magaminの雑記ブログ

2017年03月

権力への意思なんていうことを単純に考えてしまうと、自分が王様的なものになるかというような願望? ということになるかと思うけれど、ニーチェの「権力への意思」とは、もちろんそのようなものではない。


   

粘菌という生物をご存じだろうか。

細胞性粘菌の生活様式

細胞性粘菌は、食料が豊富なときは、それぞれの個体が「アメーバ」の形で増えていく。ところが、食料が減ってくると近くの個体が集まり細胞質融合を起こし、細胞の「集合体」となり、広範囲を移動する。さらに食料状態が悪化すると、「子実体」というきのこ状のものになり、先端から胞子を多数ばらまく。この時、胞子以外の部分は死んでしまう。  




もしだよ、粘菌の個体のそれぞれが自己の基本的人権的な生存を主張して、粘菌細胞の集合体になることを拒否したとするなら?  さらにだよ、粘菌細胞の集合体が、何らかの道徳観念を発揮して、「子実体」という集団内での生と死を明確に分けるシステムを拒否したとしたら?  

粘菌は種としてこの世界に生き残ることは出来なかったであろう。粘菌は個々の生より、種としての生きる意志を優先しているわけだ。 

分かりやすく粘菌に例えてみたけれど、同じようなもので、ニーチェは、人間という種としての生きる意志を、「権力への意思」と言っているのではないだろうか。   

すなわち、「権力への意思」とは、とても近代国家群に住む人が受け入れられるようなものではない。ニーチェ哲学が謎だとか言われるのは、理解すら拒否されているところがあると思う。


【ニーチェ「権力への意思 202」】

「頽廃の大仲介者たるプラトンは、道徳の自然性を理解しなかった最初の一人である」  

プラトンは何と何を仲介したのかというと、文脈からして、ユダヤ教とキリスト教だろう。私はニーチェを読む前から、プラトンの言説こそがキリスト教時代を伏流し、近代ヨーロッパを巨大な文明として持ち上げたと思っていた。ニーチェが私と同意見だったとは心強い。  では東アジアは何の言説によって持ち上げられつつあるのだろうか。   

私は、日本は明らかに孟子の言説によって持ち上げられたと思っている。おそらく今の中国も同じだろう。  ウェーバーでさえプラトンに辿り着けなかったのだから、もうプラトンの言説はヨーロッパでは力を失っているのかもしれない。しかし、孟子の言説は東アジアでまだ生きている。世界が無意味に見えたとき、人生の価値を見失った時、孟子に戻ればいつでも浩然の気のおこぼれにあずかれる。   

孟子を読め。  

ニーチェが生きた19世紀後半というのは、ヨーロッパ一強時代だった。ニーチェが気に入らなかったことのひとつは、プラトンが勝手に決めた価値観の序列が、唯一の価値観になって世界を覆っているという閉塞感だったろう。しかし、我々は現代において孟子の言説をてこに東アジアの明らかな勃興をみた。  

プラトンは相対化されただろう。  

ニーチェはすばらしいけれど、やはり言いすぎのところがある。



【ニーチェ「権力への意思 227」】

「彼らは、肉体の要求、肉体の発見を軽蔑し、勝手気ままに無視しようとする。かくして、肉体のあらゆる全感情を道徳的価値へと還元する。病気自身も道徳によって制限されていると考えられ、事情によっては自発的に病気にかかる」




【結核がかっこいいという時代があった】


日本は西洋国家以外でいち早く列強に参加した。現代中国の明らかな勃興を見れば、日本は東アジアの伝統の歴史的言説をてこに、自らを持ち上げたということは明白だろう。

ところが、昭和以前はその辺が曖昧だった。西洋の真似をする、とにかくなんでも真似をするというのが流行というか、一つの価値であったというのは記憶に新しい。  

今から考えると、馬鹿どもが西洋の価値を過剰に評価する一方で、東アジアの伝統的価値を地道に積み上げ日本を持ち上げていたということがあったということになる。   

昭和以前における西洋崇拝の馬鹿げた流行の例を一つ挙げよう。   

昔、「結核」がかっこいいという流行があった。日本での始まりは徳富蘆花の結核小説「ホトトギス」あたりだろうと思う。現代少女マンガの金字塔「ベルサイユのばら」にも、主人公のオスカルが咳ををしたら手に血が?という場面がある。 

「それは結核です」  

結核は華麗な死を予兆する伏線となっていて、オスカルはバスティーユの戦いで死ぬ、結核ではなくて。  

結核ブームなるものはなんだったのか。結核がかっこいいなんていう流行がいかにして可能なのか。 

すなわち結核愛好の流行とは、肉体を軽視した時に現れる道徳的価値の一つの堕落した表現なんだよね。  

徳富蘇峰と徳富蘆花、きわめて優秀な兄と流行を追いかける足りない弟、A級戦犯容疑の兄と「ほととぎす」の弟。  

結核のイメージは、日本の近代に何らかの意味を付加しただろうか?



【ニーチェ「権力への意思 317」】

「つねに人間の中等品を尺度として測られるなら、、、」  

そういえば、近代以降の道徳というのは、中産階級をターゲットとして設定されていると言えなくもない。誠実、信用、勤勉、正直、みたいな通俗道徳が結局は近代国家の原動力だったというのは間違いないところだ。日本もそうだったし、ヨーロッパも同じだ。  

実際に労働をする場合には、小回りがきくみたいなことも必要なのだけれど、やはり誠実とか勤勉とかは基本だろう。よく考えると、誠実とか勤勉という徳目は、ある程度の努力で習慣化できそうなレベルで、凡人向けではある。 

誠実、勤勉が、よりすばらしい理想にいたる階梯だというのなら、別に問題はない、覚めない夢みたいなものだ。しかし、誠実、勤勉が、中等程度の人間を大量生産するために作られた徳目だとするなら、これは看過できない。誠実と誠実のふりをすることとの区別がつきにくくなる。 

例えば、新聞を読んだときに、この新聞は信用できると思って読むのと、この新聞にはどこにどんなバイアスがかかっているかわからないぞと思って読むのとでは、コストが異なってくる。誠実という徳目が真か偽かというのはあまり意味がなくて、誠実をローコストで信じあえる中産階級というものに意味がある。それをニーチェは、「誠実という徳目は中等品の尺度」だというのだからキツイよね。          

同じ箇所でもう一つ。
  
「徳は伝達されないのである」  

プラトンの「プラタゴラス」でソクラテスも同じようなことを言っていたのだけれど、ニーチェとソクラテスが同じことを言うのが解せない。 

ニーチェは率直に語るから、ひねっているとすればプラトンのほうだと思う



【この世界は何故このようにあるのか】


ニーチェは「権力への意思」のなかで、近代的価値を一掃し、新しい価値世界をつくるべきだと唱えている。



この世界は何故このようにあるのかと不思議に思ったことはないだろうか。  

現代世界を確定した価値とは何かというのを、突き詰めて突き詰めていくと、西洋ではプラトンの正義論、東アジアでは孟子の性善説ということになる。思索する個人は最後に問われる。  

性善説を信じて、この世界を受け入れるか、性善説を拒否して、この世界を再編成するか。  性善説を拒否しながらこの世界でよろしくやろうというような考え方は成り立たない。そのような考えは社会に寄りかかった甘えであり、精密に議論されるなら簡単に論破されるレベルだ。逃げれば論破されないと思ったら大間違いだ。人は死ぬ。死ぬまでに、この世界での意味を問われるときが必ず来る。お金が沢山あるとか、愛する人に囲まれているとか、そのような状況などは、自分が社会に甘えてしまった弱さとは何の関係もない。  

「権力への意思 第1書、第2書」で、ニーチェは世界の価値を相対化して、読者を、正義は真理であるという場所から正義を信じるかどうかという場所にまで連れ出す。正義を信じるという者はそのままでいい。しかし、正義を信じないという者には、新しい価値秩序が必要だ。近代社会は、そもそも正義を信じないなどという人間のためには構成されていない。   超人には新しい価値秩序が必要で、その新しい価値秩序とは何かというのが「権力への秩序 第3書」以降で書かれている。  

個人的には、孟子の性善説を信じてこの世界を受け入れるという人生で悪くないと思っている。



【ニーチェの言う「権力への意思」とは何か】

権力への意思とは認識を確定する力みたいなものだと思う。これだけいうとよくわからないと思うので、例をあげてみる。  

いつも水曜日にする仕事があったとする。これを火曜日にやってもいいんじゃないかと思って、ある日実行したとする。うまく火曜でもやれるじゃんみたいなことになった。その仕事を火曜日にするようになったら、そのうちその仕事を火曜日にしなくてはいけないような脅迫的心情を抱くようになってきた。

このようなことは、仕事でよくある。フレキシビリティーを求めていたにもかかわらず、固定観念が発生してしまうという。このような観念を固定するところの力を、ニーチェは「権力への意思」と言っているのだろうと思う。固定観念にもいろいろあって、ゆるゆるのやつもあるだろうし、誰でも持つような極めて強固なものもあるだろう。上記の例はゆるゆるの部類になるだろう。  

これがもし、きわめて強固だと思われている概念が、実は固定観念だとしたらどうだろうか。民主主義、自由、平等、民族、独立、正義、神。これらの諸概念が真理ではなく、固定観念だったとしたらどうだろうか。真理は真理だから我々に真理として立ち現れるのではなく、ありふれた概念が何らかの力によって強力に固定されたものが真理ということになるだろう。こうなると真理は真理ではなく、世界を支配しているのは、権力への意思ということになる。



【もう一つの考え方】


「権力への意思」とは何かというと、概念を確定する力的なものだと思う。

概念を確定する力というのは至る所にある、というかこの世界にはこの力しかない。至る所に概念を確定しようとする力はあって、それぞれの力同士が、互いに同じ領域で概念を確定しようと争っているという。

プラトンが正義の概念を確立したのは、概念を確定しようとする力同士の争いに決着がついたからだということになる。物理の法則も、「権力への意思」の間における闘争の便宜的な平衡状態の表示、ということになる。   

ニーチェの言いたいことは分かるのだけれど、常識では理解しにくいというのはあるだろう。  

ただ、ニーチェのいうことも一理あるとは思う。現代において科学は発達した、すばらしい。ただ肝心なところが分からない。意識とは何なのか、進化とは何なのか、生物とは何なのか。

物理学は時々奇妙な論理を繰り出したりするのだけれど、あれってどこまで本気なのかって分からないところがある。例えば「シュレディンガーの猫」とか、猫は半分生きていて半分死んでいて、確認された時点で生きたり死んだりするみたいな。それ本気か? おそらく自分が頭がいいと思っている人たちのサークル内では、この微妙な感覚が理解できたら頭がいいみたいな合意でもあるのだろ。嘘でももう少しマシな嘘をついてもらわないと困る。  

この世界を理解するための要素が一つ足りないということはありえる。なんせ、肝心なことが分からないのだから。粗雑に言ってしまうなら、この世界を理解するためのたった一つの要素というのが、概念を確定する力であって、ニーチェはこの力を「権力への意思」と呼んでいる。この「権力への意思」を貫徹することによって、この世界の価値観を再編成しようというのだろう。  

キリスト教や西洋世界を相対化しようというところまでは、ついてこれる人もいるだろう、フーコーやウェーバーみたいに。しかし、「権力への意思」とか言い出すと、オカルトっぽくなって、理解できる人も少なくなってくるだろうとは思う。渾身でこの世界の奥に手を突っ込もうという。



【さらにもう一つ】


この世界には細分化された同種類の力的なものが溢れていて、力同士が互いに互いを同化しようと争っているという。このような争いが、さまざまな位相、物質だったり、細胞だったり、人間だっり、認識だったりという全ての位相で行われているということだろう。

世界が力の相克だとするなら、善と悪、神、正義、平等、人権、そのようなものは意味がなくなる。例えば、「正義」というのは、そもそも力の相克を調停する観念だ。善と悪、神、平等、人権なども結局似たようなものだろう。  

この現代世界は、確定された観念にしたがって個人が行動するというのが普通になっている。なぜ人を殺してはいけないのか、簡単には説明できない。不倫はダメで、借金の踏み倒しもダメだという。何らかの固定された観念に私達が影響されているのは明らかだ。 

力の相克なんて野蛮な感じがするだろう。フーコーやウェーバーはニーチェをヒントに世界を相対化するような言説を展開したけれども、相対化した後の展望はなかった。気持ちは分からなくはない。この世界の価値観を相対化した後、力の相克という生々しい世界が現れるとしたら、それは大学教授みたいな人にはきついだろうから。  

結局トータルで考えてどうなっているのかというと、この世界の秩序というのは岩盤だとみんな思っているのだけれど、ニーチェの「権力への意思」みたいなものでひっくり返されるという脆弱性がある。

ヒットラーとか、今から考えると、彼はこの世界をひっくり返すという観点においては結構いいところまで行ったのではないかと戦慄するところがある。


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ニーチェは「道徳の系譜」の終盤になって、ついにプラトン批判を出してきた。プラトンの言説こそが、近代以降のヨーロッパをここまで持ち上げたところの核心であるとニーチェが考えているのは間違いない。  

「道徳の系譜 第3論文 19」 

「真当の嘘、正真正銘の断固たる正直な嘘、(これらの価値についてはプラトンに聞くがいい) は、彼らにとってあまりにも厳しすぎ強烈にすぎるものであるだろう」  

プラトンの正直な嘘とは何か。結論だけいえば、正義がないのなら、それを作り出さなくてはならない、ということになるだろう。

プラトンは「国家」の中で、哲人国家という正義の国家を仮想した。そして現実に存在する様々な国家体制というのは、哲人国家からの堕落形態であるとした。これだけをみると、別にプラトンに何の問題もないように思う。

しかし、もしプラトンが正義という概念を捏造したとしたならどうだろう。まあ、正義の概念の捏造というは言い過ぎかもしれない。しかし、プラトン以前においては、正義という概念はあったとしても、きわめてあいまいだったとして、プラトンが国家体制の価値に明確な序列をつけることで、正義という概念が明確になったとしたらどうだろう。

正義とは、価値が秩序付けられた世界に現れる一つの概念だろう。プラトンが行なったことは、「正義があいまいなら、それを確定させなくてはならない」ということになる。これがニーチェの言う、正直な嘘、ということだろう。   

近代世界というのは、正直な嘘を頂点として、下降すればするほど、その合理性が怪しげな価値体系の集合として存在している。プラトンレベルの正義というのは、誰もが実践できるというものではない。ニーチェの、「それは彼らにとってあまりに強烈すぎる」 とはこのことだろう。

ニーチェは、ルサンチマンという言葉まで創って、この世界の弱い輪を攻撃して、さらにプラトンの足元を、さらにはこの世界の足元を掘り崩そうというのだろう。   

だから、ルサンチマンという言葉は、使うことにかなりの覚悟がいるよ。ルサンチマンとは、この世界をひっくり返すためのニーチェ渾身の言葉で、世界がひっくり返れば、自分もただではすまないのだから。ある意味、呪いの言葉だ。

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ニーチェの研究者の中で、ニーチェ哲学を「遊戯の哲学」といっている人がいるらしい。ニーチェ全集の解説に書いてあった。本の巻末についている解説とは、何故あんなにくだらないのか。しばしば唖然とする。  

ニーチェが「遊戯の哲学」だって、笑止。 

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ニーチェ「道徳の系譜 16」にこのようにある。 

「飼いならされようとしているところの、おのが檻の格子に身を打ちつけて傷だらけになるこの獣」

マックス.ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でこのように言う。      

『強力な言説がもたらした禁欲思想は、世俗道徳を 支配し始めるとともに、今度は近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになった。この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構に入り込んでくる個人の生活スタイルを決定している。
バックスターの見解によると、外物についての配慮は、「いつでも脱ぐことができる薄い外套」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外套を鋼鉄のように堅い檻にしてしまった。禁欲が世俗を改良し、世俗の内部で成果を挙げようと試みているうちに、世俗の外物ははるかに強力になり、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまった。
ともかく勝利を遂げた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としていない。将来、この鉄の檻に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、全く新しい預言者が現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それともすべてが機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にも分からない』     

これを最初に読んだときは、すごいと思ったのだけれど、今考えるとニーチェの影響をかなり受けているだろう。 

マックス.ウェーバー、鉄の檻なんて突然うまいことを言った、と思ったのだけれど、この部分はニーチェの引用だろう。   

マックス.ウェーバーとかフーコーとかは、近代西洋世界を相対化しようとするものだろうけれど、その根源はニーチェにある。ニーチェ自身の言説というのは、あまりに正直で、あまりに過激で、それを直接引用するのは放送コードに触れる恐れがある。現代の哲学者や社会学者だって、社会的なポジションというのがあるわけで、ニーチェを真正面から取り扱うのは、そのような人にとっては身の危険だろうと思う。ウェーバーとかフーコーっていうのは、ニーチェをマイルドに紹介したというレベルのものだろう。  

ニーチェがどれだけ過激かというのを、日本社会でたとえてみるなら、知り合いの葬式に行ったときに、このような葬式なるものは似非道徳で悲しみの馬鹿の上塗りで群畜本能丸出しの弱者同士の傷の慰めあいだと絶叫しながら、棺おけをひっくり返すレベルだ。  

言っていることは一理あるかもしれないが、葬式に殴りこむのはちょっと待ってということになるだろう。  

しかしね、見ているほうは面白くてたまらない。坊主と狂人のガチンコの議論ってすごそうだ。

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ニーチェ「道徳の系譜12」 にこのようにある。  

「この世界にあるのはただ一個の遠近法的認識だけである。しかるに我々が一事物について、より多くの情念をして発言させればさせるほど、その同一事物についての我々の概念、我々の客観性はより完璧となるだろう。それなのに、意思を全く排除し、情念を残らず取り除くということは、たとえそれが我々にできるとしても、どうだろう、それは知性を去勢することではないだろうか」  

世界を相対化するためには、ギリギリの問題を問わなくてはいけないとは思う。  

近年、相模原で知的障害者が大量に殺されるという事件があった。日経新聞では、裁判での犯人の動機解明が期待されている、とあった。そもそも、何故犯人の動機なるものが解明されなくてはならないのだろうか。

犯人の「告白」のようなものが期待されているわけだろう。犯人は子供のころこのようなひどい境遇にあってみたいな。さらに望ましいのは、犯人の生まれながらの精神障害とまでは行かなくても精神的幼さの告白だろう。しかしそのような告白になにか意味があるのだろうか。犯人が何か告白したとして、告白したということではなく、告白の内容自体に、覗き見趣味以外の何か教訓的教育的「曲玉」的なものが、はたして存在するだろうか。 問われるべきは、犯人の告白ではなく、犯人の告白を必要としている私たちのあり方ではないだろうか。

世界は犯人の告白を必要としている。

この世界が、なぜこのようにあるのかと不思議に思ったことはないだろうか。何でもいい、例えば映画を見て泣いたとして、何が私を泣かせるのかとか、自分と他人の確信が同じだったり異なったりするのは何故かとか。 

生物の体というのは、かなり合理的に出来ている。タンパク質と電気信号の駆動体って超絶レベルが高い。個体が次の個体に魂をつなぐというシステムも斬新だ。40億年の歴史の重みというのは、全くすばらしい。これに対して、人間社会というのは、完全に合理的に出来ているというわけではないような感じだ。

その人間社会の不完全性が、人間には他にも可能性があったのではないか、と思わせるところのものだと思う。そのような観念も、深夜の孤独の中でふと思いつく程度の事であって、実際に忙しくこの世界に暮らしていると、この世界の価値観というものに流されてしまうということは普通だ。しかし、日常の生活でチラリと見える真理らしきものを見てみぬ振りをして、そのまま死んでしまうなんて、とても恐ろしいことだと思わないだろうか。  

このように、世界は完全ではないから、論点をずらせば、いかようにも問うことが出来る。

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ニーチェ「道徳の系譜 8」にこのようにある。  

「イスラエルみずからが、おのれの復讐の本当の手先を、まるで不倶戴天の敵ででもあるかのごとくに全世界の前で否認しこれを十字架にかけざるをえなかったことによって、イスラエルのすべての敵がちゅうちょなくこの餌に食いつけるようになったのだが、これこそは真に偉大なる復讐政策の摩訶不思議な魔術というべきものではなかったか」  

すなわちだね、イエスキリストというのは、ユダヤ人がユダヤ教の精神を西洋に送り込むための先兵ではなかったのか、というわけだ。これは面白い仮説ではあるけれど、論理の構造が陰謀史観になっている。陰謀史観とか英雄史観を語るものは、思考が単純な傾向があると考えて間違いない。考える力を出し惜しみするから、つい近道をするのだろう。  

ニーチェは悪いよね、まともに言論を積み重ねたのでは埒が明かないから、陰謀史観的なことを語って、思考訓練の足りないものをかき集めようということだろう。大量に集めれば、クレオンのような天才的なデマゴーグも混じりこんでくるだろうという期待だ。

ニーチェは、「道徳の系譜」にいたって、その思想レベルを下げてきたと思う。面白いし分かりやすくなっていると思うけれど、その分過激で単純で、100%真に受けるということは出来ない。 ニーチェもわざとやっているのだと思う。 

「道徳の系譜」のニーチェの言論をまじめに取って、自分は選ばれし人間だなんて思ったら勘違いの確率がかなり高いだろう。

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ニーチェ「善悪の彼岸 242」にこのようにある。  

「ヨーロッパの民主主義化は、同時に専制的支配の育成にたいする、思いもかけない準備となる」

ニーチェのこれまでのこれまでの言論から推測して、ニーチェの願望というのは、この世界の価値秩序を解体して、その跡地により合理的な社会体制を築こうという、まあそういうことだったと思う。そのようなことは、論理的には可能だけれども、現実的にはありえない。次善の策として考えられるのは、現代の民主主義体制の崩壊を出来るだけ促進して、その後に来るであろう専制支配体制に夢を託そうということだろう。 

これは方針転換だ。 

今までニーチェは、プラトンの影響をきわめて強く受けた近代西洋をプラトンごとひっくり返そうとしていたのだけれど、ここに来て、西洋文明盛衰という時間の尺をつめていこうという、そういうことだと思う。  

プラトンの文明論というのがそもそも、国家というものは、正義の哲学国家から、江戸時代のような名誉国家、明治国家のような金持ち支配性国家、戦後日本のような民主国家、ナチスドイツのような僭主国家、と連続的に堕落して行くというものだ。
すなわち、民主国家を早く終息させて、僭主国家に希望をたくそうというニーチェの論理はのは、プラトンの哲学に乗っかっちゃっているよね。 

この辺をニーチェは、明確に理解していたと思う。そもそもニーチェとは、ギリシャローマの文献学者の出身だから。 今までプラトンをひっくり返そうとしていたのに、今はプラトンに乗っかっているという、ここを私は、ニーチェの方針転換だと言っているわけだ。

ここから推測されることは、ニーチェは以降、プラトンの名前を出さなくなってくるだろう。そしてこの近代世界に不満を持つ人々を挑発するようになって来るだろう。まあ例えば、あなたのような高貴な精神を持った人間が、このクソみたいな世界でうじうじしていていいのですか? みたいな。

ニーチェの狙いというのは、自分の挑発に乗った者の中に一人でもいいから本物がいてくれたらいいな、ということだと思う。

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