死んだ人を拝むというのでは、「先生」、呪われたんじゃないか。 これは私なりに「心」と言う作品を善意に判断してのことで、普通に考えると、登場人物全員が神経症ということになるんじゃないか。   どういうことなんだろうか。  日本近代文学史上最高の作家とされる夏目漱石の、最高の作品とされる「こころ」の評価がこんなのでいいのかと思う。 そこで、信頼できる評論家の「こころ」の評論を読んでみた。大澤真幸の「近代日本思想の肖像」のなかの「明治の精神と心の自律性」というやつ。 この中で大澤真幸は、「先生」がお嬢さんを好きになったのは、友人Kがお嬢さんを好きになったからだという。友人Kはある種の判定者で、友人Kがお嬢さんを好きになるということは、お嬢さんに価値があるということになる。価値のあるお嬢さんを「先生」が好きになったという。  なるほど、ありえなくはないな。 人が持っていると欲しくなるという論理だろう。なくはないけれども、自分がやりたい女性を人に判定してもらおうという、この「先生」の根性はどうだろう。どこまで奴隷根性なんだ、こうはなりなくないよね。  大澤真幸は、この論理をさらに押して、友人Kという具体的な判定者が、共同体の中でその実体を失い観念のみなったとして、それはその共同体の神だよね、という。そのような第三者の審級のようなものが日本において形成されたのは明治末頃だという。神が、この女はやる価値があるかどうかを判断した後に、男たちはその女のやる価値を受け入れるということになる。  もっともらしいことを言っているように聞こえるかもしれないが、私はそのようなものは認めない。女の価値を付与する神とか、ふざけるな。犬が交尾するのに神様とかが必要なのかよ。人間だって同じだろう。 大澤真幸の論理は、神の存在証明というより、神の不存在証明だろう。

私は昔から、子供のころからだろう、この世界は生きる価値があると思っている。なんでかはもう分からないのだけれど、とにかくそう思い続けている。死のうと思ったことは一度もないし、自分が自分であることを疑ったこともない。 たいした人生ではない。 子供のころは、いじめられっこだったし、両親は、私が若いころ借金残して死んだし、現在は、最低賃金近辺で働くトラックドライバーだし。  子供のころから不思議なのは、「この世界はなんなのか」ということだ。この世界、表面的にはたいしたように見えない。私は、尊敬できる人物とかに今の今まで出会ったことはない。それぞれに人は頑張っているのだろうけれど、それは私も同じだし。  疑問は深まる。  たいしたやつもいないし、自分もたいした人間でもない、にもかかわらず、いったいなぜ私はこの世界が生きるに値することを確信しているんだ?  プラトンの「国家」を読んで衝撃を覚えた。なんだか世界が再編成されていくような。  正義とは何かっていう議論だった。普通に考えると、正義とは誰かに与えられるもの、もうちょっとレベルを上げた考え方をすると、彼我の境界を画定するもの、ということになるだろう。 ところがプラトンは違った。 プラトンが言うには、正義とは、一体性があるところに自然と立ち現れる概念だ、というんだよね。だから一体性こそが正義なんだよ。  いや、これはあるな、と思った。雪の結晶があって、雪の結晶はあのような一体性をそれぞれに形作って、雪の結晶にとってはその一体性こそは正義だろう。  私が、自分が自分であると確信するのは、私の一体性の証だろう。一体性のあるところにそれに内在する正義はある。私が、この世界は生きる価値があると思い続けていたのは必然だったという。 私は、自分が自分であるという確信を、どこから与えられたのかは分からない。 その起源を知らない。 この世界には、世界の整合性、一体性を相対化しようという言説にあふれている。このような言説は、正義を無力化しようとしているわけだ。あなたの正義は本当の正義ですか? みたいな。  私は逆に試したい。 自分ですら起源の知らない、自分の正義、自分の一体性がどこまで耐えられるかみたいな。



柄谷行人丸山眞男村上春樹などについての評論集なのだけれど、最後の折口信夫の「死者の書」を評論した「まれびと考」というのはすごかった。 

ここまですごいと折口信夫とか関係ないだろう。「死者の書」をだしにして自論を展開しているレベルだろう。  
具体的に大澤真幸はどのような世界観を語っているのか。  

私なりに、ごく一部分だけなんだけど、説明してみたい。 

人間の志向作用というのは二重の操作になっていて、志向作用の中心を自分の中に持つような求心化作用と、志向作用の中心を自分の外に持つような遠心化作用と。求心化作用と遠心化作用は、人間存在の中に、それぞれに作用が及ぶところの領域を持つ。そして、意識の座というのが、そのどちらにあるかというのは、実は価値的には等価だ、という。  

ここからは私の考えを書くのだけれど、近代世界というのは求心化作用が強く働いている世界だ。現代は、意識の座は自分の中にあるという考えが主流だろう。意識の座が自分の中にあるということは、他人の意識の座もその人の中にあると認識することだ。だから、ひとそれぞれの認識や意見というものがあるはずだと考えるようになる。近代において、人権や民主主義の価値が高くなったのはこの線に沿ってだろう。 

これに対して、意識の座が自分の外にあると考えるとどうなるか? 確固たる世界があって、誰もが同じ世界を見ていると考える。だから、自分が見ている世界は人も見ているはずだ、と考えるようになる。  

近代は求心化作用が強い時代だけれど、中世は遠心化作用が強かっただろう。古代は求心化作用が強い感じだよね。  

近代だけを考えると、あたかも時代は進歩しているかのように見えるのだけれど、これ全体を俯瞰すると、時代意識の座がゆっくり移動しているだけなんじゃないの? とも思う。古代の前の前史時代は、おそらく遠心化作用の時が流れていたのだろう。この近代もいつかは終わって、いつか遠心化の時代が始まるのだろう。   

大澤真幸はここまでは言っていないのだけれど、彼の論理はすこぶる応用が利く。柄谷行人や丸山眞男を評論しているけれども、論理自体は彼らより上だろう。


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ヘーゲルの「歴史哲学講義」のなかに、アフリカ中南部の描写がある。これがちょっと衝撃的なんだよね。

かつてアフリカからアメリカに、黒人がひどい扱いで奴隷として運ばれたというのはよく知られている。イギリスひどいみたいな、ネットの議論もある。 

しかしなぜアフリカの黒人は、あのような奴隷船に乗せられ、システマティックに運ばれていったのか不思議ではないだろうか。彼らにも親やふるさとがあっだろう、と普通は考える。

「歴史哲学講義」のなかでヘーゲルは、東から西に向かって文明が進歩していると語っている。中国が最低で、ヨーロッパが最高ということになる。現代日本人としては受け入れにくい論理なのだけれど、19世紀前半という時代背景を考えれば、ヨーロッパの無自覚差別主義者がそのように考えることはありえるだろう。ヘーゲルは中国について書いているのだけれど、これが当たらずとも遠からず、全くでたらめというわけでもない。19世紀前半において、はるか彼方の極東の国について、ある程度は知っているわけだ。  

アフリカは中国よりはるかにヨーロッパに近い。ヨーロッパとの関係性も深いから、勉強熱心なヘーゲルは、中国よりアフリカの方が詳しいだろうという合理的推論が成り立つ。  ヘーゲルのアフリカに対する評価というのはひどい。中国は歴史がある、だから言及する価値があるけれども、アフリカは歴史がないから言及する価値がないという。どのように言及する価値がないかということを、ヘーゲルは例をあげて言及しているのだけれど、これがひどいんだよ。    

「黒人はヨーロッパ人の奴隷にされアメリカに売られますが、アフリカ現地での運命の方がもっと悲惨だといえます」   

このように始まる。どのように悲惨か? 

「現地においてすでに、両親が子供を売ったり、反対に子供が両親を売ったりする」 

本当かよ? と思う。さらに 

「黒人の一夫多妻制は、しばしば子供をたくさんつくって、つぎつぎと奴隷に売り飛ばすという目的を持っていて、ロンドンの黒人がつぶやいたという、自分の親族全員を売ってしまったために貧乏になったという、素朴な嘆きは珍しいものではありません」  

これが本当だとするなら、おそらく本当だろうけれども、結局どういうことなのかって考える。
  
この世界って、無条件に与えられているわけではない。歴史がなければ、奴隷に売ったり売られたりして、それを当たり前だと思ってしまうという。その歴史も、当たり前に形成されるわけではなく、かつて何らかの、先人達のきっかけや努力みたいなものが存在していた結果なのであろう。 ヨーロッパ人は原罪という言葉を使うけれども、これを日本語で言えば、歴史に対して義理があるということになるだろう。

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うちのママが頭痛いから寝込んでるという。 子供達の夕食をどうするかという。  条件は、平日、夜6時に私が帰宅という。 小2と小5の次女と次男は6時半に学童から帰宅予定。 二十歳の長男は、8時帰宅予定。高2の長女は9時帰宅という。 これどうする? 夕食どうする?  これはカレーだろう。神様のくれたメニュー、カレー。 あー、日本にカレーがあってよかった。  ばらばらに帰ってくる子供達が、それぞれに温かい夕食を食べれるという。  でね、カレーの作り方なんだけれど、カレーのルーの裏に書いてあるレシピどおりにつくる、これが大事だね。特に水の量。これだけはちゃんと計らなくてはダメ。 たまねぎを多く入れたから水も多く入れようとか、そんな自分勝手なことをしてはだめだ。ルーと水の量の比率のみが、最後の出来上がりカレーのとろみに関係していると考えて間違いない。  あと、カレーで大事なのが福神漬。  一人でカレーを食べる時は、福神漬とか、まったくどーでもいいのだけれど、人にカレーを出すという時には、福神漬は大事だ。 福神漬がだいじだというより、福神漬的思いやりがだいじなんだよね。きゅうりのキューちゃんでいいんだよ、食べるか食べないかわからないけれども、とりあえず福神漬をだす、この気持ちが伝わるはず。  

村上春樹の「アンダーグラウンド」という本は、サリン事件の被害者の証言を集めた本だ。 

なぜ村上春樹がこのような本を書いたのか、というのを問題にしたい。

あとがきの中で村上春樹は、オウムが他人事ではなかったからではないか、と書いている。  

どういう意味か?

オウム信者と、村上春樹小説の主人公たちには、共通点がある。どちらも、自分が自分であるという意識、すなわち自己同一性に確信が持てなかった、というところだ。

村上春樹小説の主人公たちは、この統合失調症気質をかっこいい個性だと考えて、それをオシャレな音楽や言葉遣いで飾ったりしている。オウム信者は、自己同一性を確立しようとして、自分の世界を縮小した。彼らは、それを出家と称した。

自己同一性というのは、自分と世界との認識の循環によって形成されるものだと、私は思う。大きい茫漠とした世界においては、自分とは何か分からなくなるけれど、小さい濃密な世界においては自分を確立しやすい。

自分から他者へ、他者から自分へ、という認識循環の回転数があがるからだ思う。

良い悪いは別にして、自己同一性の不確実さに向き合う誠実さという一点では、村上春樹小説の主人公たちよりオウム信者の方が上だろう。

これは恐ろしい話でね、誠実に自己同一性を確立しようとして、自分の世界を縮小したら、縮小されたところの空白の世界に暮らす人々は、人間としての意味を失い「物」になってしまう。

物だから、殺しても良心の呵責はない。これはホロコーストと同じ構造だよね。ナチスは、ドイツの一体性を願い、ドイツ世界を縮小して、縮小されたところの空白の世界に暮らすユダヤ人を物としてあつかった。

どうすればいいんだ? 

村上春樹のようにオシャンティーを気取るか、オウムのように人の心を失うか。

解決の道筋はないかのように見える。この世界は、自己同一性が社会参加の前提とされているかのように見える。

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大澤真幸 近代日本思想の肖像 の「世界を見る目」という章は、村上春樹の「アフターダーク」についてのの評論だ。 ピントが外れていると思うんだよね。 大澤真幸は「近代日本思想の肖像」の中で、夏目漱石とか丸山真男とか太宰治とか柄谷行人とかを論じて、いいところまでいっていると思うのだけれど、村上春樹についてはかなり甘いのではないかと思う。  この本の前書きに、20世紀は文学から哲学へという流れだったけれども、21世紀に入って哲学から文学へという流れに変わったと書いてある。  全くその通りだと思う。  ならば、哲学から文学に、とくに村上春樹にはもっと切り込まなくてはならないだろう。大澤真幸の村上春樹論は力不足だろう。  そう思って、私は、私の村上春樹論を書いてみた。

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