magaminの雑記ブログ

2017年01月

カフカの小説の主人公というのは、物語世界に迷い込んだ一般人だと思う。もっと分かりやすく言えば、観客のいない芝居世界に迷い込んだ子供ということになるか。迷い込んだ子供は、芝居世界のルールというものをどうしても理解できない。一応、周りに合わせようとするのだけれど、つい合理的に考えてしまい、芝居世界の空気を乱してしまう。  
「変身」を読んだ人も多いだろう。あれは、芝居世界に迷い込んだザムザが、世界に同化することを拒否して毒虫となり、最後に作り物の月の美しさを拒否することによって死ぬということではないのか。  芝居世界が正しいのか、ザムザが正しいのか。  
カフカが死んだのは、1924年。その後の歴史を考えると、ザムザの方が正しかったということになるだろう。  

分かりやすい話をしよう。  

昭和の時代、歳をとれば人は成熟すると考えられていた。子供のころ親から、
「あなたも大人になればこのことが分かるよ」 
なんてよく言われた。ああ、そうなんだと思った。大人になれば、自然と物が分かるようになり、結婚して家を建て子供を育てるようになると思った。  
しかしあれから30年たって、現実はどうだろうか。実は何らかの努力をしなければ、いわゆる普通の生活というものは出来ないことは明らかだ。整合的に考えれば、かつての私たちは昭和という芝居に迷い込んだ子供だったということになる。もし昭和という芝居世界に違和感をもった子供がいたとして、その子供の違和感は正しかったと言わざるをえない。  

まさにカフカだろう。  

ヘーゲルは、「ミネルバのふくろうは夕暮れに飛び立つ」 と言った。真実は時代の終わりに明らかとなる。カフカの不条理世界は、現代において明確に明らかとなった。今の時代は終わりつつあると思う。

リベラルとは市民という意味だ。伝統世界から切り離され、都市に暮らす有産階級というのがより正確か。日本においては、明治以降、国家全体として近代化していこうということで、地方の指導者階層も人民の教育というものに中央集権的な要請があった。  明治以前においては、貴族とは武士上層部のことであって、貴族武士に人民を教育するなどという思想はない。これに対し農村指導者層には人民を教育指導するという責任があった。リベラルとはこのような人たちを指すべき言葉であって、すなわち貴族とリベラルとは全然違う。  近代ヨーロッパにおいては、ブルジョアすなわちリベラルが貴族化するということはあった。代々こつこつ働いてお金持ちになったのだからもう貴族みたいな生活をしていいよね、というわけだ。まあ、日本にもそんな勘違いをするやつもいるだろうとは思うけれど、そんなものが日本で「ブルジョア貴族」として認知されるなんてことがありえただろうかと思う。  このへんは人それぞれの感慨だろうけど、私はそんな社会的状況は日本においてはなかったと思う。  リベラル言論人がかつて何らかの発言をして、まあそれがみんなにちやほやされて貴族あつかいされるということはありえるだろう。それをうらやましがって、後になってリベラルが貴族だなんて語るとしたなら、もうこれはルサンチマンだ。ルサンチマンも市民階級の勤勉を支える一つの思想ではあると思うけれど。   丸山眞男は、「天皇制が日本人の自由な人格形成――自分の良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式を持った人間類型の形成――にとって致命的な障害をなしている」と語ったらしいけれど、この言説はぬるいよ。天皇制がなかったら日本人の自由な人格形成がたちどころに促進されるなんて、そんなことはありえない。極論すれば、天皇制が廃止されたら、精神病院に入院している患者がたちどころに正常人になってしまうということになる。天皇制が廃止されたら、ヒステリー気味の妻がたちどころに思いやり深い女性に変身するということになる。  ありえない。  論理は逆なのではないか。  自分の良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う国民を育成するために、微力とはいえ天皇制が存在していると考えるべきだろう。

夏目漱石の「心」を最初に読んだ時は、奇想天外だと思った。先生は、自分の責任とはいえ20年も前に自殺した友人の事を思って自分も自殺しようなんていう長文の手紙を書いちゃうんだから。この手紙を受け取った主人公も、ちょっとは突っ込めばいいと思うんだよね。先生、いつまでそんな昔の事にこだわるんですか、みたいに。ところがこの主人公、手紙を読んだ瞬間、大事な約束をすっぽかして、先生に会いに行くために汽車に飛び乗っちゃうっていうんだから、なんだか読者としては漱石に丸め込まれたような感じがしてくる。  今日ふと思ったのだけれど、「心」の先生って、現代の引きこもりみたいなものなのではないか。小学生の時にいじめられて不登校になったやつが、20年たっていじめっ子だったやつの家に放火するっていうのあるよね。「心」の先生というのは、これと同じではないかと思う。先生は奥さんもいて海にも行ったりするから完全引きこもりではないけれど、毎月友人の墓参りに行って20年後に自殺予告の手紙を書くというのだから、まあ精神的引きこもりだろう。引きこもりは引きこもる前の記憶を何度も繰り返すという。「心」の先生というのは、このたぐいではないかと思う。何十年もかけて過去の記憶を繰り返すというのはある種の地獄だろうとは思う。ただ、誰もがその地獄に同情しなくてはいけないということもないだろう。   夏目漱石自身は仕事もあったわけだし、何故このような引きこもり心理小説のようなものを書いたのか。そういえば、「それから」の大助もニートだったし。   結局、これは漱石なりのアンチ文明ということなのか? 引きこもりがアンチ文明の象徴というのもどうかと思うけど。夏目漱石が現代でもかなりの人気があるというのも、個人的にはよく分からない。人生を戦う人の話なら共感も出来るのだけれど、微妙な引きこもり小説だからなー。  自分としては、夏目漱石を否定しているつもりもない。「心」を引きこもり小説だとして読み返したなら、もしかしたら何らかの発見があるかも。日本人の引きこもりにあこがれる心情発見みたいな。  個人的にはそこまで突っ込んだりはしないけれど。

最近は微妙な精神状態でも病名がついたりする。このままだと正常な精神状態の人間の方が少なくなってくるのではないかというレベルだ。私なんかもやばい、空気読めない病だとかザックバラン病だとか上から目線病だとか、いろいろ言われそうで怖い。  

狂人にたいする許容度というのは、近代以降格段に落ちた。明治時代の思い出話みたいなものを読むと、どの村にでも気狂いみたいなのはいて、村の中で馬鹿にされたり優しくされたりして、自由に行動している。福沢諭吉の自伝のなかで、福沢諭吉は子供のころ、母親と一緒に、村をふらふらしている気狂い女の頭のシラミをいっしょにとってあげたという話があった。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、スメルジャチシャヤという気狂い女がでてくるのだけれど、この女性、好き勝手に村を歩き回る。村人はこの気狂い女をあるときはいじめ、あるときは優しくする。ただ村人は気狂い女が村を勝手に歩き回っていることに疑問を感じない。近代以前は狂人は村社会と共生していた。  

現代はどうなっているのだろうか。あまり狂気の人というのも見ない。統計的に比較することも出来ないのだけれど、狂気は精神病院や何とかホームや各家庭で隔離的あつかいをうけているのだろう。何故こうなってしまったのか。民主主義や人権が叫ばれる現代で、狂人の社会的地位が近代以前より低下しているのは何故なのか。  

昨日、小説と物語との違いの話をした。物語とは事象同士が合理的必然性ではなく伝統的なつながりによって成立したものだろうということ。狂人とは、事象と事象を自分勝手に結びつける。近代以前は事象と事象とは伝統によって結び付けられていた。すなわち近代以前の人にとって狂人とは、伝統的な物事のつながりを知らない馬鹿だということになるだろう。現代においては狂気と判断される人も、実際に害を及ぼさない限りは狂人と判定されることもなく、単なる馬鹿として放置されたのだろう。  

現代においては、事象と事象とは合理的な価値によって結ばれている。これを個人の勝手な確信で結び付けられてしまったのでは、合理的世界自体が崩れてしまう。狂気に耳元で、

「きれいはきたない、きたないはきれい」

なんてささやかれたら、頭がおかしくなってくるだろう? 狂人が現代において排除されてしまうというも、しょうがないといえばしょうがない。狂人を排除しないとするなら、そこにはある種の覚悟が必要だ。  

ある狂人が事象と事象との間に非合理なつながりを確信していたとする。その人を助けたいと思ったとき、狂人の確信を受け入れてみようということもあるだろう。その時、もしその非合理なつながりが美しいものだったらどうする? そこにおいて合理的な世界に戻るという非合理な確信が、はたして持てるだろうか。  

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ  

というのはこのような意味だろう。

小説、物語、文学ってどう違うのかって考えてみた。昨日、近代以降の精神世界は二層構造になっていて、上層部は様々な事象が意味として秩序付けられていて、下層部は様々な事象が基本的にばらばらに存在しているって書いた。これを利用して、小説、物語、文学の違いを説明してみる。   小説とは、人間意識の上層部に成立する言説集合だろう。小説の登場人物たちは、社会の価値の傾きに従って、話し、行動し、対決する。合理的推論が支配する世界。これは大衆小説も純文学も変わらない。純文学だからといって、純文学に合理的推論より高尚な理論があるわけではない。  物語とは、人間意識の下層部に成立する言論集合だ。この下層部では、様々な事象がばらばらに存在していて、どの事象同士がつながるかというのは合理的必然的には決定されない。これが夢だったりするととんでもない事象同士がつながったりするのだけれど、物語においては、歴史的に決定された事象の組み合わせということになる。例えば日本では、春、桜、花見、という繋がりがあるわけだ。さらに例えをだせば、金閣寺なんかも、金閣寺それたけで美しいというものではない。金閣寺にまつわる歴史をいろいろ知って、その上でじっくり金閣寺を見ると、なんとなく美しいような気がしてくるとか、まあそのようなものだ。このように歴史的恣意的につなげられた事象の言説集合が物語だ。  森鴎外のヰタ・セクスアリスなんかは小説だけれども、後年の時代物は物語で、一人の作家でも小説と物語を使い分けるということはありえる。  では文学とはなんだろうか。  文学とは小説や物語を越えた、最も力強い言説としての何かだ。私はあえて文学のハードルを上げた。クソつまらない言説を文学といって欲しくない。さらにいえば、文学とは歴史的に物語世界から小説世界を離陸させた原動力であり、すなわち小説の起源であり、物語世界と小説世界の二つを併せ持つ強力な言説集合だ。  果たしてそのようなものが存在するのだろうかと不思議に思うだろう。  誰にも負けない強い力を僕は一つだけ持つ。  日本の場合、唯一の文学は吉田松陰の「講孟箚記」だと私は断言する。これ以外にはちょっと考えられない。講孟箚記の迫力というのははんぱないよ。「講孟箚記」には桜も金閣寺も美人も探偵も出てこないし、大団円もないし殺人事件も起きない。でもそんなことどうでもいことだよね。

近代以降の私たちの精神世界というのは、二層構造になっている。上層部は様々な事象が意味として秩序付けられていて、下層部は様々な事象が基本的にばらばらに存在している。例えば、A、B、C、という事象があるとして、意識の上層部では、このA、B、C、がこの順番で秩序付けられているとしたら、AはBと、BはCと結びつくが、AとCは結びつかないということになる。意識の下層部では、事象は秩序付けられていないから、AはBともCとも結びつくということになる。  

分かりやすい例をあげよう。  

私は子供のころ、よく妹を殺す夢を見た。別に妹と仲が悪いわけではない。両親が死んだ現在でも、妹とは連絡を取り合っている。夢で実際に妹を殺すわけではない。正確に言えば、夢で私がいて妹がいないという状況があったら、ただちに自分が妹を殺したと確信してしまう。これはまずい、ばれたら大変なことになるとリアルにびびる。これが意識下層部のありかただ。私がいて妹がいないとなると、現実世界では、妹はどこかに出かけているのだろうとか、隣の部屋でテレビでも見ているのではないかとか、何らかのワンクッション的事象をはさむものだ。ところが夢では、私がいることと妹がいないということが直接結び付けられて、私が妹を殺したということになってしまい、ただちに私はそれを確信してしまう。  
近代以前も、おそらく人間の意識は上層部と下層部に分裂していたけれど、その差はあまりなかっただろうと思う。近代に入って、人間意識の下層部と上層部は懸絶してしまった。なぜ懸絶してしまったのかといえば、歴史的な条件みたいなことになるだろう。意識上層部に住む現代人にとって、意識下層部の世界というのは、夢であり狂気でありロマンでありイマジネーションの源泉であるとのイメージとなる。柄谷行人は「意味という病」という評論集の中で、意識下層部の世界を、夢や志賀直哉や森鴎外に託して語っている。柄谷行人がこの着想をどこから得たのかというと、私は坂口安吾の「文学のふるさと」からだと思っている。   

この世界には自然にあこがれる、みたいな人がいる。自然サイコーのような、自然は私をやさしく包んでくれるみたいな。私は断言するのだけれど、自然とはそのような生易しいものではないよ。自然とはやさしいどころか、全くのグロテスクだ。意識の上層部が人工の物だとするなら、意識の下層部が自然ということになるだろう。すなわち自然とは、私がいて妹がいないとなると、私が妹を殺したと、私に直ちに確信させるところのものだ。人間世界の意味というものを何の感慨もなく踏み潰すところのものだ。私としては結局のところ、人間はこの傾いたこの世界のギリギリのところで孤独に生きるしかないと思うんだよね。力足りなくて、金持ちになれなくても、人から評価されなくても、それはたいした問題ではない。傾いたこの世界のギリギリのところで生きるということが大事だと思う。それ以外にどうしようもない。

マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本の中で、このようにいう。 

プロテスタントの言説がヨーロッパ社会の価値観を秩序付けて、ヨーロッパ社会は進歩史観の傾いた世界となった。プロテスタントの言説が失われても、ヨーロッパ社会の傾きは残り、さらにその傾き自体が再生産を始めた。  

ヴェルナー.ゾンバルトの「ブルジョア」も、これと枠組みは同じだと思う。ただゾンバルトの興味深いところは、なぜ社会を傾けた強力な言説が失われても、社会の傾き自体は残るのか、を考えているところだ。ゾンバルトは様々な要因を指摘する。国家、新大陸も含めた移住、新大陸の金銀、科学技術。どれもこれも、内実を失った資本主義をここまで持ち上げた大物ぞろいだ。さらにゾンバルトは、資本主義を支えるキラリと光る脇役を付け加えてくれた。それがニーチェのいうルサンチマンだ。ルサンチマンというのは、貴族生活に対する小市民の恨みだ。小市民の勤勉さや誠実さや合理性こそが資本主義を支えている。しかし、小市民はその勤勉さを何によって支えているのか? 寄りかかるべき強力な言説は失われてしまった。その支えの一つが、金持ちを妬むというルサンチマン的心情ナわけだ。これって、言われてみると極めて分かりやすい。  

私はある大手企業内でゴミ回収の委託業務をしている。実際に企業内でゴミを回収しているオジサン達は、社員のゴミだしマナーが悪いといつもぼやいている
。「大卒なのにゴミもちゃんと出せないのか
」という言い方をする。大卒とゴミのマナーとは関係ないと思うけれど、ゴミ回収のオジサン達の心情としては、大学にいけなかった自分でも大卒よりゴミのマナーは上だし、さらに言えば仕事に対する誠実さも負けない、とまあそういうことだろう。実際、こういう言い方をすると申し訳ないのだけれど、彼らはとろいわりにまじめにやっているよ。このように、ルサンチマンが誠実な労働を支えるということはありえる。
強力な言説を失って、空っぽの心の行う労働をルサンチマンが支えているなんて恐ろしい話ではあるのだけれど。

まず孟子の「浩然の気」の部分を私が訳してみる。 

「あえて問う。先生は何が勝っているのか。孟子は言う、私は言葉を知る。私はよく浩然の気を養う。あえて問う、浩然の気とは何か。孟子は答えて言う、その気とは、大きく強く正しい。これを損なうことなく育てれば、天と地との間に満つるほどになるだろう。その気とは正義とともにある。正義がなければ浩然の気もない。浩然の気とは正義とともにたち現れ、浩然の気だけ取り出すことは出来ない。私が、告子は正義を知らないというのは、告子が正義や浩然の気をそれぞれ取り出そうとするからだ。浩然の気を養うためには、心に正義を忘れてはダメだ、浩然の気のことだけを考えていたのではダメだ、宋国の人のようになってはダメだ。宋国の人に、苗が生長しないのを憂えて、苗を引っ張って伸ばそうとしたものがいた。茫々然として家に帰り、語りて言う、今日は疲れた。私は苗を助けて伸ばしたと。その息子は、いやな予感がして走って田んぼに行ってみると、苗は全て枯れていたという。ここは難しいところだ。浩然の気を養わないのは、田んぼの雑草を抜かないみたいなもので、浩然の気だけを養おうとするものは、宋国の人のようなものだ」 

書き下し文
敢えて問う、夫子惡くんか長ぜる、と。曰く、我言を知る。我善く吾が浩然の氣を養う
其の氣爲る、至大至剛なり。直きを以て養いて害うこと無きときは、則ち天地の閒に塞がる
其の氣爲る、義と道とに配す。是れ無きときは餒う
是れ集義の生[な]す所の者、義襲って之を取るに非ず。行って心に慊[こころよ]からざること有るときは、則ち餒う。我故に曰く、告子は未だ嘗て義を知らず。其の之を外にするを以てなり
必ず事有って正[あてて]すること勿かれ。心忘るること勿かれ。長ずることを助くること勿かれ。宋人の若く然すること無かれ。宋人其の苗の長ぜざることを閔[うれ]えて、之を揠 [ぬ]きんずる者有り。芒芒然として歸る。其の人に謂って曰く、今日病[つか]れぬ。予苗の長ずることを助けつ。其の子趨って往いて之を視れば、苗則ち槁[か]れぬ。天下の苗の長ずることを助けざる者寡なし。以て益無しと爲して之を舍つる者は、苗を耘 [くさぎ]らざる者なり。之が長ずることを助くる者は、苗を揠きんずる者なり。徒に益無きのみに非ずして、又之を害う


浩然の気とは、やる気とかテンションとかそのようなものだと思う。ではテンションをあげるにはどのようにすればいいか。お金が儲かるからテンションがあがるなんていうのは、「宋国の人」なわけだ。正義を実行しているという自覚のうちに浩然の気は大きくなる。

正義とは何かというと、ここちょっと難しいのだけれど、人間の性質は善だという確信によってこの世界の価値観を秩序付けることからたち現れる何かなんだ。孟子は性善説を基礎にこの世界を合理化しようとする。やってみれば分かるのだけれど、合理化されつつある世界というのは、すごくテンションがあがる。やる気が出るんだよね。しかしこの合理化の理由というのが、利益のためとかいうのではこのテンションも長続きしない。  

功利主義程度では世界は傾けられない。しかし合理化の理由というのが、人々の善を解放するためだとしたら? このロマン、この手ごたえ。  

幕末の志士や昭和初期の動乱に参加した人たち。彼らはなぜあんなに熱くなっていたのか、不思議だと思わないか。私たちと同じ日本人なんだよ。結局、何らかの正義感によって浩然の気がまさに「天地に満ちた」からだろうと思う。では彼らの正義感はどこから来たのか。自らの利益のためか? そんなことは考えられない。日本や日本人の善を救おうという正義感からだろう。

幕末や昭和初期をを否定する人は、その正義感がうざいということなのだろうけど、そんなこと言わないで。善意に悪意で答えるのは可能ではあるけれども、いいことではないと思う。  

明らかに近代日本において孟子は生きていた。浩然の気はまさに「天地の間に満つ」だった。

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私は46歳で子供が4人いるのだけれど、みんな元気に学校に行ってくれて本当にすごいと思う。私が小学校のときは、学校をずる休みしてNHKの教育テレビを見ることが楽しみだった。今から考えると異常にテンションが低かった。おどおどしていて、いつも回りの様子をうかがうような感じだった。いじめられるということもあったけれど、今から考えると、心の弱い子供が私のような人間をいじめることはありえるだろうと思う。正直危ない状況だったと思う。   ただ勉強だけは出来た。小学時代の算数とかは、ばかばかしくてしょうがなかった。国語の時間の音読なんて、なぜ声をだして読まなくてはいけないのか意味が分からなかった。高校になっても、今から考えてなのだけど、テンションはあがらなかった。何かをちゃんとやるということは出来ない。英語が苦手だった。単語をちゃんと覚えるということが出来ない。しかし、理数系は得意だったから、帝国大学の上位校に行った。行って驚いたのは、ここにいる人たちは普通のきちんとした人たちだということ。きちんと単語を覚え、きちんと授業に出て、きちんと大手企業に就職するだろうという意味。訓練が出来ているよなーと思った。正直、私には無理だ。きちんとして人生を終わったとしたなら、ぐだぐだの本当の自分の魂は救われないだろうと思った。これは明確に思ったのではなく、なんとなく思っただけなのだけれど。 大学を辞めて引きこもるようになった。両親が死んでいて、完全に引きこもるお金はないから、月に5万ほどバイトして後はずっと本を読むような生活を2年ほどやった。大学の時の知り合いの女の子が、私のアパートに来てくれて、掃除したりごはんを作ったりしてくれた。つい抱きしめたら、いろいろあって子供が出来たんだよね。これはまずい、なんでも働くなくてはいけないということで、底辺なのだけれど定職で働き始めた。 20年たった。 思うのは、みんなギリギリでやっているのだなということ。大学の知り合いたちは、ちゃんとした教育を受けてちゃんとした企業に勤めて、まあ粉骨砕身の人生だ。底辺の人たちは、ゆっくりなくせに、チンピラみたいなのもいるし、仕事しているアピールがうるさいのもいる。  自分のような人間でも、結構この世界でやれるものだなと思う。自分としては、自分なりに努力したつもりなのだけれど、どうなのだろうか。

神経症というのは現代において蔓延している。その理由というのは、メンタルが弱いのに無理にがんばるということになるだろう。まあだいたいにおいて、メンタルが弱いのは本人の責任みたいなことになる。しかしこの世界は家畜小屋ではない。クソみたいな自己責任論は受け入れられない。

そもそも「メンタルが弱いのに無理に頑張る」とはどういうことなのか。

この世界にはがんばらなくてはいけないというプレッシャーがある。学校には行かなくてはいけないし、卒業すれば就職もしなくてはいけない。就職なんて、誰も知っている人がいないところで役に立つ人間になるということで、これはかなりハードルが高い。
昔のように、親の手伝いをしていたらそのまま大人になれるというのとは違う。

この世界は頑張ることが前提となっている。

世界自体には上向きの角度がついていて、その角度に従ってあらゆる価値観が秩序付けられている。何のために世界に角度がついているのか。意味とかはないんだよね。世界の角度を確信しているなら、問題はないのだけれど、もし傾いた地面に疑問を抱いたとしたら? 頑張る角度に意味がないなんて頭の中で声が聞こえたとしたら?

私は思うのだけれど、日本は何らかの強力な言説によってその世界を傾けた。傾いた世界は固定されて、必要とされなくなった強力な言説は失われた。だから、傾いた世界のその下は空洞なんだよね。その空洞を、ある人は無意味と呼ぶし、ある人は自由と呼ぶ。その無意味や自由に耐えられなくなった時に、神経症となるのだと思う。これは病気ではなく必然だ。  

私は今まで、無意味に孟子を語ってきたわけではない。「孟子」という言説は、読んで面白いとか見て楽しいとか、そのようなレベルをはるかに超えて、崩れかけている心の空洞をみっしりと埋めるほどの力を持っている。そもそもこの世界を傾け、そして失われてしまった言説とは「孟子」だからだ。

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