magaminの雑記ブログ

2017年10月

ヘーゲル「歴史哲学講義」の中にこのようにある。

「世界に生きる主観として全体の動きに関心をもち、一般的な目的にしたがって行動し、法律を理解し、そこに満足を見いださなくてはならない」

このようなレベルの国民が現れるためには、かなりの歴史の積み重ねがなくてはならないとヘーゲルは言う。

国家と個人の一体性が互いに強化しあうような社会というのは、ついに近代ヨーロッパに現れたところの、ハイレベルな世界観だという。

ヨーロッパ中心主義だとは思うけれども、西洋の威力の中でもがいた日本の近代の事を思い返すと、一概にヘーゲルの言説をヨーロッパ中心主義だといって否定することも出来ない。  

しかし、そのようなことを考える時、福沢諭吉のことを思い出す。一体彼はどこから現れたんだ?  

一身独立して、一国独立す。 上の人間にペコペコして、下の人間に威張り散らすようでは、人格が確立しているとはいえない。そんなゴム人間が形成する国家というものは、他国と伍して独立を保つというのは難しい。

福沢諭吉は、このようなことを言っていた。これが共感を呼んで、「学問のすすめ」は、明治において空前のベストセラーとなった。

ヘーゲル流に考えれば、日本には明治初期にはすでに、ある程度の共同体意識と平等意識というのが、すでに存在していたということになる。
さらに言えば、共同体の善意と、それを信じる強い個人のセットというのが、日本には少なくとも明治初期にはあったということになる。

近代世界へのレールというのが存在していたわけだ。その後の日本の歴史がそれを証明した。 
結局、ヘーゲルの歴史哲学の枠組みというのは、ちょっと大げさだった、ということはいえるのではないかと思う。


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ニーチェ以降の実存主義系統の哲学者が目指した 「近代の世界観を相対化する」 とは結局どういうことなのか。結論から言うと、近代世界というのは、当たり前に存在するのではなく、人間存在に関する一つの前提があるということだ。ある世界観に前提があるということは、その前提を変えれば世界は変わるだろうから、前提を発見するということは、世界を相対化するということになる。  では、私たちのこの世界の前提とは何か?  それは、自分が自分であること、自己の一体性、自分と他人とは明確に異なる、などの自己同一観念は当たり前であり、人間なら誰もが持っているはずだという信仰だ。  このような信仰から、民主主義や人権観念というのは発生している。人間は成人になると、自然と自分が自分であると認識するようになり、少なくとも最低限の大人にはなる。だから、成人にはほとんど無条件に政治参加の機会や基本的人権が認められているわけだ。  このような世界観というのは、一つの見識ではあると思う。この世界の前提を発見したとしても、とりたててこの世界の整合性に不都合がないのなら、その前提をそっとしておくという考えも成り立つ。  しかしなかなかそういうわけにはいかない。  この世界の弱点というのは、「自分が自分である」ということが当たり前になっているから、「自分が自分である」ための訓練などというものはしない。よって、自己同一性の怪しいようなやつまで、ジャンジャン同じ社会に参加してくる。この社会というのは、「自分が自分である」ということが前提されているわけだから社会的プレッシャーがきつめで、脱落者が多く出る。社会から脱落する同胞が多くなれば、それだけ社会の生産性は落ちてくる。それでいいのかという議論は当然でてくる。 これがニーチェの、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということにつながってくる。この問題を大きく解決しようとしたのがヒトラーだ。ヒトラーは、自己の同一性なるものは無条件に与えられるものではなく、自らが勝ち取るものであると、国家がその枠組みを与えるべきだと主張した。このような枠みにそって、ヒトラーの「わが闘争」のなかには近代世界観を相対化し、さらにドイツのニヒリズムを克服するためのアイデアが多数存在している。  ニーチェは、ニヒリズムを克服するために「力への意思」という漠然としたことを主張したけれども、ヒトラーは、ワイマールのニヒリズムを克服するために、国家の一体性、個人の一体性の強化を主張した。「力への意思」というものを、一体性への志向と理解したのだろう。ヒトラーの論理は正しい。近代以降、個人の人格の一体性が空洞化しつつあるから、そのあたりを国家主導で再編成しようというわけで、きわめてわかりやすい論理に帰着する。  ヒトラーは個人的には失敗したのだけれど、ニーチェの思想を現実の政治世界で実践して、現代にまで総力戦思想という巨大な影響を及ぼしている。  ニーチェとヒトラーを切り離してしまうと、哲学のみを論じるアカデミズムにとっては快適かもしれないが、ニーチェそれ自身の価値というは、極端に低下すると思う。

本を漫然と読んでいたのでは、理解できるものしか理解できないということになる。 これは対人関係も同じで、漫然と人と接していたのでは、仲良くできる人としか仲良くできない。 ではどうすれば、理解できない本を理解し、理解できない人を理解することが出来るのか。  まず自分勝手な論理を展開しているだけでは話にならない。相手の世界観に飛び込んで、相手を内側から理解しようとする知的献身が必要だ。次に、相手の世界観を自分の世界観にひきつけるという、知的腕力が必要だ。 この知的献身と知的腕力を交互に実行してみる。分からなかったことが、だんだん分かるようになってくる。  この作業における前提というのがあって、まず自分の自己同一性というのが確固としていなくてはならないということ。 相手の世界観に飛び込むのも、自己同一性がしっかりしていないと、相手の世界観の中で自分が溶けてしまうということもありえる。相手の世界観を自分にひきつけると言ったって、自分というものがしっかりしていないと、引き付けられるわけない。  ではどのようにしたら自分の自己同一性が強化されるのか。  自己同一性とは、自分にたいする自信みたいなことになるのだろう。 普通、自分にたいする自信というものは、何らかの成果によって、すなわち勉強が出来たとか運動が出来たとか親が金持ちだとかという周りからの評価によって培われがちだ。 しかしこの程度の自信、この程度の自己同一性では、理解できない本を理解する、というところまで行き着けないと思う。 結局問題は、自分の自己同一性というのをどのように強化するのかということになるのだけれど、これが難しい。 自己反省による日々の訓練が必要なのだろうが、自力でこのような訓練が出来る人間というのは、そもそもがかなりのハイスペック能力の持ち主であって、誰もが真似できるというものでもないだろう。  まあ、ちょっとづつやっていくしかないわけで、死ぬまで探求だね。

日本において、戦後からバブル崩壊まで、なんというか個人の一体性が共同体の一体性を補強するという流れがあったと思う。個人の意見の総体を、知識人が集約して政府に伝えるみたいな。  そのような状況においては、マスコミの威力は大きい。民意をバックにした権力の一角といってもいい。  しかし、小泉政権あたりから流れが変わったことが明らかだろう。 国家の一体性を、国民に付与していくというスタイルで、個人から国家という流れから、国家から個人という流れに変わった。  安倍政権は、この流れの変化を明確にアピールしている。  流れが変わって困るのが、マスコミやそれに連なる知識人だろう。 今まで知識人とは、民意を集約する知の結節点だったのに、安倍政権下においては、もっともなことを言っているつもりの全く共感できない人々というポジションになってしまう。  これはマスコミや知識人の死活問題であって、強力に反安倍を掲げるのもしょうがないだろう。   まあでも、一般国民には関係ないわけで、無視するに限る。からまれてもメンドクサイし。

ヘーゲル的世界観とは、個人の一体性と国家の一体性が、互いにフィードバックしあって互いに強化しあうという世界観。

一体性というものが価値を持つ。一体性こそが正義であり、良心の源泉となる。

個人の一体性が国家の一体性を強化するターンと、国家の一体性が個人の一体性を強化するターンが繰り返すのだという。
近代日本で考えれば、40年サイクルだろう。明治維新から第一次世界大戦終結までが、個人の一体性が国家の一体性を強化するターン。そこから太平洋戦争敗戦までが国家の一体性が個人の一体性を強化するターン。敗戦からバブルまでが、個人の一体性が国家の一体性を強化するターン。バブル崩壊から現在まで、国家の一体性が個人の一体性を強化するターン途中。

景気のいいときは個人が主導し、景気の悪い時は国家が主導するというパターンで、日本は現在2週目となる。

ヘーゲル的世界観においては、この周回を重ねるごとに、国家と個人の自己同一性は高まっていくということなのだろう。

最近思うのだけれど、このようなヘーゲル的観念というのは、訓練みたいなのが必要なのかなって。観念に観念を重ねているわけで、はっきりした根拠というのはないんだよね。材料から物を作るみたいな、確固とした手触りがない。しかし実体がないとしても、自分の自己同一性を意識すれば、たとえ無からでも意味というものが立ち現れると思う。

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「歴史哲学講義」でヘーゲルは世界史における精神史というものにチャレンジしている。これは巨大なチャレンジで、ヘーゲルの時代水準を考えると、哲学史上の頭抜けた業績だろう。世界のそれぞれの文明を、内部から再構成しようというというのは、誠実な知的作業だと思う。ヘーゲル哲学は、誠実で巨大で知的で、方向性としてはすばらしい。

ただその具体的な内容となると、疑問はある。

人間の精神レベルというのは、東から西に行くほど高くなるとヘーゲルは思い込んでいる。中国からインド、ペルシャ、ユダヤ、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ、とだんだんと人間の程度が上がっていくという。中国は民度、最低レベルだから。日本は言及すらない。 

19世紀前半、ヨーロッパはすでにインドまで支配していた。ヘーゲルは、中国がヨーロッパに支配されるのも時間の問題だろう、とこの本の中で言っている。ヘーゲルの論理からすれば、当然だろう。東に行くほど人間の精神力は薄弱になるのだから。

ところが実際はどうだったか? 

中国はギリギリのところで植民地支配を回避して、現代において巨大な経済大国として勃興しつつある。はっきり言えば、東アジアに何らかの精神的な底力があったことは明らかだろう。 

ヘーゲルのどこが間違っていたのだろか。私は、ヘーゲルの考え方に問題があったのではなく、その知的誠実さに足りないところがあったと思う。ヘーゲルに知的誠実さに足りないとするなら、私たちにはなおさら、知的誠実さが足りないということになりがちだろうということは、簡単に推測が出来る。

ヘーゲルでさえ、未来を予測することは出来なかった。予測をゆがめるバイアスというのは、いたるところにある。

未来は予測できない話。

昔、もう25年ぐらい前か、私は大学に通っていて、名古屋の今池というところで下宿生活をしていた。彼女が遊びに来て、くだらないぐだぐだ喋るから、ヘーゲルの精神現象学を読み出した。そしたら彼女、怒って、「私よりもヘーゲルのほうが好きなんでしょ」みたいなことを言う。否定も出来ないから黙っていたら、さらに激怒するし。


その彼女と結婚して、20年たつのだけれど、喧嘩をするといまだに、「あんたはヘーゲルでも読んでればいいのよ」 と言われる。本当にその通りだな、と思う。

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ヘーゲルは「歴史哲学講義」の中で、中国の精神状況、さらに言うなら、中国人の自己同一性について描写している。どうせヘーゲルは中国の事なんて知らないだろうと思っていたのだけれど、これが結構的確だ。

ヘーゲルは19世紀前半の人で、中国なんてヨーロッパとは一番関係性の薄い地域で、ヘーゲルといえども世界史全体をカバーするというのは難しいだろうと思っていたのだけれど、これがそうでもない。細かいところを突っ込もうと思えば出来るだろうけれど、大筋では間違っていない印象だ。

ヘーゲルの歴史哲学とはどのようなものかというと、人間の自己同一性がある一定レベルを超えると、その人間の集団が「国家」という整合性をもった統一体を形成する。整合性を持った国家は、その成員をより自己同一性を持った人格に陶冶する。人格の陶冶された国家の構成員は、国家という集合をさらに整合性を持ったものへと再編成する。

すなわち、国家と国民個人というのは、その一体性において互いにフィードバックしあい、それぞれの一体性を強化しあうような関係にあり、これをヘーゲルは進歩と考えている。

国民から国家へ、国家から国民へ。互いにその自己同一性を高めあう。もしかしたら、そういうことってあるかも。

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「歴史哲学講義」の序論まで読んだ。 読んだのはいいのだけれど、47歳にもなってヘーゲルを読んで、何なのかって思う。そもそも今、ヘーゲルなんて読んでるやついるのか。

年をとるとエネルギーがなくなる。若い時は徹夜でゲームとかやっていたけれど、もう全くゲームなんてやる気にならない。音楽も一切聴かなくなった。ブルーハーツとか好きだったのだけれど。

ただ残ったのは、古典を読むという、これだけだ。ヘーゲルを読んで新しい発見が出来れば、また明日生きる意味が立ち現れるだろうみたいな。

「歴史哲学講義」なんだけれど、ヘーゲルにしてはすごく分かりやすい言葉で書いてある。学生向けの講義録みたいな感じで、これでヘーゲルを理解できなければ、救われないだろうという、逆にハードルがあがる感じ。

内容を私なりに解釈してみる。

ヘーゲルは、近代において人間は自らの自由を認識するにいたったという。近代人には、自由というものが無条件に与えられているとするなら、これは自由主義だ。ヘーゲルは、自由主義を根本に論理を展開していくのかと最初思った。読み進めると、ちょっと違うなという。

自由とか正義とか、このような概念は、何らかの実体があるというものではなく、自己の一体性が確立した所に立ち現れるメタレベルの概念なんだよね。自由や正義を人間が認識するためには、その前段階として、何らかの価値体系が必要だ。だから自由主義の自由や正義感というのは無条件に与えられてあるという考え方は、そもそも間違っている。

このへんをヘーゲルはどうするのか、と思ったのだけれど、さすがヘーゲル、歴史哲学とは歴史を前提とした哲学であって、歴史を持たない人間集団は歴史哲学体系から排除するという。

すなわち、歴史や国家を持った民族は、ある一定の自己同一性を備えているはずだから、その前提条件を持ってヘーゲルは歴史哲学を語ろうというわけだ。

エリートの哲学だな。
エリートの哲学というと、ヘーゲルには申し訳ないような。

ヘーゲルは出来るだけ誠実な語り口で、個人の自己同一性が、国家の自己同一性へと展開していくはずだという。 だから、個人の自己同一性の実現というのは、ヘーゲルの願いなんだと思う。前提ではなく祈り。

誠実な哲学者には、その論理のどこかに祈りがこめられているものだ。

自由主義は個人の自己同一性に依存している。個人の自己同一性が祈りであった時は、自由主義には力があった。しかし、個人の自己同一性が自由主義の前提となったとき、リベラルは力を失い始めたのではないだろうか。

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私たちは、現代小説や映画を、面白いとかいまいちだとか判断している。しかしいったい、私たちは、どのような基準で判断しているのだろうか。 無数の判断基準があるような評価だろうけれど、私はそうは思わない。 面白いかどうかを決定するような、価値基準のヒエラルキーがあると思う。役者の演技などというものは、このヒエラルキーの下のほうの価値基準だろう。だからこの「3月のライオン」という映画で、神木という主人公役の演技というのは、作品自体を評価するに当たって、たいした問題にはならない。  では、現代小説や映画において、評価基準ヒエラルキーの最上位とは何か。  はっきりいってしまえば、物語の整合性とその根拠が表現できているかどうか、ということだ。  なぜ面白さに、物語の整合性とその根拠が必要とされているのか、というと、結局この近代世界の成り立ちとそのあり方みたいな、ちょっと難しい話になってくると思う。  そして、「3月のライオン」 についてなのだけれど。 プロ将棋世界という限られた世界の話で、なおかつ主人公は奨励会をすでに中学生で突破しているという設定で、この映画においては、世界の整合性とその根拠というのが、ほとんどすでに与えられているという。  主人公が苦境に陥っても叫んでも、安心して観ていられる。現代の水戸黄門時代劇みたいなものだろう。  まあ、ずるいっちゃあずるいんだけど、チャレンジするだけが映画じゃないと思うし、いい意味で一般ウケするなら、それでいいという考えもありえる。

現代日本では、国民は働かなくてはならないという強力なプレッシャーがある。日本国憲法には勤労の義務が明記されているし、「働かざるもの食うべからず」などということわざモドキみたいなものもある。働かないと、親や親戚や友達からも冷たくあしらわれ、全方向から半人前扱いされる。  何故なのか?  働くことは当たり前のことだと思いがちなのだけれど、実はそうではない。発展途上国などでは、食べれるだけの最低限の労働をすれば十分なんていう考えのところも多い。現代先進国は、労働ということに関して、強力に持ち上げられている。  何故なのか?  ニーチェは「曙光173」で、「労働の賛美者」という題目で、近代の労働をこのように相対化している。  「労働は最上の警察であること、労働は各人を抑制し、理性や、熱望や、独立欲の発展を強力に妨害することを心得ていることである。なぜなら、労働は以上に多くの神経力を消耗し、これを、熟慮や、沈思や、夢想や、関心や、愛や、憎しみから奪い、小さな目標をいつも眼前に置き、たやすい規則的な満足をかなえてやるからである。こうして、たえず苦しい労働が行われる社会は一層安全になるであろう。つまり安全が現在最高の神性として崇拝されるわけである」   すなわち、労働の価値を持ち上げるということが、社会の秩序の根幹であるという。近代世界は、まあ様々な仕掛けで秩序が維持されていて、その一つが勤労だというわけだ。西洋の残酷さを感じる言説とその相対化だと思う。   孟子も同じようなことを言っていた。「恒産無くして恒心なし」 ただし東洋はやさしい。孟子にはこのような付言がある。  志があっても、状況によって働かなくてはならない状況になれば、出来るだけ軽い仕事につけばいい。例えば門番とか夜警の仕事とか、だって。孟子は、うまいことを言う。   相対化って、相対化されたものをさらに相対化するっていうこともありえるんだよね。 

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