magaminの雑記ブログ

2017年07月

「存在と時間」74節、ハイデガーは「命運」とか言い出した。 

人間の存在体制というのは、日常的と本来的と2つあるというのだけれど、この本来的なあり方をする個人のあり方が「命運」であり、これが集団で発動すれば「運命」と呼ばれるものとなるという。  

プラトンの「国家」にも、この天命思想的なものが表現されているし、古代東洋哲学の「孟子」にも天命思想はあった。  

天命思想は、人間の根源的なあり方から立ち上ってくるもので、時代を超えて反復するものだとハイデガーは言う。 

そうだろうと思う。 

日本だって、あの明治維新は、この天命思想の復活というのが、歴史の真相だった。吉田松陰を読んでみて。  

強力な言説が世界を傾けた。私達は今、誰もが現代において心の中に空虚を抱えて生きていると思う。 

なぜ心に空洞があるのか。 

それはかつて人間の心を埋めていた強力な言説が、時と共に失われてしまったからだろう。

マックス.ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかでこのように言う。

強力な言説がもたらした禁欲思想は、世俗道徳を 支配し始めるとともに、今度は近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになった。この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構に入り込んでくる個人の生活スタイルを決定している。バックスターの見解によると、外物についての配慮は、「いつでも脱ぐことができる薄い外套」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外套を鋼鉄のように堅い檻にしてしまった。禁欲が世俗を改良し、世俗の内部で成果を挙げようと試みているうちに、世俗の外物ははるかに強力になり、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。
今日では、禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利を遂げた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としていない。将来、この鉄の檻に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、全く新しい預言者が現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それともすべてが機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にも分からない』


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「存在と時間」72節にこのようにある。  

「現存在は、みずからの時間に属する今の連続をいわば飛び移っていくように通過するのである。体験がこのように不断に交替していくさいに、自己はある種の自同性のうちで自分を一貫して保持していることになる」   

この存在体制は、人間に内在する時間性によってあたえられている、という。

多くの人は自分は自分であると確信している。夜寝る前の自分と、朝起きた後の自分と、同じ自分なのだろうけれど、本当にそうなのか。  

そもそもいったい何によって自分の同一性というのは保障されているのか?

初めの、寝る前の自分と起きた後の自分との同一性の確信の話に戻るんだけど、この確信って、合理的推論で与えられるものではないというのは明らかだろう。現存在というものを、私は意識存在と言い換えたいのだけれど、ハイデガーは、意識は今の時間の連続を飛び移るように通過すると言う。そして飛び移る意識の同一性を担保するのは、「ある種の自同性」
ということになる。

でもこれ、意識の同一性を担保するのが、ある種の自同性とかいうのでは、全然答えになってないと思う。

ハイデガー、もうちょっと頑張ってくれないと。


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ハイデガー「存在と時間」68節に 「不安の中で、世界の無意義性が開示される」 とある。 

私達は日常生活で極度の不安を感じるなんてない。何故か? 普通に考えると、大人になって経験もつみ実績も重ねて、社会というものを理解したからだろう。

このあり方を別の角度から見ると、社会的常識や何らかの知の体系に寄りかかって生きている、ということになる。  

しかし、常識や知の体系というものは、そう磐石なものではない。 現代人は科学というものに大きな信頼を寄せている。確かに、数学や物理学は一流の学問だ。しかし、生物学とか医学とかとなると、その整合性具合は一段下がる。さらに、精神医学とか社会科学とかになるとさらにその知的整合性は後退する。  
過去においては、骨相学のように放棄された学問体系も存在する。   

多くの知の体系は、我こそは数学と同レベルの学問体系だと自己主張しているのだけれど、実際のところはそういうわけにもいかないだろう。 

私達の誰もが数学者というわけではないのだから、寄りかかっている知の体系が崩れて、「不安の中で、世界の無意義性が開示される」という状態になることは、可能性として誰にでもありえる。
というか、偉そうに語るおっさんは、必ず何かの知的体系に依存している。
やだね、そんなおっさんにはなりたくないね。  

ハイデガーがさらにいっていること、

「当の露呈させる働きは、どのような時間的意味を有しているのだろうか」  

日常の世界と不安の世界とでは、時間的意味が異なっているという。  
これはあるかも。
 

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戦争の手段としての軍隊を保持しないという、あの9条について。  戦後リベラルの論理というのは、戦争をしないために軍隊を放棄するというところからさらに押して、軍隊がないから戦争がないということになっているのだろう。しかし、軍隊がないから戦争がないという論理は、無条件に与えられるものではなく、明らかに何らかの前提の上に与えられている。 ではその前提とは何か?  戦後、日本国憲法が制定された時、徳富蘇峰はこのように書いた。  「武力を排除したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後における、新たなる試験というのほかはあるまい。ここまでには世界の歴史に、左様なれいは、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかることを平気で、朝飯前の仕事のごとく、言いなしている日本の有識階級は、実に驚き入りたる肝っ玉の持ち主といわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼らの軽佻浮薄の浮動性が、彼らをかりて、ここに至らしめたるものというの外はあるまい」  明治大正昭和を生き抜いた蘇峰は、戦争放棄による平和国家の前提なるものを思い浮かべることが出来なかった。  普通、そうだろう。  戦争放棄による平和国家成立に前提があるのなら、憲法改正を拒否するものは、その前提を明確にしなくてはならない。  私は別に、出来ないことをやってみろと言っているわけではない。 例えばこのような論理はどうか?  中国という国は歴史的に他国を侵略するということに消極的だ。近年中国は強烈に成長していて、すでに経済規模は日本のほぼ3倍だ。日本は中国の影響下に入ることによって、軍隊を保持せず平和を維持することが出来るだろうという、ネオ大東亜共栄圏みたいな。

後編を見終わった。  自殺した男の子と交通事故で死んだ女の子は、直接の関係はないということなんだね。ミステリーとしては、あっさりした結論だったろう。宮部みゆきという作家も、ほとんど読んだこともないのだけれど、原作からしてあっさりした結末だったのか。  やっぱりメインは中学生の学級裁判なるものにあるのだろう。  前編を観た時点で後編の結末を推理していたのだけれど、結果的に深読みしすぎたみたい、えへへ。

映画の前編だという。 この話、ちゃんと収束するんだろうか。  中学生がクラスメイトが2人死んだから、クラス裁判によって真実を明らかにしようという。純真な中学生の物語だね。裁判で真実が明らかになると信じているところが美しい。  これの後編があるという。ツタヤで借りてきて、まさに目の前にある。 でも、前編だけを観て、後編をいろいろ推測するのも楽しい。  普通に考えると、中学生チンピラはセーフで、そのチンピラに虐められていた女の子が怪しい。怪しいというか、そもそもこの「ソロモンの偽証 前編」において、謎というのは、虐められていた二人組みの女の子の太った方がなぜ死んだのか、死んだのは交通事故なのだけれど、なぜ泣きながら雨の日に道路を横断したのか、ということだけだろう。  トータルで考えて一つの仮説がありえる。 最初に自殺した男の子は、チンピラに虐められている女の子に同情して、自分は自殺するからそれを他殺としてチンピラに罪をなすりつけろと女の子に話して自殺した。女の子は少年の指定どおりに、チンピラが少年を殺したという怪文書をいろいろばらまくのだけれど、相手にされないと。だから、チンピラの家に放火したと。それで、女の子の友達のデブはその計画を知って泣きながら帰る途中、車にはねられたと。  このあたりではないかなと思う。  裁判であまりにも殺伐とした事実が確定してしまって、みんなガッカリするというのが結末ではないかなと思う。  全く適当に推測してみたけれど、これはこれで楽しいよね。やりようによっては、もっと細かいフラグを拾うことで、友達とワイワイ推理することも可能になるだろう。  

丁寧に書いてあるところは評価できる。  超本好きの女性古書店店主と、本が読めない体質の男の助手がコンビの、軽いミステリーみたいな感じの内容だった。女性店主は入院していて、助手の情報を元にことごとくベットの中で推理するという、椅子に座った探偵っていうか、なんだかそんな専門用語があったような、まあ要するにそれ。 この本、けっこう整合性が取れていて、古書店の常連が、「女店店主は、頭が切れすぎで、逆に危なっかしい」と指摘するところがあるのだけれど、実際、敵を引き付けすぎて最後危なかったりした。   この小説を支えている価値観というのは、本を読まない人から見ると本を沢山読む人はすごい、みたいなことだと思うけれど、そういうわけでもないよ。私は文庫本で300ページぐらいの小説なら、1時間くらいで読む。読もうと思えば、1日で5.6冊は読めるだろう。しかしこれ、1日で映画を5.6本観るというのと変わらない。誰も映画を1日に5本も見ようなどと思わないだろうし、年に1500本の映画を観たからといって特別な推理能力が身につくわけでもないだろう。  だから本来、ビブリア古書堂の女店主の「異常な本好き」と「特別な推理能力」とは切り離して考えなくてはいけないはずだ。切り離すとどうなるかというと、ビブリア古書堂の女店主とは何者か、ということになるだろう。

ハイデガー「存在と時間」の中に、

「現在、過去、未来、という時間の概念は、非本来的な時間理解からさしあたり生じたものなのである」

とある。

このような常識と思われている観念を振り切るには、かなりの困難と闘うことになるだろうとハイデガーは言う。  

この言説を真に受けて、時間は超越できるなんて思い込んだらオカルトになるし、かといって全く間違ったことを言っているというわけでもないような。  

確かにこの現代世界はあっさりしすぎているとは思う。死んだら無だとか、時間は過去から未来に一定に流れるだとか、進歩と啓蒙への価値の付与だとか。  

このような強烈な常識をひっくり返すというのは並たいていではない。強力な反証がほしい。有無を言わせないようなヤツ。  

進化論ってどうにかならないものか。  

ダーウィンの思想ってまだ生きているよ。適者生存という論理。  
適者が生き残ったからといって、無条件に進歩するというものでもないだろう。何らかの進歩の枠組みみたいなものがあるはずだ。もしそのような進歩の枠組みがあったとして、その進歩の枠組みはどこからもたらされたのか。神がいないとするなら、その枠組み自体にその存在理由が組み込まれているはずだ。  

この存在理由が明らかになったとして、その理由なるものは、この世界の価値観で語られてしまうわけだろう。  

それちょっと違うよね。  

非本来的ではない時間世界の中に飛び込んで、そこから時間を語るべきだよね。  

そんなことが出来るのか。別の世界からこの世界に何かを呼びかけるということが。今まで誰もターウィンをひっくり返せていないのだから、、これってかなりハードル、高いのではないかな。

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第2編第2章で、良心について語っている。   
 
ハイデガーは良心にも二種類あるという。一般生活内の限られた良心と、心の底から呼びかけてくるような良心と。  

ハイデガーは、人間の意識の下層部には、意識のありようを決定するような基礎構造を想定しているのだと思う。心の底から呼びかけてくるような良心、というものは、その意識の基礎構造から立ち現れる、ということになる。

陽明学っぽい考え方だと思う。ハイデガーは、ナチスの中で実行部隊側の方に思想的にコミットしたと言われているけれど、これを当時の日本で考えると、統制派よりも皇道派の方に肩入れしたと考えれば分かりやすいだろう。

陽明学とか皇道派とか話し出すときりがなくなってしまうのでハイデガーに戻るけど。
  

ハイデガーはこのように言う。

「ひとにとって、不気味さのうちで自分へと単独化され、無へと投げ込まれている自己ほどに疎遠なものが他にあるだろうか」 

ワイマール体制の中で苦しむ人たち、すなわち自分へと単純化され無へと投げ込まれている人たちをどのように救うのか、という問題意識がハイデガーにはあったのだと思う。
まあそれがナチスドイツの国家体制につながっていったのだけれど。

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結婚したら自由がなくなるとか、他人と一緒に暮らすのがムリとか、自分なんてどーせとか、結婚しない理由がこの程度なら話にならない。自分がまず救われようというのでは、結局蜘蛛の糸だ。何よりもまず、人を救おうと考えないと。人を救うことによって、自分も救われるんだよ。男として生まれてきて、女の一人も救えないって、それなんなんだ。誰もがギリギリで生きていて、自分を投げ出さなくては女を救えないとするなら、自分を投げ出せばいいだろう。自分を投げ出さなくては誰も救えない自分なんて、そもそも守る価値なんてたいしてないだろう。  自分には価値がある、自分はナポレオンだ、などと思ってはダメだ。アイツがナポレオンなら、私はナポレオンの母親だ。 自分の自由とか、自分のペースとか、自分のコンプレックスとか、そんなもの、死ねばいつでも無だよ。だから人を救わなくてはならない。人類を救えとか言っているわけではない。懇親の力で一人の女を救えと言っているだけだ。余裕があれば、2人3人と救うのもありだ。  男の傲慢のように聞こえるかもしれないけれど、それは心配ない。向こうも同じようなことを思っているから。

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