magaminの雑記ブログ

2017年09月

ヒトラーとは何者か、ということを、多くの人は知らないのだろう。ポピュリズムをすぐヒトラーと結びつける人が多い。一度「わが闘争」を熟読してみたらいい。  ヒトラーの思想とは総力戦だ。日本で言えば、高杉晋作や北一輝のようなものだ。高杉晋作は、幕末、長州が絶体絶命の状態になったときに、奇兵隊という制度を導入した。奇兵隊とは農民以下の階層を武士階級に繰り入れるものであって、江戸時代の身分制度を否定する革新性があった。長州の人民の全てが戦うという状況が現出し、第二次長州征伐において長州では、祖国防衛戦争の様相を呈した。こうなると負けようがない。結果、明治維新だ。  ヒトラーの総力戦思想も、枠組み的には同じものだと思う。  ヒトラーは大衆を馬鹿にしていたといわれるけれども、これも違う。ヒトラーは大衆をよく知っていたし、逆に自由主義者を馬鹿にしていた。戦争において、兵隊には様々な階層が強制的に集められる。インテリと労働者など、普通では出会わない人同士が出会うんだよ。勝新太郎の「兵隊やくざ」やレマルクの「西部戦線異状なし」を観てみればいい。 ヒトラーも第一次大戦に従軍したから、様々な人に出会ったであろうと思う。ヒトラーが、大衆に対して何らかの意見を持ったということはありえるだろうが、大衆を馬鹿にしていたということはないね。  普通に考えて、大衆を馬鹿にする度合いというのは、みんなで頑張ろうと考える者より、頑張れる者だけ頑張ろうと考える自由主義者のほうが激しいだろう。自由主義インテリ層というのは、下層階級の人との接点というのが、そもそもあまりないんだよね。小学校の時に変な子供がいっぱいいたナーという記憶があるぐらいではないだろうか。   小池百合子は自由主義右派だね。総力戦思想とはその世界観が根本的に異なっている。

虫の声が、リンリンすごいよ。秋ですなー。日本の秋。  ノーベル文学賞の受賞基準というのも、実はよく知らない。小説が面白いだけなら、東野圭吾もノーベル文学賞候補に挙がっていもいいわけだよね。 そんな話も聞かないし、おそらくノーベル文学賞には、西洋人が喜ぶような哲学的なハードルがあるのだと思う。大江健三郎の場合は、そのハードルをクリアーしたのだろう。 大江健三郎の初期の短編の主人公は、あらゆる価値観を対等だとみなすような、現代風のクールな青年だ。しかし大江健三郎は、このクールな青年が冷ややかに世界を見るというスタイルを早々に放棄して、弱い人間がいかにしたら救われるか、というテーマに移行した。 最後は、日本的な救いみたいなところに行き着いたと思うのだけれど、こういうエキゾチックなところが西洋人に評価されてのノーベル文学賞だと思う。  村上春樹の場合はどうだろうか。ノルウェーの森で、「価値観を対等だとみなすような、現代風のクールな青年」を主人公にして読者の共感を得たあと、後の作品の主人公達は、そこから一歩でも踏み出しただろうか。 私も、そう馬鹿げた暇人でもないから、村上春樹作品を全部読んでいるわけでもないのだけれど、書評レビューを見る限り、村上春樹作品の主人公は、ノルウェーの森からあまり変わっていないのではないかと思う。  小説として面白いものもあるかもしれないけれど、ノーベル文学賞は面白いことが受賞の基準とはならないことが、容易に推測できるし。村上春樹、このままではノーベル文学賞は無理な感じだね。  川端康成から大江健三郎と、西洋における日本エキゾチックのハードルが上がってきているし、このハードルを村上春樹が越えるというのはほとんど無理だろう。

小池百合子の過去の政治経歴や人脈、その支持層から考えて、過去の日本の政党の中から小池新党と思想的に同じものを探すとするなら、戦前の憲政会ということになると思う。

 憲政会を知らない人は、ウィキででもちょっと調べてみて欲しい。 

大正末から満州事変が起こる昭和6年末までの7年間は、ほぼ憲政会の時代だった。例外は政友会の田中儀一内閣なのだけれど、田中儀一は「張作霖爆殺事件」で天皇の直接の叱責を受けるという前代未聞の不祥事で退陣した。  
憲政会のメインの経済政策とはなんだったのかというと、「金本位制」だ。金本位制とは、円相場を金にリンクさせて、さらに円を持ち込むものはいつでも金と交換できる、金の輸出入は完全自由という経済政策だ。結果、通貨の発行量の上限は、中央銀行の金の保有量に依存するし、円相場は金の価値プラスマイナス外国への金の輸送料金内に固定される。  
第1次世界大戦によって世界的な金本位制は停止されるのだけれど、戦後、列強は続々と金本位制に復帰してきた。日本は関東大震災の影響などで金本位制復帰が遅れていたのだけれど、その遅れを強烈に取り戻そうとした政治勢力が憲政会というわけだ。  
金本位制のメリットデメリットというのは、財政政策が縛られているがゆえに過度な国債が発行できないということだ。収入以上は消費しないという、いうなれば健全な中産階級のあり方なんだよ。大きい枠組みで見れば、金本位制とは、健全なブルジョアを保護するためのイギリスの世界政策の一環だったと、私は思う。  
日本も第1次大戦の好景気でブルジョアが勃興して、その勢力が憲政会を支えていたのだろう。  
小池新党とは、憲政会のような思想を持つ政党だと思う。小池新党が政権を取ったとするなら、その経済政策はおそらく、財政均衡、円高、デフレ政策だろう。今は選挙前だから消費税増税延期とか言っているけれども、そのようなことは信じることは出来ない。健全な中産階級の考え方というのは、頑張ったものは報われる、というものであり、このような考え方は、報われたものは頑張ったはずだ、という考え方に容易に転換する。報われたものは頑張ったはずだ、と考える階層は、財政均衡、円高、デフレ政策を潜在的に受け入れやすいだろう。  

今度の選挙では、それぞれが自分の立場をよく考えて投票したらいいと思う。    

憲政会最後の内閣、第2次若槻内閣はどうなったか。1931年9月21日、イギリスが金本位制を再離脱した。当時の若槻内閣の内務大臣 安達謙蔵 はこれに驚倒し、イギリスが金本位制を離脱した今、日本が単独で金本位制を維持する能力なしは明らか、ということを若槻総理に献策するも、総理はこれを拒否。内閣不一致により若槻内閣は総辞職。その後の犬養内閣で、日本は金本位制離脱。  

安倍総理は、明確に総力戦政治を展開している。やっぱり岸の孫だけある。 総力戦思想とは何かというと、一つの結論を言えば、下層階民を持ち上げ、上層階層の頭を押さえつけて、貧富その他の格差を縮小し、日本の一体性を強化しようという政治思想だ。  日本は戦中にその経験がある。  安倍総理の祖父である岸信介は、東条内閣の商工大臣だった。岸は、満州国でソ連の5カ年計画をまねた経済政策を遂行する責任者だった。満州での総力戦プロトタイプの実行者として、東条内閣の商工大臣に押し上げられたわけだ。  日本の総力戦思想は一敗地にまみれた。あの戦争は完敗だった。しかしだからといって、かつての総力戦思想が全て否定されるべきものかというと、私はそうは思わない。アメリカが強すぎた。総力戦を戦った記憶というのは、日本の財産だ。  あの敗戦から70年たって、呪わしい記憶が薄れる中、安倍総理が再び総力戦を呼号するというのは理解しやすいところだろう。  そして、小池新党とは何かというと、総力戦を拒否しようとするものだ。バラバラであったアンチ総力戦の人たちが、小池のもとに集合しようとしている。  では、総力戦を拒否しようとする人たちとは、どのような種類の階層か?  戦中の総力戦で損をした人たちとは、どのような階層かということを考えると分かりやすい。 まず都市部知識層。総力戦時代においては実体というものが重視されて、架空の観念の地位というのが低下する。一番割を食うのが都市部知識層だ。  あと不在地主。 戦後、農地解放というのがあったのだけれど、あれはもうすでに戦中から計画されていた。農地解放は、GHQがやったというより、総力戦思想を持った日本官僚がGHQにやらせたというのが正しい解釈だと思う。 さらに資産家。 戦後、とんでもない財産税がかけられたことがある。累進課税の最高税率90パーセントという全く強力なやつだ。これも農地解放と同じ思想系統だろう。  ある種の人々は、過去の総力戦思想に忌まわしいイメージを抱いているということはありえる。そのような人たちが、小池新党のもとに結集しようとしている。  そもそも、橋本の大阪維新といい、小池の都民ファーストといい、なぜ都市部にアンチ中央、アンチ総力戦の政党が出現するかというと、都市部に、知識階層や高額地主や資産家などが集中しているからだ。  ここはよく考えなくてはならない。流れに流されてはならない。  もし自分を知識階層だとか資産家だとかと思うのならば、小池新党に投票すればいいし、自分を一般大衆だとか無産者だとかと考えるのならば、安倍に投票すればいい。  小池新党に民進党が合流するなら、奇妙な感じはするけれども、話は分かりやすくなるだろうと思う。

平均点以上の映画だろうとは思った。 まず、全体の整合性が取れている。さらに、事件は実は知り合いのフィリピン人の父親を探すためだったという告白で、映画自体の統一性が補強されている。 さらにこの映画の優秀な点は、なぜ統一性が必要なのかという説明のためのセリフが存在するところだ。例えば、主人公の「誇りがなければ、この世界はただ生きるだけになってしまう」 とか、女刑事の「この世界は、生きる価値があるのに」とか。  映画とか小説とかの近代表現形式では、統一性とその根拠が織り込まれていれば、作品として、ある一定のレベル以上になる。  これは別に誰か有名人の受け売りではなく、全く自分で思いついたことで、事実かどうかはさだかではない。しかし経験的に大枠は外していないと思うよ。  この「予告犯」という映画は、統一性とその根拠が織り込まれていて、平均レベル以上の出来栄えであることは基本的にはに保障されている。後は、どれだけ丁寧に仕上げられるかということになるだろうけれど、残念な部分は残る。  主人公は、あれだけ優秀な犯罪計画を立てられるのに、かつての会社でのあの扱われ方というのは、ちょっとずれるところがある。そのずれた部分をかなり長々と描写していたので、二度見る気がしなくなる。シンブンシグループは4人いるのだから、主人公の過去はスルーして、他の3人のことを面白い感じでやればもっと軽いふうになって、安心してもう一度観れる映画になったと思うけれど。     あと最後に、底辺肉体労働っていうのは、あんな過酷なものではないよ。派遣を雇うのも、あまり酷い扱いをすると、派遣の間でブラック情報が回っちゃって、とんでもないのを回されたりするようになる。結果、派遣と雇う側で、ある種の均衡が発生する。これぐらいの仕事にこれぐらいの態度で接すれば、これぐらいのレベルのヤツが派遣されて来るみたいな。

自由主義やリベラルという立場は、物事を合理的に判断しようとする。これは別に悪いことでもなんでもなくて、合理的に判断できる能力があるのなら、その能力を生かして何の問題もない。  しかし一歩踏み出して、この世界は合理的であるはずだとか、自分が合理的であるから他人も合理的であるべきだ、とか考えるようになると、これは政治的立場ということになる。  この世界は合理的であるはずだ、というのは合理的な推論だと考える人も多いと思う。例えば、E = mc2という公式があって、宇宙のどこに行ってもE = mc2は成り立つという推論があるとする。否定の仕様もない、当たり前としか言いようがない。 しかし、注意深く考えると、この推論には一つの前提がある。   何らかの確固とした認識能力を備えた統一体が、E = mc2が宇宙のどこにおいても成り立つということを確認できるはずだという。 このような確信というのは何から来ているのかというと、自分は自分である、という個人的な経験に依存している。 そして、自分は自分であるという確信は、全く無条件に与えられるものだろうか? 明らかに違う。 例えば、分裂病患者は、自分が自分であるという確信を持てずに苦しんでいる。  分裂病患者は極端な例だけれども、人は大なり小なり、自らの人格の統一性に不安を抱くものだよ。  ところが、自由主義というものは、自分が自分であるという自己同一性が、誰にでも近代教育なるものよって与えられるはずだという奇妙な信念を持っている。  近代が始まってかなり時間もたつのだけれど、あのレベルの教育で、誰もが完全な自己同一性を持てるはずだと考えるなら、そいつはかなりおめでたいだろう。  すなわち、自由主義というのは、別に何らかの真理を体現しているわけではなく、ある程度のプレッシャーのもとでも自らの自己同一性を保てる人格的強度を持つことのできる人間集団を意味するに過ぎない。そのような人間集団が、無条件に価値を持つというわけではなく、その価値判断は、所属する社会の趨勢に依存する。    前置きが長くなったのだけれど、清沢 洌の「暗黒日記」はかなり優秀で、かつ条件に恵まれた言説だから、これをこのまま信じると、ほとんど洗脳みたいなことになりかねないことを心配した。

清沢 洌とは戦前の外交評論家であり、その日記はリベラリズムの一つの頂点とされている。  リベラルとは何かというと、近代世界において、進歩の潮流の中、人は教育によって救われるという考え方だ。一つの見識だと思うし、この原理によってすくわれたという人は、ある一定数いるだろう。 しかしリベラルの論理は、この世界に深く浸透して当たり前の事とされる場合が多い。これが我慢ならない。  仕事でよくあるのが、自分の考える知的レベルに到達していない人を簡単に否定してしまうという場面だ。合理的なことさえいえば、誰もが理解して当たり前だという奇妙な前提を振りかざす。  言えば分かる、なんていうことが常時実行されるのなら、神経症患者なんて存在しなくなるだろう。必要とされているのは、自分の世界観ではなく、自分と相手とを巻き込む所の世界観なんだよ。  一つの確固たる世界を、誰もが同じように認識するべきだというのであれば、それはリベラルの堕落だ。世界を簡単に考えすぎている。   清沢 洌は、日記を読む限りかなり上等の人物だとは思うけれど、リベラルの堕落に片足を踏み込む場面もある。1943年5月31日の日記、「もっとも一般民衆には、そんなことは疑問にならないかも知れぬ。ああ、愚民なる大衆」。  総力戦とは、この愚民も巻き込んで戦わなくてはならないのではないのか? こじゃれた会社なら、使えないやつは切り捨てればいいよ。しかし、日本が、愚民だからといって、日本人を切り捨てることは出来ないだろう? 日本の一体性を再生するための総力戦だろう? 必要とされているのは、日本の一体性を補強するためのギリギリの言説であって、教育によって誰もがインテリになるべきだなどという、馬鹿げた単純性ではない。

「大江健三郎自選短編」のあとがきに、大江健三郎は自らの短編を、その古い順番で読んでいくと、戦後日本の精神史になっていると書いてある。   

大江さん、またまたご冗談を。  

大江健三郎の小説世界は、精神史とは対極にあるだろう。精神史とは、イデオロギーの遍歴に伴う時代の雰囲気の変化の記述方法であって、大江健三郎の小説世界の本質とは何の関係もない。  

では、大江健三郎とは何者か。 

大江健三郎の小説世界の本質は、救うものと救われるものとの「いれかわり」だと思う。これは日本の古い記憶だよ。

和辻哲郎は、「日本神話においては、祭られる神は同時に祭る神だという性格をどこまでさかのぼっても備えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる」と書いている。ここにおいては、祭られる神は同時に祭る神であるという構造が重要なのであって、いかに祭られるかということは重要ではない。祭る方法というのは、その時代の様々なイデオロギーを採用して問題なし、という態度だ。  

大江健三郎の小説世界は、この日本神話の方法論をそのまま採用しているだろう。彼の小説の中では、西洋の洒落た作家、詩人などが引用される。ダンテ、ブレイク、マルカム・ラウリー。しかしこのような言説は、体系となって大江作品の根幹を支えているというわけではなく、日本神話特有の空洞を埋めるための素材の単なる集合に過ぎない。飾りみたいなものだ。  

当たり前の話であって、大江健三郎の小説世界の本質が、「自分」とイーヨーとの関係性にあるとするなら、ダンテやブレイクの言葉がイーヨーに届くはずはない。イーヨーは難しい論理を必要としていないのだから。  

「火をめぐらす鳥」という短編の中で、大江健三郎が、幼いイーヨーを肩車して林の中を散歩する場面がある。

イーヨーは知的障害者で、いまだ言葉を発しない。鳥が鳴いていて、大江健三郎は「何の鳥が鳴いているんだろうね」とひとりごちた。すると天空から、

「それは、クイナです」

という声が聞こえた。イーヨーが始めて喋ったという。 

これって、日本書紀にも同じような話があったと記憶する。私が日本書紀を読んだのもかなり前だから、どこにこの話があったのか指摘することも出来ないのだけれど。 
大江健三郎は、ブレイクについては語るけれど、日本書紀については語らない。  

明らかだと思う。  

大江健三郎の小説世界の本質は、古い日本の記憶の側にあるだろう。  
大江健三郎の出身地というのは、伊予の喜多郡の北東部。もう土佐に近いところだ。宮本常一の「土佐源氏」を読んでみてほしい。西日本を高みから見下ろす秘境みたいな場所だ。 
大江健三郎という作家は、戦後日本の都市中産階級を代弁する者ではないと思う




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「大江健三郎自選短編」



私は土曜日も仕事だ。 週休1日で疲れる。 読書も小休止ということで、土曜日は軽い本を読むようにしている。内田康夫 「菊池伝説殺人事件」 を読んでみた。1989年刊行という、ちょっと古めの推理小説だった。1989年って、今とあまり変わらない感じなのだけれど、ネットだけがないみたいな。探偵役の浅見光彦も、何か分からない事があると雑誌の編集長に電話して専門家を紹介してもらおうとする。ググれや、と思うのだけれど、そういえばネット環境がないんだっけと思い出す。   「菊池伝説殺人事件」の評価なのだけれど、事件自体はたいしたことないと思うのだけれど、設定は、熊本の菊池氏と明治の秩父事件との関連という、結構渋かったりする。  この小説のトータルの感想は、小ぶりにまとまった平均的な推理小説ということになるだろう。

生物学でいう進化というのは、精神系統の複雑化を言う。時間の経過とともに、生物の種は、精神系統の複雑化方向に移行していく。何故なんだ? ダーウィンは、進化は生存競争の結果だというけれど、それは生物にとっての外的条件であって、誰もが知りたいのは、進化の内的条件だろう。  どのような内的条件が生物進化を支えているのかを問題にするべきだろう。   そういえばウイルスって進化しないよね。あいつら神経系統ってないんだけれど。  ウイルスは変化はするけれど、進化はしない。よく考えれば、当たり前のありかたではある。  ウイルスの事を考えると、生物進化の不思議というのはより深まる。

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