magaminの雑記ブログ

2017年11月

柄谷行人の言う憲法9条の根拠とは、まず第一に、日本人の江戸時代平和的鎖国の記憶、第二に、「9条にある戦争放棄は単なる放棄ではなく、国際社会に向けられた贈与」というポトラッチ理論、最後にカントの「世界共和国」の3つだ。 柄谷行人の特徴というのは、その論理に飛躍があるということだろう。彼の「日本近代文学の起源」というのを読んだことがあるのだけれど、全ての章が飛躍の結論を待ち構えている。  彼の文章をはじめて読むと、この飛躍がかっこいいみたいになるんだよ。やはり飛躍は飛躍であって、時間と共に釈然としないものがたまってくる。 今回の柄谷行人の話にしても、始めて彼の文章を読む人は感心するかもしれないけれど、慣れている人にとって見れば、またアイツの飛躍かみたいなことになるだろうと思う。  まずカントについて。日本の憲法9条というのは、アメリカから天下ったものであって、日本国憲法草案を作った人の中にカント信者がいたのではないか、というのが流れとしての合理的推論だと思う。 しかし、カントの世界共和国という概念は、哲学というより希望であって、整合性の根拠が全くあいまいなんだよね。このカント哲学の根拠のあいまい性を補強したのヘーゲルの歴史哲学だった。すなわち、カントの世界共和国という観念だけでは、憲法9条を支えるには力不足なんだよね。 憲法9条というのは、カントから来ているのに、カントが力不足というのだから、話にならない構造になっている。  つぎの憲法9条の補強材料、ポトラッチ。私はそもそも思うのだけれど、無条件に他者に贈与すれば、無条件に他者から認められるなんていうお気楽論理がありえるのかな。ポトラッチで二つの社会集団が仲良くなったとしても、そもそもポトラッチ以前に二つの社会集団間に何らかの関係性が有ったと考えるのが普通だろう。大事なのはポトラッチではなく、自己と他者との潜在的な関係性だろう。これもちょっとどうか。   そして最初の江戸時代の平和的鎖国って言うやつ。 江戸時代の鎖国というのは、日本人の無意識でというのではなく、明が鎖国政策をしていたから、幕府もやったということではないのかな。江戸幕府が鎖国政策を敷くにあたって、彼らなりの意識的な損得勘定があったとだろう。時と共に、それらが忘れられていったというだけの話で。 世界帝国に従うのが日本の無意識だということも言えるだろうけれど、それをいったらおしまいでしょう。  すなわち、柄谷行人のいう憲法9条の根拠全ては飛躍なんだよね。

「礼はその奢らんよりはむしろ倹せよ」  
論語 八佾(はついつ)編

ゆずる精神みたいなものは、サラッとやった方がかっこいいよ、という感じだと思う。

「礼にあらざれば視ることなかれ 礼にあらざれば聞くことなかれ 礼にあらざれば動くことなかれ」   
論語 顔淵(がんえん)篇 

こういうのは、例えば電車で変なオヤジ同士のトラブルがあったら無視が一番、みたいな意味で理解していったらいいのではないかと思う。

論語の中には、いくつかの主要概念というのがある。徳、仁、学、礼、君子、道、とか。これらの概念が、互いを互いに補強しあっていると思うのだけれど、この中の「礼」という概念だけは、ちょっと他と違う。具体的なところがある。目上の人の前では小走りに走るとか、親が死んだら3年の喪に服すとか。論語の中では、多くの主要概念が観念的なものなのに、この礼だけが具体的なものであるから、論語の世界観というものは、時代が経過すれば「礼」に引きずられやすくなるだろう。だから、儒教というものは近代において、古臭い前時代の遺物みたいなことになったのだ思う。  

しかし、論語における礼の概念というのは、多くある主要概念の一つであって、その具体性にこだわる必要というのはたいしてないだろう。 

礼を現代的に言えば、例えば、電車では降りる人が優先ですよとか、列に割り込んではだめですよとか、映画館ではうるさくしてはダメですよとか、そういうことなのではないのかな。     

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「我々はより深い必然性の認識に従い、平和主義的おしゃべり連中の空想に抗議する。彼らはまぎらわしいことを言っていても、ほんとうはなお臆病なエゴイストだからである。われわれの理想は、公衆のための個人の献身によって実現されるものであって、臆病な知ったかぶりの連中や、自然の批判者の病的な観念によって実現されるものではない」

人を救うということを、別の言葉で再構成すると、非合理な情念にとらわれている人間を、合理的な言説で説得できるか、というところに帰着すると思う。 これが出来るかというと、正直出来ない。 人が救われるためには、非合理な情念という、おぼれる者のワラを自ら手放し、逆に他者の胸に飛び込むようなある種の飛躍が必要なんだよね。 合理的言説程度の力で、人をここまで駆り立てることは出来ない。 よくいるんだよ、話せば分かる、なんで言わないの、みたいな人が。 愚かだよ。 合理的言説で出来ることは、ワラにしがみついている人をより強くしがみつかせるようにすることだけだ。 私も得意なんだよね、人を救おうとして人の心を傷つけることが。  若い人はいい、生きているものを抱えているから。しかし、年をとるとキツイ、死んだものを抱えていたりするから。 ポイントオブノーリターンみたいなものが人生にもあって、これを越えると、救いの手がことごとく心を引き裂く刃に変わるというのはあると思う。  もし力強い言説があったとしても、ある人には救いであったり、同時にだよ、ある人には心を引き裂く刃ということもありえるだろう。

「行人」を2日で読むんだから、私も暇だよね。 トラック荷物の納品待ちの時間とかで読んじゃう。同僚とかはスマホゲームとかやっているのだけれど、正直あんなものやる気にならない。この世界でショボイのに、架空の世界でかっこつけたって意味ないと思う。  「行人」って、「こころ」と相似形だろう。語り手の目上の人が、ちょっと神経質な人で、その人をめぐる長文の手紙が巻末を飾るという。 「行人」において、語り手の兄である一郎という人物なんだけれど、はっきり言って彼は神経症だろう。正しいことが完璧に社会で行われていないと悩むとか、気持ちは分かるけれども、このようなきっちりした考え方というのは、精神衛生上よくないだろう。そしてこのような考え方を押し付けられる方も迷惑千万だろう。 確かに、文明論的な考え方も出来る。日本は列強の圧迫の中、明治維新以降、植民地化の回避のために戦ってきた。それが日露戦争以後、列強にも日本の実力が認められて植民地化はほぼ回避された。日本の独立という大きい目標が達成された後の時代に、何らかの虚無感みたいなものが現れるということはありえる。日本独立のために頑張っていたのに、独立が達成されたからといって、急に頑張ることをやめることは出来ない。何のために頑張っているのかという疑問が沸いてくるということはあるだろう。 「行人」の発表というのが大正元年だから、このような文脈で語り手の兄である一郎という人物を判断するということは可能だろう。  目標なしで頑張りすぎで精神衰弱になったみたいな話だ。  この論理を「こころ」に当てはめてみる。「こころ」という小説では、「先生」自らが自殺の理由を手紙に書く。この「先生」も神経症だろう。神経症患者自身が書いた告白というものは、主観的真実としてはともかく、客観的真実としては認められない。「先生」自身は、その手紙の中で、自分の自殺は20年前に自殺した友人に対する罪悪感だといっているけれど、これは主観的真実であって、客観的真実というのはおそらく、神経症が高じて自殺しようとする時に、20年前に自殺した友人を思い出し、それを自身の自殺の理由だと確信してしまった、ということだろう。神経症が発症して意識レベルの低い状態になると、あいまいなことでも確信してしまうということがあるんだよね。 「こころ」の「先生」の自殺の理由というのは、このあたりだろう。    語り手の兄である一郎という人物、苦しむ彼をみんなで救ってあげようというのが「行人」の結末なのだけれど、はっきり言って彼は救いようがない。彼は自分が救われることばかりを考えている。妻に救われたいとか、弟に救われたいとか、求めるだけで救われるなら誰も苦労しない。絶対即相対とか、チャンチャラおかしい。   経験的に自らを救おうとするものは必ず救われない。人を救おうとするものだけが、救われたり救われなかったりする事実があるだけだ。

半分ほど読んだのだけれど、「行人」は結構面白い。 「行人」の後に発表された「こころ」が、神経症患者の告白本みたいで、ちょっとキツイ感じだったので、「行人」も怪しいのではないかと思っていたのだけれど、そういうわけでもない。   「こころ」の「先生」というのがほとんど理解不能なのだけれど、この「行人」においては、「こころ」の「先生」的な人物の精神状態を解説してくれる主人公が存在している。  これはありがたい話だ。  「行人」の主人公である語り手というのがざっくばらんな常識人で、感情移入しやすい。この主人公が、ちょっと神経症的な兄のフォローをするというのが、「行人」という小説の筋だ。 この兄という人物と、「こころ」の「先生」というのは、同じたぐいの人物だろう。ある種、常識を超えたような考え方をしていて、「行人」の兄の場合は、自分の妻の貞節を弟に二人きりの一泊旅行をすることで試して欲しいと懇願し、「こころ」の「先生」の場合は、妻との三角関係にあったところの自殺した友人への贖罪のために自殺しようとするわけで。 「こころ」の場合は、この「先生」の不可思議な行動を解説してくれる作中人物が存在しないので、「こころ」という作品自体が、分かる人しか分からないみたいなことになっていると思う。 しかし「行人」の場合は、奇妙な言動をする兄の心理を説明させられる弟がいるというのは心強い。 「行人」のなかには、「こころ」を理解するためのヒントというか、ヒント以上のものがあると思う。そういうつもりで「行人」を読んでいる。  「行人」の最初のほうで、主人公は友人の知り合いの女性が気になる。主人公は友人に遠慮して、その女性に一歩踏み込むのをためらう。普通そうだよね。女性はいっぱいいる。人類の半分は女性だ。敢えて友人が気にかけている女性に手を出すこともないだろう。  ところが、「こころ」の「先生」は友人の気にかけている女性に敢えて手を出す。ここまではありえる。青春時代にはよくあることだったりする。それを、20年もたって友人に対する贖罪だといって自殺しようとする。これはない。  この辺の具合を、「行人」は説明してくれているのではないか、と思うんだよね。

休日は、私が家族の夕食をつくることになっている。 子供が四人いる。 長男21歳大学生、長女高2、次男小5、次女小2。こいつらと妻の分の夕食ということになる。 今日は、妻と小5の次男が、子供バスケの県外遠征に行っている。ラインからの報告によると、厚木近辺の高速が混んでいて、帰りが遅めになりそうだという。  高速が混むとか生意気なんだよね。私は岡山の田舎生まれなんだけれど、近辺に名前の付いた道路というのは、国道二号線しかなかった。他の全ての道路は名もなき道だった。鉄道も山陽本線しかなかった。関東に来て思うのは、あの道路がどうだとか、鉄道の乗換えがどうだとか、詳しすぎるだろう。鉄道、道路体系をとくとくと語れることが、何らかの人間的な価値であると無条件に考えているやつが多すぎる。岡山で価値のないものが、東京で価値を持つということは、もちろんありえる。しかし、狭い日本の中で価値が上下する程度のものは、しょせん「惑溺」だろう。  そういえば夕食の話だった。 遠出からいつ帰るか分からない妻と子供のためのメニューというと、お好み焼きがいいのではないかと思う。ホットプレートで、みんなでお好み焼きを焼きながら、旅の想い出を存分に語ってもらう、これはいい。 お好み焼きの作り方なんだけれど、小麦粉400グラムに水を600cc入れて混ぜる。これに、キャベツ1個をみじん切りにしていれて、卵3個を割りいれて混ぜる。 準備はこれだけだ。 あと、焼く時に、はじめに豚バラを焼いて、その上にお好み焼きの種を、おたまで丸くなるように入れて、ふたをする。これは子供たちが、やることであって、私はノータッチ、監督係。 お好み焼きが足りない場合に備えて、焼きそばでも用意しておけば完璧だろう。  それで、8時ぐらいに帰ってきたのだけれど、休ませない。すぐ、「ご飯だよー」って言う。 用意が整っても、お好み焼きが焼けるまではちょっと時間がある。 だから、妻に、「バスケの試合はどうだったの?」と聞いてみる。 「このこさー、ファイブファールもらっちゃって」 とか言っている。 他の子が、「ファイブファールって何?」 とか聞いている。      そのうちお好み焼きは焼けるでしょう。

前編、後編の2部作制で長い映画なのだけれど、暇と心の余裕のある人は十分に楽しめるだろうという、一定レベル以上の映画だったろう。   内容は、基本的に警察ミステリーだ。  (以下の文章にはネタバレがあります)   普通、警察ミステリーというのは、警察と犯人との戦いの話なのだけれど、この「64(ロクヨン)」は、警察、犯人、被害者の三つ巴になっている。 私は、映画という表現形式は、「整合性とその根拠」を必要としていると考えている。警察ミステリーというジャンルの場合、「整合性とその根拠」というのは、近代社会の刑法という形ですでに与えられている。というか、ミステリーというジャンル自体が、近代表現形式の小説や映画に対して「整合性とその根拠」を簡単に与えるために開発されたものなのではないかと思う。   話は戻って、この「64(ロクヨン)」という映画の場合なのだけれど、被害者という視点を導入しているので、単純に法律的正義のみを押し出すのは難しくなっている。代わりに、整合性の根拠を提供しているのが、娘に対する父の愛、ということになる。 被害者は、そもそも誘拐犯に娘を殺される。 犯人は、犯行の14年後において2人の娘がいて、被害者にロックオンされた犯人は、娘を被害者に狂言誘拐される。 主人公の警察官、彼には娘がいるのだけれど、引きこもりの末現在行方不明という。 すなわち、娘を失った、もしくは失いそうな父親たちが、協働して一つの世界を構成しようとしているわけだ。「64(ロクヨン)」という映画世界内では、娘を持つ男こそが価値なんだよ。娘を持たない男は端っこ寄ってろみたいなところはある。  「64(ロクヨン)」という映画の「整合性とその根拠」は、父と娘との関係性としての娘というこになる。 私には娘が二人いる。高校二年と小学二年。たしかに可愛い。かわいいのだけれど、もし私の娘が誘拐された場合、この「64(ロクヨン)」の被害者や加害者のように、全身全霊で私が娘を心配できるかというと、ちょっと疑問だ。現実問題として、娘って神様とかそういうものではなく、普通の人格だ。一緒に生活すれば、トイレに行けば飯も食う、いびきもかけば寝言も言う。 現実に娘を抱えている立場から言えば、この「64(ロクヨン)」という映画は、娘というものを持ち上げすぎているという感覚はある。  まあ、だからといって、娘というものを持ち上げられることが気分が悪いといことでもない。  娘は神ではないけれど、天使ではある。

「巧言令色鮮し仁」(こうげんれいしょくすくなしじん) 

飾る者は仁が少ないという意味。
仁を直接説明するのではなく、仁的でないものをまず排除しようという論語的文章。

学、徳、仁、君子、道などの概念において、それにふさわしくない事象を排除することによって、互いの関係性が、より緊密に循環することを孔子は期待しているのではないだろうか。選ばれた概念の循環が、この世界の秩序をより強固にすることを、孔子は願ったのではないだろうか。  

もし「論語」を、整合性のない教訓集だと考えたとするなら、「論語」にたいした価値はない。
ヘーゲルやウェーバーが、論語を評価しなかったのも、このあたりに由来するだろう。  

しかし本当に「論語」は、整合性のない教訓集なのだろうか?  
私は違うと思う。  
確かに、「論語」の主要概念である、学、徳、仁、君子、道、などのものに明確な定義はない。孔子は、例えば仁を問われた時に、問うた人によってその答えが違ったりしている。 

トータルでどう考えるかということなのだけれど、私は、学、徳、仁、君子、道、などの概念が、個人をめぐって互いに影響しあっているので、一つの概念を一人の個人に一つに固定するということが、孔子には構造的に出来なかったということではないだろうか。  

中国は今では一つだけれど、2500年前は異なっていた。孔子の生きた春秋末期というのは、大国の間に小国が分立するという時代だった。これって、今の世界と同じだろう。  

このようにある世界が、どのように秩序を維持できるのか。 これについての渾身の言説が「論語」だと思う。 「論語」とは、この線に沿って読まれなければならない。  
ヘーゲルやウェーバーは、こういうことを言うとなんなのだけれど、ちょっととろかったね。中国古代をなめすぎだ。同時に古代ギリシャを持ち上げすぎた。

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休日は、私が家族の夕食をつくることになっている。 子供が四人いる。 長男21歳大学生、長女高2、次男小5、次女小2。こいつらと妻の分の夕食ということになる。  今日は餃子にした。できるなら避けたいメニューだ。なんせめんどくさい。 つくるのに1時間弱かかる。 はるか昔、妻と付き合っていたとき、機嫌をとるために下宿によんで、手作り餃子を何回か作ったことがあった。 それをあいつ、いつまでも覚えているらしく、「夕食、なにがいい?」と聞くと、「餃子、餃子」 とうるさいぐらいだ。   スーパーにいって、大判餃子の皮20枚入りを2つ買う。40個も作ればいいだろう。あと、ひき肉を400グラム、小さめのキャベツ1個、あとニラを買おうと思ったのだけれど、1束198円もする。 ニラはなくてもいいだろうということでパス。  キャベツをみじん切りにして、ひき肉と混ぜる。キャベツの代わりに白菜でもいいのだけれど、白菜だと塩をふって水をしぼらなくてはならなくなる。これをやらないと、水分たぷたぷ餃子になる。 餃子の種に調味料を入れる。これは何でもいい。今日は、ソース、酒、胡麻だれ、ポン酢、豆板醤、塩、を入れた。整合性とかない。余ってるやつを使おうというリサイクル精神だ。  後は皮に包んで焼いて蒸す。 焼く時にだいじなことは、フライパンいっぱいに餃子を敷き詰めてはいけないということだ。だいたい家で作る餃子なんて、焦げ付くものであって、最後に鉄のへらで下からこそぐ必要がある。こそぐためには、へらを差し込むための空間がなくてはならない。家庭用のフライパンだと、一回につき餃子10個が適数ではないだろうか。  今回は40個作ったので、焼きは4回転した。 私なんか、焼くのが忙しくて、台所で立って食べてる。食べながら焼いてるみたいな。  忙しいよ。  ある意味これは呪いだと思うね。安上がりに女の子の気を引こうとした呪い。

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