magaminの雑記ブログ

2016年07月

2500年前、ソクラテスとプラタゴラスは、「徳」とは教えることが出来るのか出来ないのか議論した。

ソクラテスは徳は教えることが出来ないと主張した。徳があるとされている人たちの子供が必ずしも徳があるとは限らない。徳が教えることが出来るのなら、例えばペリクレスの子供は必ず有徳な人物になったはずではないか。

ソクラテスの意見に対して、プラタゴラスは徳は教えることが出来ると主張した。
そしてこのプラタゴラスの論理がすばらしい。

「彼らは子供達を教育せず、十分な配慮もしていないというのだろうか? いや、ソクラテス、していると考えるべきだよ。
彼らはね、まだ子供が小さい頃から始めて、子供が人生を歩み続ける限り、教育としつけを行っているのだ。
それでは、父親が優れているのに、その息子の多くがつまらない人間になってしまうのはどうしてか?  
それでは、われわれ全員が笛の演奏家でないと、国は成り立つことができず、各人は可能な限りの演奏力をもたなければならないと仮定してみよう。私的にも公的にも、全ての人が誰にでもその技術を教えてやり、技術を与えるのを惜しむもの等いないとする。ソクラテス、その場合きみは、すぐれた笛の演奏家であれば、劣った演奏家の息子よりも、優れた演奏家になる見込みが少しでも高くなると思うかね? 私はそうだと思わない。にもかかわらず、これらの息子達が、みな十分な笛の演奏家であることも事実なのだ。何も知らない素人と比較するならね」

これほど力強く簡明な啓蒙の論理は聞いた事がない。この論理は万能だ。この万能さは、例えば現代で発展途上国がいつまでも発展途上国なのは、教育が足りないから啓蒙の力が足りないからという先進国の受け入れやすい論理に簡単に帰着する。

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【プラトンは巨大な謎を解いたよ】

エヴァンゲリオンの破で、使徒に食われた綾波をしんじが助ける場面がある。「翼をください」のバックコーラスで、エヴァンゲリオン史上最高の場面だ。

綾波はなぜ救われたのか?

しんじが結界を乗り越えたこと、そして綾波がしんじに対して手を伸ばしたこと。
これは一つの奇跡だ。奇跡が私たちを浄化する。

ソクラテスはこの簡単な啓蒙主義に疑念を抱いた。そして私は綾波としんじとのあの「翼をください」の場面を思い出す。啓蒙などという単純な論理でしんじは使徒のあの赤い膜を突き抜けることが出来ただろうか。啓蒙などという単純な情念で綾波はしんじに手を差し伸べただろうか。

プラトンは見事にこの謎を解いたよ。果たしてエヴァンゲリオンには解けるだろうか?

 
巨大な謎の解決編
プラトン「国家」詳細レビュー






プラトンの「テアイテトス」のなかにこのような言説がある。

「そこでの言論というのは、主人に向かって同じ奴隷仲間のことを云々する言論なのです。しばしばその競争は生命をかけて争われることがあるのです。そしてこれらの全ての結果として彼らには緊張と鋭敏とが生まれるのです。主人に阿諛するにはいかなる言論によるべきかという知識が生まれるのです。とはいえ、これによって彼らの精神は矮小になり、また不正直となるのです。つまりそれは必然的に曲がったことをさせるからなのです。それというのは、まだ若くてやわらかい彼らの精神の上には大きな危険が投げかけられて、はなはだしい危惧を覚えさせるからなのであって、それは彼らには、正しさや真実を失うことなしには持ちこたえることが出来ないものなのです。そのために彼らは幾度も幾度も捻じ曲げられたり折りくじかれたれたりして、ついには少しも健全なところをもつことなしに子供から大人になってしまうのです。そしてそれを自分達は、智恵者になったとか一目おかれるような人物になったとか思っているわけなのです」

現代においてここまで真っ直ぐな言説がはたしてあるだろうか。あまりに真っ直ぐな故に心に突き刺さる。ここまで本当の事を言わなくてもいいだろうと思ってしまう。


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【ポケモンGOでもやってまったりと生きましょう】


日経新聞のポケモンGO開発者インタビューで、ポケモンGOにはうつ病を癒す効果があると発言していた。

これはあるなと思う。
引きこもりがポケモン目当てに外出するようになって元気になるとか、これはそういう単純な話ではない。そもそも外出したぐらいで元気になるのならうつ病ではないだろう、最初から健康だろう。

フーコーは
神経症が隔離され保護された幼児期の産物であって、そのような文化にしか発生しない
と指摘している。
これをもっとよく考えてみると、神経症と精神分析学との関係も見直さなくてはいけない。神経症という病が存在するから精神分析学が必要だと考えてしまいやすい。物理法則があるから物理学が存在するみたいな。しかし近代において神経症が発生したとなると、近代の知の体系の一つである精神分析学は神経症の存在の結果存在するのではなく、神経症と精神分析学はコインの裏表なのではないのかということ。

まあ、このようなことを言うと精神科医は怒るだろうし、また逆にそんな言説は昔からあるとどや顔で言うヤツもいるだろうと思う。べつにそんなことはどうでもいいのだよね。

ポケモンGOのいいところは、リアルな画面にポケモンがふらふら浮いていて、なんだか素直な気持ちで子供に戻れるということだと思う。この世界での捻じ曲げられた大人と子供の関係を矯正してくれる様な、、だからこそ
うつ病に効果があるなんてうことにもなるのだと思う。
ポケモンGOにはこのプラトンの言説と似たものがある。だからより苦しい人がはまるような気がする。ブルーカラーよりホワイトカラーとか。

まあでも私、デスクトップのパソコンを一台持っているだけで携帯電話すら持っていない人間なので、スマほゲームの未来を占うなんてえらそうなことはそもそも言えないのだけれど。

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ダイヤモンドダイニングはちょっと高級な感じの居酒屋を展開しています。

株価は1090円
優待は
100株以上(1)4,000マイル (2)4,000円分 (3)-
300株以上(1)8,000マイル (2)8,000円分 (3)5kg
600株以上 (1)16,000マイル (2)16,000円分 (3)10kg
3,000株以上 (1)24,000マイル (2)24,000円分 (3)15kg
6,000株以上 (1)32,000マイル (2)32,000円分 (3)20kg

となっています。

この前の月曜に、高校1年生の娘と二人で、目黒のダイヤモンドダイニングの展開する「九州熱中屋」という居酒屋に行ってきました。
食べたいメニューを単品で頼んだのですが、2人で11300円でした。ワタミとか金の蔵とかだとどんなにいっても7000円ぐらいなのですが、九州熱中屋は格安居酒屋と比べると価格は5割り増しです。

私は個人的には全くのバカ舌で、正直美味しいものを食べて幸せなんていうことは一切考えないです。食べないと死ぬので食べてますというレベルです。一人なら会社帰りにコンビニによっておにぎり一個を買い食いするというので十分満足です。
ところがですよ、女子高生が一緒に食事に行ってくれるというとどうでしょうか。もちろんおにぎりというわけには行かないです。ちょっといい居酒屋にでも行ってみようかなと、私でも思ってしまいます。そして優待でもあるのなら、より行きやすくなるわけです。

高校1年の娘がなんだかパクパク食べているのです。馬刺しオイシーとか言っています。いやどんどん食べて。自分なんか食べたってただ太るだけだし。馬刺しの盛り合わせが1890円ってすごく安いね、自分が食べると高いけど、娘が食べてくれるなら安いよ、激安。



久しぶりに「日本近代文学の起源」を読み返してみたのだけれど、やっぱりこの本はすごい。
第1章が「風景の発見」
第2章が「内面の発見」
第5章が「児童の発見」
となっていて、風景や個人の内面や子供というものは日本においては明治以降に発見されたものだという、意外な論理が展開されている。

私は一介の肉体労働者で、この「日本近代文学の起源」という本が日本文芸という知の体系の中でどのように位置づけられているのかなんていうとは全く分からないのだけれども、発表から36年経った現在において、私にとっての真実感覚が増していることを考慮に入れて、もうこの本は古典といっていいだろう。

風景や個人の内面や子供はなぜ発見されたのか? 
そもそも発見とか起源とかというと、何か大それた感じがする。それは何故かと言うと、私たちが「人類の進歩の結果、現代がある」と考えているからだ。進歩する世界において最初に何かを始めた人間は天才に違いないというわけだ。

しかしこのイメージは正しいのだろうか? 

江戸時代から明治国家に日本が進歩したと考えるのではなく、まあ例えばウランがエネルギーを放出してプルトニウムになるように、明治維新で日本はある種の価値の位相を下げたとするとどうだろうか?

大久保利通や伊藤博文は何らかのビジョンが在って徳川幕府を倒したのではなく、幕府を倒した勢いで漆黒の崖の向こうに飛び降りてみたら、そこに明治国家的なものがあったという、そういうことではないのか?
彼らは天才でもなんでもなく、ただ単に明治国家を発見したんだろう。明治国家が発見されたと同時に、風景や内面や児童が発見されたのだと思う。






ヴィレッジバンガードが先週の木曜日に優待の改悪を発表したので、金曜の寄り付きで優待目的で所有していた100株を投売りしました。ストップ安水準でした。

優待金券の利用条件が、「条件なし」から「2000円ごとに1000円割引」になりました。私はヴィレバンを2年以上保有しているので12000円分の割引券になるのですが、正直ヴィレバンで24000円以上の商品を12000円以上の現金を出して買うというのはほとんど無理だろうという判断に瞬時にいたりました。

別にヴィレッジバンガードに対して怒りがこみ上げるとかはないです。4年ぐらい前か、ヴィレバンが太っ腹優待を発表した後に、ヴィレバン偵察みたいなことをしたことがあって、
「へー、こんな奇妙なお店があるんだー」
なんて感心した記憶があります。
あと、貰った優待券は高校生の息子に全部渡して、年1回のヴィレバンお宝発掘セールに毎年押し込みました。子供の社会見学みたいなことにも役に立ったのではないかと思います。ヴィレバンお宝発掘セールというのは土日の2日間やるのですが、
「オヤジさー、お宝発掘セールって日曜日行くと売れ残りばっかりなんだよね。ああいうのは土曜日に行ったほうがいいよ」
みたいな話を反抗期の息子からボソッと聞くことが出来るわけです。

ヴィレッジバンガードについて言えば、現金で何千円か損したとしても、思い出や教育という観点も含めると明らかにプラスだったと思います。ヴィレッジバンガードの業績は厳しいのでしょう。優待にまで切り込むのですから、べつに決算を詳細に分析する必要もないでしょう。結果は明らかですから。

またこんな楽しい銘柄にめぐり合えたらなと思います。

プラトンは民主制を至上のものとは考えていない。

プラトンは「国家」の中で国制というのは、理想国家、名誉国家、寡頭制国家、民主国家、独裁国家の順番に堕落していく書いている。

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【プラトンにとって民主制は理想ではない】


別にプラトンの書いたことが全て正しいとも思わないけれども、民主国家というものが理想国家からの堕落である、それも3段落ちの堕落であるという仮説はものすごく斬新だと思う。

なぜ国家は堕落してしまうのかということを私なりに考えた。

その私なりの仮説というのは、
国家というのは一段階堕落する時に力のようなものを発散するのではないかということ。

例えをあげでみよう。

江戸時代というのは名誉国家体制だった。それなりにうまくいっていた。しかし幕末になるとウエスタンインパクトがきつくなってきて、今までのあり方では日本の独立を維持するのが難しくなってきた。日本はその一体性を維持するためにどこからか力を引っ張ってこなくてはならなかった。だから名誉国家から寡頭制国家に移行する時に生じるエネルギーを利用して日本は一体性を維持した。

もう一つ例をあげよう。

昭和初期、日本は日中戦争やアメリカの圧力に対抗するために、元手なしの力を必要としていた。そこで利用したのが、寡頭制国家から民主国家な堕落する時に得られるエネルギーだ。戦争自体は途中で降参したので終わってしまったのだけれど、残ったエネルギーを戦後の経済復興に振り向けて、まがりなりに今の経済大国があるというわけ。

このような考えは仮説に仮説を重ねているわけで、どこまで真実なのかは正直分からない。ただね、私の人生の中で最も出来のいい仮説だね。
子供のころから思うのだけれど、奇妙な知の体系に寄りかかって生きていくよりも、自分なりの仮説を作って生きていく方がより真理に近い生き方だと思うんだよね。

先進国にはもう一段階残されている。民主制国家から独裁性国家へ移行 した時、また莫大なエネルギーが手に入ると思うよ。
現在の安倍総理が展開しようとしているヘリコプターマネー政策は、結局この民主制国家から独裁性国家への移行時のエネルギーを無意識に当てにしているのではないのか。このようなことをせずに苦しくても出来るだけ謙虚に民主制にしがみついていたほうがいいのではないか。プラトンによると、民主制の次は人民が最も惨めに生活する「僭主制」国家だということになる。

中国に「王道と覇道」という言葉がある。王道とは徳によって統一すること。覇道とは力によって統一すること。覇道とは秦の始皇帝の道だ。苦しくてもね、王道によって物事を判断した方がいい。

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「パイドン」の中でソクラテスはイデア論というのを語る。イデアというのは観念という程度の意味だけれど考えればいいだろう。

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【プラトンのイデア論】

例えば目の前に机があるとする。

机は机だよね。
プラトンは目の前の机を「机の概念」と「机の実体」とに分ける。机の実体は時間と共に滅びるだろうが、机の概念は永遠に滅びない。

ある有名な日本の哲学者は、このイデア論を奇妙な考えと言っていたが、本当に奇妙だろうか? 

小学校の算数の問題においては、

「リンゴが10個あって、3個食べると残りが何個でしょう」とか
「10個のりんごを5人で分けると一人何個もらえるでしょう」

みたいな問題があるけれども、リンゴとか分けるとか何個とか、正解を得るのに邪魔なだけだ。実体と観念を峻別して、実体を切り捨てて観念のみで思考した方が数学において全く有利。10とか3とかという観念のみで考えた方が、速く遠く論理を展開できるというのは理系人間なら誰でもが知っていることだ。

実体と観念を峻別するということが、すなわちイデア論だろう。奇妙どころかきわめて普通の思考パターンだ。


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プラトンの「ソクラテスの弁明」において、ソクラテスは知ったかぶりの自称知識人を論破してまわったという。そしてこの論破の根拠が無知の知というのだから、これだけでは何のことかわからない。

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【無知の知の意味とは?】


真理の体系なるものが存在するとする。真理の体系と全くの無知との中間には、様々な蓋然性のあやふやな知の体系的なものが存在することになるだろう。この蓋然性のあやふやな知の体系的なものをプラトンは「おもわく」と言った。

例えば三流ジャーナリストなんかが何かえらそうなことを語っているのを聞いたことはないだろうか? 何を語ろうが、それはそれでかまわないのだけれど、彼らの語ることは真理ではなく思惑であって、彼らは哲学者ではなく思惑愛好家だということ。おそらくそのようなことをソクラテスは指摘して回ったのだと思う。

同じようなことを福沢諭吉も言っていた。福沢諭吉は惑溺という言葉を使っていた。文明と無知との間にある奇妙な知の体系を惑溺といっていた。

ここで大事なのは真理や文明というのは究極には到達できないということ。真理に至ろうという魂の向上心を失うと、全ての知識体系はおもわくや惑溺になってしまう。魂の向上心のある人間、空間、国家にのみ、真理に向かって秩序付けられた知識体系の価値の濃淡というものが存在すると思う。

そのようなものが存在しなくなった時、民主主義は終わると思うよ。

分かりにくい話だったかもしれない。例えをひとつあげよう。

すまほゲーに課金することについての擁護の意見として、趣味にお金を使うことの価値の平等というのがあると思う。このような意見は魂の向上心を諦めた結果として成立するもので、民主主義を維持するためのエネルギーの枯渇だ。ゆるゆるの民主主義という自由の中ですまほゲー課金というものが存在しているわけで、あまりにばかげたことはほどほどにしたほうがいいと思う。明らかに「おもわく」や「惑溺」だと思われるようなインチキ知識体系には関わらないほうが賢明だろう。

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「正義」とは何か、という難問をプラトンは見事に解いた。
正確に言うと、2500年かけて解きかけている。その辺のところを解説してみたい。

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【正義とは何か】



ソクラテスが正義とは何なのかと問われる。心の中は邪悪でも正義の振りをして、金をかせいだり評判を得たりしてさらに死んで歴史に名を残そうものなら、それはもう結局正義なのではないのかという。ソクラテス、正義を救ってくれというわけ。
これは難問だよ。

ソクラテスは、個々人の正義を語るのは難しいと考えて、比喩として正義の国家を語ろうとする。まあ関数を一つ減らそうというわけだ。ソクラテスは正義の国家の条件をいろいろ考えてみる。例えば、能力があれば男も女も関係なく指導者層に入るべきだとか、正義国家の指導者は子供のころからの厳しい選別によって選ぶべきだとか、正義国家の指導者は私有財産を持ってはいけないとか、まあこんな感じ。これこそが正義国家だというわけ。しかし、これだけだとトートロジーになってしまう。

ソクラテスは続けて、この正義国家の堕落した形態というのを付け加える。正義国家は、名誉支配国家、金持ち支配国家、民主国家、独裁国家とこの順番に堕落していくという。

そして正義国家の指導者とと独裁国家の指導者との魂の善の容量を比べて、正義国家は善だよねという話になる。その後は、魂が善なら魂は不滅のはずだとか、さらに実際に魂が不滅だという伝説の紹介だとか、エピローグみたいな話になる。

プラトンの正義の言説において大事なことは結局、

「正義国家は、名誉支配国家、金持ち支配国家、民主国家、独裁国家とこの順番に堕落していく」

というここのリアリティーにかかっていると思う。

現代先進国の多くは民主国家であって、ここに暮らす人々は歴史の進歩の結果民主国家が成立したと思っている。しかし、ソクラテスにとっては民主国家なんていうものは堕落の結果の下から二番目の国政なんだよね。

本当に現代の民主国家は歴史の必然として独裁国家に変換してしまうのだろうか。かつてワイマール憲法下においてヒットラーという例もあった。プラトンの「国家」のリアリティーがほとんど証明されかけた時代もあった。

現代の私達は2400年前のプラトンに、お前らは民主制を頑張れるのか、と問われている。イギリスのEU離脱は、この民主国家から独裁国家への階段を一つ降りたということだと思う。同じことがもちろん日本にも問われている。

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ソクラテスは正義についてたずねられる。

2500年前のギリシャも今の世界と変わらない。当時も親は子供に、

「正義を実行しなさい。そうすれば正義のもたらす評判があなたの役職や結婚に有利にはたらくようになるだろう」

と言っていたという。

「正義を実行する振りをしていれば、それだけお金儲けをするチャンスも増えるというもの」

このような言説もありふれていたらしい。
今と変わらない。

ソクラテスは正義を救出してくれと頼まれる。評判やお金によって正義が救われるのではなく、正義そのものの価値によって正義を救ってくれといわれる。

正義そのものとはなんなのか。これは難問だよ。

この難問に答えるために、ソクラテスは長い思考の旅に出る。

この難問のソクラテスなりの結論を書くと、
「個人や国家の中には、知恵と勇気と欲望という3つの部分が存在して、正義とはこの3つの部分を明確に区分けさせながら、知恵が勇気の力をかりて欲望を制御するという、個人なり国家なりの一体性を保障するところのものだ」
というものだ。

これに対しての反論というのはいくらでもあると思う。例えば、自由の価値というのが低く見積もられてはいないかなんていうのは現代の自由主義陣営においては有力な反論だろう。
しかし本当に、人権、民主主義、市場経済、などという価値は普遍的な価値なのだろうか。西洋文明が巨大であったから、それらの価値が普遍的なものに見えたけれども、さらに大きな価値観を前にすれば、西洋文明も相対化される可能性もあるのではないだろうか。

ソクラテスによれば、理想の国家においてはその成員にたいしてそれぞれ役割が割り振られる。割り振られるというと強制的な感じがするのだけれど、その国の中で暮らしている人からすれば、時期が来れば自然と自分のやるべきことが分かるというレベルだと思う。

プラトンはこのように言う。

「例えば彼が大工であって、病気になりもし長期の療養を命じられたとするなら、このように言うだろう。自分は病気などしている暇はないし、病気のことに注意を向けてね架せられた仕事をなおざりにしながら生きていても何の甲斐もないのだ」

「かれはその後医者に別れを告げて、いつもの生活へと立ち返り、自分の仕事を果たしながら生きていく。またもし彼の身体がそれに耐えられるだけの力がなければ、死んで面倒から解放されるのだ」

これは2500年前の原始人の言説だからといって、笑って見過ごせるものではないよ。この日本に生きる意味をを失いかけて魂が彷徨っている人間がいったい何百万人?いるだろうか。

ソクラテスはさらにこのように言う。

「彼には課せられた一つの仕事があって、それをしなければ生きている甲斐がなかったからではないかね? 」

方や死なないから生きているというレベルの人も存在するわけで、現代の自由主義世界では、前後二人の人生の意味の優劣をつけることは難しい。自由の世界においては価値の選択も自由だから。

しかし本当に自由を突き抜けるほどの真理や正義は存在しないのだろうか。

プラトンは全く驚くべき答えを用意していた。つづきはまた今度です。




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