magaminの雑記ブログ

2017年02月

ニーチェは「曙光178 日々使い古される人々」で以下のように言う。率直過ぎるニーチェの言説。  

「この若者達には、人格も、才能も、勤勉さも不足していない。しかし彼らには、自分自身に或る方針を与える時間が決して許されなかった。むしろ彼らは、幼時から或る方針を受け取るように習慣付けられた。彼らが荒野に送られるに足りるほど成熟したその頃、幾分違った扱いがなされた。  
彼らは利用された。彼らから自分自身が奪い取られた。彼らは日々使い古されるものへと教育された。それが彼らの倫理学となった。   
そこでいまや彼らは、それをもはや欠くことは出来ないし、それ以外を望んでもいない。この哀れな牛馬に、その休暇、すなわち思う存分ぶらぶらして過ごし、愚か者のように子供っぽくなることができるという、過労の世紀の理想がそう呼ばれるところの休暇を与えないことだけは許されない」  

ニーチェ、率直過ぎるだろう。

近代以降の先進国社会というのは、大小さまざまな価値が体系をなしていて、そのことによって社会秩序が維持されているという形態になっている。これは当たり前のようで当たり前ではない。近代以前においては、社会秩序というものは積み上げ方式だった。

現代日本においては、仕事と遊びというのは明確に区別されている。仕事をするときは仕事をして、遊ぶときは遊ぶというのが、まあ出来る男のスタイルだなんていう考え方すらある。しかし近代以前においては、仕事と遊びというのはあまり区別されていなかった。

仕事をするように遊ぶ、遊ぶように仕事をする、このようなことがかつては当たり前だった。すなわち、仕事と遊びを区別するというのは、それ自体に意味があるというものではなく、この社会の秩序を維持するための何らかのトリックなんだよね。

仕事と遊びを区別する大人の流儀なんていうものは、それだけ取り出してみれば、結局この程度のもの。

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ニーチェは「曙光173」で、「労働の賛美者」という題目で、近代の労働をこのように相対化している。  

「労働は最上の警察であること、労働は各人を抑制し、理性や、熱望や、独立欲の発展を強力に妨害することを心得ていることである。なぜなら、労働は異常に多くの神経力を消耗し、これを、熟慮や、沈思や、夢想や、関心や、愛や、憎しみから奪い、小さな目標をいつも眼前に置き、たやすい規則的な満足をかなえてやるからである。こうして、たえず苦しい労働が行われる社会は一層安全になるであろう。つまり安全が現在最高の神性として崇拝されるわけである」   

すなわち、労働の価値を持ち上げるということが、社会の秩序の根幹であるという。近代世界は、まあ様々な仕掛けで秩序が維持されていて、その一つが勤労だというわけだ。西洋の残酷さを感じる言説とその相対化だと思う。

現代日本では、国民は働かなくてはならないという強力なプレッシャーがある。日本国憲法には勤労の義務が明記されているし、「働かざるもの食うべからず」などということわざモドキみたいなものもある。働かないと、親や親戚や友達からも冷たくあしらわれ、全方向から半人前扱いされる。

働くことは当たり前のことだと思いがちなのだけれど、実はそうではない。発展途上国などでは、食べれるだけの最低限の労働をすれば十分なんていう考えのところも多い。現代先進国は、労働ということに関して、強力に持ち上げられている。

近代において当たり前だとされていることに疑問を持ち、当たり前の中に隠された秘密のイデオロギーを暴露していこうというのが、ニーチェのやり方だね。

孟子も同じようなことを言っていた。
「恒産無くして恒心なし」 
ただし東洋はやさしい。孟子にはこのような付言がある。  

志があっても、状況によって働かなくてはならない状況になれば、出来るだけ軽い仕事につけばいい。例えば門番とか夜警の仕事とか。

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ニーチェは「曙光」にいたって、箴言形式でたたみかけてくるような感じになった。

「曙光」はトータルで考えると、この近代世界を相対化しようという、そういう意図の言説集合だろう。

近代以降の世界というのは、科学技術の実績や進歩史観などの強力な概念によって、かなり持ち上げられたところにある。例えば、現代と古代とを科学技術の点で比べたら、現代の方が断然発達しているだろう。ところが哲学という学問で現代と古代とを比べて、現代の方が勝っているなんていうことは全くいえない。

すなわち、現代においては、数学や物理学の「真理のきらめき」みたいなものに引っ張られて、他の価値体系が過大に評価されている可能性がある。だから、過大に評価されているかもしれない現代の価値体系群を、中世や古代との比較において相対化するというというのは、有効な思想作業だと思う。   

ニーチェ自身はもちろんもっと根底的な思考を展開しようとしているのだろうけれど、とりあえず近代思想の相対化という観点から、ニーチェを考えはじめたいと思う。  

曙光 第2書116で、ニーチェは、道徳的実在論に依存しすぎていると批判しつつ、以下のショーペンハウアーを引用している。

「実際われわれのうちの誰もが完全に道徳的な判事である。彼自身の行為ではなく、他人の行為が吟味され、彼は単に是認しなければならないか、否認しなければならないかであり、実行の責任は他人の方に担われているかぎりにおいて、誰でも皆こうしたものである。誰でもしたがって、贖罪司祭として、全く神にとって代わることが出来るのである」 

意味としては、社会の中で個人が悪いことをしないのは、神の設定した道徳などというものではなく、他人の視線のためだ、ということだろう。  

これは、フーコーのパノプティコン(一望監視装置)だろう。フーコーは、ニーチェの言説をヒントに、ベンサムの中からパノプティコンを発見したのだろう。フーコーはその晩年、自分のネタ元はニーチェだと告白しているから。

フーコーは結局、ニーチェの言説を基礎に現代社会を相対化しようとしたのだろう。すなわちフーコーのパノプティコンに込めた意味というのは、

かつてのは神の権威によって社会の秩序は維持されていたけれども、社会は進歩して神の権威がなくても秩序が維持できるようになった、まあ進歩の勝利だみたいなことになっているが、しかし現代秩序の維持というのは所詮パノプティコン程度のお粗末なシステムによって担われているにすぎない、

という程度のことだろう。

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私、スマホを持っていないのでよく分からないのだけれど、スマホゲーに月何万も課金する若者が多いらしい。  こんなことを言うと申し訳ないのだけれど、馬鹿だろう。  お金をかけてゲーム会社の社員が作ったクエストを解いたって何の意味もないよ。お金を使ってゲーム世界内でのポジションを上げたって、ゲーム自体がなくなれば全てが消えてしまうんだろう?  そんなに暇でかつ謎を解きたいのなら、この世界の謎を解けばいいよ。   何故この世界はこのようにあるのか、何故自分はこの世界で喜んだり苦しんだりするのか、人々を鉄のおりに閉じ込めているものはなんなのか。暇ならこのような謎に挑めばいい。なぞは巨大だ。そして、あらゆる資料は参照自由だ。断言してもいいけれど、10年、20年、では解けないよ。   若くて、暇で、頭がいいという自負があるのなら、このような謎に挑めばいい。

「ギリシア人の祭祀」という本は、古代ギリシャの祭祀についてニーチェがこまごまと語っているという、ただそれだけの論文。

死人に接した人は穢れているとして、水をつけた植物の枝でバサバサって穢れをはらっていたとか、まあこれに類したこと。

ちょっと日本の神道に似ているとも思ったが、そのあたりは私の興味のそとなのでスルーです。

このニーチェの論文は哲学ではなく、古代ギリシャの文献学。

「ギリシア人の祭祀 本論」は文庫本で140ページくらいだったけど、読み切るのに2日かかった。村上春樹なんかの小説とかなら1時間で200ページ読めるけど、「ギリシア人の祭祀」は字面を追うだけで1時間に30ページだ。

いくらニーチェに興味がある人といえども、これを読みきるやつも少ないのではないか。

ギリシャの祭祀に興味がないのに、我慢強く読みきった自分を誉めたいぐらいだ。なんせ内容自体は、150年前にかかれた、一見ただ単なる文献学だから。  

で、読んだ感想なのだけれど、深読みしたとするなら、トータルとして合理主義のプラトン哲学に対するアンチテーゼの前フリか? という感じか? ただの古びた文献学の本だから、ここから何かを推測するというのは難しいものがある。

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私は、子供のころ、人間は歳をとるとだんだんと人格が完成されてくるものだと思っていた。これは訂正されなくてはいけない。何らかの努力をすることなしに歳をとっても、人格は完成されない。歳をとれば、ただ感情制御の機構がゆるくなるだけ。   民主主義というのは、私は悪くない制度だとは思うけれど、あらゆる価値が対等だというところまで行き着いてしまうと、これはどうなのだろうか。あらゆる価値が対等だということになると、思想の積み重ねというものすっ飛ばして、なんでも才能だということになる。顔が美しいのは才能、仕事ができるのは才能、知能が高いのは才能。こうなると、整形するヤツ、仕事が出来るフリをするやつ、知能の高いアピールするヤツ、そういうのが大量に発生するだろう。  人は永遠に生きることは出来ない。誰もがいつかは死ぬわけで、嘘をついて人生を飾ってそして死んでそれに何か意味があるものだろうか。   何が正しくて何が正しくないか、そのようなものは分からないとは思うけれど、正しいことを知ろうとする誠実な努力は必要だろう。   この世界の今の秩序というのは岩盤ではないと思う。自分だけ才能を頼りによろしくやろうなんていうのは、この世界の秩序を岩盤だと仮定した甘えの論理だ。  本当なら、孟子の性善やプラトンの正義論などの強力な言説が蘇ればいいのだけれど、そういうわけにもいかないだろう。この世界はたそがれて、このままだと別の均衡に移行するだろう。その新しい世界では、今の仕事が出来るフリだとかそのようなものは全く意味がなくなるだろう。

ニーチェの「ギリシア人の祭祀」を読んでみたけれど。

古代ギリシャ人は祭りがスキだったらしい。

古代ギリシャのイメージは、プラトンやアリストテレスに代表されるように、クール、正義、合理主義、だと思うのだけれど、ニーチェは古代ギリシャほど、祭祀が派手に行われたところはないという。

ニーチェは、古代ギリシャにおける祭祀がどのような誠実さで実行されたかを、こまごま書いている。  

では何故、古代ギリシャ人は祭祀が好きだったのか。現代の日本にも祭り好きっているよね。何故彼らは祭り好きなのか。   

ニーチェが言うには、彼らは「怠惰」だったかららしいよ。 
いいにくいことをはっきり言っていると思う。さすがニーチェ。本文にこのようにある。  

「呪術的儀式も確かに苦労を要するものであるが、しかし神々や魔術の助力を頼りにしない自然の労働ほど長く続くものではないからである」  

さらにニーチェは言う。  

「世界を詩的にかつ秘儀的に説明することは、それに向けられる力がいかほど偉大なものであるにしても、世界を科学的に説明することよりも容易であり、苦労を要さないことであろう」   

怠惰と勤勉とが、中世と近代を分ける概念だ。別に怠惰が悪くて勤勉が良いという訳ではない。ただ、怠惰と勤勉とが、中世と近代を分けるというだけ。実際、日本においては、祭りというものは明治維新以降急速に規制された。明治維新前後、村の指導者は勤勉道徳によって村の秩序を維持しようとして、村の祭りを規制しようとしたという民俗学の研究がある。  

確かに、簡単に考えるというのは怠惰だと思う。しかし、ニーチェはどういうつもりなのか。プラトンの合理性に嫌悪を示し、かたや祭りは社会的怠惰の帰結であるという。これに何らかの答えが用意できるものだろうか。ここからの、ニーチェのギリギリの言説が楽しみ。

ここからは蛇足。簡単に考えることは怠惰だとニーチェは言う。その通りだ。例えば、太平洋戦争の原因を統帥権という明治憲法の欠陥に帰する意見がある。私は、このような考えを思想の怠惰だと思う。簡単に考えすぎている。もしだよ、明治憲法において統帥権の穴がふさがれていたとしたら、軍部の暴走はなかったのだろうか。そんなわけない。時代の激流は、明治憲法の別の穴を探し当てただろう。

同じように、ワイマール憲法の何条かに欠陥があったからヒットラーが現れたなんていうのはナンセンスだ。ゲーデルが証明したのは、あらゆる欠陥をふさげばカンペキな体系が出来るというものではない。体系とは完璧に見えても、何らかの欠陥があるという、いうなれば当たり前の事で、そこに留まることを許さない、言い換えれば「怠惰」を許さない世界があるということだと思う。

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ラエルティオス・ディオゲネスって誰? 

読んでいるうちに分かったことは、ディオゲネスっていうのは、ローマ帝国時代の文筆家だったらしいということ。

ローマ帝国時代には、いろんな言説があって、今みたいに著作権みたいな考え方がなく、みんなが勝手にそれぞれの文章を出典も書かずに引用する傾向があったらしい。それでニーチェは、この文章の出典はここだとか、あの文章はここのパクリだとか、そのようなことをやっている。

よく考えると、ローマ帝国時代の古典文学なんて、あまり聞かないよね。そんなマイナーな時代の、ディオゲネスなる人物の、その内容ではなく、文献学みたいな話を延々とされてもキツイものがある。興味のない野球や競馬の話をしつこく聞かされるみたいな感じだね。

読み終わって思うのは、俺って我慢強いってこと。ラエルティオス・ディオゲネスなる人物をめぐる文献学の言説を、文庫本で180ページ読むわけだから、並大抵の我慢強さではないよ。私、ニーチェを読むのが仕事ではないんだよ。昼休みとか、朝早くおきてとか、通勤電車とかでの、ラエルティオス・ディオゲネスだから。    

そういえば、フーコーが近代以降の著作権について疑問を呈していた。「誰が語ろうがいいではないか?」って。フーコーはアイデアをニーチェからいただいていたと告白していた部分があった。古代の著作権があいまいなのが普通なのであって、近代以降の「個人の著作観念」なるもののほうが異常だとしたらどうだろうか。ニーチェは現代の論理でラエルティオス・ディオゲネスを書いた。現代の論理で古代ローマの倫理を批判した。古代ローマは黙して語りはしないが、もちろん古代には古代の論理があっただろう。古代やニーチェやフーコーが、現代の絶対論理を相対化してくれるのなら、それは一つの解放だとは思う。

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若きニーチェが巨人プラトンに挑む。  

ニーチェが、プラトン対話編研究序説のなかで、最もプラトンにチャレンジしている部分を抜粋してみる。 

「あらゆる事物について正しい概念を立てるべし、という要求は害のないもののように思われる。しかしながら、これら概念を見出したと確信している哲学者は、他の全ての人間を愚かな者、不道徳な者として、また彼らの制度すべてを、愚考にしてまことの思考の障害、として扱う。真理を手にしているという確信は、彼を狂信的にする。現実や人間の軽視からは、このような哲学が出発した。そしてまもなく、それは僭主の素質をあらわす」 
 
これはかなりのプラトン批判だと思う。プラトンは哲学者が合理的に支配する国家を理想とした。その理想国家から、実際の国家は、名誉制国家、寡頭制国家、民主制国家、最後に僭主制国家と、この順番に堕落していくと論理付けた。ニーチェは、理想国家の設定そのものが、僭主制国家への必然なのではないのかと問うわけだ。すばらしい。論理的には正しいと思う。

ただ、もし運命というものが若きニーチェが思うよりはるかに残酷だとしたらどうだろう。


ニーチェ全集 1
ニーチェ全集 1



マックス.ウェーバーは、ヨーロッパにおいてある強力な言説が、価値観を秩序付け世界認識が傾けて、近代なるものが始まったという。ウェーバーは、この強力な言説をカルヴァンの予定説だとしたけれども、これはどうだろうだろうか。弱いのではないか。

ヨーロッパの世界認識を傾けるほどの強力な言説とは、正直プラトンしかありえない。2000年の時を越えて、19世紀のニーチェの生きる世界は、プラトンの理想国家論によってすでに傾けられていたとするならどうだろう。ニーチェの生きる19世紀ドイツ地方が、名誉制国家と寡頭制国家の狭間にあるとしたらどうだろう。  

ニーチェのプラトンに対する近代相対化という絶望的な戦いは始まったばかりだ。

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「プラトン対話編研究序説」は若き天才ニーチェの、才能きらめくプラトン評論だった。

そもそもプラトンというのは、西洋哲学においては横綱級。ニーチェといえども、プラトンをひっくり返すということは出来ない。  

「プラトン対話編研究序説」において注目すべきところは、どこまでニーチェがプラトンに迫ることができたかということだろう。   

プラトンの言う正義。それは何によって根拠付けられているのか。

ニーチェが言うには、「魂の不死性」によってだという。確かにプラトンはそのようなことを言っていたし、ここがプラトンの一番弱いところだと思う。プラトンの論理はこのようなものだ。

正義がある。正義があるのなら、正義の概念があるはずで、正義の概念は不滅だろう。正義の概念が不滅なら、人間の魂も不滅だろう。

まあ、こんな感じ。

ニーチェの「プラトン対話編研究序説」でも、魂の不死性について、かなりの論述がなされている。しかし、あまりプラトンの魂の不死論について語るのはどうかと思う。プラトンの魂の不死の部分をあまりに強調すると、プラトンはオカルトになってしまう。偉大なプラトンをオカルトに貶めるなんて、きわめて大きな損失だろう。

プラトンの真理はそのような所にはない。そもそも、正義の証明のために魂の不死を持ち出すのは、論理が逆だ。

プラトンは「国家」において、たしかに魂の不死についての物語を語ったけれども、これは魂が不死だったらいいなーレベルの話だった。魂がもし不死だったら、私の正義の論証に役に立つだろうとという、その程度のもの。プラトンのここを強調するのは、フェアでないと思う。

では、プラトンの正義は何によって証明されるのかというと、それは歴史によってだった。どのように歴史によって正義が証明されたかというのは、おいおいニーチェ自身がプラトンとの戦いの中で語ってくれることとなるだろう。


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ニーチェ全集 1
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ニーチェ全集 2
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