magaminの雑記ブログ

2017年05月

まずもって思うのは、日本国民の中で我こそは天皇になりたいなどと思う人がいるだろうか、ということ。申し訳ないけれど、あのような不自由そうな生活を生涯送るというのは、個人的には正直かんべんだ。誰もやりたくない天皇というものを、天皇家は代々受け継いでいってくれるだろうというのだから、これは本当にありがたいと思う。 問題は、天皇制というものが、日本において何かの役にたっているのか、ということだ。日本の一体性を醸成するのに役に立ってはいる。しかしこの一体性というものは、危機の時には役に立つけれども、平和な時にはどうでもいいみたいなことになる。現に、明治期において、天皇制は様々な価値を追加付与され、日本の一体性を維持するのに大いに役に立った。  他にも、後醍醐天皇の活躍というのは、元寇による危機感というものと切り離せないと思う。  現代は比較的平和な続いているが、何百年というスパンで考えると、おそらく平和な時代ばかりでもないだろう。結局、天皇制は保険みたいなものであって、無条件になくてもいいというものでもないだろう。 天皇制が日本にとっての保険なら、天皇制のコストパフォーマンスが問われてくるだろう。 私は、この天皇制のコスパはかなりいいと思う。なぜなら、天皇に誰もなりたいと思わないことから、天皇制はローコストで運営されていることが推定できるからだ。  

ドストエフスキーの「悪霊」という小説の中で、レビャートキンというダメ人間が登場する。酔っ払いで、頭の鈍い妹に暴力を日常的に振るうというおりがみつきのクズだ。そのレビャートキンが、なんで? と聞かれたときにこのように答える。

「なんで? なんでだって? このレビャートキン様は、この世界のあらゆる「なんで?」に答えなくてはいけないというのか。世界の生きとし生けるもの、あらゆるものが神様に「なんで?」と問うている。何で生まれてきたの? 何のために生きているの? 何で死んでしまうの? これに対して神様は一度たりとも答えたことはない。神様でさえ答えたことのない質問に、なぜ私が答えなくてはいけないのか」

レビャートキンはうまいことを言うのだけれど、優しい部類だと思う。

なんで? と聞かれるのがとにかく嫌い。ちょっとは自分で考えたら、と思う。人にものを聞くにも礼儀があるだろう。ここまで考えたけれど、ここからどうだろうみたいな。それをすっとばして、いきなり「何で?」と聞くというのは、どうだろう。

答えてもいいけれども、そこには残酷な答えが待っているだろう。考えることを停止していた時間の分だけ、その残酷さは増していく。

この前、会社の同僚が私に、

「急いでやったから間に合ったんだよね」 

と自慢げに何かを言ってくる。何に間に合ったのかはいちいち知らない。ただ、

「あまり慌ててやらないほうがいいよ」

と答えておいた。そうしたら向こうが「なんで?」と問うてきた。

「二年前、取引先の半開きのシャッターに車をバックで突っ込んで、その時シャッターが完全に開いているかどうか確認しておけばよかったって言ってたじゃん」 

そいつ、呆然としていたけれども、二年程度の思考停止だからこの程度ですむ。これが30年、40年の思考停止だと、美しいほどの残酷な言説となってそれは立ち現れてくるだろう


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この世界が一見合理的に形成されているのは、当たり前のようで当たり前ではないと思うんだよね。尋ねれば答えは与えられるだろうとか、頑張れば報われるであろうとか、この世界に神がいないとするなら、何によってこれらの整合性への信頼というものは個々の人間に与えられているのか。

強力な理念を中心として、社会集団の観念群が合理的に再編成された場合に限り、この世界は予測可能な世界となるだろう。

整合性の取れた予測可能なせかいというものが、無条件に与えられるわけがない。人類の歴史上、どこかで何かが起こったんだ。

合理的な世界観を形成するということを西洋で最初にやったのはプラトンだろうけれども、東洋においては孟子だろう。

この日本世界を秩序付けたのは孟子で間違いない。左翼インテリは、近代日本を形成したのは西洋哲学系だと主張しがちだけれども、そのようなものは信ずるに足らない。借り物の論理で自らを持ち上げるなんていうのはできない。

日本を近代として持ち上げたものが孟子だったとしたら、「孟子」の本文を読めば、たちどころに孟子のすごさというのが分かるはずだよね。そして実際に分かる。

幸いなことに、日本には漢文を読むための書き下し文というものが存在している。これは日本の智恵だと思う。書き下し文で孟子を読んでみよう。孟子はどこを読んでもすばらしいわけだから、適当に選択してみようか。

孟子、万章に語りていわく、一郷の善子はすなわち一郷の善子を友とし、一国の善子はすなわち一国の善子を友とし、天下の善子は天下の善子を友とす。天下の善子を友とするをもっていまだ足らずとなし、また、古(いにしえ)の人を尚論(しょうろん 昔の賢人を評論するの意)す。その詩を誦し、その書を読むも、その人を知らずして可ならんや。このゆえにその世を論ず。これ尚友なり。

本文のこの迫力というのはまさに弾丸だ。意味として、大作家がいて、その作品のことをよく知りたいのなら、作家のみならずその作家が生きた時代そのものを知らなくてはならないと孟子は言っているわけだ。

当たり前のようなことを言っているように聞こえるかもしれないが、これは本当に当たり前の事なのだろうか。世界観が強力に維持されている場合には、孟子の以上の言説は当たり前だ。しかし世界観のシバリが緩んでくるとどうなるだろうか。おそらく、作品とは時代を超越して成立しうるなどという言説が現れてくるだろう。

時代を超越したとされる作品と、この孟子の私が適当に選んだ2300年前の断片の言説と、いったいどちらが時代を超越しているだろうか。

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私には二十歳の息子がいる。高専生なんだけれど、そこそこの成績も取るし、私と違って常識的な感じで妻の信頼も厚い。 気に入らないのは、いつもなんだかタブレットで奇妙な漫画を読んでいること。漫画が悪いというわけではない。私も子供の頃はジャンプとか読んでいた。しかし二十歳になってメインが漫画ってどうかなと思う。自分が二十歳のときはヘーゲルを読んでいた記憶がある。別にヘーゲルを読めとは言わない、というか二十歳でヘーゲルを読んでいたら将来不安で親としてもちょっと困る。これは言いにくいのだけれど、大学の時か、妻と最初にやって終わった直後、賢者モードというのか、おもむろに近くにあったヘーゲルの「精神現象学概論」を読み始めて、妻(当時彼女)を激怒させたことがあった。25年たった今でも、何かあると妻に「あんたはヘーゲルでも読んでいればいいでしょ」と言われる。  だから息子にヘーゲル読めとも言えないのだけれど、いつまでも漫画ってないとも思う。これを息子に言うと、「漫画を読んでいないのに、漫画を批判しないで」と言われる。 これは一理ある。読んでもないのに批判するというのは、これあんまりよくない。漫画は嫌いではないのだけれど、しかしオヤジになってまで流行りの漫画をいちいちチェックするというわけにもいかないだろう。そのあたりは、読書歴40年という私を信じて欲しいところだ。私ぐらいになると、読んでいない現代小説や漫画も批評できそうに思うのだけれど、もちろんそんなことはありえないのだろう。   息子との心の距離は開きがちだよね。

人は誰でも善の心を持つという。これを性善説という。

「人皆忍びざるの心あり。幼児のまさに井戸に落ちんとするを見れば、みな惻隠の心あり」

このような当たり前の感情が信念となりえるというのは、ほとんど孟子の発見だと思う。  当たり前の感情、強い信念、浩然の気、明確な世界観、これらのものは一体としてある。

人間はこの世界を様々に解釈しながら生きている。可能性として、その解釈が正しい場合もあるだろうし、正しくない場合もあるだろう。正しい正しくないというのは言いすぎかもしれない。正確に語るなら、その世界観に、実体があるかないかということになるか。

しかしその世界観の実体なるものは何によって保障されるのか。もし何によっても保障されないとなるとどうなるか。もしあらゆる世界観が等価だとするならどうなるだろうか。

孟子の世界観も、現代日本にほとんど無数に存在するスマホゲーの世界観も等価だということになる。まだありがたいことに、孟子とクソゲーとの世界観の差というのは明らかだ。   

「敢えて問う、夫子いずくにか長ぜる。曰く、我ことばを知る。我よく吾が浩然の気を養う」  

少し解説すると、孟子自身は強い志を持つことによって、人の考えていることが分るようになるし、自分の心のうちに強い気力というのが湧いて来ると言っているわけだ。
この考えは一理ある。強い信念を持っているであろう人間は、精力的に見えるし、その人の語る言葉があたかも正しいように聞こえてくる。そのようなことは往々にしてある。

しかしここで問題なのは、その強い信念なるものは何かということだ。これこそがその世界観の真の強さを決定する。自信に溢れた人がいて、その人の信念の根源というものが、例えば親が金持ちだったりとか、自らの学歴が高いとか、仕事が出来るとか、ハゲだとか、そのようなものであった場合、そいつはたいしたことない。いくらでも上からかぶせていく余地ありだ。

空気さえ読まなければ、根拠薄弱なチンピラの論理はいくらでもひっくり返せるというのは、まあ当たり前の話だ。

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この白楽天というのは、本当に幸せな人なんだよね。

楽天主義とか楽天家とかの「楽天」というのは、この白楽天に由来するのではないかとネットで検索してみた。出てくるのは三木谷の「楽天」ばかりだ。
その楽天株式会社の由来というが、読みたくもないのに読んでしまったのだけれど、織田信長の楽市楽座の「楽」と楽天的の「天」をあわせて「楽天」だという。

なんだかこれおかしくないかと思って。

楽天的という言葉の中に、すでに「楽天」という言葉が入っているではないか。織田信長の楽市楽座なんて、まずもって関係ないだろう。楽市楽座って言いたいだけなんじゃないのかと思ってしまった。 

 白楽天の最晩年の詩、「達哉楽天行(たっさいらくてんこう)」。  

幸せの人、白楽天の、全く自然体の詩だよね。  白楽天は70歳で官職を引退して収入がなくなった。ちょっと困った。そこでこのように書く。   

起き来たりてなんじと生計を計る   
薄産の処置に後先あり  
先に南坊の十畝の園を売り  
次に東郭の五頃の田を売らん  
しかる後にかねて居る所の宅を売れば  
髣髴として銭の二三千を獲ん   

こうなるともう日記だろう。韻を踏んだ日記だよ。最後の締めはこうだ。  

死生は可もなし不可もなし  
達なるかな達なるかな白楽天  

驚くほどの自然体だよね。頭がよくて憎めないというのは両立が難しいと思うのだけれど。白楽天は別格だろう。

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卯時(ぼうじ)の酒とは朝から飲む酒の事。  
 
白楽天は74歳まで生きたのだけれど、50歳をこえてくると、もう老後みたいになっちゃって、全く自然な感じで詩を書いている。花がどうとか、池がどうとか、酒がどうとか。 

「長恨歌」や「琵琶行」みたいな、リリシズム溢れる物語詩は書く気ぜんぜんありませんみたいな感じだ。  

普通ならイライラするところなんだけれども、白楽天の人徳なのだろう、白翁ならしょうがない感じになってくる。  
白楽天の「卯時(ぼうじ)の酒」という詩を見てみよう。そもそも朝から酒を飲むなんてろくでもない。アル中のダメ人間としか考えられない。  

未だしかず卯時の酒  
神速にして効力倍する  
一杯、掌上に置き  
三嚥して腹内に入る  
温かなること春の腸を貫くがごとく  
暖かなること日の背を炙るがごとし   

朝から飲む酒はダメ癖なのはわかっているのだけれど、敢えて強弁しているという感じだね。さらにこうある。   

行け、魚は泉に帰る  
超然として蝉は抜殻を離る  
是非、分別する事なかれ  
行止(こうし)、疑義することなかれ   

開き直っちゃっているんだよね。琵琶行を書いてあげたのだから、50過ぎたら朝酒飲んじゃってもいいじゃん、みたいな感じなんだよね。ここまで言われたら、ファンとしてはしょうがないみたいになるよ。  

白楽天って、本当に憎めない人なんだ。こういう幸せな人もめずらしい。

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私には行きつけの美容室というのがあって、高校2年の娘と2人で行っている。私も髪が薄くなってきて、正直美容室なんて必要ないのだけれど、娘が一緒でいいと言ってくれるので、ウキウキしながら行っている。男の店長と、40歳ぐらいの女性と2人でやっている目黒のシャレた美容院。 この前、会計の時に、その40歳ぐらいの女性に私は、
「娘が美容室にいっしょに行ってくれるってありがたいですよね」  
と喋りかけた。すると彼女は、
「これからどこか二人で何か食べに行くんですか?」
と聞いてきて、さらに
「いっしょに食べに行くって、ポイント高いですよね。私もmagaminさんが食べにいこうって言ってくれたら付いて行っちゃう」
 って言っていた。よく行く美容室の女性スタイリストとの行き着く最高のシチュエーションが不倫だというのでは、あまりに危険すぎるので、今回はスルーなんだけれど。  これで思い出した。  私は女性経験が豊富なわけではないのだけれど、付き合った女性というのは、押してもいいよというシグナルを私に出していた。それを私がドキドキしながら押して付き合うに至るという。誰もがこんな感じだったと思う。この感覚がわからないというヤツは、よっぽどのイケメンか素人童貞かのどちらか、もしくはその両方だろう。そもそもシグナルを出していない女性にアタックして、大いにありうることなのだけれど、もし10連敗でもしようものなら男としてのメンタルがもたない。   すなわち自由恋愛市場では、比較として女性に選ぶ権利があるということになる。そもそも男っていうのは、やれれば何でもいいみたいなところがあるし。   日本の婚姻率を上げるための簡単な方法というのは、国家が女性世界に手を突っ込むということになる。例えば女性の収入を制限するとか。  もちろんそんな政策はありえない、不可能だ。  簡単に考えていてはダメだろう。日本の人口減少を反転させるためには、今とは全く別の世界観が必要となるだろう。

孔子に、「吾十有五にして学に志す」っていうヤツがあるよね。これを真理だと思っていた。私は子供のころ、人間は年をとるにしたがって世界を理解できるようになり、まあなんというかどっしりとして落ち着いてた人格が形成されてくるものだと思っていた。   合理的推論、オッカムのカミソリ。  しかし現実はというと、全く残念なのだけれど、この世界では年を重ねても自然と人格が形成されるということはない。周りに六十代の人がいるなら、外見にとらわれず内面をよくよく観察してみればいい。驚くほどの子供ぶりだよ。よくあるパターンが、地位の高そうな人にはぺこぺこして、下っ端には威張り散らすというやつ。しょうがないとは思うのだけれど、60の半ばにもなれば失うものも少なくなってきているのだから、正義を体現してもいいと思うのだけれど、どうやらそういうわけにもいかないらしいよ。六(ろく)十(じゅう)にして耳(みみ)順(したが)ふ、って言っても、したがっている人ってかなり少数だろう。   合理的推論のどこが間違っていたのかと考えてみる。  辿っていくのならば、年をとるにつれて世界を理解するようになる、というところに疑義が発生するだろう。この世界においては、普通に生活するだけでは「世界を理解する」なんていうタームには至らない。現代人は、何らかの強力な世界観にコントロールされていて、世界を理解させられるだけで、「世界を理解する」という流れに逆らうような思考がほとんど許されていない。   一つ例を出そう。  職場のおじいさん達はロト6とか、よく買っている。期待値の低い宝くじを買うというのも、夢としては悪くないと思う。若いうちならありだ。しかし、六十半ばを過ぎたじいさんばあさんが、夢を買うっておかしくないか? 彼らは個体として永遠に生きるつもりなんだよ。    この辺に現代社会の狂気というのはあると思う。  個体として永遠に生きようとする。秦の始皇帝かよ。

この世界で忙しくしていると、雪が白いとか花がきれいとか、そういうのを大事に思うことが本当になくなっちゃうよね。雪がふると電車が遅れるのではないかと最初に考えてしまう自分は、全く哀れなものだろう。  いつからそうなってしまったのか。  西日本生まれの私は、少なくても中学生のころは、雪が降ると皿に盛り付けて、ファンタグレープをかけてカキ氷にして食べてたけどな。   

白楽天 「夜雪」   

すでに衾枕(きんちん、枕元の意)の冷たさをいぶかり  
また窓戸の明るさを見る  
夜深くして雪の重さを知る  
時に聞く 竹を折る声   

 白楽天は天才だろうと思う。  

夜、うとうとしていたら、いつもより寒いような気がしてちょっと目が覚めてしまったとする。目を窓に向けると、いつもの夜より少し明るい気がする。雪が積もっているのか、と微かに思う。そして耳を澄ましてみると、笹に積もった雪が滑り落ちたであろう音が聞こえて、ああ、雪が積もっているのだなと微かに確信したという。    
主人公は眼球しか動かしてないから。  
眼球をコンマ何秒か動かしただけで、五言絶句になっちゃうという。  
これを言ってしまうと蛇足だとは思うけれど、「夜雪」を西洋哲学風に言えば、時間の無限分割ということになるだろう。

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