magaminの雑記ブログ

2017年10月

主人公のカストルプ青年は、セテムプリーニにこのように語る。 「つまり、病気と愚かとではぴったりとしません、しっくりしません。私たちはこの2つを結びつけて考えることをしていません。愚かな人間は健康で平凡でなくてはならないし、病気は人間を洗練し、賢くし、特殊にするはずだと考えられています」  そういえば昔、結核信仰というか、結核はかっこいいみたいな風潮があった。現実の結核というのは悲惨なのだけれど、イメージとしてね。 これは日本においては、徳富蘆花の不如帰(ほととぎす)あたりから始まったのではないか思う。 現代文学で言えば、「ベルサイユのバラ」のオスカルも結核だった。文学作品に出てくる結核というのは、単に死のフラグであって、実際に結核自体で死ぬことはない。 病気、結核、という観念と、洗練された知性というものが、つながっていたんだよね。この二つには普通に考えれば断絶があると思うのだけれど、この相容れない「結核」と「洗練」を結びつけたのは貴族性だと思う。 連想ゲームというわけではないのだけれど、「結核」~「療養」~「閑暇」~「貴族」~「洗練」 みたいな。 結局どういうことかというと、貴族のイメージというものが過大に評価されていたということだろう。このような貴族の残滓は現代にも残っていて、高級車とか高級ブランドなどが売れ続けるのも、同じ文脈だろう。   カストルプ青年は、おかしげなことを言っているようで、実は誰もがとらわれている奇妙なこだわりを告白しているにすぎない。  これに対してセテムプリーニは、敢然と反論する。  「病気は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが病気であり、病気に導く考え方です」  まあ、正論だね。  言葉を入れ替えれば、同じ正論をいくつか作れる。  「暇は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが暇であり、暇に導く考え方です」   「高級車は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが高級車であり、高級車に導く考え方です」   「ブランド物は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものがブランド物であり、ブランド物に導く考え方です」   カストルプ青年とセテムプリーニとの間には、世界観の対立みたいなものがある。まだ物語は始まったばかりなのだけれど。

関連記事

トーマスマン 「魔の山」 カストルプ青年はどんな教養を獲得したのか



「魔の山」は1924年出版だが、内容は第一次世界大戦前(1914)という設定になっている。

トーマスマンは主人公のカストルプ青年を平凡だという。

では平凡とは何なのか? トーマスマンはすばらしい答えを用意していた。以下に引用するが、注意深く読んで欲しい。

「私たち人間は、個人生活を営むだけではなく、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な基礎を自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じることは、大いにありえることである。私たちの全ての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から納得できるだけの答えを与えられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にもまれな英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。カストルプ青年は、そのどちらも持ち合わせていないといういみで、やはり平凡であったと言うべきだろう」   

全く明快な凡庸についての定義だと思う。  

べつに凡庸でも悪いというわけではない。「なんのために」と問いさえしなければ、一つの世界を絶対だと思って暮らして死んで、何の問題もない。しかし、「なんのために」という問いにとりつかれたなら、2つの世界観が必要となるだろう。福沢諭吉みたいに、「一身にして二生を経るが如く、. 一人にして両身あるが如し」のような。    

蓮實 重彥の「凡庸な芸術家の肖像」という本を昔読んだことがあるんだけど、この凡庸な芸術家というのは、マキシム.デュ.カンという人のこと。 

蓮實 重彥はマキシム.デュ.カンの凡庸さを延々と書いている。では、マキシム.デュ.カンは誰と比べて凡庸なのかというと、フローベールに対してなんだよね。しかし、フローベールの非凡さを書かずしてフローベールの友人の凡庸さを長々と描くなんて、蓮實 重彥ってもったいぶらせすぎるだろう。ちょっとはトーマスマンの率直さを見習ったらいいと思う。 蓮實 重彥は最近、フローベール論というのを出したらしいけれど、ちゃんとフローベールの非凡さ、すなわち、フローベールの2つの世界観を説明しきっているのだろうか。

関連記事

トーマスマン 「魔の山」 カストルプ青年はどんな教養を獲得したのか


休日は、私が家族の夕食をつくることになっている。 子供が四人いる。 長男21歳大学生、長女高2、次男小5、次女小2。こいつらと妻の分の夕食ということになる。  何でもつくっていいというわけではない。まず、子供が喜ぶようなものでなくてはならない。 あと、冷蔵庫の残り物をある程度消化しなくてはならない。今日は期限の切れそうな牛肉バラと、シンクに転がっているたまねぎ半分、あとキャベツ4分の1がノルマだ。 さらに簡単に出来るやつ、私も馬鹿げた暇人というわけではないから、夕食の準備に何時間も使うというのは勘弁して欲しい。出来るなら30分ぐらいをお願いしたい。  近所のスーパーに行く。今日は雨なんだよね。次男は妻と一緒にバスケの試合に遠征だ。長女は塾。長男はバイトかも。次女は私と一緒に留守番だ。 みんな雨に濡れて帰ってくるだろうから、今日は鍋がいい。永谷園の鍋ラーメンシリーズがスープも入っていて楽なんだよね。味が子供向けにアレンジしてあってちょうどいい。 鍋はあったまるよー。 具はね、ひき肉が安いから肉団子だね。 これにキャベツともやしと豆腐とこんにゃくを足せば十分でしょう。  鍋だけだと、5人分だから具材を2回転させなくてはならない。これがメンドクサイ。 あいつらには米を食べてもらわないと。 ということで、牛肉とたまねぎがあるから「牛丼」をつくりたい。しかし牛肉が150グラムぐらいしかない。だから卵で牛丼をとじるという増量作戦だ。卵を3個も入れれば、逆に子供は大喜びだろう。 牛丼卵とじのつくり方なんだけど、これは簡単。鍋に100ccぐらい水を入れる。すぐ火をつけて、たまねぎをざく切りにする。水が沸騰しているとかしていないとか関係なしに、ざく切りにしたたまねぎをぶっこむ。後、牛肉を入れて、牛肉の色が変わったら、砂糖適量、しょうゆ適量、みりん適量、入れて全体が沸騰したら、溶き卵3個分をまわしいれてふたをする。 これだけ。  調味料の適量というのは、自分が食べた時に適量だと思う量ということで、主観的な適量で十分だ。今回は子供がメインだから、砂糖は多めがいいだろう。  20分ぐらいで、したごしらえ見たいなものを終わらしたら、7時ごろみんなが帰ってきた。 鍋に野菜とラーメンをぶっこんで5分ぐらい煮込んで、その間に卵とじ牛丼を作って、「ごはんできたよー」ってみんなを呼ぶ。 なんだか、ワイワイ言いながら食べてるよ。

かるた競技をやる高校生の話だった。 かるた競技には5人の団体戦というものがあるらしく、「ちはやふる 前編」は、その団体戦の結果にいたる描写がメインだった。 かるた好きがそれぞれの力を生かして団体戦を勝ち抜くということが徹底されていて、映画全体の整合性という面では合格点だろう。気になるほどの無駄な描写というのもなかったと思う。 そして、その整合性の根拠というのが「百人一首かるた」であって、これは日本の伝統で、とりたてて根拠の説明というのは必要とされない。  トータルで、安心して観れる映画だということになるだろう。

戦争放棄という概念は、国家権力の縮小を希求するところのものだろう。 そもそも何故、国家というものが存在するのか、さらに言えば、現代において何故、国家なるものが地球を覆ってしまっているのか、ということにもなるだろう。 まあそうなると、話しのレベルが巨大になってしまう。   しかし、戦後日本の憲法9条の議論というのは、そういう巨大な話でもないだろう。おそらく、どうせ政権を取れないのだから国家権力は小さい方がいい、という万年野党情念に従って、憲法9条墨守というのが主張された部分もあるのではないかと思う。そう考えると、野党が政権をとったら、その政権内から9条改正という議論が出てくることは、十分予測できるだろう。  もしかしたら憲法9条とは、巨大な論理の上に立つ崇高な希望の一しずくだったかもしれないのだけれど、それをすくい取ることは出来ない感じだね。人間程度には無理なのかもしれない。

我々はより深い必然性の認識に従い、平和主義的おしゃべり連中の空想に抗議する。彼らはまぎらわしいことを言っていても、ほんとうはなお臆病なエゴイストだからである。われわれの理想は、公衆のための個人の献身によって実現されるものであって、臆病な知ったかぶりの連中や、自然の批判者の病的な観念によって実現されるものではない

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』 1986年発表。 

大江健三郎の出身地である伊予の喜多郡の神話、歴史、を口伝の物語として自身にひきつけ、それを大江健三郎のヒーロー、「いーよー」につなげて行くという内容。

ノーベル賞対象作品というのも、問題ないレベルだと思う。

伊予の喜多郡の山奥の村の、口伝としての昔話に出てくる亀井銘助というのは、深谷 克己の「南部百姓命助の生涯」で描かれている命助を、そのままスライドさせている。
南部百姓命助自体は、明治維新の先駆けみたいな存在だった。

大江健三郎が「命助」をこの物語に採用したということは、何らかの国家主義的な意味を、この物語に練りこもうとしているのだと思う。

大江健三郎という人は、左派の知識人というイメージがあるだろうけれど、私はそうは思わない。強烈に日本の田舎くさいところがある。

彼の小説は、主人公が都会人の仮面をかぶっているというのも多いのだけれど、最晩年にいたって、大江健三郎は土着の日本に回帰してきたのだろうと思う。

喜多郡の農民が大日本帝国に戦いを挑んだからといって、大江健三郎が無政府主義者というわけではない。主人公が暮らす村があって、そこの村人達は独自の神話をもって、一体感の中で暮らしている。 大日本帝国と主人公の暮らす村との対立というのは、大きい一体性と小さい一体性との対立であって、全体と個との対立というものではない。小さい村の一体性というものがあるのなら、それは幸せなことだろうと思う。

私も西日本の小さい街の生まれだけれども、私の子供時代においてすでに、地域で神話を共有するなんていうことはなかった。こんなクソつまらない田舎から早くそとに出たいとばかり思っていた。

たぶん日本のどこでも似たような雰囲気だったと思う。小さい一体性というのは多くの場所で失われた。小さい村の一体性というものがあるのなら、それは幸せなことだろうと、私は思う。
小さい一体性が回復できるのなら、それは悪いことではないし、日本という大きい一体性を特別ないがしろにしてもいいというものでもないだろう。

関連記事





近代世界の強さというのは何に由来しているのかというと、ヘーゲルが「歴史哲学講義」で言うには、
「個体の一体性と、その所属する共同体の一体性とが、互いにその一体性を強化しあうようなシステム」
にあると。

西洋近代は、一体どこからこの観念を引っ張ってきたのか。ヘーゲルも「歴史哲学講義」の最後で、ちょっと言及していたけれども、プラトンの「国家」からだろう。

ヘーゲルはプラトンの正統な後継者といってもかまわないだろう。

「個体の一体性と、その所属する共同体の一体性とが、互いにその一体性を強化しあうようなシステム」があるとするなら、私たちは、例えばだよ、いい車に乗ったり美人の女を連れたりして、自分の強さを外側にアピールする必要なんてない。外界の評価が自分の一体性を支えるなんて、奴隷を意味する。

この近代世界には、自分の一体性が強化されうるシステムがあるなら、この世界は生きる価値がある。


関連記事



もう20年ほど前か、北海道の美瑛の肉牛牧場で1年間働いたことがあった。この前の台風で美瑛川が氾濫危険水域を越えたとあったけど、美瑛川なんてあったかな。うちの牧場の近くを流れていたどぶ川は、あれはただのどぶ川だよね。美瑛川ではないよね。                                                 夏場は観光客が多くて、何回かショベルで丸めた巨大な草の塊をトラックに載せるところを写真に撮られたことがあった。観光客は純粋で、うちの牧場の近くを流れる川のそばで、                              「この川の水は飲めますか?」                                                   と聞かれたことがある。                                                      「やめた方がいいと思いますよ」                                                 とは答えておいた。実際すく上流に牧場があるし。                                      かなり大きい牧場で、短期労働の男の子女の子あわせて15人ぐらいいたかな。みんないい人たちばっかりで、もちろんロマンスなんていうものもある。私もそこで女の子に告白された。私の人生で最初で最後だ。元気で可愛いい二十歳ぐらいの女の子だった。女の子からの告白って、直接というのではなく友達を通してみたいな感じなんだよね。まあ、一回しか体験したことがないから、普遍的なことは言えないのだけれど。                    しかしこれまったくもったいないことに、私はもうすでに結婚していた。妻を川崎に残してひとりで勝手に美瑛に働きに来ていたという。私もクズではなかったんだね、じつは私結婚しているのでごめんなさい、みたいな感じでおつきあいをお断りした。                                                         いろんな人がいた。ただみんな純真でやさしくて。かっこつける必要なんてない、なぜなら世界の中心というのははるか彼方にあって、全くの辺境の地で自分を大きく見せてもしょうがないからね。                                                       北海道の夏は涼しかった。7月には草原に大量の赤とんぼが飛んでいて、                      「もう秋?」  という感じだった。草原というのはたとえではなく本当の草原。牧場が美瑛のあちこちに牧草畑を所有していて、夏になるとその牧草を回収しに行く。牧草といっても見た目はただの草。その草をロールべーラーで丸めて、トラックで回収して回る。私はショベルでトラックにロールを乗せるのをやらせてもらった。トラックも30分に一回ぐらいしか来ない。巨大な牧草畑のど真ん中で、ひとりぽつねんとして赤とんぼを眺めていた。    北海道の冬はクソ寒かった。日中でも氷点下だから、一度降った雪は春まで融けない。樹氷というのも見たけど、別にキレイだとも思わない。これだけ寒いと木も凍るよねと思っただけ。                     冬に牧場の外をショベルで走っていたら吹雪になった。3メートルぐらい先が見えない。世界は真っ白。ショベルも裸ショベルですごく寒い。逃げ出そうかと思ったのだけれど、逃げるところなんてない。何とかショベルで20分ぐらい走って牧場にたどり着いた。                                                    人生には逃げ出すことのできない場面というのがあるんだな、と思った。                      どこでもそうなのだけれど、美瑛の牧場にも奇妙な人というのは一定数いた。                       その筆頭はやはりあののオジサンだろう。私が牧場で働き始めて半年ぐらいたった時、40歳ぐらいのオジサンが牧場に新しく入って来た。身長は165センチぐらいのすんくりむっくりの体型で、目はどんよりしていて性格もかなり気の弱いような感じだった。これだけだと普通のダメオヤジが来た、というだけなのだが、なんとこのオヤジが小学4年生の女の子を連れていた。さらにこの女の子、将来はかなりの美人になるのではないかと予感させるような顔つきで、礼儀正しく性格は控えめ。牧場には従業員のための食事つきの寮があって私もこの親子もここで生活していたのだが、この女の子は食事の後お父さんの夜食のために大きいおにぎりを3つほど握っていた。         牧場の社長には小学5年の孫娘がいて、孫娘と女の子はすぐ仲良しになったみたい。牧場には社長の飼い犬がいて、よく2人と一匹で遊んでいた。この犬には自分の犬小屋の上に登って降りられなくなるという特技があって、2人で我が家の上で遭難した犬をよく助けてあげていた。                                    3ヶ月くらいたって、この親子は突然いなくなった。牧場って楽な仕事ではないから、人が突然やめるということはある。しかし一人者なら話も簡単なのだが、親子2人で日本の辺境を流離うというのはありえるのだろうかと思って

ヘーゲルは「歴史哲学講義」の中でこのように言う。

「精神が無自覚のうちにかかわりをもつ真理が深遠であればあるほど、その場で経験する精神の疎外は深刻なものとなる。しかし、精神はそうした疎外を経てはじめて真の和解を獲得します」 

「真の和解」とは何か? 

結論から言えば、「個体の一体性と、その所属する共同体の一体性とが、互いにその一体性を強化しあうようなシステム」、ということになるだろう。

そのようなシステムがあったとして、そのシステムの中で生きるものにとっては、一体性こそが正義であり、善であり、そのシステムそのものは進歩であるだろう。

ヘーゲルのこのような問題設定というのは正しいだろう。ただ、ヘーゲルが世界史がどのように進歩したかという説明に入ると、ちょっと整合性に欠けたところはあるだろうとは思う。ここのところでヘーゲルを批判してもたいして意味はない。

大事なのは問題設定だから。

私の昔の友達が言っていた、

「自分の人生の難問に取り組むことなくしては、実用的な学問を修めて世の中を渡っていくのは無意味だと思った」 

私も同じように思った。
しかしまずもって、自分の人生の難問とは何か、というのが問題なんだよ。何が分からないのか分からないみたいな。でもなんだか違和感があるっていうか。


「自分探し」みたいな物語があって、そういうことに取り付かれる若者もいたりする。それを否定する大人もいて、諦めることが大人になるみたいな。

ヘーゲルの「歴史哲学講義」を読んで思うのは、その問題の設定は正しい、しかしその回答は疑問だということだ。問題の設定が正しいということは、すばらしいことだ。そもそも誰もが、自分の人生の難問とは何なのかすら分からないのだから。


関連記事



このページのトップヘ