magaminの雑記ブログ

2017年09月

「火をめぐらす鳥」は大江健三郎、渾身の文学だった。



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大江健三郎は、知的障害者の子供が生まれて、この子供を救おうと決心したのだろう。しかし、人を救うとは何か? 人を救うなんていうことはできるのか? 自分でさえ救われていないのに?  

子供とかかわるうちに、いつしか論理は逆転する。

養護学校の泊りがけの合宿に行こうとする息子を心配して、父親は語りかける。

「イーヨー、大丈夫か、一人で行けるか?」

子供は答える。

「お父さんは大丈夫でしょうか? 私がいなくても大丈夫でしょうか?」

救うものが救われて、救われるものが救う、そういうことってありえると思う。

「火をめぐらす鳥」のなかで、「私」は障害者の息子と、死後のそれぞれの魂が、より大きい魂の集合体みたいなものに共に合流することを夢見る。しかし本当のところは、「私」は独力で魂の集合体に合流することは無理だろう、そして息子にそこまで一緒にだよ、自分を導いて欲しいと思っているのだろう。

「火をめぐらす鳥」の最後で、「私」と息子は駅のホームで一緒に倒れて、二人して起き上がれなくなってしまう。「私」は息子に話しかける。

「イーヨー、イーヨー、困ったよ。一体なんだろうねえ?」

息子は答える。

「ウグイス、ですよ」

論理は完全に逆転しただろう。救うものが救われて、救われるものが救う。
渾身の文学だと思う。
でもそうだよね。
人を救わずして、自分だけ救われようなんて、ありえないよなー。


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ベラックワというのは、ダンテ「神曲」の登場人物らしい。
それで、「ベラックワの十年」という短編は、大江健三郎が40歳ぐらいで、ダンテ「神曲」を原文で読むために頼んだ若い女性イタリア語家庭教師に誘惑されるのだけれど、拒否するという話だ。

不倫の誘いをスルーする話だから、別に物語的にはどうということもない。ベラックワとは、不倫をスルーするほどモノグサな自分と重ね合わせるために登場しているだけで、ダンテの「神曲」自体は飾りみたいなものだね。

「ベラックワの十年」は1988年発表。
この短編小説の落ち着きぶりとはどういうことかというと、大江健三郎の小説世界が、イーヨーというヒーローを得て閉じ始めたということになるだろう。

「ベラックワの十年」という短編は、これだけ読んで面白いというわけではないと思うのだけれど、今まで大江健三郎を読んできた人なら、おそらく何か納得するものがあるだろう。  

終わりの始まりだ。

この書評は短編集の書評になっています。


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大江健三郎「河馬に噛まれる/『河馬の勇士』と愛らしいラベオ」という小説は、日本赤軍のリンチ殺人事件での高校生メンバーで便所掃除係りだった少年が、十何年後かに大江健三郎とちょっと文通をして、その後アフリカで暮らしているっていう話だった。

かつて少年だったコイツが、アフリカでカバに噛まれるんだよね。そして現地で「河馬の勇士」という称号をちょうだいしたらしい。だからといって、別に何か冒険が始まるというわけでもなく、彼はアフリカで車の整備なんかをしながら生計を立てるようになる。ぱっとしない人生といえばその通り。唯一つの勲章は、カバに噛まれたということだけ。

大江健三郎の知り合いの女の子が、「河馬の勇士」に会いに行って、大江健三郎の悪口を言う。それに対して「河馬の勇士」はこのように答える。

「大江は大江で自分のカバにかまれているのじゃないか?」

大江健三郎にとってのカバとは何か、というのははっきりとは書かれていないのだけれど、イーヨーのことだと思う。たいした人生ではないけれど、自分の勲章はイーヨーに噛まれたことだというわけだろう。

話の骨格はレインツリーあたりから一貫している。


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大江健三郎の「連作 静かな生活」は、構造的には、「連作 新しい人よ眼ざめよ」と同じ。語り手が、大江健三郎から、大江健三郎の娘に代わっているだけ。知的障害者である長男イーヨーに家族が救われるというパターンに変わりはない。

大江健三郎とイーヨーとは、ちょっとかみ合わないところがあって、その辺のところを長女や次男にフォローしてもらっていた場面がいままで何度かあった。  
今度は長女が語り手で、父親のデリカシーのないところをチクリとやるところなんて、うまいよなーって思った。

長女と次男、長女とイーヨーの音楽の先生との間で、ロシアの「案内者」という映画について、結構長々と喋っていたりする。しかし、このような芸術論はたいして意味はない。そもそも、イーヨーの音楽の先生は、この映画を観ていないのだから。 キリストがどうとか、アンチクリストがどうとか、凡人がぐだぐだ言っているレベルだろう。

いいところは、最後にイーヨーが全部持っていくというやつだね。
それで何の問題もないよ。

私は、大江健三郎を実際に読む前は、彼をとぼけた左翼作家だと思っていた。しかしこのおとぼけけ振りというのは、イーヨーを持ち上げるための演技の可能性が高い。イーヨーを持ち上げることで、他の知的障害者もまとめて持ち上げようということだろう。

はっきり言って、現代社会の知的障害者にたいする扱いはひどい。多くの人が、こんな人間なら生まれてこなかったほうが幸せだったろう、と心の中では思っているだろう。そんな弱い心を、あえてひっくり返そうとするのだから、すごいよ。

大江健三郎を気に入らない人がいるとして、彼が大江健三郎を批判すれば批判するだけ、大江健三郎はぐだぐたになって、そのぶんイーヨーが持ち上がるという、そういうシステムになっている。

渾身の文学だと思う。


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大江健三郎は、デビュー作から、「この世界で人はいかに救われるか」 ということを書いてきたと思う。そして、子供に知的障害児が生まれて、小説のテーマが「この子は、この世界でいかに救われるか」というところに収斂する。 

これは難しい問題で、正直、口に出してはいわないけれど、障害者やボケ老人なんてこの世界にいない方がいい、なんて思っている人はかなり多いと思う。   

しかし「新しい人よ眼ざめよ」で、ついに論理は逆転する。  

学校の合宿に出かけるとき、大江光さんは、父大江健三郎にこのように言う。  

「しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをよく切りぬけるでしょうか?」  

救うものと救われるものとの逆転。  
知的障害者の息子が、戦後日本を代表する作家の父親の魂を救うという。けっして奇跡ではなく、大江健三郎が誠実に子供の声に耳を傾けた結果ではあるだろう。   
「新しい人よ眼ざめよ」のなかでは、大江光さんとの会話以外にも、いろんなことが並立的に書いてある。ブレイクの詩がどうだとか、二十歳のころ付き合っていた女性と20何年か後に再開しただとか、キリストの救いだとか、最後の審判についてだとか。  

まあそのような逸話は、たいした意味はないだろう。いうなれば、大江光さんの言葉の引き立て役ということだ。  

すばらしいよ。渾身の文学だと思った。  

大江健三郎が、反核の言論を唱えたとする。それは核がある世界よりない世界のほうがよりいいという程度の話であって、そこにたいした意味はない。力強い息子の言葉に救われるであろうぐだぐだの父親の役割を果たしているのだろう



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「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」は大江健三郎「新しい人よ目覚めよ」の中の一編。

大江健三郎は、そのデビュー作から、「人はいかにすれば救われるか」ということをテーマとして考えていると思う。1980年代の、「新しい人よ目覚めよ」シリーズでは、知的障害者の長男について書いている。  

読んで思ったのは、大江健三郎の長男の大江光さんは、頑張っているなーということ。  

「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」という小説が、どこまで真実でどこまで脚色か分からないのだけれど、全て真実だと仮定するなら、救われるべきは、大江光さんではなく、大江健三郎自身だろう。

大江光さんには、この世界で生きようとする意志がある。タクシーの運転手に、ぼっちゃんはたいしたもんだなー、がんばってくださいね、と話しかけられたとき、大江光るさんは、
「ありがとうございました。がんばらせていただきます!」 
と答えた。すばらしいよ。   

そもそも、この世界で救われるためには、この世界は生きる価値があると確信させるところの意思の力がなくてはならない。馬鹿でも愚図でも、たとえ障害者でも、この世界は生きる価値があると確信するのなら、その人はいつか救われる。 
しかし頭がよくて、友達が多くて、金持ちだったりしても、この世界には生きる価値があると確信できなければ、そのひとは決して救われないだろう。

以上は、「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」という小説が全て真実だと仮定しての話だ。全て真実ということはないだろう。大江光さんが、赤ちゃんの時に頭を手術する時の家族との会話あたりとかは、大江健三郎が自らを意図的に下げている部分があるのではないか。 
自らを下げて、そして子供を押し上げる。

愛だと思う。

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この映画、ちょっと整合性がとれていない。暴力団があって、主人公は組長の息子に恋人を殺されて復讐を考える。かたやその暴力団に狙い狙われる殺し屋が2人いる。 そして、主人公と殺し屋2人は最後までほとんど接点がない。かといって、真ん中にいる暴力団組織が時間をかけて描かれているかというと、そうではない。  結局。統一性というものがない。主人公パートか殺し屋パートか、どちらかがいらないんじゃないかと思う。  もしくは3部作風にして、1部では主人公パートをやって、2部では殺し屋パートをやって、3部でそれらをじっくり総合するという。これはこれでハードルが高そうだな。  小説が原作の映画なら、もうちょっと統一性というものを大事にしていかないと、観るほうとしても、考えようがない。  殺し屋のキャラクターとか悪くないと思ったから、ちょっともったいない映画だった。

GANTZ:Oはけっこう面白かった。 なにがどう面白かったのかを分解してみる。  ポイントは、主人公の「突き抜けた正義感」と、ぬらりひょんの評価点の100点だ。そして、この二つの条件をどのようにつないで話を収束させるかということにある。巨大ロボットとか、7回クリアの凄腕大阪メンバーとかは場を盛り上げる脇役みたいなもので、ガンツファンなら、この辺の設定をぐだぐだ話すのは楽しいかも知れないが、私は別にガンツファンというわけではないので、GANTZ:Oの核心にいきなり切り込みたいと思う。時間もないし。     ぬらりひょんという妖怪は、人の心が読めるのだろう、人が放つ銃や剣をことごとくかわす。人の心を読むとはどのようなことか、もう少し突っ込んで考えてみる。例えば私が右手を動かそうとして、右手を実際に動かしたとする。右手を動かそうとする心情が意思と名付けられている。では意思以前の心情はどのようになっているのか。おそらく、右手を動かそうか、動かさないでおこうか、動かすにしてもどの程度動かすか、様々な欲情の相克状態だろう。その状態が、何らかの条件で固定されたとき、意識上に意思というものが立ち現れるのだろうと思う。ぬらりひょんは、人間の意志を読むだけではなく、欲情の相克状態から認識している。相手の心の相克状態が確定されそうなにったら、そこに立ち現れるであろう意思と行動を予測するから、ぬらりひょんは相手より早く動くことが出来る。   ぬらりひょんは相手の心の相克状態を認識し、相手の弱い部分を拡大体現することが出来る。GANTZ:Oで、ぬらりひょんは、おじいさんの風貌で現れる。大阪チームの有力メンバーが、まず挑む。ぬらりひょんは女体の集合体に変化してこいつを一蹴する。大阪チームの有力メンバーが女好きだという伏線は映画の中にはなかったのだけれど、漫画の中にはあったのではないだろうか。私は漫画のほうは読んでいないので分からないのだが。  次に西君が、女体の集合体としてのぬらりひょんを倒すのだけれど、ぬらりひょんは牛の化け物として再生し、西君を一蹴する。西君は牛が苦手だったのだろうか。  まあまあ、この辺からなんとなく分かってくるのは、ぬらりひょんの評価点を得るためには、人が再生させたものを倒すのではなく、自分が再生させたものを倒さなくてはならないということだ。西君が再生させた牛の化け物を、7回クリアの男、東八郎?(よく覚えていない)が倒すのだけれど、ぬらりひょんはオヤジの化け物となって東の前で再生する。東はオヤジの化け物に最後優勢になるのだけれど、とどめを刺すことを拒否する。映画では「リスクが高すぎる」と言っていた。リスクが高い、なんていうのはいいわけだね。ぬらりひょんが、相手の弱い部分を拡大して提示する能力がある事を考えると、東は逃げだしたのだろう。  最後は、主人公とぬらりひょんの戦いだ。ぬらりひょんは「神」を自称する怪物に再生している。  私は最初に、この映画のポイントは、主人公の「突き抜けた正義感」と、ぬらりひょんの評価点の100点だ、と書いた。何故ぬらりひょんの評価点が100点なのかというと、自分の弱さに勝つ必要があるからだ。GANTZとはドイツ語で「全て」という意味だ。一撃で100点、ガンツはすべて。100点の試練の中では、弱さこそが試される。   GANTZ:Oの最後は、神と正義との戦いとなる。正確に言えば、「自称神」と「突き抜けた正義感」との戦いだ。主人公の勝った理由は、神に物怖じしなかったということになるだろう。

大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」は以下の小説から構成される連作短篇。


無垢の歌、経験の歌

怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって

落ちる、落ちる、叫びながら

蚤の幽霊

魂が星のように降って、跗骨のところへ

鎖につながれたる魂をして

新しい人よ眼ざめよ


「無垢の歌、経験の歌」は、連作「新しいひとよ目覚めよ」の第一作目。  

1982年発表。   

大江健三郎は、人はいかに救われるか、ということテーマにしていると思う。書記の短編では青年について、レインツリーシリーズでは中年のオヤジがターゲットだったけれど、「新しいひとよ目覚めよ」シリーズでは、知的障害者がいかに救われるかということが問題になっている。  

大江健三郎の長男の大江光さんは知的障害者で、救いというテーマにおいては避けては通れないところだろう。  
大江健三郎は、知的障害者のための分かり易い「定義」の本を書こうとする。例えば、川とは何かとか、足とは何かとか。自分が死んだ後に、息子がじっくりそれを読んでくれればいいと夢想する。 

甘いよ、劇甘だよ。

絶対とはいわないけれども、ほぼ間違いなく、知的障害者は「定義」の本を読んだりしない。
私が働いている会社の隣が、若者の軽度知的障害者の作業場になっている。私は彼らと仲良くやっていて、いろいろ話をしたりすることも多い。彼らは素直ないい子たちで、休みの日は原宿に買い物に行ったり、サークルでバトミントンをやっている子もいる。スマホゲーを無課金で楽しむのが、彼らのたしなみだったりする。しかし彼らは、決して「定義」の本を読んだりしないだろう。それが読めないから、彼らはここにいるのだろう? 

軽度知的障害者の場合、彼らに足りないのは元気だと思う。この世界で生きるんだという、気迫が乏しい。

足りないのは「定義」ではなくエネルギーだ。

大江光さんの場合は、重度の知的障害だから、救われるとか救われないとか考えるにしても、かなりの重さみたいなものを巻き込まなくてはいけないだろうと思う。この「新しいひとよ目覚めよ」という連作は、かなりのチャレンジだろう。

大江健三郎の、このような誠実な精神というのは評価したい。


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「レイン.ツリーを聴く女たち」で、レインツリーとはアンチ近代の象徴だとあっさり断定したのだけれど、今日、「さかさまに立つレイン.ツリー」を読んで、ちょっと待てみたいなことを思った。  

前作の「レイン.ツリーを聴く女たち」は、高安カッチャンというダメオヤジの話だったのだけれど、、「さかさまに立つレイン.ツリー」では、そのカッチャンを評価し始める。
カッチャンの死後に残されたノートにマルカム・ラウリーという小説家の評伝が引用されていて、それを今主人公は読んでいるという。この評伝にでてくる「セフィトロの木」というのが、レインツリーと被っているのではないかという。さすがカッチャンみたいなことになっている。   

マルカム・ラウリーの「セフィトロの木」の概念自体はすばらしい。「さかさまに立つレイン.ツリー」の中で引用されているところをちょっと書き出してみる。   

「カバラの聖なる書物{ゾハール}によれば、神はその世界創造において、かれの存在を10個のセフィトロによって明らかにした。それはプラトンの知的存在に類似しているところの、目に見えぬものと物質世界との間の媒介物である」   

この引用部分は、全くニーチェの香りがする。二元論としての質料と形相をつなぐ者が「セフィトロの木」というわけだろう。すばらしいイメージだと思う。   

ここにいたって、小さい問題と大きい問題がある。小さい問題というのは、主人公はカッチャンの文章を読んでいるのだけれど、カッチャンはただ引用しているだけなんだよね。 大きい問題というのは、マルカム・ラウリーというのは実在する作家だということ。マルカム・ラウリーの「セフィトロの木」と、自分のレインツリーのイメージとかぶせている。ツリーのところしかあってないのではないかと。  

カッチャンの引用が本文中で正当化されたからといって、現実の作家のイメージをオマージュするのが正当化されるかというと、ちょっと微妙だと思う。  

「セフィトロの木」というハイレベルのイメージを導入すると、作品に対するハードルというのがあがると思うけど、そのハードルをクリアーしてのノーベル文学賞なのだろうか。  

この後の作品を読むのが楽しみだ。


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「死者の奢り」 「飼育」 「人間の羊」 「不意のオシ」
「セブンティーン」
「空の怪物アグイー」
「レイン.ツリーを聴く女たち」
「さかさまにたつレイン.ツリー」
「無垢の歌、経験の歌」


「静かな生活」
「河馬に噛まれる/河馬の勇士と愛らしいラベオ」
「ベラックワの十年」
「火をめぐらす鳥」
「大江健三郎自選短編」総まとめ








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