magaminの雑記ブログ

2016年10月

丸山眞男は「日本の思想」の中で、日本には伝統的に思想の座標軸がないから、すぐ転向とかずるずるべったりになるとか、まあそんなことを言っていた。                                            これが昭和32年。                                                         で、「忠誠と反逆」の発表は昭和35年。この3年の間にちょっと丸山は反省したのではないかと思う。日本には思想の思想の座標軸がないとか、ちょっと言い過ぎたのではないか。太平洋戦争に大敗北したけれども、よく思い出してみれば、戦前の日本もそう全くの発展途上国というわけではなかったということなのだろう。             思想の座標軸がある日本近代の思想家で真っ先に思いつくのは福沢諭吉だ。福沢諭吉は「学問のすすめ」とか「文明論の概略」とかのなかで、江戸時代にえらそうにしていたアイツやこいつが実は思想の座標軸を全く持っていなかったなんていうことを散々書いている。福沢人気の本質というのは、ここのところを面白おかしく畳みかけるように語るということにあると思う。そして、福沢諭吉自身の思想の座標軸とは何かといと、これが文明とか、合理性とか、功利性とか、まあそういうものなんだよね。しかし正直、合理性とか功利性程度では、思想の座標軸をになうなんていう大任は十分には果たせそうにないよね。合理性とか功利性程度でも、それはないよりは個人的に世界を秩序付けるのには役に立つとは思うけれど。                                          丸山眞男は日本思想の座標軸として、福沢諭吉の後に、自由民権運動、内村鑑三のキリスト教などをあげている。大事なことではあると思うけれど、トータルで座標軸なるものとしては確かに弱めではある。            実際に日本は太平洋戦争で、あの大敗北だったわけで、日本思想の座標軸が弱かったといわれても、まずたちどころに反論できるわけではない。                                                  日本とは結局あの程度のものだったのか、それとも未来に何かを成し遂げて過去を止揚できるのか。それが問われる時が来るだろう。

韓非子って、興味のあるヤツもそういないとは思う。中国の古典ってあんまりかっこいい感じもしない。私も若いころは、ニーチェとかサルトルとかカミュとか、そんなものを読んでいた。なんだかそっちの西洋哲学っぽいほうが、かっこいいような、かっこいいから真実に近いだろうてきな考えだったんだよね。間違っていた。韓非子や孟子やプラトンのほうが、近代西洋哲学よりよっぽどリアルで重厚だった。                                 で、韓非子なんだけど、この韓非子の中には進歩史観というべきものがあるのには驚いた。韓非子は孔子や墨子を批判する。孔子は古代の帝王、堯舜を賛美して、現代の君主もこの堯舜を目指すべきだなんて喧伝するのだけれど、韓非子は進歩史観を使って、この孔子の古代賛美を真っ向否定する。                      そもそも進歩史観というのは特殊な時代状況の特殊な精神状態だと個人的には思う。実際、あらゆるものが時間と共に進化するというわけではない。エントロピーは時間と共に拡大するわけで、進歩史観と同時に退化史観なるものも十分成り立ち得るとは思う。                                               近代以降、進歩史観がメジャーだったけれども、この近代進歩史観を支えたのはテクノロジーと生物学だっただろう。テクノロジーはエネルギーの効率利用というものを積み上げてきたし、生物学は進化論を発見した。これがもしだよ、エネルギーの効率利用の限界が来たとしたら、近代進歩史観が進化論のみで支えられるかというと、おそらくムリだろう。すなわち近代以降において進化論とは                                     「進化論がないならば、それは発見されなければならない」                                 などという程度のものだと思う。                                                  私は別に進化論が悪いとか、そのようなことを言いたいわけではない。ただ、近現代と中国戦国末期が進歩史観を共有しているということ。私は恐ろしいんだよね。春秋戦国が結局どのような結末を迎えたかということは歴史の事実であって、あれと同じ結末がだよ、現代の世界にも用意されているとするなら、こんな恐ろしいことはないよ。

私は今まで戦国末期の法家というのは、法律万能みたいな、法律をきつく人民に押し付ければ人民もちゃんとやるだろうみたいな、ファシズムとシンクロする概念だと単純に思っていたけど、実際に韓非子を読んでみると違うよね。この辺が古代中国の奥の深いところだと思う。                                       法術というのだけれど、これは法と術に分かれるらしい。法というのは法律の事で、その国の人々に公平に法律を適用するということ。術というのは、国民に公平に法律を適用するための何らかの技術ということらしい。      ではその技術とは何か?                                                      大小さまざまな法をあまねく適用するための技術というものがかかれているのけれど、印象的なものを一つあげてみる。韓非子は君主が民間の価値観に国家の価値観を寄り添わせて、そのことによって民間の価値観を統率しろ、というんだよね。これなんて極めて現代的だろう。フーコーが精神医学の虚構性を指摘しようとしたことは、このことと裏表の関係にあるだろう。韓非子が表でフーコーが裏。                                 想像してみて欲しい。                                                       大手電機メーカー、まあ例えば日本電気に勤めているとする。40年勤めあげて、もう定年間近だ。日本電気に勤めているといっても若いころ働いていた現場というものはとっくに存在しない。工場の管理業務のようなところに回されて、日々ブルーカラーとの折衝だ。仕事自体はたいしたものではない。その給料に見合うものではないことは明らかだ。そして、定年ま間近の彼は何を思うだろうか。間違っても自分にはもっと何かが出来たなんて思わない。自分は何かをやり遂げつつあると思うだろう。もちろん実質的に何かをやり遂げつつあるわけではない。我慢はした。しかしそれは評価するほどのものではない。上司には我慢したけれども、下請けには威張っていただろう。実体がないのに実感がある。それはなぜなのか。もうぶっちゃけ言ってしまうと、国が日本電気という価値観体系を自らの中に取り込んで序列化しているからだ。このことは韓非子そのものだ。なぜこのような奇妙な情念が初老の心に宿るのかというと、韓非子によれば、これは国家が国民に法を守らせるための一つの術なんだろう。                                                                               韓非子の世界と現代は似ている。これは必然的なものでもあると思うし、さらに恐ろしいことでもあると思う。    

OUGホールディングスって、なんだったっけ? たぶん何年か前に有名優待ブログを見て、なんとなく買ったのではないかなとは思う。正直、何十銘柄も優待株を持っていると、全てを把握するということもなかなか出来ないよね。  OUGホールディングスは、えーと、1000株単位、株価265円、配当利回り2.26、PER12.14、PBR0.80。      優待が、 1,000株以上 3,500円相当 5,000株以上 7,000円相当 、となっている。  株価265円、1000株単位というのがちょっとレトロな感じする。                                                                                                 優待は水産加工品だね。OUGホールディングスは水産関係の会社でしょう。優待は10種類。ホタテ500グラムとか、辛子明太子360グラムとか、イクラ500グラム、生食サーモン800グラム、干物セット900グラム、みたいなレベル。これなら3500円相当ではあると思う。私なら生食サーモン800グラムを選択か。子供が4人いて、量重視ということある。個人的には干物セット900グラムにすごく惹かれるのだけれど。旅館で食べる朝食って美味しいよね。なんだかそんなイメージで干物セット900グラム。中学生以下のガキに干物とかもったいないよね。お前らサーモンでも食ってろみたいな。                                                                                                                           まあ、そういうのはある。

丸山真男は「日本の思想」の中で、近代日本には精神史がないとか西洋のようなイデオロギーがないとか言っていたが、これは明らかに間違いだ。精神史とイデオロギーというのはつながっている。精神史というものは歴史の雰囲気史というべきもので、雰囲気史などというあいまいなものを記述するためには、何らかの中心概念に基づく世界観、すなわちイデオロギーというものが必要だ。                                       私は徳富蘇峰の「終戦後日記」を読んだのだけれど、これは見事に明治維新から太平洋戦争終戦までの日本の精神史になっている。丸山真男が近代日本には精神史がないと言ったのは間違いだった。それは存在していた。厳然と。                                                                では徳富蘇峰がどのようなイデオロギーで精神史を記述することができたのか。「終戦後日記」の最後の最後で、蘇峰自身、程顥(ていこう)と朱子の程朱思想、すなわち性善説と一君万民思想で家庭的教育を受けたと告白している。この性善説を内包した一君万民思想というのは全く強力で、いうなれば世界を切り裂くナイフのようなものなんだよ。このナイフは人々の生命をエネルギーに世界を切り裂く。よく思い出して欲しい。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、大正以降の暗殺者達、一人一殺、515事件、226事件、これらは性善説を内包した一君万民思想を基底とした善意や正義から立ち現れたと思う。                                            そしてこの程朱思想がどこから来たのかというと、もちろん中国だ。私、中国研究家ではないのでよく分からないのだけれど、中国の歴史の厚みがすごすぎて、孟子、程顥、朱熹、王陽明、というラインが中国本土では埋もれてしまっていたのではないかな。                                                   日本は確かに中国に先駆けて近代国家というものを建設したかもしれない。しかしそれは西洋に対抗するイデオロギーを中国から引っ張ることが当時出来たということではないのか。これは別に日本の恥でもなんでもなく、ただ中国が巨大だったという、まあ当たり前のことに帰着する。

「ブレイン.アーキテクチャ」という本は、現代の脳神経科学がどこまで進んでいるのかというもの。少なくとも人間には意識というものがある。ではこの意識とはなんなのか。意識の問題に迫るルートは二つあって、一つは下から、すなわち人間の脳はどのように進化してきてどのような構造になっていてその構造をトータルで考えるとどのような世界観が得られるのかというもの。もう一つは上から、すなわち沈思黙考、意思や社会的諸条件の意識的解析によって意識の無矛盾の構造にいたろうとするもの。                                       後者は西洋哲学という概念にかぶるところもあるだろうけれど、このような西洋哲学が成功しているとも思えない。人間の神経系というのはあまりに複雑すぎて、その全容を解明するというのは無理な感じがする。特に上からは無理。可能性としてあるのは下から、すなわち科学的にということなのだろうけれど、ちょっとこれ現状はどうなっているのかと思う。                                                          この意識の問題というのは生物学にとってきわめて重要だと思う。これは生物学が一流の科学であるかどうかの試金石なんだよね。                                                           ちょっと言い遅れたのですが、私、昔、国立上位校の生物学科だったことがあります。                 で、生物学って言うのは意識の問題も解けていないのだから、物理学や化学に比べて落ちるところがある。これはちょっといいにくいのだけれど、生物学が二流の科学なら、その下にぶら下がる医学は三流ということになる。さらに精神医学は四流、すなわち科学かどうかも怪しいことになるね。                             生物学にも強みはある。遺伝子の基礎構造は分かっている。ワトソンとクリックがDNAの構造を明らかにしてくれた。ちょっと専門的に言えば、DNAは4つの塩基のつながりからなっていて、その4つの塩基が3つ一組で20種類の必須アミノ酸をコードしている。「ブレイン.アーキテクチャ」によると、一つの意味を持つ人間のDNA内の塩基の繋がりが3万から6万あるという。さらに、中枢神経系の主要な神経結合が約5万あると見積もられているという。そしてこの万単位の二つの体系の関係が分かれば人間というものが立体的に分かるという。                これは大変だよ。二つの関係ではない、二つの体系の関係だから。                            うーん、生物学ガンバレ。

カラスの例えなんだよね。                                                      「それ烏を馴らすものは、その羽を絶つ。その羽を絶たば、即ち必ず人をたのみて食らう。いずくんぞ馴れざるをえんや。その君主の臣をやしなうのもまた然り。臣をして君の録を利とせざるを得ず、上の名に服するをえざらしむ。それ君の録を利とし、上の名に服せば、いずくんぞ服せざるをえんや」                    結局思うのは、中国の春秋戦国って500年もあったから、斉の桓公の時代から秦の始皇帝までに社会的な発展というか堕落というか、まあそのようなものがあったと思う。韓非子のこのカラスの例え話の成立は、正直私なんかには特定は出来ないのだけれど、まず間違いなく戦国最末期以降だろう。                     このカラスをなれさせたいのならその翼を切れ、などという例えは、まさに現代日本のホワイトカラーの現状だろう。韓非子の烏の例えと、プラトンの以下の言説、                                     「そこでの言論というのは、主人に向かって同じ奴隷仲間のことを云々する言論なのです。しばしばその競争は生命をかけて争われることがあるのです。そしてこれらの全ての結果として彼らには緊張と鋭敏とが生まれるのです。主人に阿諛するにはいかなる言論によるべきかという知識が生まれるのです。とはいえ、これによって彼らの精神は矮小になり、また不正直となるのです。つまりそれは必然的に曲がったことをさせるからなのです。それというのは、まだ若くてやわらかい彼らの精神の上には大きな危険が投げかけられて、はなはだしい危惧を覚えさせるからなのであって、それは彼らには、正しさや真実を失うことなしには持ちこたえることが出来ないものなのです。そのために彼らは幾度も幾度も捻じ曲げられたり折りくじかれたれたりして、ついには少しも健全なところをもつことなしに子供から大人になってしまうのです。そしてそれを自分達は、智恵者になったとか一目おかれるような人物になったとか思っているわけなのです」                                    は同じものだ。                                                          現代に暮らす人間が現状世界が永遠に続くと考えているように、戦国の時代に暮らした古代中国の人々もこの戦国時代が永遠に続くと考えていただろう。しかし古代の中国において歴史的事実は当時の人々の期待とは異なった。戦国は秦によって統一され、すぐさま秦は崩壊し極度の社会的混乱の後、劉邦によって再統一された。戦国末期と現代世界の言説精神が一致している以上、現代のこの世界状況がいつまでも継続するというのはちょっと甘い考えのような気がする。別に世界が展開するなんていうことは個人的にはかまわないのだけれど、そのことによって起こる社会的混乱というのが怖い。現代の民主主義が最高のものだとは思わないが、新しい世界を招来するために人類が一度地獄を見るなんていうことも必要あるのかな。出来るだけ地獄なんてものは先送りした方がいい。だからこそ、私はこの民主主義の基礎を自ら掘り崩すようなことはすべきではないと考える。例えば、約束通り年金は満額以上払えみたいな考えなどは危険千万だ。無理をすれば払えるだろうけれどそれは民主主義の基礎を掘り崩すこととのバーターなのだということは理解しないといけない。

自分の子供が自分の本当の子供かなんて考えること、これはありえる。ただ本当にDNA鑑定しちゃうなんていうのはない。                                                                司馬遼太郎によると、西日本の農村においてはかつて夜這い婚というものが存在していた。夜這いというのは青年が、夜、村の娘の寝ているその寝床に、まあなんというか、思いを遂げるためにチャレンジするということ。女性には相手を拒否する権利がある。暗闇とはいえ女性には相手がどのような男かということは分かるものらしい。女性はこの男だったらいいだろうと判断したら受け入れる。女性もそのように何人かの男を受け入れていると妊娠しちゃうよね。で、妊娠すると女性は、今まで夜這いを受け入れた男性の中から好きな男を選んで夫婦になることができる。まあ、めでたしめでたしだ。これをもし男が拒否したのなら村八分になる。ここでのポイントは生まれてくるだろう子供は100%自分の子供とは限らないということだ。女性の自己申告なのだから。男性はその自己申告なるものを受け入れるしかない。                                                    私は個人的には、このシステムで別に何の問題もないと思う。                               自分の育てる子供は自分の血のつながった子供であって欲しいと思うのは男の感情だとは思うのだけれど、そもそも自分だって他の女に夜這いしているわけであって、自分の子供をよその男が育てる可能性だってあるわけだ。残酷な現実を知る必要もないと思うし、男も女も結局は孤独なものなのではないのかな。                自分の嫁とだよ、互いが互いの胸を掘り崩しあって、その子供は二人の魂の結晶って、そういうこともなくはないだろう。                                                                 ただそれってなんだかちょっと甘いような。                                           寝物語で、夢見るような男と女の会話というのもありえると思う。でも、覚醒状態で夢見るなんていうのは甘いよね。自分が童貞だからって、相手が処女なわけじゃない。日本の伝統にはDNA鑑定なんていう精神はない。男、もっと頑張れ。

韓非子の内儲説にこのような言説がある。                                            「越王、呉を討たんことをはかる。人の死を軽んずるを欲するや、出でて怒った蛙を見て、すなわちこれがために敬礼す。従者曰く、なんぞこれを敬すると。王曰く、その気概有るがための故なりと。明年、自らの、頭をもって王に献ぜんことを請うもの、年に十余人なり。これによりてこれを観れば、これを誉むるは、もって人を殺すに足る」    このようなことは、功利主義的な人間には関係がない。自分がよければそれでいいというのは一つの考えでもあるし、私は別に功利主義を否定しようとも思わない。生まれて、よろしく人生を楽しんで、そして死んでいけばいいだろう。                                                                  私が問題にしたいのは、生まれたからには人のために何かをしたいという思想を持った人間だ。このような考えを持った人は一定数いて、そしてこのような人たちこそがこの世界の秩序を支えているのだと思う。人のために何かをしたい、ということは、言い換えると、身を殺して仁をなす、ということだろう。では仁とは何かというと、これがまた微妙な問題だ。仁とは明確には確定できないという、そのことを利用して、越王はこの仁をコントロールしようというわけだ。これは現代日本の過労死問題にもつながってくるだろう。韓非子とは君主が国をどのように統一的に治めるべきかということを書いてある言説体系であるから、越王が仁をコントロールするなんていうぶっちゃけた説話もでてくる。だが現実の世界はそうではない。全てが隠されてある。現代において推奨されている正義というものが普遍的な正義であるということは全く保障されていない。そして功利主義を拒否する人間は、自分の心の奥底から自分なりの正義をつかみ取る必要がある。正義は誰かが与えてくれるなんて考えるのが一番危ない。        越王勾践は世界を単純化することで、正義を自分の方に引き寄せようとする。

福沢諭吉は今読んでもキラキラしている。ほとんど文句のつけようもない。

しかし福沢諭吉をトータルで考えると引っかかるところもある。脱亜論とかもあっさり過ぎる感じもする。そして慶応大学というのはいつからお坊ちゃま大学なのか?なんていう疑問もわいてくる。
                                                       徳富蘇峰によると、慶応義塾とは福沢が明治初期に開いた学問の一大マーケットであって、そこに日本中の金持ち、土地持ち、有産階級の子弟を集めそれをまた全国に配布した、とある。
慶応義塾とは最初からお坊ちゃま学校だったらしい。
明治初期には東大はあったけれども、京大以下の帝国大学は存在していなかった。明治政府は慶応義塾に対抗するために帝国大学の整備を急いだということもあるらしい。                        

福沢諭吉のフクオウ自伝の中に、福沢が兄にお前は将来どうなりたいかと聞かれて、金持ちになりたいと答えたなんていう場面がある。福沢の思想の一つに独立自尊というものもある。

拝金主義と独立自尊。
                                                       徳富蘇峰が言うには、福沢精神の下落したるものが拝金宗で、福沢精神の最も浄化したるものが独立自尊である、という。

この言説は一理あるな。

福沢の文章というのは、文明的で論旨が明快でなおかつ読んで面白いという。頭のいいヤツはどんどん頑張れみたいな膨張主義的なところがある。これをさらに押し詰めて考えると、ぼんやりしたヤツは頭のいいわれわれインテリに思考を任せてくれればいい、悪くはしないから、みたいなことになるのではないかな。

福沢自身にはそのような意識はなかったかもしれないが、福沢の意識を継いだ昭和のリベラルにはへんな胡散臭さがあった。福沢には結局、「身を殺して仁をなす」のような優しさというか厳しさというかそういうものがなかった。別にこれは福沢の罪とか言うものではない。彼は彼なりにそのきわめて優秀な頭脳で日本の独立のための一筋の血路を開いたという、そういうことだ。問題は、戦後の自称リベラルが、優秀でもない頭脳で福沢のまねをしてリベラルの価値を押し下げてしまったことだと思う。                                     

韓非子に、自分が美人だと思った瞬間その女は醜くなるという言説がある。福沢のどこまでが美人であったかという、微妙な問題になるだろう。


徳富蘇峰終戦後日記 頑蘇夢物語 (講談社学術文庫) [ 徳富蘇峰 ]
徳富蘇峰終戦後日記 頑蘇夢物語 (講談社学術文庫) [ 徳富蘇峰 ]
終戦後日記は全5巻で、一巻目だけが文庫化されています

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