magaminの雑記ブログ

2017年08月

人間とはなんなのかってずっと考えている。別に何かのアカデミズムに属しているわけでもなく、もうただ単に自分で勝手に30年、考えてきただけなんだけれど。  プラトンの「国家」を読んだときの衝撃は忘れられない。 プラトンは、国家というものは、哲人国家、名誉重視国家、金持ち支配国家、民主国家、僭主制国家、とこの順番に堕落していくという。 哲人国家というのはプラトンの理想だから除外して、僭主制国家もいまだ現代先進国家に現れていないので除外するとして、だとしても、国家は、名誉重視国家、金持ち支配国家、民主国家と国政が移行していくという。これは近代国家の成立の歩みと同じだろう。  日本で考えれば分かりやすい。 名誉重視国家は江戸時代だ。 金持ち支配国家は明治国家だ。 民主国家とは戦中から現代までの日本だ。  このようなことは、偶然では済ませられない。何らかのシステムがあるはずだ。  人間を秩序付けるシステム。  繰り返す歴史といってもいい。  古代ギリシャと現代日本を一体何がつないでいるんだ?    宮崎市定の「中国史」を読んだ。  宮崎市定は、ユーラシア大陸の歴史というのは西洋、中東、東洋、互いが連動しているという。  世界の歴史を、古代、中世、近代以降、と3つに分けたとして、古代というのはかなり自由な時代で、現代と似たところがあるという。さらにいえば、近代世界というのは、その世界観において二周目の世界だという。  古代世界が一周目だとして、この近代世界が二周目だとするなら、プラトンの社会遍歴の描写が現代とかぶるのも偶然ではないということになる。  人間存在には、1000年単位で歴史を繰り返させるような何らかのシステムが存在するということになる。  これらの事は、オカルトでもなんでもなく、推定される事実なんだよ。  古代から現代に至るまでの古典とされている書物のほとんどは、注意深く読めばわかるのだけれど、人間存在のシステムをめぐる言説の集合だろう。人間存在のシステムと関係のない言説は、何故か歴史の櫛の上下によって忘却されていく。だから必然的に、現代にまで古典というのは、人間存在のシステムをめぐる言説の集合となる。   では人類の歴史を貫く、人間存在のシステムとはなにか?  もちろん明確にはわからないのだけれど、私なりの仮説はある。また次の機会に、その仮説を書いていきたい。

もう本当にはっきり言ってしまうとするなら、映画 「バトルロワイヤル」の面白さというのは、原作の枠組みに支えられているし、原作の面白さというのは、自らの枠組みに支えられている。   映画や小説の評論で、あの演技がよかったとか、このセリフがよかったなどというものがあるけれど、そのようなものは、文学とは何かをよく分からないやつの勘違いの言説だ。役者の演技とか、作者の文体とか、そのようなものは評価の定まった古典において議論されるべきもので、現代表現形式において枝葉を議論するのは、ほとんど意味がない、形式の価値こそ問うべきだ。  この「バトルロワイヤル」という映画は、その意味で分かりやすい。ビートたけしや藤原竜也のセリフが雰囲気を盛り上げたとして、それは彼らの演技力によるものだけだろうか。初見のカップルが心中するのにグッと来る場面もあるわけだから、全てが設定によって持ち上げられているのは明らかだろう。  では、雰囲気を持ち上げるところの設定とは何か。  それは、中学3年の1クラスが、孤島に閉じ込められて最後の1人になるまで殺しあう、ということなのだけれど、ではなぜこのような設定が雰囲気を盛り上げるのか。  もうここまで考えると、設定独自の面白さというより、映画の設定とこの世界の設定との関係性ということになる。  ぼんやり暮らしていると、この世界は無前提の当たり前のものだと思ってしまう。しかし本当はさまざまな恣意的な設定によって支えられている。面白いとされる映画や小説は、この世界の設定の一部をカリカチュアしようとしている。本当にただそれだけなんだよね。    「バトルロワイヤル」は、その設定が過激な分、近代世界観と文芸設定の関係性、従属性というのをあからさまにしていると思う。

もう15年も前なんだな。 訪朝後、小泉総理がテレビで、「4人帰国、8人死亡」と発表した時、胸を締め付けられる寂寞さを感じたことをおぼえている。  小泉総理に関して言えば、4人とはいえ敵地に乗り込んで同胞を帰国させた功績というのは評価するべきだろう。 問題は北朝鮮だ。同胞を多数拉致しておいて、、「4人解放、8人死亡」というふざけきった譲歩で、日本の経済援助を引き出せると考えたという。  本当に日本をなめきっている。  こういうことは本当は言いたくないのだけれど、日本をひどく追い詰めると、また神風みたいなことをやらないとも限らないよ。  現状、北朝鮮はチキンレース外交を展開中だ。ミサイルをグアムに撃ち込むとか、それはやったりやらなかったりすればいい。 しかし拉致問題で、北朝鮮は日本の同情を得る道筋を全く失った。  北朝鮮の自分勝手な論理が、自らをどこに導くか、もうすぐ分かるだろう。     蓮池さんは、この本を読む限り、誠実で有能な人だと思った。拉致という苦境を乗り越えて、日本と朝鮮半島の交流を進めようという姿勢はすばらしい。複雑な状況だから、語れることも語れないこともあるだろう。よくいるんだよ、問題があるなら言えばいいじゃん、ってやつが。語り合って簡単に相互理解が成立するなら、この世界に神経症は存在しなくなるだろう。語るべきでないことは語らない、という蓮池さんの態度は正しいと思う。

「形而上学」の上巻までよんだけれども、これって、これだけ読んで面白いという種類の本ではないだろう。  プラトンは刺激にあふれていたけれど、アリストテレスは読者を殺しにきてるだろう。  この本は、ヨーロッパ人が自分のルーツを感じるために読む本で、日本人には関係ないのではという考えすら浮かぶ。  世界を相対化しようとした思想家、プラトン、ニーチェ、ハイデガー、ヒトラー、バフーチン、フーコー、ウェーバー。  このあたりの思想家とアリストテレスは違うよね。まあ、正統派ってことだろう。  

形而上学 第5巻 哲学用語辞典 だって。岩波文庫で70ページ、古代ギリシャ語単語解説だった。 アリストテレス、至れり尽くせりだと思った。本論に入る前に、用語の解説をしようというのだから。  しかし今日は暑くて、古代ギリシャ語単語解説を読むのもやっとだった。体にまとわりつくような、あの熱気の塊ってなんなの? 鳥って、あの塊みたいなヤツに、羽をぶつけて宙に浮かんでいるんだろうなー。鳥が飛べる理由が体感できる1日だった。  アリストテレス 「形而上学」  って、読み砕くのはかなり厳しい感じだ。  別の時代の別の世界のマジ言説だね、これ。  明日も頑張ろうかなーて思う。

社会保障の淵源は戦中にさかのぼる。 すなわち戦前というのは自己責任の世界だった。  平和な時代が続けば、自己責任が貫徹する社会というありかたも成り立つ。現代において自己責任論を主張しても、基本的に反論不可能なことからも、そのことは分かるだろう。  この自己責任の反論不可能性というが崩れ始めたのが、日露戦争からだ。日露戦争というのは、日本側の死傷者24万という、当時としては大戦争だった。勇敢に死んだものには勲章か何かあっただろう。しかし死ぬ可能性のあったものには何の保証もないわけで、これでもし次に大戦争が起こったときに、国民が国のために戦うなんていうことがありえるだろうかと、心あるものは、このようなことを考えただろう。 当時、与謝野晶子は「あゝをとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ」 と歌って共感をよぶと同時に問題とされた。北一輝は、一将功成りて万骨枯る の垂れ幕を掲げて日露戦争帰還兵を出迎え、その後憲兵に付けねらわれた。  かれらの語ったことは、確かに一理ある。  大正維新とか昭和維新とかいうのも、この国と国民の一体性のあり方というのがメインテーマだったろう。ではいったいどうすればいいのか?   そしてついに太平洋戦争のさなか、国が戦うという総力戦のための政策として試行錯誤的に年金というものが始まった。   すなわち年金とは、国のために血を流す運命にあるものに、国が用意した補償だろう。国のために血を流したものではなく、国のために血を流す運命にあるものに、だよ。だから年金は、払ったからもらえるとか、世代間の助け合いだとか、きれいごとの上に成立した制度ではない。日本国と国民の一体性への歴史の結果立ち現れた、血の代償としての制度だ。言っておくけれど、汗の代償ではない。  血の代償。

アリストテレスは、公理そのものを問題にするのが哲学だという。では第一の公理とは何か。  「同じものが同じものに属し且つ属さないというのは不可能である」  なに言っているんだ、そんなこと当たり前だろう、とほとんどの人は思う。しかし全ての人が同意するわけではない、ボケ老人や重度の分裂病患者は同意しないだろう。  そんなやつらはほっておけという意見もあるだろうが、この世界から脱落したら切り捨てればいいというのは、あまりいい考えではないと思う。  「同じものが同じものに属し且つ属さないというのは不可能である」という公理は、極言すると、自分は自分である、という観念に集約されるだろう。自分は自分であるという確信があるから,例えば、机は机であるとか椅子は椅子であるとか、何らかの意味が発生するわけだろう。  自分が自分であるということは、一見当たり前のように思えるのだけれど、実は全く無条件に与えられているわけではない。これは誰もが知っていることだろうが、人間は自分が自分である必要がない過酷な環境に置かれると、意味を失ってテンションが極端に低下するということがある。人間って、精神的にもたいして強くはない。  公理といえども、人間精神から発生している限り、磐石というわけではない。磐石でないからこそ、アリストテレスは公理を問題にしているのだろう。  公理を問題にしてどうなるのかというと、世界認識がそのとによって磐石になるだろうというものでもない。おそらく、ここまでは磐石でここからはあいまいだという、境い目みたいなものが分かる程度のものではないだろうか。

形而上学 第1巻 第8章 「プラトンのイデア説に対する批判 23ヶ条」 だって。  私はそもそも思うのだけれど、プラトンのイデア論ってなんなんだ?  プラトンの言説って、対話形式だよね。対話形式ということは、すなわちそのまま「断言を拒否する」形式ってことだ。だからたとえばプラトンが、その本文の中で「観念と実態を分けて考えた方がいい」と言ったとしても、それは断言ではなく合意だと思う。揺れる世界のひとこまをもし切り取れるとするなら、それはこのようなことではないですか。プラトンの言説というのは、そのような語りだろう。  それを「プラトンのイデア説」とか確定させて批判するというのは、アリストテレスの足りないところなのではないかと。大哲人アリストテレスを批判して、全く申し訳ないとは思うのだけれど、もうちょっと言わせて欲しい。  ニーチェのプラトン批判は激しい。しかしニーチェはプラトンを批判しているのではなく、アリストテレスの描くプラトンを批判しているだろう。プラトン「国家」における哲人国家観というのは、ニーチェに影響を受けたに違いないヒトラーの「わが闘争」の世界観に酷似している。  これおかしいよね。 ヨーロッパにはアリストテレスが絶対だという信仰みたいなものがあるのではないだろうか。プラトン主義とか、新プラトン主義とか、何かがプラトンを捻じ曲げているとしか思えない。  私は別に古典ギリシャ哲学専門家でもなんでもない、ただのトラック運転手だから何を言ってもしょうがないのだけれど、プラトンの評価の低さは受け入れられない。

この映画は、新海誠の「秒速5センチメートル」系列の話を軸に、都会と田舎の風景を美しくリアルに盛り付けていて、まずまずのアニメ大作だろう。 後、男の子と女の子の意識が入れ替わるという設定が、「秒速5センチメートル」系列の話と親和的であるというのは、新海誠のいいアイデアだと思った。物語がより緊密に、整合的になって、安心して見れる感じだった。  悪い映画ではないとは思ったけれど、日本であれほど爆発的にヒットした理由というのは、実際見てみても分からなかった。  うちの高校生の娘もこの映画のために友達と映画館に行ったらしいけれど、何がよかったのか、というか何が特別よかったのか、聞いてみたい。   もしかしたら、「時間の説明」みたいなものがよかったか? 近代の時間観念というのは、時間は無限の過去から無限の未来に一直線に続いていくというものだ。しかしこの映画内では、タイムリープを説明するために伝統的時間観念を導入している。このあたりが違和感がなくて、成長の終わった日本にとって、ふさわしいというか新しいというか、若い人の心をつかんだのかもしれない。   そういえば、新海誠の「秒速5センチメートル」って、何でそういう題名なんだろう。伝統的時間観念に関係しているのかもしれない。  もし新海誠に次回作があるのなら、この辺のところを深彫りしたらいいと思う。

ドミートリーの父親殺し裁判のクライマックス、陪審員に対して検事はこのように言う。 「ロシアの宿命的なトロイカは、ことによると破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいるのかもしれません。他の諸国民が今のところまだ、がむしゃらにつっぱしるこのトロイカに道を譲っているとしても、敬意からでなどなく、単に恐怖からに過ぎないでしょう」 突っ走るトロイカとは急激に西欧化しようとするロシア。混乱の中で明らかな父親殺しを無罪にするような行き過ぎた文明化は逆に西欧からの反発を招くだろうということだろう。 これに対して弁護人は最終弁論の最後にこのように言う。 「われわれのところに、破滅した人間の救済と更正を、あらしめようではありませんか。もしロシアの裁判がそういうものであるならば、ロシアは前進するでしょう。狂気のトロイカではなく、偉大なロシアの戦車が厳かに悠然と目的に向かって進むのです」 検事と弁護人がかたる物語というのは、物事の裏と表なんだよね。陪審員の皆さん、私達は世界をこのように確定しました。さあ、どちらが正しいか判断してください、というわけだ。そう、知の権威というものは、世界を確定しようとする。人民の世界認識を確定した方が、国家として人民を統治しやすい。近代というものは、世界を確定しようという、この世界は合理的だという、非合理な信念の上に成立している。 しかし、人間の認識世界というものは確定しているものなのだろうか。好きな女が次の瞬間憎くなるなんていうことはないだろうか。本当のところ、世界は揺れているのではないだろうか。 エピローグでアリョーシャは子供達の前でこのように演説する。 「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、 そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。 いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだ と」 そう、子供のころ、世界は揺れていた。世界が確定したと思い込んで大人になったつもりなっても、そんなのはたいしたものではない。大事なのは最後のところで世界は揺れているものだという記憶だろう。 カラマーゾフの兄弟という小説は、世界を確定しようとする近代の中で、最後の揺らぎを、最後の言葉を守ろうとするカラマーゾフの魂の遍歴の記述だ。

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