magaminの雑記ブログ

2016年08月

学問のすすめ (まんがで読破) [ 福沢諭吉 ]
学問のすすめ (まんがで読破) [ 福沢諭吉 ]



福沢諭吉は「惑溺」という語を多用する。

福沢諭吉が惑溺の例としてあげていたものに、江戸時代に大奥とかでいかにすれば将軍のお気に入りの女性になれるかなどという政治的な手練手管に巧みになってしまう、なんていうのがあった。

福沢の表現した、陰険きわまる御殿女中の社会とは以下のようなものだった。

「そもそも大名御殿の大略を言えば、無識無学の婦女子群居して、無知無徳の一主人に仕え、勉強をもって褒められるものでもなく、怠惰によって罰せられるものでもなく、主張して叱られることもあり、主張せずして叱られることもあり、言うもよし、言わざるもよし、騙すのも悪し、騙さないのも悪し、ただ臨機応変に主人の寵愛を期待するのみ。
その様はあたかも的なきを射るかのようで、当たらないからといって下手というわけでもなく、当たったからといって上手というわけでもない。まさにこれを人間世界外の別天地といえなくなくもない。
このような世界の内側にいれば、喜怒哀楽の心情は他の人間世界とは異ならざるを得ない。たまたま友人に立身するものがあれば、その立身の方法を学ぶことができないので、ただ友人をうらやむのみ。これをうらやみすぎて、これを妬むのみ。うらやんだり妬んだり、このようなことに忙しいならば、やるべきことをやる時間などというものが残るだろうか?」                                                                                                                                 

このように、惑溺とはなんとなくは分かるのだけれどはっきりとは分からないというもの。夢と現実と何が違うのか明確には説明できないみたいなところがある。
丸山真男にも福沢諭吉の惑溺についての評論があったけれども、これを読んでみても惑溺を明確に理解するにはいたらない。                                                                      

惑溺とはなんとなく分かるのだけど明確に理解するには至らないなんていうのは、そもそも何故なのだろうか。                                                                       分かりやすく言ってしまうと、それは最初から私たちに 

「大奥で将軍のお気に入りの女性になるためには、ある程度の政治的な巧みさは必要だろう」             

なんていう規範なき功利主義の考えがあるからだ。その規範のなさがものごとの意味を曇らせる。                                                                                   王陽明の伝習録にこのような言説がある。                                          

「これを物を弄びて志を失うというは、尚お猶おもって不可となすか」
                                                                                                 物を弄びて志を失う ああ、これだ。惑溺とはこれだ。志を失うことによって大人になったってくだらないだけだ。  
福沢諭吉は明確に理解して惑溺という言葉を使っている。あれは本当に面白いオヤジだ。



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王陽明の陽明学は明らかに日本の近代を貫いていると思う。陽明学を一言で言い表すなら、                                                                                      「おまえはおまえの戦場へ行け」                                                                                                                そういうことだと思う。陽明学のすごいところは、切り詰めて言えば、この世界に生まれたのなら戦う場所が与えられているはずだという前提のあることだ。                                                                                                                 江戸末期、儒学というのは庶民の間にも広く浸透していた。高杉晋作が功山寺挙兵の後、農民を兵隊として募集したところ、一夜にして3000人が集まったという。第二次長州征伐で長州においては祖国防衛戦争の様相を呈した。こうなったら長州が防長2国しかないといっても負けようがないだろう。                                                                                             長州をここまで押し上げたものが、陽明学に基礎を持つ一君万民思想だろう。明治国家は、この一君万民思想を裏切った。だから大正維新とか昭和維新とか何度でも革命が起こる。テロが法律で禁止されているからと言ったって、何の意味もないんだよ。結局満州事変、二二六事件、太平洋戦争となって、最後は総力戦体制となった。「おまえはおまえの戦場へ行け」という言葉通りになった。                                                                                                         あれから70年たっても、この言説は生きている。何故働くのか、何故結婚するのか、何故子供を育てるのか、突き詰めて考えればそれは私たちが戦っているからだと思うよ。

プラトンと孔子というのは、こんなことを言うとなんなのだけれど、言っていることにそう差がないなと思う。
その中での最大の共通点というのは、両者とも社会の起源において理想国家的なものを設定しているということだ。

プラトンは「国家」という本の中で、人間の社会は名誉制、寡頭制、民主制、僭主制度、と移行していくと語っているが、名誉制の前段階として哲人制というものを設定した。
孔子の場合はもっと分かりやすい。理想の社会ははるか昔、尭、舜(ぎょう しゅん)の時代だといってはばからない。孔子のいうはるか昔といったって、孔子じたいが古代人かなのだから、尭、舜なんていうのは伝説だよ。

何故プラトンも孔子も過去に理想社会を設定したのか? さらに言うと、過去に理想社会を設定したプラトンと孔子の言説が世界の西と東でそのメインストリームとして生き残っているのかということ。 現代において過去に理想世界を設定すると、必然的に現代は堕落した世界であるということになる。

この世界観にたいして、21世紀の現代は過去に理想世界を設定していない。 21世紀の現代は過去に理想世界を設定を拒否して、世界は進歩発展するものだとしている。 おそらく古代ギリシャ世界や中国の春秋戦国時代にも、過去に理想世界を設定せず世界は進歩発展するという言説が存在しただろう。そのような言説は滅び、プラトンや孔子のような言説が生き残ったことを、私たちはどのように考えればいいのだろうか。

プラトンや孔子を聖人視して人類の進歩というイデオロギーが間違っているなんていう簡単な論理は採用したくない。おそらく、人類は進歩するという簡単な論理の中に、なんらかの罠があるのだと思う。

ではその罠とはいかなるものか? 

それはフーコーの言う過剰なる権力というものだろし、ドストエフスキーの大審問官でもあるだろう。まあ、フーコーやドストエフスキーを持ち出すまでもなく、以下のプラトンの言説にそれはぴったりと表現されている。

「そこでの言論というのは、主人に向かって同じ奴隷仲間のことを云々する言論なのです。しばしばその競争は生命をかけて争われることがあるのです。そしてこれらの全ての結果として彼らには緊張と鋭敏とが生まれるのです。主人に阿諛するにはいかなる言論によるべきかという知識が生まれるのです。とはいえ、これによって彼らの精神は矮小になり、また不正直となるのです。つまりそれは必然的に曲がったことをさせるからなのです。それというのは、まだ若くてやわらかい彼らの精神の上には大きな危険が投げかけられて、はなはだしい危惧を覚えさせるからなのであって、それは彼らには、正しさや真実を失うことなしには持ちこたえることが出来ないものなのです。そのために彼らは幾度も幾度も捻じ曲げられたり折りくじかれたれたりして、ついには少しも健全なところをもつことなしに子供から大人になってしまうのです。そしてそれを自分達は、智恵者になったとか一目おかれるような人物になったとか思っているわけなのです」


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朱子語類を読んでみた。読んだといっても抄訳なんだけど。朱子語類は全140巻で、正直とても通読できるものではない。日本は便利な国で、朱子語類の抄訳が文庫で出ている。ありがたいね。

朱子学の思想の核というのは、性即理という言葉にある。理というのはこの世界に存在する真理とか善とかというもので、性というのは世界が人間個々に付与してくれた真理の破片みたいなもの。これは全く革命的な思想だと思う。人間には価値ある何ものかが必ず組み込まれていて、生きる意味のない人間は本源的にひとりもいないという論理だからだ。
朱子活躍したのは南宋初期、12世紀後半だけれども、800年以上も前にこのような堂々たる言説体系を築いた中国社会の厚みというのは驚くべきものだ。

人間個人というのは弱いもので、簡単に「やらないとやられてしまう」なんていうイメージに落ち込んでしまう。実際にもそのような結果になりがちだ。いじめられっこをかばったら逆にいじめられるなんていうのはよくある話だ。多くの人間は、正直に生きたら損をするんだなと社会勉強なるものをする。しかし本当に強い人間はクソくだらない社会勉強を拒否するものだ。彼にはなにか譲れないものがあるのだろう。朱子学にはその強い人間の魂がある。
あらゆる人間に何らかの価値があるなんて考えてしまうと、弱い国においては滅亡の可能性まである。実際に南宋も元に滅ぼされた。南宋が滅びて朱子学が滅びたのかというと全くそんなことはない。元の後の明で復活し、日本には江戸時代に伝わり、明治維新の原動力にもなった。

そもそも全ての人間が生きる価値があるなんていう言説体系は、よほどの自信や歴史の厚みがないと生まれてこないものだろう。

19世紀以降東洋は西洋に圧迫され続けたけれども、そもそも中国というのは何度も滅びている。しかしそのつど蘇る。朱子学は興味深い思想ではあるが、その朱子学をここまで押し上げた中国の歴史の厚みには感嘆する。


ダーウィンの進化論というのがある。近代においてその言説は絶大な力を発揮して、おそらく今も発揮し続けているだろう。
ダーウィンの進化論において、種はゆっくりと進化するとされている。ここで大事なのは「ゆっくり」ということと「進化する」ということの二つの意味内容だ。近代以降、この二つの意味内容を支える様々な科学的言説が存在する。
よく教科書なんかで紹介されるのは、南の島の鳥のくちばしは、その目的に合わせてちょっとづつ変化しているでしょうというもの。ちょっとづつというのが「ゆっくり」に対応していて、変化というのが「進化」に対応している。

正直、この世界がゆっくり進化していると信じたい人たちには、南の島の鳥たちというのはまさに真理を体現する天使みたいなものだったろう。

しかしこの世界は本当に「ゆっくり」と「進歩」しているのだろうか。確かに生産性とか科学とかそのような面では進歩している。2500年前の人類の経済状態より現代の方がはるかにすばらしいだろう。ただ、文学においてはあまり進歩していない。いつまでたってもあの大バブル時代の日経平均株価を越えられない日本経済みたいなもので、プラトンや孔子を越える思想家というものが存在したとも思えない。

私という人間はこだわりというものなんてなくて、いいものはいいと正直に言いたいと日頃から思っている。子供のころから本が好きで、もう40年以上も読み続けている。私なんかが40年本を読んだからといって別にたいしたものでもないとは思うが、ただゆずれないラインというものは形成されてくる。

思うのは、いくら現代の最先端の哲学といっても、結局それらはプラトンや孔子の脚注にすぎないのではないかということ。
例えばミッシェル・フーコーってすごい哲学者だった。ただ彼は結局プラトンのすばらしい脚注を書いたに過ぎないとは思う。これはフーコーを貶しているのではなく、全くその逆。
プラトンとか孔子とかはあの言説群をどこから引っ張ってきたのか。不思議でしょうがない。

フーコー哲学がどのようにプラトンの脚注でであるのかなんていうことは、また集中力のある時にでも書いてみたいと思う。

進化論に戻る。この世界というのはゆっくりと進化するという原理になっているのだろうか。本当はある時点においては急激に堕落するという性質を持っているのではないか。
こんなことは正直分からない。ただ、南の島の鳥のくちばしの形でこの世界の仕組みが分かるというものでもないと思う。

今日As−meエステールの1000株優待が到着しました。


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妻にあげたのですが、
「おとうさんにしては趣味がいいじゃん」
とか言っていました。おとうさんにしては、は余計だろ、とも思いましたが、こっちも優待で貰ったネックレスなので
「気に入ったのならよかったね」
とだけ返しておきました。


孟子の浩然の気のところを読んだとき、これは強い正義感という意味だな、なんて思ったんだよね。このブログでも吉田松陰のところでそのことを書いた記憶がある。正直、浩然の気を強い正義感と言ったのでは、言い過ぎの範疇にはいるのではないかと思っていたのだけど、朱子語類の中でこのような言説を発見した。

「義理、その中に附かばすなわち浩然の気となす。もし義によりて発っせざれば、ただ血気なり」

現代語訳も付けときましょう。

「道理がそこにくっつけば浩然の気であるが、もし道理によらないで表に出れば血気にすぎない」

私の浩然の気に対する解釈というのはど真ん中だかだったのではないのか。ちょっと言い過ぎかと思ったがいい感じで朱子学的真理をついていたのではないか。

私もけっこうやるよね。



靖国神社には明治国家のために死んだ人たちが英霊として祭られている。英霊において重要なことは、個々の英霊は対等であって、その身分や地位において全く区別されないということ。

靖国神社は朱子学的一君万民イデオロギーの日本における一つの形だと思う。

この一君万民イデオロギーというのは、あの太平洋戦争でひどい負け方をしたことによって戦後日本では評判が悪い。リベラルといわれる人たちの攻撃目標もここにあった。リベラルを擁護するような歴史観というものが創造されて、戦後昭和にいてはリベラル物語というべきものか広範に流布されていた。

リベラル物語の最大のデマゴーグは司馬遼太郎だと思う。一君万民イデオロギーというものが日本で活発になったのは幕末と昭和初期だ。戦後の日本がすばらしく自由な民主国家だとするならば、一君万民イデオロギーなる全体主義思想が蔓延した幕末と昭和初期は同列に否定されなくてはいけない。それは同時に靖国神社も否定することになるだろう。靖国神社とは明治国家のために死んだ人を祭る場所であるわけだから。
司馬遼太郎は幕末と昭和初期、両方同時に否定するということをしなかった。昭和初期を下げて幕末をあげるという戦略をとった。司馬遼太郎は昭和初期を下げるために乃木希典を貶めるという方法をとった。乃木希典を貶めることによって、日露戦争後の日本は坂道を転げ落ちているという印象を操作しようとした。司馬遼太郎が幕末を上げるにおいて利用したのが坂本竜馬だ。この坂本竜馬なる人物、現代日本においては超有名人だが、戦前においてはどれほどのネームバリューがあったかわかったものではない。幕末を語るときに、吉田松陰とか西郷隆盛とか高杉晋作とかをメインでやってしまうとどうしても一君万民イデオロギーのテロリストを主役にしなくてはいけない。戦前を下げるために幕末を上げようとしている時に、幕末の主役がテロリストではまずい。自由な民主国家の起源にテロリストはふさわしくない。そこで創造されたのが坂本竜馬なのだろう。

司馬遼太郎はうまくやった。近代日本を否定することなく、昭和初期の日本のみを否定した。戦争はいやだった、しかし日本の近代までは否定したくないという人々の無意識の願望に、司馬遼太郎は見事に答えた。

靖国史観は、昭和初期の否定によって出口はふさがれたのだけれど、幕末の肯定によって入り口は死守した。一勝一敗ということになるのだろう。

まあ以上、私の能力のギリギリで幕末以降の歴史を靖国という切り口で相対化してみた。歴史というのは相対化の後が面白い。本当の歴史、もしもそのようなものがあるとするならだよ、その本当の歴史で靖国をとらえることが出来るとするなら、その中で靖国はいったいどのような地位を与えられるのだろうかと考えてみる。

うーん、これこそが難問だ。



北宋の儒学者 程 頤(てい い)はその著書の中で

天にあれば命といい、人にあれば性という

と語っているらしい。これは天には命という巨大な善が存在していて、人間個々には天から小さな善が賦与されていて、これは性と名づけられているという意味だろう。これは孟子の性善説を理論的に展開したもだね。

この程 頤の言説の革命的なところは、それが一君万民思想だということ。中国の長い歴史の中で唐と宋の間に大きな断絶があるというのはよく言われる。何が違うかというと、唐は貴族制で宋以降は絶対王制だったということ。貴族制も絶対王制もたいして違わないと感じるかもしれないけれど、絶対王制のほうが民主制に近い。絶対王制の社会において王殺しが行われれば、その社会は理論上民主国家になるからだ。

ミネルバのふくろうは夕暮れに飛び立つのであって、程 頤が
「天にあれば命といい、人にあれば性という」
と語った時には、すでに宋という時代は、絶対王制の時代だったのだろう。歴史は進歩するなんていう観点からすればこれはすごいことであって、例えば日本ではっきりと絶対王政が現れたのは幕末から明治国家にかけてだと思うけど。

儒教というのは宋代において程 頤におけるように革新的な論理を提供した。儒教においては理と礼というのが二本柱なんだけれども、北宋の時代までは、理が整っていれば自然と礼も整うという考え方だったと思う。これが朱子以降逆転してきたのではないか。すなわち礼が整っているのだから理が整っているのだろうということ。これは恐ろしい逆転であって、プラトン的にいえば、

この世界において正義とは、正義だと多くの人に思われることが正義であって、その正義は本当の正義とずれているのではないのか。ソクラテス、本当の正義をたすけてやってくれ。

ということになるだろう。

相模原で19人の障害者を殺したやつがいるよね。そいつやそいつのやったことを支持するやつらの論理というのは結局、礼が整っていないヤツは理が整っていないのだろう、という逆転の論理、さらに言えば堕落の論理だ。彼らは真実を悟っていると考えているのだろうが、私からすればただかわいそうなだけだ。歴史の真実とはもっと力強いところにある。
すなわち

天にあれば命といい、人にあれば性という




いつも思うのだけれど、中国思想の厚みというのはすごいよね。ヨーロッパ哲学の方が翻訳なんかが充実していて手に入りやすいのでついそっちを読んでしまうのだけれど、やっぱり日本というのは中国文明圏にあるわけで、日本を理解するためにも中国を理解していかないととは思う。

哲学って何なのかって考える。
私が思うのは、哲学というのは結局、人間において集団とか社会とかというものがいかにして成立しているのか、ある一定の人間集団の秩序をいかにして保つのかということを考える学問だと思う。人間集団の社会性というものは無条件に与えられるものではないし、かといってそれがなければ個々の人間は生きていかれない。その微妙な感覚を昔から人々は考えてきたのだと思う。

現代においては哲学の衰退ということが言われているけれども、それは第二次大戦後、民主主義というものが何十年かの間かなり安定的に機能してきた結果で、人間集団の社会性というものは無条件に与えられていると多くの人が考えてしまっている結果だと思う。

私は自由な民主主義が好きなので、私が死ぬまでこの世界が続いてくれればいいと思う。でもあまりにこの世界のやさしさに寄りかかりすぎるのもどうかと思う。過去において社会の秩序を維持しようとした人たちの真摯な声に耳をかたむけるのも無駄ではないだろう。
社会の秩序を維持するにおいて、その社会の構成員の人数が増えるほど加速度的にその困難さは増加していくだろう。中国は秦の始皇帝以来その巨大な一体性を維持し続けているわけで、すごいよなー、中国哲学って一つの宇宙だろうな。

プラトンの「国家」という本はすごかったけれど、中国にはあれを越えていく論理というものがあるような気がする。そういうものが見つけられればいい。

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