magaminの雑記ブログ

2017年07月

ハイデガーが「存在と時間」の中で、アリストテレスを評価していたので、アリストテレスをもう一度読んでみようかと思って。もう一度といっても、前回読んだのは25年前、22歳の時だった。  読んだ当時、正直玉砕だった。  文章の意味はわかるのだけれど、この文章が何のために書かれているのかが分からなかった。  27年たって、気持ちも新たに丁寧に読んでみようと思っている。  今日、一発読んでみて、1日だいたい岩波文庫版で120ページぐらいが巡航速度だと思う。   アリストテレスはまず「善」とは何かを問おうとする。「善」とは人間を幸福にするところのものであると。人間の幸福感の根本は何かというと、「徳」だという。 「徳」は二つに分かれる、知性的徳と倫理的徳。「ニコマス倫理学」では、まず倫理的徳のほうを問題にしようということだろう。    善、幸福、徳、という流れが、普通に考えてしまうとよく分からない。そもそも「善」とはなんだ? アリストテレスは何をもって善を善だと言っているのか。   アリストテレスはこのように言っている、「あらゆる学問は何らかの善を目指しその欠けたるところを探求する」  すなわち、アリストテレスの言う「善」は、人間的な思いやりとか優しさとかそのようなものではなく、ざっくり言ってしまうと善とは、「整合性の取れた体系」という程度の意味だろう。  プラトンは「国家」において正義を問題にした。しかし、正義を問題にするということは、 整合性の取れた体系群が存在しているということを前提にしているわけだ。  結局アリストテレスは、プラトンが前提としていたもの、すなわち「個の一体性」から問題にしようとしているのではないかと思う。    まあまあ、このようなものは、ニコマコス倫理学を読み砕くための1つの仮説であって、どこまでも固執しようというものでもない。そもそも重量級の古典を、全く無前提で理解しようというのは無理だ。何らかのバイアスが理解をゆがめることはありえるだろうが、それを受け入れていかないと。      私の視点から、何か見えてくるものもあるだろう。  

認知症の母親を抱えたバツイチ息子の話だった。  長崎を舞台にして、ゆっくりした見やすい映画だった。しかしうがった見方をすれば、親が認知症になるのはしょうがないとして、後はこうだったらまだマシなんだけどという願望交じりの話だったと思う。    世の中、できた人間ばかりではないから、ボケ老人に誰もが優しく接してくれるわけではない。さらに、映画に出てきたグループホーム、かなり高そうだよ。誰でも入れるレベルではないだろう。  未婚男子が50歳になって、80歳の母親がぼけたらどうする? この映画のように、ボケた母親の世界にとことんまで寄り添えるだろうか。こういうことは、出来そうで出来ない。日頃から人の話を聞かない人間が、親とはいえボケた人間の話を聞けるわけない。この映画の息子というのは、ハゲのダメオヤジ的な描かれ方をしているが、かなり優秀な部類だろう。私と同年代の団塊ジュニアは、親がボケた時のための心の訓練をする必要はあるだろう。  私個人は、20年以上前に両親が死んでいるので関係ないのだけれど。

時代小説だね。舞台は幕末らしい。酔いどれ小籐次(ことうじ)留書、というのはシリーズものらしく、「状箱騒動」は第19弾という。結構な人気シリーズらしい。  この本を読み終わって、驚くことばかりだった。文庫本のカバーの裏にあらすじみたいなのが短く書いてある。  そこにこうある、「無事に仲人を務めた小籐次は水戸に旅立った。だが、街道筋で状箱が盗まれたことを耳にする。その強奪は何を意味するのか......」  小籐次という主人公が、江戸から水戸に旅することで話が始まるのだろうと、普通思う。しかしこの主人公、なかなか旅に出ない。最初の20ページぐらいは、仲人の話だ。続き物だから前巻で何かあったのだろう。その後30ページ、旅に出る前の近所のあいさつ回りだ。まあまあ、もしかしたらあいさつ回りは必要かもしれない。その後20ページ、近所に住むボケ老人が行方不明になって、みんなで探すという話。この辺は必要なのかな。  70ページ以降、小籐次はやっと旅に出る。旅に出たのはいいのだけれど、30ページほど、どうでもいい旅の描写が続く。荒川の先は何橋だとか、水戸藩が用意してくれたかごに乗るだとか乗らないだとか。そして、100ページ以降にやっと水戸藩の状箱騒動なるものがでてくる。  その状箱騒動自体は170ページの分量だ。  ここまでで270ページ。  残り70ページある。どうするんだこれ? と思うよね。  小籐次は水戸の職人に竹細工を教える。そもそも小籐次は竹細工を教えに水戸藩に旅している。だから真剣に教えちゃう。アイツの竹細工はいいとか悪いとか、これで70ページ。   要するに、小説の半分がイントロダクションとエピローグなんだよね。おまけに、真ん中の状箱騒動の核心部分も、内容的には薄い。  かなりのレベルの「ゆっくり小説」だと思った。  世の中のジジババって、こんなゆっくりな小説を読んでいるんだ、と驚いた。   読みたいものを読みたい、という気持ちはわかるのだけれど、ここまで来るとひどいよ。歳をとっても、チャレンジというのはだいじだと思う。楽をしよう、楽な小説を読もう、そんなことを思ってはダメだ。

「ドンキホーテ」とは何なのか?、ドンキホーテとは何者か?  この小説の登場人物というのは、だいたいにおいてゆっくりだ。もちろん馬鹿というわけではなく、考え方というか思考パターンというか、そういうものが、現代の価値観と比べてなんだけど、ゆっくりしている。  これに対して、ドンキホーテのみがチャキチャキしている。大事なことと、どうでもいいこととの区別をつけて行動している。  どうしてかというと、登場人物で彼のみが、「騎士道」という観念で自らの価値観を強力に秩序付けているからだ。ドンキホーテは、騎士道という奇妙な観念を頭上に頂き、それによって世界の価値を整除して、そこから強力なエネルギーを得る。これは、回りから見ると狂気と映る。   私は何の意味もなくこのようなことを語っているわけではない。  現代とはなんだろうか。現代日本において人は、江戸時代以前よりはるかに強力な労働環境にさらされている。私達はその労働をこなしたりこなせなかったりするわけだ。私達は普通チャレンジする。チャレンジできないものは引きこもりになり、チャレンジに失敗すると神経症になる。何が現代の私達を労働に駆り立てるのか。結局、私達の価値観というものが秩序付けられていて、そのような状況から、まあなんというか働かなくてはならないという観念が生じる。   ドンキホーテは幸せだった。好きな「騎士道」によって自分の世界観を秩序付け、そこからエネルギーを調達していたのだから。では、私達の世界観というのは、いったい何によって秩序付けられているのか。   実はこれがわからないんだよね(個人的には知っているのだけれど)。ウェーバーによると、失われてしまったらしい。  決してドンキホーテを馬鹿に出来ない。私たちは、騎士道を忘れたドンキホーテだし、かつてドンキホーテを狂気だと判定して人たちはどこにいるかというと、ニート、軽度知能障害者、ADHDとして、軽く狂人扱いされている。

3巻目前半。  ドンキホーテ一行が泊まっている宿屋に、イスラム教徒らしき女性と連れの男性が泊めてくれとやってきた。奇妙な二人組みだから、みんな興味津々。懇願により、男の方が2人がここにいたるまでのことを話し始める。  話すのはいいのだけれど、この身の上話が文庫本換算で100ページだから。  内容自体はどうということもない。レパントの海戦でイスラムの捕虜になってしまった男が、キリスト者になりたいというイスラムの女の手助けで、共にスペインにまでやってきた、というもの。この話が、なぜ100ページにもなるのか。  たとえばスペインに上陸するあたりはこんな感じ。  「さまざまな意見が出され議論が重ねられましたが、最終的に採用されたのは、ゆっくりとすこしずつ岸に接近し、並が静かでそうすることが可能であったら、どこへなりと上陸しようというものでした。それを実行に移し、おそらく夜中の12時の少し前だったでしょう、われわれはいかにも不恰好な高い山のふもとに着きましたが、その山も波打ち際からすぐにそびえているわけではなく、楽に上陸できる空間をゆうに残すほどには奥まっていたのです」   近代小説を読みなれているものには、奇妙な文章ではある。焦点が一定していない。出来事の羅列の文章だ。これでダメだというわけではないのだけれど、この調子で100ページやられたら、読む者の心に余裕がないとちょっと読みきれないだろう。  「ドンキホーテ」とは何なのか?   この「ドンキホーテ」という小説は岩波文庫で全6巻なのだけれど、はじめの3巻が1605年にまず発表された。とりあえずこの3巻を読み終えれば、「ドンキホーテ」とは何なのか?、ということについて何かわかることもあるだろう。

2巻目後半。  ドンキホーテ一行は宿屋に泊まる。ドンキホーテ本人は疲れてすぐ寝ちゃうんだけど、他の人たちは宿屋の主人とワイワイガヤガヤ。宿屋のお客の忘れ物の中に面白いものがあるという話になった。生原稿の小説で題名が「愚かな物好きの話」。これを読もう、ということになって、ひとりが代表して音読し始めた。  これ読むのはいいのだけれど、文庫本で100ページの量。この小説内小説ともいうべき「愚かな物好きの話」、かなりの分量にもかかわらず、本文とは関係がない。宿屋の客が忘れていった鞄の中からでてきた原稿に書いてあった小説だし、朗読会に主人公は参加していない。   「愚かな物好きの話」の内容なのだけれど、これが意外と面白い。親友同士の男がいて、片方が結婚する。結婚したのはいいのだけれど、自分の妻が本当に貞淑な女性なのかどうか試したくなって、友人に妻を誘惑してくれと頼むんだよね。頼む時の言い草がこんな感じ、「誰からも言い寄られたりしない女が貞淑であったところで、それは当たり前で、別にありがたくもなんともないからね」  友人は一旦断るんだけど、断り方がこんな感じ、「あなたの持っているダイヤモンドが、誰もが認めるすばらしいダイヤだとして、あなたはそれを確かめようとダイヤを金槌で叩いたりする必要はない。もちろんダイヤは壊れないと思うけれど、もし壊れた場合、あなたは全てを失うことになる」  二人ともうまいことを言う。 この小説内小説って一体なんなの?  友人は結局説得されて、親友の妻を口説くのだけれど、口説いているうちに親友の妻に恋をしてしまう。親友の妻も、その真摯な恋に答えちゃうわけだ。  なんだか面白くなってきた。  そのうち不倫がばれそうになる。二人でもう一芝居うって旦那をだまそうということになった。 旦那がクローゼットに潜んでいる部屋で、友人が言い寄り妻が拒絶するという喜劇を行って、これがものの見事に成功する。  この猿芝居が成功する確率は高い。 そもそも最初に妻を誘惑して、その操を試してくれと友人に頼んだのは旦那本人だから。信じたい物語が目の前で演じられれば、信じてしまうのが人情だ。  すなわち、この「愚かな物好きの話」という小説内小説は、ちょっとした多層構造になっている。  かなり出来のいい中篇小説を、セルバンテスは「ドンキホーテ」の中にぶっこんでくる。全体の整合性とかおかまいなしだ。にもかかわらず「ドンキホーテ」は面白い。  いったいこれってどういうことなのだろう。  近代以降、確かに科学は進歩した。しかし文学って進歩していない。

「ドンキホーテ」という物語は、現代小説とは構造が異なる。  2巻目で、ドンキホーテはやらかしちゃって山に逃げ込んで、そこで隠者みたいな男に出会う。人知れず?山奥に住むこの男にドンキホーテは興味津々。頼み込んで身の上話を聞かせてもらうことになった。男は話す条件として、軽々しい質問等をして私の話の腰を折らないようにして欲しい、と頼む。  しかし案の定、ドンキホーテはつまらない突っ込みをいれてしまう。  男は怒って話を途中でやめてしまう。  貴族の女性との恋の破綻の物語らしいのだけれど、まだ全然破綻していないような、二人はまだラブラブみたいなところで話は途切れてしまう。 この100ページぐらい後で、ドンキホーテを迎えに、ドンキホーテの友達がこの山を訪ねる。この友達も隠者の男に会う。 今度は首尾よく、友達は隠者の身の上話を全て聞いたという。隠者の話とは結局、親友に裏切られて婚約者を盗られた話だった。  しかしこれ、主人公のドンキホーテは話の前半しか聴いてないままだ。話の全部を聴いたのは、チョイ役であるドンキホーテの知り合いと、それに読者だけだという。  主人公を持ち上げるために事象をエンディングに向けて集中させていく、という近代小説とは異なったあり方。  「ドンキホーテ」は拡散する物語だ。

同じテーマの3つの短編映画を、一つにまとめたみたいな感じの映画だった。 これはこれで悪くないと思った。    3人の主人公のうちの誰が殺人犯か? というのがトータルでのミステリー要素ではあるのだが、その辺はべつに詮索する必要もないだろう。可能性としては誰でも犯人でありえるわけだし。  問題は、殺人犯以外の犯人候補までが、最後の言葉を回収されてしまうということだ。周りのやつらが、善意という名の下に、自分のぶっちゃけ話をてこに犯人候補に最後の言葉を要求する、というのが3つの話に共通している。  漁港のオヤジは、自分の娘は歌舞伎町で働いていたから、もうまともな結婚相手は見つからないだろう的な話をする。これはいいすぎだろう。 都会暮らしのホモは、自分の母親のホスピスに犯人候補の友達を連れて行く。そんなところまで行って、母親に友達を紹介することもないだろう。  こいつらの場合は、その知り合いは犯人ではなかったのだから、結果的に相手に対する要求が過大だったということになるだろう。そもそも殺人犯でもないのに、告白を求められる筋合いはない。  論理的につめれば、このようなことになるのだけれど、誰もが告白を求められてしまうということがありえるというね、この世界のささやかな苦しさを、この映画は地味に表現している。

一作目よりいいね。  うがった見方をすれば、近代文学批評みたいになっている。  まず「時計仕掛けのオレンジ」。この本は旧版と完全版というのがあるらしく、 旧版は、ある不良が大人によって更正を強要されるのだが最後にそれを拒否するというところで終わる。。完全版は、その後の主人公は、結局はちゃんとした大人になったというところまでかいてある。   古書店の女店主は、小学生のころ「時計仕掛けのオレンジ」旧版で感想文を書くのだけれど、これがいい。このすばらしい感想文をマルパクリした中学生の女の子に、ちゃんとした大人になるためにはマルパクリはダメだよ、とみんなで諭すという。  これ、結局どういうことかというと、確信のない者は「時計仕掛けのオレンジ」完全版でも読んでいろ、ということだと思う。   つぎに司馬遼太郎の「サラリーマン論語」。 司馬遼太郎といえば、戦後日本の知の巨人だ。司馬遼太郎の論理を現代から考えてみると、近代日本の半分を救ったということだと思う。あの戦争で日本が負けて、日本人は自信を喪失した。戦後、心ある人は、焼け跡に立ち尽くして、日本の近代は無意味だったと思っただろう。司馬遼太郎はそのような雰囲気の中で、便宜的な解決策を思いついた。 日露戦争までの日本はよかったけれども、それ以後の日本はダメになった、というもの。すなわち、近代日本の半分を救おうというわけだ。  私は、このことは事実とは異なるけれども、戦後日本の復興を支える点では役に立ったとは思う。  「ビブリア古書堂の事件手帖 2 」でも、司馬遼太郎好きのおじいさんというのは、読みはするけれど語りはしない。語れば司馬遼太郎の虚構が明らかになってしまうから。このおじいさんが娘に残した本が、司馬遼太郎の「サラリーマン論語」で、これは司馬遼太郎が作家としてデビューする前に書いた戯れ句みたいなものだ。  この本を娘に遺すということはどういうことかというと、自分達は司馬遼太郎の虚構をてこに戦後を頑張ったけれども、現代のおまえ達は司馬遼太郎を超えて行け、ということだろう。   つぎに坂口美千代の「くらくら日記」。  これは「ビブリア古書堂の事件手帖 2 」のプロローグとエピローグにでてきて、完結した話とはなっていない。  坂口美千代というのは坂口安吾の妻だったというのだけれど、誰なのか? 坂口安吾はかなり読んだけれど、あの中に出てきたどの女が美千代なのか。あれかな、屋台の飲み屋に安吾を迎えに来ていた女かな? あの女には、じつは旦那と子供がいたというのだろうか。この美千代が、旦那と子供を捨てて安吾の元に走ったからといって、簡単に批判は出来ない。安吾の周りは、自堕落人間ばかりだし、時代は終戦直後だし。現代の臆病な民法至上主義で全ての時代を計れるわけではないから。     ビブリア古書堂の事件手帖というシリーズはどこまで続いているのか、正直知らないのだけれど、最後はハッピーエンドではないような感じだね。やさしい文章のオブラートに包んではいるのだけれど、古書店の女店主って、反近代、反小説というのが明らかだ。作者は、古書店の女店主が本をめぐって何らかの反社会的な犯罪を犯して、それをバイトの男が涙ながらに反論するというところまで考えていると思う。

「存在と時間」を、すごく中途半端な感じで終わっている。  

人間の認識体制には日常的パターンと本来的パターンと2つあるという。なぜ存在体制が2つに分かれるのかというと、結局、時間認識が異なっているからだという。それで、日常的認識体制の時間認識を明確にすれば、本来的認識体制の時間認識も明確になるだろうということで、日常的認識体制の時間認識の代表例としてハイデガーはヘーゲルを論じる。  

で、ここで終わりだから。  

これでは、第1部の第2編すら完結していないだろう。  

ハイデガーは「存在と時間」を、第2部の第3篇まで予告している。

第3編 時間と存在   
第2部 存在論の歴史の現象学的解体   
第1編 カントの時間論について   
第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について   
第3編 アリストテレスの時間論について    
となっている。  

これは難しいのだけれど、これから「存在と時間」の結末というものを予見してみたい。  

まず 第3編 時間と存在 これだけだと漠然としていてわからない。  

次に、第2部 存在論の歴史の現象学的解体   第1編 カントの時間論について  

ヘーゲルの時間論については、第1部第2編で論じていたから、ここではカントにしぼって日常的認識体制の時間認識について論じようというのだろう。 
いかに近代というものが日常的認識体制の時間認識にとらわれているかを明らかにして、存在論の歴史の現象学的解体を目指そうということだろう。

次に、第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について  

デカルトについては、ハイデガーは第1部第1篇で論じている。ヨーロッパ中世と近代の結節点であるデカルトを、日常的認識体制の時間認識の初期体制として再び相対化しようということだろう。 

最後に、第3編 アリストテレスの時間論について。  

アリストテレスについては、第1部第2編の終盤で多少論じてはいた。 おそらく、近代の存在体制を相対化した跡に、ソクラテス以前の存在体制を多分に含んでいたとされるアリストテレスを解析することで、本来的認識体制の時間認識というものを明確にしようということだろう。  


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