magaminの雑記ブログ

2017年06月

ハイデガーは、デカルトをダシに近代世界観を相対化しようとしている。

この世界がなぜこのようにあるのか、不思議に思ったことはないだろうか。

この世界においてはあらゆるものに、なんと言うか角度みたいなものがついていて、その角度に従って行動していかないと、なんだかお馬鹿さん扱いされてしまうと言う。出来るヤツは、その角度を当たり前のようにこなして平然としている。一体それは何事かと思う。   

ハイデガーのデカルト解析によると、デカルトの存在論の基礎は「直感と延長」だという。すなわち、近代世界の存在論の基礎が「直感と延長」だと言うことだ。そういわれればそうだな。  

数学で、1+1=2 とあって、これは当たり前、常識みたいなことになるだろう。ところが、1が1であるということは何によって保障されているのか。世界が揺れているのなら、1はある時0.9であったり、1.1であったりすることもありえる。結局、1がいつも1であるというのは、自分がいつも自分であり、他人がいつも他人であるという近代の直感に由来しているだろう。自分と他人との境目があいまいだったりすると、この世界では、子供だとか分裂病だとか言われて半人前扱いだ。  

1+1=2ということになると、これをどこまでも延長する。解けそうもない定理まで解いちゃう。存在の延長は神にいたる道でね、そもそも直感なる怪しげな感覚で定立した「存在」に根拠を与えようと、確かな物にむかって存在を「延長」しちゃう。確かな物、すなわち神がいないのではないか、ということになると、「延長」は手段ではなく目的みたいなことになって、「延長」こそが価値だということになる。  

直感と延長のコンビは、別に悪いわけではない。ただ世界認識の基礎観念として、簡単に考えすぎている、恣意的に決定されたかのような物足りなさというのはあるだろう。そこでハイデガーはこのように言う。  

「この現象のもっとも固有な存在体制が、あらかじめ適切な形で解明されていない場合には、再構築も設計図なしに構築されることになるのではないか」   

再構築。   

ヒトラーの香りがしてきたのではないだろうか。ハイデガーはナチスに加担したと批判されることがよくあるのだけれど、それによってハイデガーの哲学的な価値が下がるというものでもないだろう。西洋近代の根拠のあいまいさを増幅したようなワイマール体制、ドイツを再構築しようとするヒトラー。  

恐ろしい話でね、何が正しくて何が正しくないかなんて、簡単には判断が出来ない。

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ハイデガーの解説書とかを読むと、道具存在というものがよく出てくる。道具存在というのは、ハイデガーの中心概念と言うわけではないが、ハイデガーの分かりやすいところではあるだろう。そのような判断で、ハイデガーの解説書にもしきりに取り上げられているのだと思う。
  
ハンマーの存在論。  

簡単に考えた場合、ハンマーが手元にあって道具存在で、人間は道具存在を使う特別な存在みたいな。  

これは違うな。これでは存在論にならない。  

ハイデガーのいう道具存在とは、使っているうちにあたかも体の一部になってくるような、そのような存在の事をいうのではないだろうか。例えば、ハンマーを使っているとして、慣れてくると釘を打つのもうまくなってきたりして、あたかもハンマーの先までが自分の体の一部であるかのような感覚がしてくるというのはありえる。他にも、車を運転していて、車の外郭までが自分の体であるような気持ちがしてくるなんていうのはないだろうか。  

このように自分の体を越えて、自分の感覚が外部に延伸するところの存在、これをハイデガーは道具存在と言っているのだろう。

自分の乗りなれた車だったら、自分も車と一体になりやすくて、すぐに愛車を道具存在と認識するのだけれど、他人の車だって、乗れば全く共感できないわけではないだろうから、ある程度の道具存在とは言えるだろう。こう考えると、道具存在ではない存在って、日常生活においてはあまりないんだよね。周りを見渡しても、パソコン、本、壁紙、蛇口、みんな自分と感覚のつながる期待が持てる道具存在ばかりだ。  

自分の周りの全てが、自分の手足の延長線上のような道具存在ばかりなら、心地よい世界観を満喫することが期待できるだろう。   

ここまでいたって、世界内存在における道具存在の位置づけというのが、かすかに見えてきたような。

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私たちは、いろいろなことを確信しながら日々を生きている。民主主義や人権という理念みたいなものから、仕事をしなくてはいけないとか、物は大事に使わなくてはいけない、みたいな日常的なことまで、確信の種類は様々だ。社会常識内の確信を持つ限り、これは別に問題ないのだけれど、常識外の確信を持ったりすると「おかしい」扱いされたりする。  よい確信というのは、この世界では特に称揚される。夢をもって頑張って、ついに夢をかなえて何とかドリームみたいな。一つのよい確信を墨守することが、この世界では推奨されている。  しかしそもそも確信とはなんだろうか。何が、私たちを何かに確信させているのだろうか。  何かを確信するって、眠くなって寝るときの、抵抗しようと思えば寝ることを拒否できるけれども抵抗しなければそのまま眠ってしまうという感じに似ていると思う。覚醒と睡眠は、脳内のスイッチのようなもので切り替わっているということが分かっている。意識の位相レベルを定期的に変えることが生物には必要なのだろう。しかし完全に自動的にそのスイッチが切り替わったりしたら、敵に襲われている時に突然眠り出すみたいなことが起こって不都合だから、意識が睡眠スイッチに多少介入できるような構造になっているのだろう。   確信も、睡眠と同じようなもので、何らかの確信を日々していかないと人間は生活できないのだけれど、あまりにひどい確信は拒否できるみたいな感じではないだろうか。そこでだよ、一つのよい確信を墨守することは本当によいことなのだろうか。意識の位相を一貫させるべきだといって、眠り続けたり、起きつづけていたりすることが、特段価値があるというわけでもない。どんな確信も同じで、そうこだわる必要もないと思う。この確信を失えば自分が自分でなくなるという不安を抱くことはありえるけれど、それはとらわれた考え方だろう。朝起きて自覚する自分は、寝る前の自分と継続しているだろう。寝るときに、このまま寝てしまっては自分が失われてしまうなんて考えたりしないだろう。  確信も同じで、恐れることなくフレキシブルに変更していったらいいと思う。

ハイデガーは「存在と時間」の中で、価値体系には越えられない限界があるという。
「存在と時間」のようなレベルになると、思考を柔らかくして考えていかないとついていけない。
 
例えば、医学というものを考えてみよう。  

この前 日経新聞に、痴呆症の薬の開発難航、という記事があった。記事によると、痴呆症というのは、脳内にある種のたんぱく質が堆積することによって発症すると考えられていて、このたんぱく質を取り除くのが難しい、と言うようなことが書いてあった。痴呆症はある種のたんぱく質が原因なんだそうだ。  

本当にそうなのだろうか。  
物事を簡単に考えすぎてはいないか?  

ある種のたんぱく質は、痴呆症の原因ではなく結果とも考えられるだろう。 

例えば、脳内に「ある種のたんぱく質」を造る脳内器官があって、そのたんぱく質を消費する別の脳内器官があるとする。この後者の器官の機能が低下した時に、痴呆症が発症するとする。「ある種のたんぱく質」を消費する器官の機能が低下しているのだから、「ある種のたんぱく質」は堆積していくだろう。 
このようなシステムがあった場合、痴呆症における脳内での「ある種のたんぱく質」の増加 というのは、痴呆症の結果となるだろう。  

このような「ある種のたんぱく質」を生産消費するシステムによって人間の知性が維持されているとして、このシステムの一部が不具合を起こしたとして、現代医学にこの不具合を直すような能力があるように考えられるだろうか。  

あるシステムによって維持される人間の知性とは何なのか、知性が知性であるとされるその基盤は何なのか。  

このようなことも分からないような現代医学に、頭の中をいじられるのなんて、誰もがお断りだろう。  

医学は壁を越えて人の頭の中をいじる権利を再び得ることができるだろうか。とてもムリだろう。医学も、その無理さ加減をよく知っているから、痴呆症治療において敢えて簡単な道、脳内のある種のたんぱく質を除去すれば、なんていうやり方を効果が薄いながら20年も追及したのだろう、そしてこれからも追求し続けるだろう。  

現代医学は、近代社会の何らかの価値観によって定立され発展したものだから、近代的価値観を越えてその向こうの事象を改変することはできない。知性なるものによって定立された近代医学体系が、自らを維持しながら知性の向こう側に行けるわけない。  

近代を確定する様な、この近代的知性というものは、そもそも何によって私たちの目の前にあるのか。そして、近代知性の向こう側に行けるような、そんな世界理解みたいなものがありえるのか。     

まあいろいろ考えてみて、このような考えがハイデガーを理解するきっかけになるかどうか極めてあいまいなのだけれど、とにかく何でもやっていかないと「存在と時間」というやつは、まったく一筋縄ではいかないようなレベルだよ。


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西洋存在論のあり方というのはプラトンに始まると、ハイデガーは「存在と時間」の中で考えている。西洋存在論というのは、別に難しい話ではなく、

「あるものはある、ないものはない、これが分からないようでは病気」

みたいな感じの、現代日本においても全く普通の感覚だ。

デカルトも「我思う、故に我有」と言った。デカルトの言説は、反論不可能のように思えるのだが、じつはそうではない。

「我思う、故に我有」というのは、「私は思う、その思っている私をさらに思う、そしてその思っている私をさらに思う、みたいな認識の多層構造が自己認識を生んで、故に我有」、みたいな話であって、私が思うとか、その思いがいれこ構造の多層認識になっているとか、多層構造になることによって何らかの実体が生まれるはずだとか、様々な前提条件がある。

「我思う、故に我有」というのは、無条件に正しいというわけではなく、細かな論理の飛躍が積み重ねられて一見無条件に正しいように見えているというだけなんだと思う。  

ではそのデカルトの言説の前提条件はどこから与えられているのか?  
デカルトをここまで導いたものは何なのか?  

どうしてもプラトンということになる。 

ハイデガーは、存在論の歴史の破壊と言っている。古代ギリシャの存在論を問題にしようということだろう。ニーチェが、叩きつけるように書いていた、「プラトンごときが」って。プラトンの思いつきの存在論によってこの世界が確定してしまったという考え方が、ハイデガーとニーチェに共通しているのだろう。

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ハイデガーの「現存在」という概念は、存在を認識する存在という意味で、これを人間存在と考えがちだとの記憶がある。今考えてみると、これ、あまりよくないと思う。

存在関係における存在感の強弱判断って人間だけではないだろう。犬やネコだって存在感の強弱を認識しているだろう。犬が他の犬を発見した時のあのはしゃぎぶりを見れば、犬は存在感の強弱を認識しているのは明らかだ。

存在論的に、人間だけが特別だと考えるのは同意できない。存在を認識する存在を人間に限定してしまうのは、余計なバイアスを哲学理解のなかに導入してしまう。思考の混乱の原因になると思う。一神教世界における思い込みのレベルだと思う。  

だから私は、「現存在」を人間存在ではなく意識存在と考えたい。  

存在を認識する存在、「存在を認識する存在」を認識する存在、「存在を認識する存在を認識する存在」を認識する存在、、、、、 。 

このような多層認識の構造を持つものが意識であって、現存在は意識存在と言い換えるのが妥当だと思う。これは全く私の仮説であって、アカデミズムにどのような共通認識があるのかというのは、私の考慮に入っていない。  

読書というのは、整合性のとれる限りにおいて自分の論理に引き付けて行うべきだと思う。ハイデガー読むことは、勉強ではなく探求だから。


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安倍総理が総力戦とか言っちゃって、着実にウイングを左に伸ばしてきた。民進党は、その地盤が侵食されても抵抗できない。民進党のメインスポンサーは連合で、すなわち大企業の正社員だ。大企業の正社員というのは、今となってはある種の既得権益者であって、明らかに労働者の代表ではない。安倍総理が総力戦を呼号しているのに、民進党は、正社員も守ります派遣社員も守ります、などという全くとぼけきった、哲学の欠片もない論理を展開してしまった。   自民党の左はすぐに共産党だ、という状況において、民進党の地盤はすでにない。いくらマスメディアが左巻きで安倍を追い詰めようとしても、存立の基盤のない者にとっては、敵に対するネガティブキャンペーンぐらいしか作戦はないだろう。残念なことに、このネガティブキャンペーンが成功したとしても、票を増やすのは共産党であって民進党ではない。存立の基盤のない政党の前を、有権者は通り過ぎるに決まっている。    政権をまじめに取ろうとするなら、安倍の右に出るしかない。小池百合子東京都知事の都民ファーストの会というは、その点、民進党よりはるかに有望だろう。都民ファーストというネーミングが、ちょっと全く右の臭いがする。この臭みを、小池百合子、女性、レディーファースト、という連想で消しにきているのだろう。都民ファーストというのを、ぶっちゃけて言い換えてしまえば、金持ち貴族主義ということだろう。なんせ東京の土地は高いから、東京で親から土地を相続するものは、それだけで地方よりはるかに金持ちだ。  安倍総力戦体制、対、小池金持ち貴族主義。 生臭い名前同士の戦いなのだけれど、現状の政治闘争の本線というのは、この辺りにあると思う。

見た感じそう悪くはないなと思った。人が死ぬことで自分が生きていることを実感するような共通の感覚を持つ主人公とアンチヒーローとの対決というのが一貫していて、映画自体に統一性はあるよなと思った。邦画の娯楽作品として及第点だろうと判断した。  ところが、ヤフー映画での評点が、2.37という。これは異常に低いだろう。理由として、女性の支持が得られなかったというのがあると思う。ヒロイン候補の二人があっさり殺されてしまうから、女性の視点からすると、見るべきものはなかったということになるかもしれない。デートには全く使えない映画ではあるだろう。映画館で男が彼女とこの映画を見た場合、男としてはいたたまれない気持ちにはなると思う。最悪なのは、二人でこの映画を見て、空気を読めずに男だけはしゃいでしまった場合だ。女の子に嫌われるだろうことが容易に想像できる。  原作がどのようなものかは知らないのだけれど、無理にでもヒーローかアンチヒーローのどちらか一人を女性にしておけば、まだしもマシだったのではないかと思う。

今から25年前、二十歳ぐらいの時か、ハイデガーの「存在と時間」を読んで玉砕した記憶がある。

普通に考えると、「存在」と「時間」というのは別個にあって、存在自体を問題にすることに意味があるのか、ということになる。全く自明のことをどのように問題にするのか? これは問題にしようがないわけで、さてどうするか。  

存在というものは問題に出来ないのだけれど、存在感というのは問題に出来るのではないだろうか。  

例えば、私の実家というのは、田舎の古い一軒家だった。二階に上る階段の上から3番目の段が、他の段より少し幅が広くて、子供のころの私に異様な存在感を示していた。その段を踏むか踏まないかは、子供のときの私にとってとてつもなく重要だった。存在感が、上から3段目の存在を支えていることは明らかだった。  

年をとって、存在感というものを感じなくなったのだけれども、もしかしたら今でも存在というものは、見えなくなってしまった存在感によって支えられているのではないだろうか。
    
ハイデガーの「存在と時間」における存在の問題とは、この存在感を問題にしているのではないかという仮説を元に、「存在と時間」を読んでいきたい。

借り物の論理では、本物の古典を噛み砕くことは出来ない。このレベルの本になると、ある程度自分に引付け読んでいかないと、経験上、読解は不可能だ。

岩波文庫で全4冊、トータル2000ページだから、一日100ページ読むとして、読みきるまでに1ヶ月はかかる。ニーチェをほぼ理解できたから、ハイデガーもいけるのではないかとの自負もある。暑い季節になるけれども、明日からハイデガーを汗だくで読むよ。

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「諸民族の幼年時代」はニーチェが17歳の時に書いたものだ。内容は、二流の社会学者が書いたような感じで、才能のキラメキというのは全く感じられない。

この思想が、若き日のニーチェ? どこを引用してもひどい。
例えば「諸民族の宗教は、はじめ彼らの心のうちに、彼らの父なる神を喜ばせたいという願いから始まった」とある。 

あらゆる価値観の転換を呼号したニーチェの、若き日の言論がこれだから。

父なる神というキリスト教くさい観念を諸民族に押し付けようとしている。宗教の起源という微妙な問題を、あまりに簡単に考えすぎている。というか、ここは宗教ではなく宗教儀式と言うべきだろう。突っ込み始めたらきりがない。  

若き日の論文群というのは、ニーチェの黒歴史だろう。晩年、あれだけの論考を展開したのに。   

でもいいように考えてあげたいと思う、「人は変われる、ニーチェも変わったから」 こんな風に。

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