magaminの雑記ブログ

2017年03月

文庫本で200ページほど読んだのだけれど、ヒトラーは狂人でもないし、馬鹿でもないね。   ドイツにおいて、「わが闘争」は禁書になっている。禁書になるほどのパワーがあると考えていいだろう。インパクトのある部分を以下に紹介する。  「国家の権威、民主主義、平和主義、国際的連帯、等は、われわれの場合はいつもほとんど固い純粋の教義的観念になった公然たる概念である。すなわち一般の国民生活に必要なものの判断がすべて、この観念からだけ生ずるのである」  ニーチェの香りがしてきた。ニーチェは近代を相対化しようとした。フーコーはニーチェを手がかりに、精神医学というものを相対化しようとした。ヒトラーは民主主義や平和主義を相対化しようというのだから、フーコーのはるか上方を飛んでいる。ヒトラーなどという絵描き崩れに、フーコーの上をかぶせ続けられるものだろうか。ハードルを上げて、待ち伏せてみよう。  ヒトラーは続けて、このように語る。  「一度入り込んだ先入観という視角のもとに、あらゆる利害を考察するというこのいやなやり方は、客観的には自己の心情に矛盾することを主観的に考えてみるという能力をすべて殺し、ついに手段と目的を完全にひっくり返すようになる」   すばらしい、全くすばらしい。  この言説は、フーコーの上をいっているし、ニーチェを凝縮している。この言説に対抗するのは、並大抵ではないよ。ここまで来ると、民主主義、キリスト教、プラトン、ユダヤ教、そして歴史をひっくり返そうとするホロコーストまで一直線だ。西洋は怪物を生み出した。ウエスタンインパクトはいいけれど、トータルでやりすぎたんだよね。

GANTZ:Oはけっこう面白かった。 なにがどう面白かったのかを分解してみる。  ポイントは、主人公の「突き抜けた正義感」と、ぬらりひょんの評価点の100点だ。そして、この二つの条件をどのようにつないで話を収束させるかということにある。巨大ロボットとか、7回クリアの凄腕大阪メンバーとかは場を盛り上げる脇役みたいなものだ。ガンツファンなら、この辺の設定をぐだぐだ話すのは楽しいかも知れないが、私は別にガンツファンというわけではないので、GANTZ:Oの核心にいきなり切り込みたいと思う。時間もないし。     ぬらりひょんという妖怪は、人の心が読めるのだろう、人が放つ銃や剣をことごとくかわす。人の心を読むとはどのようなことか、もう少し突っ込んで考えてみる。例えば私が右手を動かそうとして、右手を実際に動かしたとする。右手を動かそうとする心情が意思と名付けられている。では意思以前の心情はどのようになっているのか。おそらく、右手を動かそうか、動かさないでおこうか、動かすにしてもどの程度動かすか、様々な欲情の相克状態だろう。その状態が、何らかの条件で固定されたとき、意識上に意思というものが立ち現れるのだろうと思う。ぬらりひょんは、人間の意志を読むだけではなく、欲情の相克状態から認識している。相手の心の相克状態が確定されそうなにったら、そこに立ち現れるであろう意思と行動を予測するから、ぬらりひょんは相手より早く動くことが出来る。   ぬらりひょんは相手の心の相克状態を認識し、相手の弱い部分を拡大体現することが出来る。GANTZ:Oで、ぬらりひょんは、おじいさんの風貌で現れる。大阪チームの有力メンバーが、まず挑む。ぬらりひょんは女体の集合体に変化してこいつを一蹴する。大阪チームの有力メンバーが女好きだという伏線は映画の中にはなかったのだけれど、漫画の中にはあったのではないだろうか。私は漫画のほうは読んでいないので分からないのだが。  次に西君が、女体の集合体としてのぬらりひょんを倒すのだけれど、ぬらりひょんは牛の化け物として再生し、西君を一蹴する。西君は牛が苦手だったのだろうか。  まあまあ、この辺からなんとなく分かってくるのは、ぬらりひょんの評価点を得るためには、人が再生させたものを倒すのではなく、自分が再生させたものを倒さなくてはならないということだ。西君が再生させた牛の化け物を、7回クリアの男、東八郎?(よく覚えていない)が倒すのだけれど、ぬらりひょんはオヤジの化け物となって東の前で再生する。東はオヤジの化け物に最後優勢になるのだけれど、とどめを刺すことを拒否する。映画では「リスクが高すぎる」と言っていた。リスクが高い、なんていうのはいいわけだね。ぬらりひょんが、相手の弱い部分を拡大して提示する能力がある事を考えると、東は逃げだしたのだろう。  最後は、主人公とぬらりひょんの戦いだ。ぬらりひょんは「神」を自称する怪物に再生している。  私は最初に、この映画のポイントは、主人公の「突き抜けた正義感」と、ぬらりひょんの評価点の100点だ、と書いた。何故ぬらりひょんの評価点が100点なのかというと、自分の弱さに勝つ必要があるからだ。GANTZとはドイツ語で「全て」という意味だ。一撃で100点、ガンツはすべて。100点の試練の中では、弱さこそが試される。   GANTZ:Oの最後は、神と正義との戦いとなる。正確に言えば、「自称神」と「突き抜けた正義感」との戦いだ。主人公の勝った理由は、神に物怖じしなかったということになるだろう。

ヨーロッパの秩序体制は、神とか正義とか人権とかそのような確定した概念があって、その明確な概念を中心とした概念体系が人間を覆っているというのはあるかもしれない。日本の秩序というのは、もう少しゆるい感じだろう。  結論から言うと、「本音と建前」ということになると思う。日本人は、建前によって日本の秩序は維持されているが、本音ではこの秩序は仮想ではないかと思っているのではないだろうか。  例えば民主主義というものがある。  日本人は本当に心の底から民主主義なんていうものを信じているだろうか? そりゃあ、新聞やテレビはきれいごとを言う。メディアは建前そのものだからだ。しかし日本人の民主主義についての本音は、日本は民主主義だったり民主主義ではなかったりするよね、という所にあると思う。建前では民主主義というものは確定しているのだけれど、本音では民主主義というものは揺れている。  これは悪いことではない、一つの智恵だと思う。  そもそも人間の生きようというエネルギーは、この価値観の揺れから来ていると思う。全ての概念が確定してしまったら、我々はAIと変わらない。うつ病などという病気は、心が建前に占領されすぎて価値観の揺れがなくなり、生きる力を衰弱させた結果なのではないだろうか。頑張るのはいいのだけれど、頑張りすぎはよくない。太平洋戦争なんて、あれは頑張りすぎたところがあっただろう。

教育があって社会的な地位にある人が社会的なルールを守るというのは当たり前。問題は、日本の下層民がどのようにルールを守っているのかということだ。  私の会社では、忙しい時には派遣を使うときがある。ほとんど人数あわせの最低賃金で働く人たちだ (私も基本的には彼らと変わらないのだけれど)。 彼らが全然ダメ人間かというとそうでもない。「仕事」だから最低限の事をやらなくてはならないという矜持はある。派遣同士にも人間関係があるらしく、使えないやつははぶられて何処のグループにも入れてもらえなくなるという。社会保障もなく最低賃金以下の派遣労働でも何らかの選別はあるらしい。  派遣を使う側も結構気遣いをする。派遣というのは奴隷ではないから、ここには行きたくないという選択の自由だけはある。だからムヤミにこき使ったりすると敬遠されて、派遣会社も余り物を送り込んでくるようになる。   派遣同士にも選別があるし、使う側にも気遣いがあるということで何らかのバランスが取れているのだろう、とんでもないヤツというのは来ない。  しかしあいつらはなんなのだろうとは思う。40にも50にもなって、社会保障もなし、妻も子供もなし、最低賃金で使われて。ただ不思議なことに、仕事に対する矜持があったりする。昼休みに派遣同士で、明日以降の予定を互いに一人前のつもりで話し合ったりしている。「あいつは使えないから連れて行きたくないんだよねー」 みたいな感じで。こんなものは、派遣でなくても誰もが似たようなものなのだろうが、人を下げてやっと自分を維持しているという醜さの蔓延。  最後はどうするのだろうとは思うのだけれど、現状はある程度の精神の均衡を保って仕事はするという。   下層民とはいえ、日本の場合は何らかの力により、かなり持ち上げられていると思う。

プラトンは人間の個別の魂が不死である、とまでは言っていないが、ただプラトンの「国家」の最後に、天国と地獄の言い伝えみたいな説話が採用されている。正義を実行した度合いによって、人間の魂は個々に天国と地獄にある一定時間振り分けられるみたいな。

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【プラトンの魂についての考え方】


プラトンがなぜ「国家」という書物の最後に、このような伝説を収録したのか、ちょっと不思議な感じがする。プラトンぐらい明晰な思考をするなら、無神論を唱えても全く違和感がないしという意味で。   

正義を実行したりしなかったりするから天国に行ったり地獄に行ったりするのだろうか。論理は逆なのではないだろうか。プラトンは、正義を確定したから、天国や地獄に行ったりする個別の魂を必要としたということもありうる。さらに言えば、プラトンが正義を確定しうるような価値の秩序を作ったことによって、個人別の魂というものが必要になったとも考えられる。

これをトータルで考えるとするなら、正義を引き出す価値観の序列を形成するほどの何らかの力が、私達の死後の魂は存在するという推論を、さらにそのアンチテーゼである無神論を支えているだろうと思う。   

死後の魂などという概念や無神論の必然なるものは、ある特殊な社会状況における帰結であって、唯一の形式というわけではない。  

すなわち、死ねば虚無であるということが疑問であるのと同様、死んで個別に魂が天国か地獄かに振り分けられるということも疑問だろう。ただ、この世界で正義を信じたのなら、死んだ後個別の魂が天国か地獄に振り分けられるかもしれないという覚悟は必要だろう。  

魂なるものは真理ではなく設定なんだろう。


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何故プラトンが歴史を予言できたのかということについて話していきたい。

普通に考えれば、未来は予言できない。最高の知性といえども、精密な予言というもの出来なかった。カント、ヘーゲル、マルクス、などもことごとく失敗している。   

ただ一人だけ例外がいる。それがプラトンだ。

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【プラトンの予言】
  

プラトンは「国家」という書物の中で、社会というものは、名誉制国家、金持ち支配制国家、民主制国家、僭主制国家、という順番で堕落していく書いている。

近代のヨーロッパや日本は、実際にそのような過程の歴史を歩んできた。

封建時代の貴族制国家とは名誉制国家とかぶるし、近代に入って選挙で指導者を選ぶという制度が現れたが、収入の多寡によって選挙権が制限されるという制限選挙だった。これは近代国家が金持ち支配制だったという端的な証拠だろう。

現状の先進国は民主制国家まで辿り着いている。プラトン的に言えば、民主制国家まで堕落したということになる。   

民主制国家の後に僭主制国家が現れたとしたら、プラトンの予言は完結する。ヨーロッパやアメリカでの極右の台頭を見ると、プラトンの役満は近いと思う。

しかし、プラトンの言説はなぜこうも未来を予言できるのか。普通に考えれば、プラトンはすばらしい哲学者だったので人間の精神構造が見えたということになるだろう。まあでもこれは、なさげな考えだ。物事を簡単に判断しすぎている。  

私の考えは、プラトンが哲人国家を設定したことによって、社会が貴族国家から下降し始めたのではないのか、というものだ。もっと分かりやすく言うと、プラトンが哲人国家という価値秩序を理想化したために、その理想をよしとし社会自体がその価値秩序を受け入れた場合、社会は哲人国家に向かって上昇するのではなく、僭主国家に向けての下降を始めるという。  

ニーチェも「権力への意思」の中で同じような考え方をしていた。  

プラトンは自分で社会の価値秩序を設定しているわけだから、何も知らない人よりは社会の未来を予言しやすいだろうとは思う。

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現代においては、「頭がいい」とは「頭の回転が速い」ということに還元される。  頭の回転を早くするためには、実はコツみたいなものがある。リアルというものは、観念と物質というものが分ちががたく結びついていると思うのだけれど、このリアルから観念のみを取り出して思考すると、思考のスピードが劇的に速くなる。物質という重りを切り離した観念が空を飛べるようになった、みたいなことになる。  すなわち、「頭の回転が速い」というのは、無条件に思考のスピードが速くなっているわけではない。観念と物質が癒合したリアルを失うこととの引き換えなんだよね。 本来は等価交換のはずなのだけれど、現代では、最初に言ったのだけれど、「頭の回転が速い」というのは「頭がいい」ということになっていて、ぶっちゃけて言えば、現代という世界は「頭の回転が速い」ということに過剰に価値を付与している。  観念と物質を分けて考えることを推奨しているということになる。では観念と物質を分けて考えることによってリアルを失うという損失は、現代世界においてどのように扱われているのか。  これは誰もが知るように「自己責任」ということになる。さらに、個人で解決できないようになったら「精神科学」という病院を用意してあるので、そちらへどうぞ。まじめな人ほどうつ病になるというのは、この世界の必然だよ。この世界は様々に可能性があったところからの一つの帰結にすぎない。常識とか法律とか仕事とか、そんなものはクソまじめに受け入れていかなくてはならないというほどのものではない。   観念と物質を分離するということを、最初に大々的にやったのがプラトンだ。プラトンにはプラトンの事情があったのだろうとは思うけれど、観念と物質を分離するという思考法は思いのほか強力で、プラトンの言説がほぼ省みられなくなった現代においても、枠組みのみの亡霊として、現代世界に暮らす誰もが体感しているように絶大な力を発揮している。 いくら相手が強大でも、自分の最後のリアルというものは守っていかなくてはいけないと思う。

私は現在47歳、4人の祖父祖母、父母全て死んでいる。故郷は岡山県の田舎なんだけれど、現在は神奈川在住。岡山に帰ることもないと思う。ただ墓だけがある。  あれなんなんだと思う。  墓参りなんかしないが、墓の管理料とかいって、3年に一回3万の請求が来る。さすがの私も、おじいさんおばあさん、父母の骨の行き場所がなくなってしまうのも忍びないような気がして、何万か払ってしまう。こんなの、大きい枠組みの霊感商法だよ。  日本には骨信仰みたいなものがある。いつまでも骨を捜したりする。6年前のあの地震で津波にさらわれた人の骨を七回忌までに見つけたいといって、ダイバーが海にもぐったりする。もう骨なんてないんじゃないかなと思うのだけれど、それでもダイバーは潜る。  この世界が合理的に出来ているなら、骨は探す必要ないし、私も墓の管理料を払う必要ないはずだ。ただ、もしこの世界が合理的に出来ていなかったら、なんていう不安がある。もしかしたら、こういう不安を大事にしていかなくてはいけないのではないかと思ってしまう。

北朝鮮がミサイル発射実験を継続して、米韓は共同軍事演習をやっている。中国は、北朝鮮を挑発するべきではないと言う。日本はアメリカ寄りだろう。  中国が北朝鮮を全くコントロールできないとするなら、トータルで考えれば、中国の言い分が一番整合性があるだろう。多くの人が、中国が北朝鮮を何とかしろと思っているだろうが、そもそも北朝鮮というのはソ連の衛星国家だったし。北朝鮮という国家は冷戦の遺物なんだよね。  日本もまったく責任なしとはいえない。太平洋戦争のあの惨敗で、自らを回収するのに精一杯で、併合していた朝鮮半島を放り出した過去がある。朝鮮半島を日本が植民地にしていたというのは、現代からみた考え方だ。戦前においては、朝鮮半島は日本本土であるか植民地であるかとの間で揺れていた。日韓併合は35年続いたのだから。35年というのは軽い年月ではない。35年の間には、日本と朝鮮との間に様々な一体化の運動がなされただろう。両国の間に、そのことを信じた人も多数いただろう。にもかかわらず、日本は朝鮮半島を放り出した。それは日本の弱さだった。  例えばだよ、兄が面倒を見切れなかった弟が、その後過酷な人生を生きたとして、それは誰に責任があるのだろうか。弟自身だろうか?、その後の弟の面倒を見た血のつながっていないおじさんおばさんだろうか?、弟の面倒を見る能力のなかった兄だろうか?、弟の事をよく気にかけていてくれた隣の病弱なオジサンなのだろうか?。

近代以前に起源を持つ芸術はいけるだろうが、近代以降に起源を持つ表現形式というのは、もうダメだと思う。具体的にいえば小説、映画、などだ。現代は、かつてのように様々な価値観が優劣を競うというものではなく、多くの価値観は対等だというようになりつつある。だから、明らかに優位な価値観というのは数えるほどしかなくなっている。小説家は数少ない優位な価値観に話を収束させようとするから、読んでる途中で筋が分かっちゃうんだよね。筋を分からなくしようとすると、作品としての整合性が取れなくなってくる。   プラトンにホメロス批判というのがある。プラトンは言う、完全に整合性の取れた世界において、はたして芸術なるものは必要なのだろうかと。だんだんプラトンの言説が真実味をおびてきていると思う。  小説や映画も、ぼんやり見ていれば分かりにくいのだけれど、優位だろう価値観と作品の整合性というのを意識して読んだり見たりすれば、明らかに作品の欠陥が目立つ。これは作品の責任ではなく、時代なんだろう。純文学なんていう表現形式は、明確に成り立たなくなっている。そのうち、ラノベとか漫画とか映画とかも同じようになるだろう。最後まで残るのは、エロぐらいだろう。

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