magaminの雑記ブログ

2017年06月

平和主義存在体制と非常時存在体制というものがあるとハイデガーは言う。。ハイデガーは並列というけれども、非常時存在体制のほうが基礎構造だと思う。 

ハイデガーは、総体としての存在体制を表現しようとしたのだけれど、これを平和主義存在体制の視点からだけ見ると、よく分からないだろうとは思う。たとえば、出世競争を勝ち抜いて大学教授になったとして、その地位に大満足だとして、その人に「あなたの満足は様々な存在体制の表層の一つに過ぎないのだよ」なんて言ったって、それでどうにかなるというものでもないだろう。  

平和な時代が長く続くと、逆も考えられる。例えばハイデガーの言っていた強力な言説というのは、じつはある女性にささげられたものだった、みたいな。凡庸な言説が、天才の言説を飲み込もうというよな、平和な時代に、非常時存在体制を平和主義存在体制が飲み込んでしまうように。

たとえ話をしてみる。
「平和主義」というものがある。戦争反対みたいな、憲法改正反対みたいな。

戦後の日本というのは、この平和主義だ。戦後リベラルというのは平和主義を唱えて、さらに自分達が平和主義を唱えることによって現実平和に一役買っていると考えていた。 

私はこれ、論理が逆じゃないかと思うんだよね。戦後の日本に平和というものが設定されていたから、平和主義という言説が存在しえた。だから、平和主義を唱えるだけでは、反論不能の正義を主張しているだけであって、なんら正義に貢献しているわけではなかった。  

これは結局どういうことなのかというと、ハイデガー的に言えば、戦時体制時と平和な時代において、人間社会の存在体制が異なっているからだということになるだろう。平和な時代においては、伝統的な合理性みたいなものが尊重されたりする。

結婚して子供をつくることが価値だとか、会社で出世して役員車に乗るようになることが価値だとか、伝統的合理性とは、まあそのようなもの。そのような合理性が悪いわけではないのだけれど、それは絶対ではなく一つの存在体制にすぎない。

でもね、「存在と時間」はいつもそこにあって、再び命が与えられるであろう時を待っているよ。

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小池百合子率いる都民ファーストの会というものは、現状の富の固定化を狙うような、日本版のトランプ政権みたいなものだと思う。富の固定化が悪いわけではない。一つの政治スタンスだろう。  現状の安倍政権は、総力戦を呼号して、富の再分配を考えているだろう。今日の日経新聞を見てほしい。日経は社会保障の改革キャンペーンをやっていて、ついに今日の1面トップに、「国民皆保険による医療を医師の半数は持続不可能と判断」という記事を持ってきた。では持続不可能ならどうなるか? 必然的に資産課税ということになる。資産課税というものが導入されてもっとも不利益をこうむるのは、とうぜんながら資産家だ。東京というのは土地も高くて、東京に持ち家があるだけでも、地方からみれば十分な資産家といえる。都民ファーストの会の躍進は、安倍政権の資産課税をちらつかせる様な総力戦政策に対して、堅実に資産を維持してきたと自負している都民中間層の不安の表れだろう。  

ハイデガー「存在と時間」のなかにこのようにある。

「カントは言う。私たちの外に存在する事物がまさに目の前にあるということ対して強制力を伴う証明が、哲学にはいぜんとして欠落している」 

これが哲学の醜聞といわれるものだ。  

正直何を言っているのか分からないと思う。

目の前に物があれば、ふつう誰でもその物を、ありありとした実感として、ああここに物があると感じる。そもそも目の前に何か物があるとするなら、それはたいがい自分が好きでそこに置いているわけで、自分で置いておいてその物に現実感がないとか言い出したら、離人症だろう。

この世界に現実感がないと言っている人間に対して、存在感をもたらす強制力を伴うような論理的な説明というものが存在するわけない。潔癖症で手ばかり洗っているような人に、そんなに手を洗っても意味はないよ、と言ったとしてもその人の潔癖症が直るわけではないのと同じだ。 

哲学を買いかぶるな。  

近代以前の西洋においては、存在の存在感というのは神によって保障されていたのだけれど、近代以降、神が力を失って、では神の代わりに哲学が存在の存在感を保証しましょうということになった。しかしそもそも、存在の存在感なんていうものは、誰かに保証してもらうようなものなのか? 日本的に考えるなら、「ある物」の存在感というのは、まあなんというか全体の中から浮かび上がってくるような、全体にも力があるのだけれど、その中の「その物」にはより力があるみたいな、そんな感じではないだろうか。  

このように考えれば、ハイデガーの「存在と時間」は、西洋哲学の中では分かりやすい部類だろう。ヘーゲルとか、私は嫌いではないけれど、思い込みの激しい神経症患者の思い込み日記みたいなところがあるよ。神経症患者の思い込みにシンクロしようとすれば出来るけれども、やる価値があるかどうかは微妙ではあるだろう。   

「ある物」の存在感というのは、まあなんというか全体の中から浮かび上がってくるような、って書いたけれども、ハイデガーの言う「世界内存在」における世界というのは、ある物を全体の中から浮かび上がらせるところのその全体性みたいなことであって、基本的に分かりにくい話ではないんだよね。



この話が分かりにくいと思いましたら、以下のリンクに飛んでみてください




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ハイデガーはヒトラーを支援していたとよく言われるけれども、実際のところ、ハイデガーとヒトラーとの思想的な関係はどうなのだろうか。ハイデガーは難解、ヒトラーは極悪というイメージが出来ているだろうから、おそらく「存在と時間」も「わが闘争」も読んだことのない人が、何かに迎合した言説を撒き散らすということが大いにありうると思う。

「存在と時間」第1篇第5章Bで、人間存在の堕落形態について語っている。堕落といっても、堕落が悪いわけではない。人間は、本来的には世界の中に投げ出されているような存在体制になっている。ギリギリの時にはギリギリの生を生きる。ところが時代が平和になって、日常という恒常性が時代の雰囲気になってくると人間は、空談、好奇心、あいまいさ、という、自分が実存存在である事を忘却した状態になるという。ハイデガーはこれを人間存在の堕落形態だという。  

堕落形態がいいとか悪いとか、そのような価値判断は本来的にはない。危機のときに人間は人間存在に立ち返ってギリギリを生きるし、平和な時には人間は堕落して空談、好奇心を満足させるような存在形態を嗜好するようになる。  

しかし、平和な時代にギリギリの言説を語れば馬鹿扱い出だし、危機の時に空談、好奇心なんてやっていたらつけこまれる。例えば、戦後リベラルの言説というのは、平和な時代の空談、好奇心だったと思う。今危機の時代となって、相手にされなくなってきたということだろう。  

そしてワイマールのドイツ。  

平和が苦痛だというドイツ国民に対して、ヒトラーはこのように語りかける。  

「我々はより深い必然性の認識に従い、平和主義的おしゃべり連中の空想に抗議する。彼らはまぎらわしいことを言っていても、ほんとうはなお臆病なエゴイストだからである。われわれの理想は、公衆のための個人の献身によって実現されるものであって、臆病な知ったかぶりの連中や、自然の批判者の病的な観念によって実現されるものではない」    

ワイマールのリベラル指導層は、平和の水準を見誤り、強力な言説を操るヒトラーという怪物につけこまれたのだろう。  

リベラルにしてみれば、ハイデガーは何で我々の味方をしてくれなかったのか、ということになるだろうが、ハイデガーにしてみれば、リベラルを助ける義理なんてない、ということになるだろう。  

もしかしたら、ハイデガーは、時代錯誤の空談を弄するワイマールリベラルよりも、ギリギリを生きるヒトラーに親近感を抱いたかもしれない。確かにホロコーストは問題だろうけれども、空談の嫌悪感で空談してハイデガーを無視するというのでは、ワイマール的なものは再び足元をすくわれることになるだろう。



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ハイデガーは、人間世界においては雰囲気の上に事実や論理が形成されるという。そうであるなら、歴史も、歴史的事実や個人の偉業で記述されるのではなく、時代の雰囲気の遍歴で記述されるべきだろう。すなわち精神史だ。日本は明治維新から150年たった。その150年を貫くような枠組みの中での、雰囲気の遍歴の歴史というものがありえると思う。近代日本の雰囲気を再現できる歴史家は有能であるし、さらに雰囲気の遍歴の歴史を記述できれば、そいつこそが天才だろう。

ハイデガーは、「現存在は世界内存在である」という。現存在とは人間の存在体制の事だから、人間は世界内存在である、ということになる。では世界内存在とは何か。  

普通に考えると、人間は何も知らないまま生まれてきて、周りのからの教育とか、自らの知性や理性などによって、だんだんとこの世界はどのようになっているのかを理解するようになる。大人になって、自分は社会の中で生きているという自覚を持つようになると、すなわち世界内存在。  

これは全然違う。  

ハイデガーの論理は逆だ。人間には初めから世界内存在体制とも言うべき、存在条件のようなものが与えられていて、知性や理性というものも、世界内存在から発生するという。近代以降の常識とは、原因と結果が逆なんだよね。  

どちらが正しいかというのも、判定は難しいのだけれど、私はハイデガーの意見を方を支持したい。   

ハイデガーは、世界内存在の中に情態性なるものが充満していて、私たちはその情態性の海の中で理解したり解釈したりしているという。これだけを言うと何のことだか分からない。ハイデガーは、情態性を気分と言い換えてはいるのだけれど、これはもっと押して、雰囲気とか場の空気とかに言い換えてもいいだろう。  

雰囲気なんて、重要度としては二次的なものと考えがちだ。大事なのは事実だとか結果だとか、そういうものだろう。  

しかしだからといって、昔の事を思い出すときに、事実を思い出した後にその時の雰囲気を思い出すだろうか。  

普通逆だろう。  

私は、あの実家のちょっと甘いような重いような空気を思い浮かべた後に、死んだ両親の笑ったり怒ったりしたあの顔を思い出すよ。何でだろうね。  

今の私の周りのこの世界だって同じなのではないだろうか。ここは雰囲気のようなものに満たされていて、その中で私は思考しているという。

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結論から言うと、凡庸とは、この世界がこのようにあるのは当たり前だと考えるような思考パターンのことだろう。この世界の当たり前のところを、美しく雄大に表現することが、価値があるとされた時代もあっただろうが、凡庸の黒い波は、そのような古い価値をかなり侵食していると思う。  この傾向は、第一次世界大戦以降に顕著になり始めた。 小説と映画という近代表現形式は、現代において凡庸との戦いみたいなことになっていて、そしてかなり旗色が悪いように見える。

ハイデガーは「存在と時間」のなかで、人間存在には、そもそも世界を認識する枠組みが与えられていると考えている。初期条件として人間に与えられた世界認識の枠組みから、啓蒙や知性や理性という内実は発生するという。だから、ハイデガーの言う「世界内存在」という観念は、物事の結果ではなく原因なのだから、きわめて重要な位置づけとなる。  

受け入れにくい論理ではあると思う。
人間は、この世界に生まれて、そのうち世界を認識するようになると普通は考える。人間は、他からの教育と自らの知性や理性によって世界を理解するようになる、ということになる。 

一つ例をあげよう。  

なぜ人は人を殺してはダメなのか? 普通の考え方をすると、法律で決まっているからとか、文明的な教育の結果だとか、人間の理性として当然だとか、まあそんなことになる。この論理を逆転させて、ハイデガー的に考えると、ある一定の枠内で人間は人間を殺さないという世界認識を与えられている、ということになる。  

ハイデガーの原因と結果の逆転というのは、一見奇妙な感じがするのだけれど、よく考えるとそうでもない。  

文明的な教育の結果、人は人を殺さないというのでは、簡単に考えすぎているという感覚はある。ある一定の枠内で人間は人間を殺さないという世界認識を与えられていると考えは、あれ?ここもうちょっといろいろ掘れるのではないだろうかと思わせるものがある。    

私は思うのだけれど、スマホゲームなんかで、ゲーム会社が適当に作ったような世界観にハマるなんて全くの馬鹿だろう。そんなものをいじくりまわしたって何も出てきやしない。この世界のリアルの世界観を問題にした方がましだろう。

架空の世界での意味と、リアルの世界での意味とが等価だなどという論理も形式的には成り立つだろうが、もしそうであるなら、この世界に「意味」という言葉が存在する意味が全く分からなくなってしまうだろう。

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悪くないと思った。正直、最後ちょっと泣いちゃった。  ミステリーとしては、話の整合性が取れていない。美姫が被害者を車に残して電車に駆け込んだ時に、被害者はまだ生きていたわけで、条件が最初に与えられていれば美姫が犯人ではなく別に真犯人がいるということは簡単に明らかとなっていたであろう。  事件は、マスコミとツイッター情報で盛り上がって、美姫が犯人であるということで展開していって、警察というのはほとんど出てこない。  しかしこの映画は、本格ミステリーというわけではなく、いかに大人の記憶というのが自分に都合よく再編成されているかというのを主題としているので、話の整合性というは2次的問題だということだろう。  大人になると、自分の居場所を確保していかなくてはならないということもあるから、いつも真実を語るという訳にもいかない。みんな能力ギリギリのところで仕事をしているから、自分を失い記憶を失う。そんな時に価値を持つのが、子供のころの記憶だろう。この映画では、最後のロウソクでの合図シーンとなっている。  子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つない。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうる。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、 そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった、 と言うかもしれない。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはず。 いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだと。

評価すべき点は、驚くほど読みやすいということ。内容というのはたいしてない。主人公のサラリーマンが、小樽でロシア人のチンピラと知り合って、稚内にいるそのチンピラの彼女へに伝言を頼まれて、稚内でその彼女に会うと、彼女はすぐロシアマフィアにさらわれて、ロシア人のチンピラと主人公で彼女を助けるみたいな、ただそれだけ。それで文庫本で400ページだから。 主人公が、小樽から稚内まで行くのに高速バスに乗るのだけれど、ここの行程の描写が長い。50ページくらいあったのではないか。高速バスはどこから乗るかとか、ガイドかどんなアナウンスをしたとか、休憩所で主人公が何を買っただとか、どんな弁当が出たかとか、畑に草を丸めた巨大な円柱形のものがあったとか、家が少ないとか、雪が白いとか、話の筋に関係ない旅情描写が50ページだから。主人公って、稚内に大事な用事があって行くんだよね? 主人公が稚内に着いたら、まだ時間があるからといって、タクシーで宗谷岬に行ってしまう。いやー、海が凍っていますっていう。稚内に戻ってきて、まだ時間があるからって夕食だよ。東京に比べて安いカニを食べてみたとか。   お前もう観光に来てるだろう。   本格ハードボイルドなら、主人公はギリギリの時間に稚内に到着すればいいわけで、この本は、ハードボイルド風の観光案内本というスタンスなのだろう。大沢在昌の本をはじめて読んだのだけれど、観光取材というのを頑張っているなという印象だ。 私は北海道に暮らしていたこともあったから、ちょっと懐かしくなったりした。大沢在昌は旅行記のエッセイとか書いたらいいではないだろうか。文章は簡潔だし、取材熱心だし。ただ小説家としては、ちょっと線が細いかなという気がする。  まあ、この本しか読んでいないのだけれど。

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