magaminの雑記ブログ

2016年09月

カゴメの優待は、優待ファンには定番中の定番です。                                    カゴメといえばトマト。ここまで来るとずるいような感じさえします。ライバルなんていないでしょう。カゴメとトマト、これほどの一体感というのは他にはないのでないでしょうか。スーパーに行けば、カゴメのケチャップのほかにもプライベートブランドのケチャップはあります。ただプライベートブランドのケチャップはちょっと買いにくい。なんだかカゴメではないトマトは「かわいそう」みたいな、カゴメじゃないトマトは畑でいじめられているのではないかなんていう妄想が頭にちょっとなんですが入り込んでくるような。                                         カゴメにたいして思うことは、とにかくトマトを裏切らないで、ということだけですね。                    カゴメの優待の話ですね。                                                     私、カゴメを100株持っていて、昨日カゴメ1000円優待がきました。内容はというと、                  ケチャップ 普通のカゴメケチャップ これがないと話にならないです                            鶏肉をトマト風味にローストしちゃうソース カゴメらしい新商品ですね                           野菜生活100 豆乳バナナ いちじくMIX レモンなんとか計3つ カゴメもチャレンジが必要なのでしょうか     スーパーベジ なにこれ? ちっちゃいペットボトルです。スーパーベジタブル55パーセント配合らしいのですが、野菜の内容は、にんじん、ビート、紫キャベツということです。ビートって何? このビートなるものがスーパー野菜の中のスーパーなのか?  でもよく見ると、人参といってもただの人参ではなく高ポリフェノール人参らしいよ。ちょっとマテ。高ポリフェノール人参の説明がのっている。えーとっ、                                   「高ポリフェノール人参は、アフガニスタンのヒマラヤヒンズークシ山脈で成育していたといわれる人参の原種で、通常の人参の2倍以上のポリフェノールを含んでいます」                                    とのこと。うーん、アフガニスタンのヒマラヤヒンズークシ山脈で成育していたといわれる人参って、いわれるってなんなんだ? さらに、いわれる人参ではなく、いわれる人参の原種なのか。かなり言説としては微妙だな。ポリフェノールが2倍だと、人体の内側からエイジングケアができるらしいよ。えー、エイジングって何だ? トータルで言うと、ポリフェノールがヒンズークシのおかげでエイジングするということになるね。えーっと、それがスーパーベジタブル。                                                                     カゴメはトマトを愚直にかんばって欲しいですね。

まあ徳富蘇峰が変節しようがどうしようが、ほとんどの人にはどうでもいいことだと思う。人間というのは変わるものだし、変わっていないなら成長していないなんていう論理だって成り立つ。変節しないのがいつもいいわけでもなく、変節するのがいつもいいわけではない。                                             しかし当然ながら長い人生で変わらないものという心の部分はあると思う。これがないというのなら、過去の自分と現在の自分との同一性が疑われてしまう。                                           徳富蘇峰の変わらないところというのは、日本の民衆に対する同情や愛だったと思う。「終戦後日記」における天皇制に対する発言も、民衆に対する同情の結果だろう。すなわち、愛すべき日本の民衆は集団としてこの世界で生き抜く訓練が足りない。だから天皇というアンカーが必要なのだという論理だ。日本というものがどのように一体感を保つべきかというのは、明治初期と昭和初期でそのコンセンサスは異なってくるだろう。だから徳富蘇峰の言説も遍歴するわけだ。日本の民衆が日本という一体感の中でそれぞれに愛すべき生活を営んで欲しいという大なる仁義の前では、時代の変化による個人の哲学的変節などというものは、ことさら非難するほどの問題ではないと思う。                                                                  語っていることがバラバラだからといって、直ちに間違っているというわけではない。孟子だって言っていることはバラバラだ。しかし孟子には勝手な放言の向こうに何らかの孟子なりの確信があるよ。蘇峰も同じではないかな。

本とか新聞とか読むと普通なにか思いつくことがあるのだけれど、今日は何も思いつかない。             今は夕飯時で妻がハンバーグをつくっている。私はここ10年ぐらい夕飯というのを食べていないので、平日は妻が夕飯を作って、妻が子供達と一緒に食べている。日曜日は私が夕飯を作る。この前の日曜日は私の手作り餃子だった。私は試食程度しか食べないけれど、妻と子供は食べていた。                            いままったくハンバーグが出来たらしい。19歳のおにいちゃんがご飯をついで、6歳の女の子がご飯を運んでいる。小学4年の男の子は箸を出している。高一のおねえちゃんは塾で現状不在。6歳の女の子は納豆好き。メインディッシュがハンバーグなのに、独自に納豆をかき混ぜている。ハンバーグにケチャップを満遍なく塗りつけて、そのままハンバーグを食べるのかと思いきや、納豆ご飯を食べ始めた。おにいちゃんが、                 「何で子供ってハンバーグにケチャップを満遍なく塗るのだろう」                              などとひとりごちている。6歳の女の子は、                                           「大人はなぜハンバーグにケチャップを塗らないのか」                                    と反論している。                                                          小学4年の男の子は、                                                       「塩を沢山食べるとなぜからいのか」                                              などと、答えようのない疑問を提示する。そのうち残りのハンバーグを誰がどれだけ食べるか、なんていう議論を始めだした。妻がこの子は大きめハンバーグ、この子は小さめハンバーグなどと、正義の分配を始めた。       いつもの日常だな。                                                        明日の朝ごはんの話が始まった。ご飯がいいのかパンがいいのかとか、どっちでもいいだろうと思うけれど、なんにでも微妙な差というものはあるからね。夕ご飯も、もう終わりらしい。

哲学とは何かと問われたら、私なら、この世界の秩序はいかにあるのかを考える学問だ、と答える。もしだよ、哲学が「この世界は如何にあるのか」を考えるものだとするなら、それなら数学、物理学、生物学で事足りる。別に哲学なんて余計な学問は必要ない。繰り返せば、哲学とは世界を知る学問ではなく、世界の秩序を知る学問だと私は考える。                                                                徳富蘇峰は「終戦後日記続編」の中でこのように言う。                                    「一人前の人間ということは、己れ自ら己れを支配する人間であらねばならぬ」                     さらにこのように乗せてくる。                                                   「もし銘銘が内省自反の力があって、我自ら我を支配する場合においては、少なくとも社会の秩序だけは、他力をからずして、自ら得べき筈である」                                                 哲学の匂いがしてきた。                                                      徳富蘇峰はさらにいう。                                                      明治以降は教育が人間教育から形式教育に移行した。形式教育なるものは人間を全く物体として扱う。別言すれば、一切のことは法に任せて、人には義務もなければ、責任もないものとした。                     これならば、戦前も現代も変わるところがない。                                        秩序に対する意識がなければ、言い換えるのなら、哲学がない世界ではどのようなことが起こるのか。戦前においては日本は総力戦を呼号したけれども、人間に義務もなければ責任もないなんていう状況では総力戦を戦いきれるはずもない。太平洋戦争は全くの大惨敗だった。さらに現代においてはどうだろうか。ここ何年かにおける日銀の異次元金融緩和というのは、日本の無義務無責任体制の一つの結果だと私は思う。現代日本には哲学がない。言い換えるなら、規律とか秩序というものは前提なしに与えられているものだと考えている。ヘリコプターマネーなどという考え方は、規律が無制限に与えられているという楽観を突き詰めたものだろう。日銀もさすがに前回の会合でこのままではヤバイと思ったのか、方針転換の意思表示はしている。しかしこんなものは、危なそうだから立ち止まったというレベルの話で、そもそもの哲学がないのだからトータルで何とかなるというものでもないだろう。                                                                                                                                            徳富蘇峰はいつか再評価される時が来るだろうと思う。

社会保障の継続不可能性の問題は、年金の問題に帰着する。はっきりいってしまえば、日本財政を立て直すには年金を減額するしかない。もっといえば、年金制度を緩やかな生活保護方式にして資産のある老人の年金はカットするということになる。このようなことを言うと、今まで払った年金積み立て分を返せなどという意見が出てくるのだけれど、このような意見には何の拘束力もない。                                        そもそも年金というのは、その淵源を太平洋戦争中に持つ。日本国民が後顧の憂いなく戦えるように、総力戦の一つの実現態として年金制度は現れた。全体が救われる結果自らが救われるようなそのようなシステムだ。     正直、年金減額というのは政治的にはきわめて難しいと思う。回りの年金受給者に「国家財政が厳しいから年金は減額したらいいのではないか」なんて喋りかけてみるといい。老人達は烈火のごとく怒り出す。あたかも自分の信じている神が冒涜されたかのように。                                               日本は太平洋戦争で、総力戦を呼号しながら総力戦を戦いきれずに敗れたけれども、近い将来総力戦体制のシステムの一つである年金制度によって再び国が破れるだろう。団塊の世代は逃げ切ることが出来ないだろう。まあでも、国破れて山河あり、だ。日本が発展途上国レベルになったとしても、日本は日本だ。オシャレなランチを食べられなくなっても、いかつい車に乗れなくなっても、団塊の世代が快適な老人ホームに入れなくなっても、たいした問題ではないといえばその通り。ただ日本が哀れになることを避けるために、さらなる哀れに落ち込むようなことはお断りだ。私たちと私たちの子供達が、あの明治の時のように、またみんなで頑張れればそれはそれで幸せだ。

「孟子」の万章章句上で孟子はこのように語る。                                    

「天子は天下をもって人にあたうこと能わず。誰かこれを与えし。曰く、天これをあたう」                 

この後、天は喋ることが出来ないので人民が新しい天子を支持することによって天の意思が証明される、という感じで続く。

秩序が第一義であるとしてしまうと、暴君が現れても臣はそれに従わなくてはいけないということになるのだけれど、孟子の論理を使うなら、暴君が現れた場合には秩序を乱す革命も可能であるということになる。

孟子は通常の時代状況の場合は秩序を重んじ、暴君が現れるなどという異常時には革命も容認するというフレキシブルな社会認識であるともいえる。しかしこれをもっとトータルに考えてみると、君主と人民とは互いにやるべきやって国としての一体感というものを強化するべきだ、という思想に行き着くのではないか。

この思想は、一君万民ということにもなるだろうし国としての総力戦ということにもなるだろう。総力戦の世界においては、個人の幸せというものはその人の潜在能力か最大限に引き出された時に顕現されるということにもなるだろう。

「孟子」という書物は紀元前からあるのだけれども、これがメジャーになったのは、朱子が「孟子」を四書の中の一つに引っ張りあげたからだ。
                                                    700年前に中国が宋という時代だった時、朱子が「孟子」を四書のひとつに大抜擢した、逆に言えば「孟子」が朱子をして大抜擢させたという。宮崎一定は中国の中世と近世の境目は宋の建国にあると語っている。近世が孟子を必要としたのだろう。

孔子の儒学というのは礼とか徳とか、さらにいえば君臣の秩序父子の秩序を賞賛するのだけれど、「孟子」は、秩序というものを突き抜けて天とか人民とかを第一義に置くという革新的なところがある。

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この連休に私と妻と子供4人で湯河原に行ってきました。ふるさと納税を湯河原に8万円実行して湯河原温泉券4万円。この伝家の宝刀を抜いたわけです。                                            朝の10時に川崎出発。小田原の磯丸水産でクリエイトレストランツの優待を6000円使って昼ごはんを食べて、そのまま湯河原、旅館直行です。宿泊代は8万円でした。4万円分をふるさと納税湯河原温泉券で払って、小田原着。小田原城を見学しまして、昼ごはんは、さかなや道場でチムニーの優待を8000円使用しました。その後徳富蘇峰記念館を訪問後川崎帰着です。                                               なんだか桐谷さんみたいになってきました。小田原まで行ってチェーン店でご飯を食べるのもどうかとも思うのですが、なんせ子供連れなのでチェーン店の安心感に寄りかかりたいというのもあります。家族旅行を安く上げすぎたかとも思うのですが、そもそもこのようなふるさと納税や株優待が家族旅行のモチベーションにもなっているわけですから、プラスマイナスで考えると多少のプラスではあると思います。                           株で勝って税金を納める状況にならないと、ふるさと納税枠は獲れないわけで、今年は特に厳しい状況なのですが、ここから来年も湯河原等に行けるように頑張りたいと思います。

太平洋戦争ははるか昔の出来事ではなく、いまでも私たちを貫いている。憲法9条、安倍総理の呼号する総力戦、年金問題、それらの淵源は戦前、戦中にある。太平洋戦争とはなんだったのかと考えてみる。大国アメリカに小国日本が仕掛けた無謀な戦争。軍閥によって日本は間違った戦争に導かれた。戦前の日本人は馬鹿かきちかその両方か。まあこのような言説が戦後無数に積み重ねられてきた。これは正しいように聞こえるのだけれど、結局は結果論なんだよね。                                                         結果論ほどつまらないものは無い。戦後、結果論を積み重ねて太平洋戦争の評価がなされ続けたけれど、そのような言説を読む価値は全く無い。いくら私がばかげた暇人だかといって無意味な言説を無数に読むわけにはいかない。                                                                徳富蘇峰は「終戦後日記」で太平洋戦争の原因をこのように書いてある。                        「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」                           私が思うのは、この蘇峰の言説を基本にして、すべては組み立てられなくてはならないということだ。戦後、橋川文三なども太平洋戦争の真理を究めようとした誠実な研究者の一人だったとは思うけれど、徳富蘇峰のこの言論にたどりつくことすらできなかった。                                                 徳富蘇峰は福沢諭吉の言論を継ぐものは自分であると自負していたが、これは全くの自己過信とはいえない。蘇峰のすごみはこの「終戦後日記」のなかに充満している。

徳富蘇峰の「終戦後日記」を久しぶりに読んでみたけれど、本当にたいしたものだと思う。徳富蘇峰は明治大正昭和を生き抜いた近代日本を代表する大言論人だったのだけれど、現在文庫版はほとんどか絶版で、手軽に徳富蘇峰を読めるという状況にはない。個人的には徳富蘇峰とは福沢諭吉と同列といってもいいぐらいの思想のリアルさ、論理の切れ味というのがあると思うのだけれど、残念ながらあの大東亜戦争に加担したというマイナスイメージが大きすぎで、正当に評価されていないというのが現状だと思う。                              ひとつ徳富蘇峰の論理の切れ味というものを紹介してみよう。最近憲法9条改正についての議論が起こっている。戦争の手段を放棄すれば戦争が起きないとすればこんないい話はないとは思うのだけれど、物事をそんなに簡単に考えていいのかという不安は残る。甘えと猜疑の入り混じる憲法9条をめぐる論議を戦後間もなく徳富蘇峰はこのように書きなぐった。                                                     「武力を排除したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後における、新たなる試験というのほかはあるまい。ここまでには世界の歴史に、左様なれいは、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかることを平気で、朝飯前の仕事のごとく、言いなしている日本の有識階級は、実に驚き入りたる肝っ玉の持ち主といわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼らの軽佻浮薄の浮動性が、彼らをかりて、ここに至らしめたるものというの外はあるまい」                                            戦後の昭和においては、戦争放棄が平和に直結するなんていうのが真理に思えた時間が確かにあった。経済成長が戦後の正当性を保障するという、そういうことだったと思う。バブルが崩壊して経済成長が失われると、戦後のうそ臭さというのがはっきりし始めてしまった。前回の都知事選で鳥越という戦後リベラル候補の言葉の力のなさにそのことははっきり現れただろう。自信ありげに何かを語られるとつい信じてしまうというのは、弱っている時にありがちな精神現象だ。昭和というのは結局戦争に負けて自信喪失の時代だったと思う。不安だったから、自信ありげに戦争を放棄すれば平和になるという言説が広範囲に受け入れられたのだろう。確かに戦後リベラルの言説が間違いであったということは証明されてはいない。だから鳥越なんとかという人物が都知事選にも出るのだろう。しかし私のこの違和感はなんなのだろうか。結局、                                          「武力を排除したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後における、新たなる試験というのほかはあるまい。ここまでには世界の歴史に、左様なれいは、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかることを平気で、朝飯前の仕事のごとく、言いなしている日本の有識階級は、実に驚き入りたる肝っ玉の持ち主といわねばならぬ」                                                          なんていう、徳富蘇峰のざっくばらんなパロールに行き着くのではないだろうか。

車にクラクションを鳴らされると瞬間的に切れちゃう。正直よくないことだとは思うのだけれど、考えるより切れる方が早いのでどうしようもない。今日、横断歩道を渡っていたら、右折の車にクラクションを鳴らされ、切れて立ち止まってしまったという。窓を開けさせると団塊のじじいが潤んだ目で私をにらんでいて、今回はここで我に戻った。なんだかおじいさんを虐めているようで悪いような気がして。                                    東北の大震災の時に、関東でも信号が全部止まって、トラックに乗っていたのだけれど横道から幹線道路に全然出られなかったことがあった。後ろの車がクラクションを鳴らすんだよね。すぐ切れて車を降りて議論をしに行った。自分の車の後ろには10台以上の車が並んでいるし、クラクションは誰も鳴らさなくなっているし、後ろのジュース車かそれともその後ろのタクシーかと思って運転手をガンミしても私のほうを見ようともしないしで、すごすごトラックに戻るというすごく寂しい思いをしたこともあった。                                         攻撃されると反撃するのは当たり前みたいなことに自分自身がなってしまっているのがちょっと寂しい気持ちがする。

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