magaminの雑記ブログ

2017年03月

「わが闘争」を読み終わって思うのは、ヒトラーとは、チンピラでもごろつきでも馬鹿でも狂人でもないということだ。ヒトラーの思想を一言で言えば、総力戦思想となるだろう。第二次大戦前に総力戦思想を唱えた者は多い。日本で言えば北一輝だって、革新官僚だって総力戦思想だった。226事件で処刑された将校たちも、その動機は、このように農村が疲弊していて兵隊個々のふるさとが劣悪なら、トータルとして日本が守れないだろう、というものだった。これも広義の意味の総力戦思想だろう。ルーズベルトもスターリンも、やったことは、国の合理化、すなわち総力戦思想の実現化だ。    様々な総力戦思想の中で、全くずば抜けた完成度を持つ言説が、ヒトラーの「わが闘争」だと思う。   現代民主主義は総力戦思想の中から生まれてきた。だから逆説的に聞こえるかもしれないけれど、ヒトラーとは民主主義を破壊するものではなく民主主義をつくるものだ。   そもそも民主主義とはなんだろうか。普通選挙が行われ議会が存在すれば、その国は民主主義といえるのだろうか? 日本に普通選挙法が施行されたのは大正14年、実際に普通選挙が行われたのは昭和2年だ。そして戦前の日本は果たして民主国家だっただろうか。事実はそうではない。昭和初期の日本は、寡頭制国家、金持ち支配制国家だった。普通選挙が行われているからといって、それだけで民主主義とはいえないということになる。  再び問う、民主主義とはなんだろうか。 民主主義世界とは、この世界で社会の成員それぞれが、自分が社会の中で何が出来るのかと問われる空間ではないだろうか。出来ないことをやれといわれているのではなく、出来ることを出来るだけやれといわれている。現代日本には年金とか国民保健とかあるけれど、日本国民が、出来ることをできるだけやれるようにというための社会保障だろう。  ヒトラーは、ワイマールという寡頭制国家の堕落形態から、新しい民主国家を創ろうとしたというところは認めなくていけない。ヒトラーというのは普通に狂人扱いなのだけれども、あのホロコーストというのがあまりにひどいから、誰も何も言わないということになってしまったのだろうと思う。私だって、ヒトラーを擁護するというのは気が引ける。   私が小学生の時に、図書室にアウシュビッツについての本があって読んじゃったんだよね。40年近く昔だから、子供にふさわしいかの内容までの検閲というのがなかったのだろう、きわめて残酷な内容だった。一ヶ月に一回か、アウシュビッツにおいてユダヤ人の囚人は使えるかどうかのチェックのために全裸で看守の前を順次歩かされる。しょぼくれていたらガス室送りだから、生気を出すために囚人は太ももや顔を手で叩いて赤味を出したという。40年たっても小学生の頃に読んだこの部分を覚えている。  この世界はきれいごとばかりで成り立っているわけではない。

ヒトラーの言説の切れ味というのは、随所にすばらしいものがある。   ちょっと前に、安倍首相とトランプ大統領が会談したというニースがあった。そのことを思い出しながら、以下のヒトラーの話を聞いて欲しい。独を日と入れ替えて。  「どれほどわが民族が外交政策的に考える力に欠けているかは、どこどこの国の政治家が多かれ少なかれ「親独感情」を持っているかなどと、現在の新聞が報じていることからもっとも明白に知ることができる。その上この場合には、そのような人物がわが民族に対してもつ架空の態度の中に、われわれに対する慈悲深い政策の特別の保障が読み込まれているのだ。これはまったく信じられぬほどのナンセンスである。アメリカ人はすべてアメリカ人であり、アメリカのためでない政策を進んで行おうというアメリカ人はいないだろう。したがって、他者との同盟をその国の指導的政治家のドイツびいきの見解に基づいて打ち建てることができると信じるものは、愚者か詐欺師である」  日本の一般紙やテレビのニュースコメンテーターは、国のトップが仲良くすると、その国同志は蜜月だみたいな希望的な報道を垂れ流す。オメでたいインテリ階層というは存在するのだろう。よっぽどママに甘やかされたか。  付き合いのながいソープ嬢がいるのだけれど、彼女は私に、 「客の中で、指輪を持ってきて結婚してくれと言ってきた人もいたし、君のためにマンションを買ったなんていう人もいた。何で嬢と客なのに、そういうことを考えちゃうのかなーって思うよ」 といっていた。そりゃそうだ。  ある大手電気メーカーの重役の機密書類を回収したことがあった。特に重要だという密閉された箱を渡されて後で開封したら(焼却の前に中身が本当に紙であるかどうか確認しなくてはならない)、すべてクラブのチーママからの手紙だったことがあった。これは本当にマジ。チーママからの手紙を10キロぐらいはあったと思うあの箱いっぱいに溜め込んだあの重役は、女に関して全くおめでたいと思う。   ヒトラーは現代のあからさまな真理というものを、たびたびうまく表現してくる。

ホロコーストについて語らなくてはならない。ヒトラーがなぜユダヤ人大量虐殺などということをしたのかという問題がある。ヒトラーは狂人だったとか、さらに脳炎だったなどという説がある。このような説は認められない。物事を簡単に考えすぎている。一国を動かした言説が、狂人のたわごとだったなどということは、普通に考えてありえない。ヒトラーが狂人だったなどという観念が流布するのは、文明は進歩するという漠然とした観念があるからだろう。しかしこのような観念はまやかしに過ぎない。100年前のギリギリの天才が、現代の平和をぼんやり生きている馬鹿より馬鹿ということはありえない。   では、ヒトラーとホロコーストとはどのようにつながっていたのか。   そもそもドイツという国は、ドイツ帝国として1871年にプロイセンのヘゲモニーによって成立した連邦国家が始まりだ。明治維新が1867年だから、それより4年後というこになる。おもいのほか新しい国家だ。そもそもが連邦国家だったのだから、第一次大戦の敗北によって、ドイツの一体性が怪しくなったということはあるだろう。さらにドイツにはカトリックとプロテスタントとの確執というのがイギリスやフランスよりも大きくて、さらに一体性を維持するのが難しい状況が重なっていた。 ヒトラーはドイツの一体性を必要としていた。アーリア人というのは、ヒトラーにとってドイツの一体性を補完する概念だった。そして、アーリア人のアンチテーゼとしてユダヤ人を設定することによって、アーリア人という観念をより固定しようということだろう。   別の見方をすることも出来る。そもそもユダヤ人というはメジャー概念だ。ユダヤ教は、プラトンにもキリストにも決定的な影響を与えたところの、西洋においては概念の王様だ。ヒトラーは、ユダヤ人のアンチテーゼとして、アーリア人という概念を確定しようとした。  ユダヤ人のアンチテーゼがアーリア人である。アーリア人のアンチテーゼがユダヤ人である。  このようになると、互いが互いをフィードバックしあい、二つの概念が寄り強固に対立するようになるだろう。その結果のホロコーストだと思う。ヒトラーを擁護するわけではないのだが、ホロコーストの原因というのは、ヒトラーの思想から直接導き出せるというものではなく、ドイツの歴史的不安定性も考えに入れていかないと、知的に誠実ということにはならないと思う。  とにかくアウシュビッツとい強烈な悪が存在するから、ヒトラーを擁護するというのはきわめて危険だと思うけれど、それでも知的誠実さというのはゆずれないところなんだよね。

総力戦思想というものがある。日本も昭和に入って、金持ちと貧乏人が分裂した社会では、日本の総合力が発揮できないということで、国家が民衆の生活にまで手を突っ込むような、準戦時体制みたいなものになった。年金などの社会保障は、その淵源を戦中に発する。  ヒトラーの国家社会主義主義思想というのは、共産主義に少し遅れてはいるが、右からの総力戦思想のはしりだよな。  ヒトラーはホロコーストの悪辣ぶりで、その思想を言及することすら憚れるのだけれど、ヒトラーの思想の強力さというのは認めざるをえないと思う。    あと、プラトンの哲人国家と、ヒトラーの理想的ドイツ国家というのは確かに似たところがある。プラトンとヒトラーというのは対極にあると思うのだけれど、二人の理想国家がこれほどかぶるというのは、どういうことなのだろうか。プラトンは対話編という話し言葉の表現形式を採用したが、ヒトラーも演説重視、話し言葉の威力というものを強調している。この辺も不思議な一致ではある。ニーチェは、「プラトンごときが」などと言い、プラトンが基礎付けた西洋世界を相対化することに精力を傾けた。ニーチェ思想の完成形ともいうべきヒトラーが、またプラトンに近づくというのが、不思議なんだよね。この辺、循環しているのか?  もしかして永劫回帰?   もしかして、私、深遠を覗き込んでる?  

ヒトラーというのは、超一級の思想家だ。「わが闘争」を誠実に読めば、そのような結論に至るしかない。  ニーチェ哲学というものがある。 天才ニーチェ。 世界を相対化する者。 フーコーもウェーバーもニーチェの哲学のスカートのすそをちょっとめくったというレベルだろう。ニーチェでさえ自分の哲学を断片の言説でしか表現できなかった。ニーチェの哲学を一言で言えば、近代世界の主要な価値観を相対化すれば、強い意志の支配という真の自然が立ち現れるだろうというものだ。キリスト教や民主主義を相対化すれば、それだけで新しい世界が出現するというものでもないだろう。ニーチェには足りないものがある。この世界と新世界とをつなぐ環みたいなものが欠けている。この環がないから、ニーチェの哲学は体系にならなかったし、ニーチェの言う超人というのがよくわからなくなる。  ヒトラーはニーチェが見つけられなかった環を発見する。これが、人種。ドイツの血。アーリア人。  アーリア人なる優秀な民族の血なるものをてこに、人権、平等、民主主義という観念集合を、別の世界観に転換していこうという。「優秀なアーリア人」という概念を導入することによって、ニーチェの限界を突破しようというのだ。ここで問題となるのは、アーリア人なる概念の正当性だろう。科学的に考えれば、そのような概念は認められないということになるだろう。ヒトラーの狂気というのは、このあたりに由来すると思う。  ヒトラーの巧妙なところは、アーリア人なる概念の自立性は科学的に証明される必要はない、ただドイツの民衆にのみ信じさせればよいと考えたところだ。そのためのプロパガンダとなる。    全くすごい、ニーチェの上をかぶせていこうというのだから。   ワイマール時代のドイツのエスタブリッシュメントが、ヒトラーに政権を任せてみようと考えたのは全くの迂闊だったね。ヒトラーとは、守られてきたハイブルジョアが同じ土俵に立って勝てる相手ではない。   「わが闘争」における言説は、全く強力だ。ここまで来ると、プラトンレベルだろう。 戦争が起こって、このような強力な言説を操るヒトラーがいたとするなら、未来は見えないわけだし、ヒトラーにBETするという気持ちもわからなくもない。

【未婚社会では職種による男の選別が行われている】


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私は25年ほど前は帝国大学上位校にいっていたが、当時の部活の先輩同輩後輩もれなくみんな結婚している。出来る男というのは、女づきあいが苦手だとしても、女の方が放っておかない。  

私はブルーカラーの底辺会社に20年ほど勤めているのだが、下層階級としか表現できないような職人気質のやつも多数知っている。一見チンピラみたいなんだけど、元気で気のいいやつらなんだよ。どこでみつけてくるのだか、このようなやつらにも女がいる。下層階級には下層階級を再生産する仕組みがある。   

問題は中産階級下層だ。この層が最も結婚しにくい。つまり、メンタルが下層階級のそれにもかかわらず、自らは中産階級であると勘違いしている場合が結婚しにくいということ。

団塊の世代までは皆婚社会で、このような勘違いした中産階級下層も再生産できた。ところが社会的なプレッシャーがなくなり女性が解放されてくると、女性は真っ先にこの勘違いした中産階級下層から逃げ出すようになる。

普通に考えれば当たり前なんだよね。自分の欲求をコントロールできない下層メンタルが、全く勘違いして、自分が社会においてひとかどの何ものかであるという言説を四六時中撒き散らす男に添い遂げようなんていう女が今の時代に存在するわけない。勘違いで結婚できた団塊世代の子供達が、勘違いを当たり前だと思った結果、女性に恵まれなかったというのが、生涯未婚率30%の原因だと思う。   

世代が2回転もすれば、勘違いした中産階級下層というものは一掃されるだろう。  

例えを一つだそう。 

「ドラえもん」の「のびたの家族」いうのは、この勘違いした中産階級下層たろう。のびたは、自分の欲望をコントロールできない。
だからそのためのドラえもんだ。
のびたは、しずかちゃんと結婚するらしい。しかし普通に考えるなら、しずかちゃんにふさわしいのは、スネオかできすぎ君だろう。のびたはご飯をお代わりするとき、「ママお代わり」といって、ママを使っている。ママも当たり前のように子供にご飯をついでいる。のびたって小学高学年だよね。のびたは自分の欲望はコントロールできないくせに、ママをコントロールしようとする。のびたのような子供が大人になったとき、このような男と結婚しようなどという女が果たして現れるだろうか? 

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私はファシストではないが、この本のすばらしさというのは認めざるをえない。ヒトラーとは、超一級品の思想、リアルな歴史観、懸絶した言語能力、を併せ持つ怪物だね。   ヒトラーの言語能力のすばらしさをいくつか上げてみよう。第一次大戦ドイツ敗北時の責任ある政治家について、ヒトラーはこのように語る。 「世界大戦で無益な犠牲となったすべての死者を念頭におくならば、そしてまた、われわれが今日直面している無限の惨めさを考えるならば、これら全てがただ、良心のない野心家や、官職を求める連中の群れに、大臣の椅子への通路を空けてやるだけだったことを知るならば、これらの卑劣な人間は、実際のところ、ごろつき、ならずもの、やくざ、犯罪者といったような言葉でしか呼ぶことができない」  ここまで言って、さらにここからのかぶせ方がすごい。  「そうでなければ、このような表現が言語の慣用中に存在する意味と目的が全く理解できなくなるだろう。これらの国民を裏切る連中に比較すれば売春仲介者はみんな、まだ紳士といえるだろう」   これが推敲した文章というのではなく、口述筆記されたものだというのだから驚く。   もう一つ例をあげよう。現代日本においてリベラルというのは急速に力を失っている。リベラルは結局口さきだけみたいなイメージになってきている。このイメージをヒトラーが語れば、このようになる。  「我々はより深い必然性の認識に従い、平和主義的おしゃべり連中の空想に抗議する。彼らはまぎらわしいことを言っていても、ほんとうはなお臆病なエゴイストだからである。われわれの理想は、公衆のための個人の献身によって実現されるものであって、臆病な知ったかぶりの連中や、自然の批判者の病的な観念によって実現されるものではない」  この言説の中には、リベラルのぼんやりとしたイメージが、ズバリ実体化されている。  この「わが闘争」という本は、日本においてどこにでも売られていて、全く自由に読むことができる。さらにヒトラーに対する評論は、ヒトラーのすばらしい言説は黙殺して、結果論を盾にヒトラーの失敗をほじくり返すばかりだ。  これは恐ろしいことだよ。  いい気になってやっていたことは、実は自らの足元を掘り崩すことだったという結果になるだろう。

ヒトラーの「世界に冠たるアーリア人」なる概念が意味不明で、ここがヒトラーの突っ込まれるところではあると思う。ヒトラーは悪人だろうから、その論理の最も弱い環を拡大して貶めようという考え方はありえる。ヒトラーの悪口を言っておけば安全だということだろう。  馬鹿が。  私はこのような思考法は選択しない。   「わが闘争」を読む限り、アーリア人というのはユダヤ人のアンチテーゼだね。ユダヤ人が世界を征服しようとしているというヒトラーの考えは、行き過ぎだとは思うけれど全く根拠のないことではない。ユダヤ陰謀論なんていうものでもない。そもそも西洋文明にはユダヤ教というものが明確に刻印されている。キリスト教の聖典である聖書は、新約聖書と旧約聖書からなっていて、旧約聖書はユダヤ教の聖典だろう。新約と旧約を貼りあわせて「聖書」とかいうのは、キリスト教に関係ない人間から見れば、そんな不徹底なことでよくやっていけるよなとは思う。もう一つ、プラトンのイデア論というのは西洋近代哲学の根底を貫いている。プラトン自身はイデア論のアイデアをユダヤ教から借りてきたというのは、よく言われることなんだよね。近代西洋を現今のように持ち上げた力の大きい部分がユダヤというのは、間違いないところだろう。ベルサイユ体制下での苦境にあえぐドイツにおいては、何らかの実体としての概念が必要だったのだろう。それがヒトラーにとっては、ユダヤ人のアンチテーゼとしてのアーリア人だった。だから、アーリア人が優秀であるという既存の根拠はない。それはこれからの戦争に勝つことで証明されるだろうことになるだろう。    日本人の立場からすれば、独ソ戦とか必要ない。ソビエト連邦なんて共産主義のはみ出し国家なんてほっておけばいいと普通、思う。ところがドイツには、アーリア人なるものの優秀性を証明しなくてはならない特別の事情があったという。ヒトラー自身の思想というのはすばらしい。ヒトラーは何年かにわたる世界大戦の過酷な従軍によって思想の天啓を受けた。過酷な戦争状態によって進化したヒトラーは、戦争状態を加速するよってドイツを試そうとしたのだろう。  

ヒトラーの哲学思想というのは間違いなく一級品だ。ニーチェレベルだ。同じ内容にもかかわらず、ニーチェの思想ははよくて、ヒトラーの思想はダメだという論理は成り立たない。  ヒトラーの哲学が一級品だというのはしょうがない。歴史上の悪人の思想が、善人の思想を凌駕しているというのは残念ではあるのだけれど、事実だから認めざるをえない。  では、ヒトラーの歴史認識というのはどうだろうか。「わが闘争 第10章 崩壊の原因」にこのようにある。  「いまや、貧乏と富裕の激しい変動もかなり目立ってきた。過剰と貧困が相互に隣りあって生活していたので、その結果は非常に痛ましいものがありえたし、またかならずそうならざるをえなかった。困窮と頻繁な失業は人間をもてあそびはじめ、そして警告として不満と憎悪を残したのである。ついに、もはやこれ以上やってゆかれないだろう、という信念が一般化するまで、その不満は広まったのである。しかし人々は、なにが起こったらよいのか、ということについて確固とした考えを持たなかったし、また持つことすら出来なかったのである」  ドイツのことはよくわからないよ。ただこの言説を戦前の日本に当てはめてみた場合、胸に来るものはないだろうか?  ここまでざっくばらんに、戦前の日本の事を語ってくれた社会学者がいったい何人いただろうか?  ヒトラーはさらにこのように続ける。  「このような金が猛威を振るう時代において、貴族はますます彼の生まれの人種的前提を失い、大部分はむしろ「卑族」とでも呼ばれたほうがずっと似合うほどになった」   昭和初期、日本において華族とは何をしていたのか。     華族ではなく卑族wwwww     ヒトラーの歴史認識は間違ってはいないと確信してもいいレベルだろうと思う。   ヒトラーの哲学は一級品で、歴史認識も超ハイレベルとするなら、優生学にいたるヒトラーの思想にはかなりの注意深さをもって身構えなくてはならないということになる。「わが闘争」を批判的に読むというのは、守られたインテリが味方の多勢を頼りによく分かりもしないことを小ばかにしてよろしくやれるというものではない。   この世界には簡単に判断が出来ないというものが存在する。  

ヒトラーは狂人で、これに騙されたドイツ人は馬鹿みたいなイメージというのはある。日本も同じで、戦前の日本人は、馬鹿かキチかその両方かということになりがちだ。  本当にそうなのだろうか?   「わが闘争 第6章 宣伝の目的」 にこのようにある。     「しかし民族がこの遊星の上で自己の生存のために戦うならば、ヒューマニティーとか、美とかの考量はすべて無に帰してしまう。というのは、これらの観念はすべて宇宙のエーテルの中に浮かんでいるのではなく、人間の幻想から生じたものであり、人間と結びついているからである。人間がこの世から分離すれば、概念もまた無に消え去ってしまう。というのは自然はそれを知らないからである」  この言説はかなりレベルが高いよ。普通に生活していたら、そもそもヒューマニティーとか美とかという固定観念を相対化しようなどとは思わない。このような強力な言説というのは、いくら天才といえども簡単に手に入るものではない。何らかの時代の押し上げというものが必要だ。ヒトラーは「わが闘争」の中で、あたかも最初から自分は視野が広かったみたいなことを書いてあるが、これは疑問だ。ヒトラーは第一次世界大戦でドイツ軍人として従軍していたのだが、ヒトラーの根本思想は戦中に起因していて、「わが闘争」の中では、戦前の生活状況もこの思想によって事後的に再編成されていると思う。実際に大戦争において思想を悟る鋭敏な感性の持ち主というのは存在する。日本で言えば、坂口安吾がまっさきに思い浮かぶ。   このヒトラーの言説に対抗するのは簡単ではない。あらゆる観念が相対化されるのなら、生存のための戦いのみが残されている、ということになるよ。相対化を拒否するような自分の観念があるかどうかが問われている。  問われているといったって、答えるのも簡単ではない。   

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