magaminの雑記ブログ

2016年12月

丸山真男の「超国家主義の論理と心理」を今読むと、かなりずれているような感じがする。丸山真男は日本は明治維新以降一貫して超国家主義だったというようなことを書いていて、その例として、漱石の「それから」の大助の、「お父さんの国家社会のために尽くすには驚いた」という発言を引いている。確かに大助の父親は国家主義的な人物だったのかもしれないが、この大助なる主人公こそはニートだから。作品の中で、自分はなぜ働かないのかという論理を堂々と展開していた。「それから」を、超国家主義に日本が貫徹されていたなんていうことに引用するのはムリなのではないか。  そもそも丸山真男のいう「日本の超国家主義」とは何なのか。本文から判断すると、「天皇からの距離によって国家的社会的地位の価値基準が決定されていて、そのような社会では抑圧の移譲による精神的均衡の保持がおこなわれる」 ということになる。抑圧の移譲というのは、先輩からいじめられたら後輩をいじめるみたいなもので、丸山真男は福沢諭吉の「西隣に貸したる金を東隣に催促するがごとし」という言葉を引用している。 しかし超国家主義というものは日本を太平洋戦争に駆り立てた何ものかであり、それが抑圧移譲のシステムだというのは納得がいかない。抑圧移譲のシステムは、福沢諭吉の言うように江戸時代からの日本の風俗みたいなもので、これを超国家主義の源泉だというのは明らかにムリだろう。ただ丸山真男が軍隊で抑圧移譲のシステムという日本の風習にすごくいやな思いをしたということが分かるだけだ。  そもそも抑圧移譲のシステムなんていう田舎ならどこでもありそうな風習に、日本をして日清日露を勝たしめ、世界の列強の一つに数えさせ、最後はアメリカとタイマンだなんていう場所に押し上げる力があるのだろうか。  結局 「超国家主義の論理と心理」という有名な論文は、日本近代の精神史の傍流をその本流だと考えていて、まあぶっちゃけて言えば重大な判断ミスをしていると思う。

マックス.ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最後のところを引用してみる。      

「強力な言説がもたらした禁欲思想は、世俗道徳を 支配し始めるとともに、今度は近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになった。この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構に入り込んでくる個人の生活スタイルを決定している。バックスターの見解によると、外物についての配慮は、「いつでも脱ぐことができる薄い外套」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外套を鋼鉄のように堅い檻にしてしまった。禁欲が世俗を改良し、世俗の内部で成果を挙げようと試みているうちに、世俗の外物ははるかに強力になり、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利を遂げた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としていない。将来、この鉄の檻に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、全く新しい預言者が現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それともすべてが機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にも分からない」   

ウェーバーの論理は明快だ。私が付け足したりすることもないのだけれど、私の言葉でウェーバーのこの言説を表現するなら、

「かつての世界では価値観はばらばらにあった。ある強力な言説が価値観を秩序付け、その結果世界は傾いた。長い時間の後、世界を傾けたその強力な言説は失われ、傾いた世界だけが残った」 

まあこんな感じになるか。引きこもりや、うつや、過労死なんていうのは、この世界の傾きに対応できない人たちだと思う。しかしそれはしょうがない面もあるだろう。なぜなら、世界を傾けたその言説が失われてしまっていて、ただ傾きだけが残っていて、なぜ世界の傾きに自分を合わせなくてはならないかと問われたなら、もう誰もその問いに答える出来なくなっているから。  

そもそもヨーロッパ世界を傾けたのは、ウェーバーによるとカルバン主義の予定説だ。こんな予定説なんていうもので、21世紀の欧米諸国が救われるとも思えない。ウェーバーの言う、かつての思想や理想の力強い復活なんていうのは、欧米においてはありえないだろう。だが日本はどうだろうか。日本も先進資本主義国になったが、別に予定説によってその世界を傾けたわけではない。ざっくり言ってしまうと、日本の近代世界を傾けた言説は、孟子の性善説だと思う。性善説、誰もが心の中に善を抱いている、この言説にはまだ力が残っていると思う。孟子の言説が東アジア世界を傾けて、まだ孟子の言説に力が残っているとするなら、まだ東アジアには孟子の言説によって救われる可能性があるのではないかと思う。

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坂口安吾は芥川龍之介の甥である葛巻という人物と仲が良く、芥川の死後、その遺稿を見せてもらうことができた。

坂口安吾は、芥川龍之介の晩年の手記にこのようなものがあるという。

ある時、農民作家なる人が芥川の家を訪ねてきて、生まれた子供を殺していっと缶に詰めて埋めたという話をする。
「あんた、これをひどいと思うかね。口減らしのために殺すというのを、あんたひどいとおもうかね」
芥川は、この話を聞いて世界に突き放されるような感覚を持ったという。  

角度を持った世界に順応していけば世界が助けてくれるだろう、なんていうのは甘えた考えであるだろう。真の世界、リアルの世界においては、角度とか関係なく突き放されるということがありえる。頑張ったからといって報われるわけでもない、死んだからといって同情されるわけでもない、そのような世界は存在する。

この世界に生まれたからには、何か頑張らなくてはいけないという空気みたいなものはある。おまけにその頑張るべき角度みたいなものすらあって、頑張りすぎると逆に引かれててしまうなんていうこともありえる。程よい角度で頑張るのが一番いいらしい。この角度についていけないと、「うつ」だとか引きこもりとか、まあ精神病扱いだ。  

このね、程よい角度なるものはなんなのかという。もし角度のない世界があるとするなら、それはどのようなものか。 

傾いた世界と傾いていない世界と、どちらが正義だとかどちらが進歩しているとか、そのようなものはない。正義を信じて角度のある世界で頑張ることを選択したのなら、その世界で頑張るしかないという、まあなんというか道があるだけだ。


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なぜ日本が先進国になったのかを誠実に問うとするなら、まずもって先進国はすばらしくそして発展途上国はダメだなどという価値判断は排除しなくてはならない。そもそも先進国とか発展途上国などという言葉自体に価値判断があるのだけれど、新しい言葉を作っても分かりにくくなるし、このあたりは記号として認識して欲しい。  今の岩手県太平洋岸南部に江戸時代末期、命助という百姓がいた。命助は子供のころ、遠野で四書を学んだ。百姓一揆で主導的な役割を果たし、南部藩に目をつけられて結局獄中で死ぬことになる。この命助は獄中から子供達に対して、節制と勤勉とを強力に推奨する手紙を出す。命助の子供は6人いて、上二人は男の子で下四人は女の子だ。命助の希望は、家族みんなで命助の家を盛り上げて欲しいということ。みんなで頑張って家族を維持するというのは、今で言うと当たり前かもしれないが、江戸時代においては違うと思うんだよね。  江戸時代以前の日本では、子供の間引きというのは当たり前だった。必要のない子供は、小さいうちに殺されるというのは普通だった。これ、ひどいと思うかもしれないけど今の日本だって、3ヶ月未満の胎児は殺していいということになっているから、五十歩百歩ではあるよ。江戸時代の東北地方というのは、生活するにはかなり厳しい地域だった。米というのが日本の通貨的な存在となって、東北地方は米生産の北限なわけだから、冷夏になるとたちどころに飢饉になる。西日本ですら子供の間引きはあったのだから、東北ではより当たり前だっただろう。命助はこのいつ来るか分からない飢饉を、子供の間引きではなく家族全体の労働の強化によって乗り越えようとした。  これは普通のようで普通ではない。目の前に楽な道があるのに敢えて険しい道を選ぶということは、何らかの思想が必要だ。では命助には何の思想があったのか。もう、遠野で習った四書しかないよね。四書というのは、大学、中庸、論語、孟子で、これらは朱子が中国古典の中から独自に選んだもので、特に孟子なんていうものは朱子にによる大抜擢だったらしい。孟子の思想の根本は性善説で、これは全ての人間が心の底に善を抱いているという、美しくも麗しくさらに厳しいという思想だ。もし人間が性善なら、生まれた赤ちゃんも性善だ。必要ないから殺すという成り行きから、性善だからみなで頑張るというテンションに移行するということはありえる。多くの人が性善説を信じるようになるのなら、その社会の人口は少しずつ増えていくだろう。実際に日本の人口は、明治維新からではなく明治維新の100年ほど前から増え始めている。  命助にとっては、子供を間引かず家族総力の強力な労働で家族を維持するというのが、まあなんというか正義だったんだよね。正義とは価値観の序列によって立ち現れる概念であり、江戸後期、性善説によって価値が秩序付けられその結果強力な労働が推奨されるようになったとして、それは「先進国」になるための一つの条件だったろうとは思う。  このことは現代の日本人の手柄でもなんでもなく、当時の例えば命助というまったくありふれた百姓の魂の頑張りの、そのような集合の帰結であって、もし現代の日本が先進国なるものであるとするなら、そこに暮らす日本人はその帰結を謙虚に受け止めるだけの事ではないかと思う。

法律依存症の人がここ最近増えてきたのではないかと思う。刑法に違反するのはまずいとは思うけど、民法は是々非々だと思う。例えば、損害賠償とかいっても、相手に払う意思と能力がなければ、どうにもならないよ。  相手にお金を請求する、相手が拒否する、裁判をする、裁判に勝つ、裁判所の支払い命令をもって相手にお金の請求に行く、お金を請求するということでは何も変わっていない。差し押さえということもありえるが、そもそも不動産をもっていたり、いいところに勤めているというのではない場合には、差し押さえもたいした意味はない。銀行口座の差し押さえは、支店レベルで相手の口座を特定しなくてはいけない、給与の差し押さえも転職されたらおしまいだ。   ざっくりいうと、生活レベルがある一定以下の人は、実質としては借金返済や損害賠償なんて関係ない。貸す方が悪いという論理すら成り立つ。  ではなぜ多くの人が、賠償なんていう民法的なものを怖がるのか。まあそれはその人が、本来自分のあるべき姿より大きく見せているということだろう。積み上げてきたものを失うというのが恐ろしいのだろうが、そもそも積み上げるということはなんなのだろうか。簡単に失ってしまうものは、積み上げたと断言できるほどのものなのか。  法律依存症の人は、何かに駆り立てられているだけ。世界は強力な言説によって傾けられ、時の流れの中でその言説は失われ、ただ世界には傾きだけが残った。何に駆り立てられているかと問われれば、それはもう「鬼」とぐらいしか答えようがない。

この世界に生まれたからには頑張らなくてはいけない、なんていう考え方はかなりメジャーだと思う。べつにこんな考えは当たり前なわけではなく、近代になって現れた。ではどこから現れたのか? もしだよ、あらゆる価値観が等価だとするなら、食べるだけのお金をかせいで、まったりと人生を生きることも、誰からも非難されることはないだろう。しかし現代ではそのような生き方は推奨されていない。例えば、日本でそのような生き方をする男は、パートナーの女性を見つけて遺伝子を再生産することは難しくなるだろう。ニートになるのは自由なのだけれど、自らの思想を子供に伝えることは、まあ社会によって拒否されているわけだ。  ではなぜ拒否されるのか、なぜ男はひとかどの人間にならなくてはいけないのか。   資本主義の世界においては、それぞれの価値観が等価ではなく、序列を形成している。何でもいいのだけれど、例えば馬鹿大学に行くより国立上位校に行ったほうがいいとか、中小に勤めるより大手に勤めた方がいいとか、このようなさまざまな価値の序列がある。江戸時代以前の世界にも下克上というものはあったけれども、下克上とは価値の序列を転換することであって、けっして価値の序列を受け入れてその坂を登っていくというものではない。   価値が序列する世界。  文学的な表現をするなら、それは「傾いた世界」ということになるだろう。  ではなぜ世界は傾いたのか?  ざっくり答えを言ってしまうと、ある強力な言説かそれを成し遂げたということだと私は考えている。日本には日本なりの言説があり、ヨーロッパにはヨーロッパなりの言説があった。そもそも近代資本主義というものは、ヨーロッパに始まると考えられているので、ヨーロッパ世界を傾けたその強力な言説なるものは何かというのは、興味深いものがある。  ウェーバーはその言説を、カルヴァン主義の「予定説」だと特定した。予定説とは、この世界は神によって決定されている考えるものだ。こう簡単に言ってしまうと、ある種の運命論説みたいに聞こえるかも知れないが、そのようなものではない。神は絶対で、誰もが来世において救われたいと願う世界においてだよ(ここをよくイメージして欲しい、イメージは大切だ、下世話な話で例えるなら、目の前で彼女が裸になっているとして、その彼女がちょっと前まで服を着てすましていたなんていうことを思い出すと、なんだかよけいに興奮するみたいなこともあるでしょう)、絶対の神によって個々の人間が救われるか救われないかは前もって決まっている、もしそうなら、教会とか懺悔の儀式とか意味ないよね。来世の救いは前もって決まっているのだから。そのような言説世界において、人間は伝統や習慣から全く精神的に切り離されてしまうだろう。孤立した人間は自らの心の底を覗き込み、そこに神を見るだろう。   ここで飛躍するのだけれど、予定説によって伝統世界から切り離された集団は、予定説を根源としてこの世界の価値を秩序付けようとする。秩序付けられた世界はそのまま固定されて、価値の安定を砕き、世界は傾く。その傾きから新しい価値観すら生じるようになる。何百年もたつうちに、世界の傾きが残ったまま、世界を傾けた言説である「予定説」は忘れられてしまったという。  これは欧米の起源を語るものなのだけれど、日本にも分かりやすい物語が輸入されている。「金持ち父さん、貧乏父さん」シリーズの愛読者も多いと思う。あの本の論理は結局、稼いだ元金を投資してリターンを得て、それを消費することなく再投資してさらにリターンを得るということのその繰り返しを推奨している。父はこれを死ぬまでやるわけだ。死んだらお金は使えないわけで、金持ち父さんの言説は一見合理的に思えるが、根源的には無意味なわけだ。この無意味な空白のところに、かつては予定説という強力な、キリスト教圏においては反論不可能な言説が鎮座していたのだろう。  プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神という本を私なりに解説すると、まあこんな感じになる。そう間違っているとも思わないけど。

マックス.ウェーバーは資本主義の原動力として天職思想をあげている。問題は天職思想を生み出した思考はどのような精神的系譜に連なるものかということ。  この資本主義に暮らすものは坂道を登るがごとく生きなくてはいけない。なにかに駆りたてらるように、例えば、人から評価されなくてはいけないとか、ひとかどの人物にならなくてはいけないとか。日本の過労死も、終身雇用によって囲い込まれたサラリーマンが天職思想を強制され、強度の労働に耐えられなくなった結果だろう。  この天職思想すら生み出す社会の傾きとは、どこから立ち現れたのか。  何らかの強力な言説が社会そのものを傾けたと、マックス.ウェーバーは考える。私はこれを誠実な考え方だと思う。これをね、下部構造が上部構造を決定するみたいに考えると、最初から社会は傾いていたよ的な考えになって、これではこの世界を理解する手掛かりがつかめなくなってしまう。何らかの言説が世界を傾け、その言説は忘れ去られ、世界にはただ傾きだけが残ったというのが真理に近いのではないだろうか。  資本主義の社会として日本を傾けた言説は、孟子を淵源とする程朱思想だと私は思うけれど、では資本主義の本場、ヨーロッパでは何の言説がヨーロッパ世界を傾けたのか?   この続きはまた明日以降でお願いします。

最近、うちの会社に入ってきたクマモー(私が勝手につけたあだ名)、ちょっとトロいところがあって、他の人にいじめられたりする。  「クマモー、千葉さんにいろいろ言われているみたいだけど、だいじょうぶ?」  「えー、千葉のヤローむかつくっす」  いじめの多くはいじめる側の心の弱さに帰着する場合が多い。だからいじめ問題では、いじめる側が自分の心の弱さを克服するというのが一番いい。だけどそんなことは難しい。第三者としては、いじめる側の心の弱さを指摘するということは出来るのだけど、これはちょっと、うまくその弱さを指摘すればするほど、厳しく生々しい話になってしまう。簡単なのは、クマモーがいじめに抵抗するということ。  「ねえクマモー、人の話にかぶせる遊びをしようよ」  「えー、なんすかそれ?」  「俺がなにか喋るとして、その話にクマモーが知ったかぶりして話をかぶせるゲーム。うまくかぶせられた方が勝ちみたいな。 クマモーの得意分野の話でこれをやろうよ。得意分野なら話もかぶせやすいでしょ。 うーん、クマモーは焼肉なんて得意なんじゃないの?」  「えー、焼肉得意っす」  「中国古代では焼肉のことを、あぶり肉、って言ってたんだよ。ゲーム内では焼肉のかわりにあぶり肉という言葉を使うよ」 「じゃあさー、クマモーさー、あぶり肉の食べ放題って結構行くんじゃないの?」 「えー、よく行くっす」 「最初は普通カルビとかから頼むよね(かぶせてきて)」  「えー、俺もカルビっす」  「頼むよクマモー、これはかぶせるゲームだから、ちゃんとかぶせてきて。カルビの後は何を頼もうか? やっぱり内臓系いっちゃう?」  「えー、俺はやっぱカルビクッパっす」  「え? カルビクッパ? 微妙なこと言うね。じゃあカルビクッパの後はなに行こう、あぶり肉食べ放題は始まったばかりだからね」  「えー、つぎはアイスっすかね」  「クマモー、アイスってあぶり肉終わっちゃってんじゃん。おまえ、かぶせて来いって言ってるのに」  「えー、やっぱ、かぶせるのはムリっす」  「焼肉が、クマモー、あんまり得意じゃなかったんでしょ。なら、焼き鳥はどう? 焼き鳥はけっこう食べるんじゃないの?」  「えー、焼き鳥には自信あるっす。いつも食べてるっす」  「じゃあ、あぶり鳥(ゲームの合図)でさー、俺なんかねぎまを頼んじゃうんだけど、クマモーなんかは最初になに頼んじゃう?」  「えー、ネギっすかね」  「ネギだけ? お前、かぶせろって言ってんだろ」  「えー、かぶせるなんてムリっす」          クマモー43歳、これで奥さんと中学生の娘がいるっていうんだから、ゆるい男のもてる時代なんだろうね。

リベラルとは何かといと、ざっくり言ってしまうと博愛主義だよね。私も全ての人間が救われたらいいいと思うし、そういう意味では博愛主義者でありリベラル寄りだと思う。  リベラルという概念にはインテリ臭がついて回る。知的レベルの高い人は、小説や評論を読んだりしても何らかの価値判断を当たり前にする。ここの表現がいいとか、ここの論理が悪いとか。何が面白くて、何が面白くないとか。  しかしそもそもその価値判断とは何によって判断されているのか。突き詰めて言ってしまえば、この世界は何らかの価値の傾きのある社会で、インテリのリベラルは、我こそはその傾きを体現しているものであると主張しているのだろう。  しかし、そこが矛盾しているところだ。博愛主義とは、あらゆる価値を対等であると考えることではないのか? 真の博愛社会においては価値観の傾きなんていうのはない。  すなわちインテリリベラルは、価値観の傾きがない世界を主張しながら、自らの価値観の傾きを押し付けるという、まあそのような行動をとっているわけだ。このような戦後リベラルの言動が鼻持ちならないと多くの人に判断されても、まあしょうがない感じはするよね。   全ての人間が救われるべきだという考えは正義なのに、リベラルは劣化してしまった。救われるべきはリベラルそのものだ。

私の勤めている会社ってゴミ回収の仕事なんだけど、半年ぐらい前に40歳ぐらいのオジサンが入ってきた。鈴木さんっていうんだけど、こいつ、ちょくちょく会社を休むんだよね。週に1日月5日ペースで休む。風邪を引いたとか肘が痛いとか。テニス肘といっていたけど、おまえテニスって顔してないだろ。昨日は腰が痛いと言って休んで、今日平然な顔をしてきた。 「よー、クマモー(私が鈴木さんに勝手につけたあだ名)、昨日はどうしたの?」  「えー、腰が痛かったっす。今コルセットしてるっす」 「えーどれどれー(おなかももみもみ)、全然コルセットなんてしてないじゃん、お腹の肉がプニプニしてんじゃん」  「えーコルセットするの忘れてきたっす。家にコルセットはあるっす」  「いいよいいよクマモー、家にコルセットはあったりなかったりするんだよね」  「えーコルセットはあるっす」  「いいよいいよ、腰は痛かったり痛くなかったりしてたんだよね」 「えー、腰は痛かったっす」  まあいつもこんな感じ。   年末が近くなって、ゴミ回収の仕事も忙しくなってくる。今日社長から、ゴミが多くなってきているから、みんな気をつけて仕事をするようにという話があった。その後、クマモーのヤツ社長のところに行って、俺の担当のところはゴミが多くなってきてるっす、みたいなことを言ってるの。社長も、イヤーだから鈴木さん、気をつけて仕事をしてくださいね、みたいなリアクションをしているんだろう。  帰り道、鈴木さんと、「おーいクマモー、何社長の話にかぶせてんの? おまえ仕事に来るかどうかも分からないくせに」  「えー、社長の話なんか右の耳から左の耳っす」  「えっ?、自分からからんでおいて、そのリアクションを右から左なの?」  「えー、そうっすね」  「うひょー、リアクションを右から左ってレベルたけー」  この後二人で大爆笑。  あいつなんなんだろうな。

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